独孤皇后~乱世に咲く花~#16【日本初放送】



乱世が続く南北朝時代・北周の初期、国政を統括する大冢宰(ちょうさい)の宇文護(うぶんご)は、従弟の宇文毓(うぶんいく)を傀儡(かいらい)として皇帝に擁立し、政権を掌握。逆らう者を粛正していた。

反対勢力である衛国公の独孤信(どっこしん)は、宇文護に対抗する力を得るため、娘の独孤伽羅(どっこから)を隨国公の長男・楊堅(ようけん)に嫁がせようとする。好きでもない相手との結婚に反抗する伽羅であったが、いざ楊堅に会うと、彼は先日偶然にも共に人助けをした相手だった。

互いの正体を知らぬまま好意をいだき合っていた二人は、その相手が許婚だと知り、運命を感じる。そんな中、宇文護は独孤信を排除しようと謀略を仕掛ける。家族が迫害に遭った伽羅は復讐を決意し、楊堅はそんな彼女を守り抜き…。

のちに隋の開国皇帝となる楊堅と、中国史上初めて一夫一婦制を貫いた独孤皇后が織りなす、最も一途で美しい恋愛絵巻――。


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独孤 伽羅(どっこ から、544年 - 602年)は、中国の文帝楊堅皇后夫の諡「文」を冠して文献皇后の諡号で呼ばれる。本貫雲中郡

伽羅は北周大司馬独孤信の七女として生まれた。母は崔氏。独孤信は楊堅を見込んで娘を嫁がせた。ときに14歳であった。580年、北周の宣帝が亡くなると、楊堅は禁中にあって国政を統轄した。伽羅は李円通を通じて「獣に乗っているときは、下りることはできません。しっかり勉めなさい」と楊堅に伝えさせた。581年、楊堅が帝位につき、隋を建てると、伽羅は皇后に立てられた。

あるとき幽州総管の陰寿が、値八百万の明珠が突厥にあり、これを皇后のために突厥との交易で贖いたいと申し出た。皇后は八百万あるなら功労のある将士に分け与えてねぎらうべきであると言った。百官はこれを喜んだという。

楊堅が朝政を見るとき、皇后は宮官に皇帝の判断を報告させ、過失がある場合には遠慮なく諫めた。皇后の従兄弟の崔長仁が法を犯して斬罪となったとき、楊堅は皇后に遠慮して一命を許そうとした。しかし皇后は「国家のことは私に遠慮してはいけません」と言って崔長仁を法の通り処断させた。皇后の異母弟の独孤陀が猫鬼巫蠱をもって皇后を呪詛したことがあった。皇后は3日断食し、「陀が政治をゆがめて民を害したのならば何も言いません。しかしわたし一身のことですので、あえて許していただきたい」と楊堅に言った。このため独孤陀は死一等を減じられた。このように皇后は政治に関わったので、宮中では楊堅と並んで「二聖」と称された。

皇后は読書を好み、古今の知識に通じた。生活は倹約を重んじて華美なものを好まなかった。また情愛深くもあり、大理が囚人に判決を下すたびに涙を流したり、また北周の阿史那皇后の菩提のために寺を建てさせたりもした。

一方で嫉妬深くもあり、楊堅が後宮に他の女性を迎えることを許さなかった。しかしそれが悲運な女性である場合などは、容認するケースもあった。後主の妹・宣華夫人などはその例である。また、結婚の時に自分以外の女に子を生ませぬよう、夫に約束させている。

尉遅迥の孫娘を楊堅が寵愛したことを知ると、皇后はこの娘を密かに殺させた。楊堅は嘆き怒って、単騎で宮中を飛び出し、山谷の間に入った。高熲楊素らが皇帝を追いかけて諫めると、楊堅は「わたしは貴くも天子になったのに、自由がない」と嘆息した。このとき高熲が「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と言った。楊堅は少し気が治まって、夜中に宮中に帰還した。皇后は泣いて高熲らに感謝した。しかし、のちに皇后は高熲が「一婦人」と言ったことを知り、また高熲の夫人の死後に側妾が高熲の子を産んだことを知ると、高熲を憎むようになった。

皇后は諸王や朝士が側妾に子を産ませることを許さず、そうした者がいると必ず楊堅に勧めて排斥させた。皇太子楊勇は色好みで、ときに太子妃の元氏が突然死したのを、皇后は太子の愛妾の雲氏が殺害したものと思いこんだ。このため皇后は高熲を追い落とし、楊勇を廃嫡して次男の楊広(煬帝)を太子に立てさせた。

602年8月、皇后は永安宮で世を去り、太陵に葬られた。

 

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