北周滅亡から隋建国まで ドラマ独孤皇后に見る

 

北周 556 - 581

初代 孝閔帝(こうびんてい)は、北朝北周の初代天王

    542-557没 宇文護により暗殺

 

二代 宇文毓が宇文護に擁立された(明帝

    1.  27歳没 宇文護により毒殺

后妃

  • 独孤皇后(独孤信の長女。宇文毓が岐州にいたころにその夫人となった。5581月、王后に立てられた。4月に死去し、昭陵に葬られた。武成2年(559)、皇后に追尊された)長女 独孤氏(北周明帝の明敬皇后

 

  • 宇文賢(畢王。は乾陽。荊州総管・大司空を経て雍州牧・太師に進んだ。
  • 楊堅を除こうとして殺害された)
  • 宇文貞(酆王。字は乾雅。大冢宰に進んだ。楊堅に殺害された)
  • 宇文實(宋王)
  • 宇文賢には宇文弘義、宇文恭道、宇文樹良の3人の男子がいたが、580に父子ともに楊堅に殺された。

  • 宇文貞には男子の宇文徳文がいたが、この父子も581に楊堅に殺された。

  • 宇文實には子は無いまま、581年に楊堅に殺された。

  • 宇文 (うぶん ご、513 - 572[1]北周の皇族・政治家
  • 従弟の武帝によって暗殺された
  • 572、地方からひさしぶりに長安に戻って武帝と謁見した。その際、高齢にかかわらず酒の好きな皇太后(叱奴太后)を諌めるよう、武帝から依頼された。そのため、皇太后と謁見し、2人きりになって、成王代の『酒誥』を読むことになった。隙ができたところを、武帝に背中を笏で突き倒され、倒れたところを近臣で武帝と同腹の弟の衛公・宇文直によってとどめをさされ、暗殺された。享年は60。その機に乗じて、その息のかかった一党は一網打尽に粛清されたという
  • ドラマは斬首刑となっている 脚色

 

三代目 武帝 宇文邕 明帝の弟

     在位560-578

      543-578 35歳没

  •    男子
    • 宣帝 宇文贇
    • 宇文賛(漢王)
    • 宇文贄(秦王)
    • 宇文允(曹王)
    • 宇文充(道王)
    • 宇文兌(蔡王)
    • 宇文元(荊王

武帝の男系子孫の内、男系男子は北周が滅亡しが建国される過程で、隋の初代皇帝・楊堅により根絶やしにされて断絶した。

男系女子で、楊堅の外孫でもある宇文娥英のみが生き残ったが、彼女は615に煬帝によって賜死に追い込まれた為、この系統も途絶えている

李世民・李元吉兄弟の母方の祖母は武帝の姉妹襄陽公主

四代目 宣帝

 559-580 21歳没

后妃

  • 楊麗華(皇后、天元皇后、天元大皇后、皇太后、隋の楽平公主)

宇文娥英(楊麗華の女、578 - 615 - 楊堅の外孫でもある。宣帝の子女の中で唯一、北周滅亡後の旧皇族に対する粛清を免れ、生き残った

麗華(よう れいか、561 - 609)は、