クマゼミの声と52年前の大災害 | asayakewalkのブログ

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毎日の他愛ない事や、習慣になっている散歩での景色、趣味の陶芸のことなどを綴って行こうと思います。

暑い日が続きます。昨日は10時に就寝して、12時過ぎに目が醒めました。腕が痒くて眠れません。左右の腕が5,6箇所蚊に刺されていたのがその原因です。普通、そんなにいないのに、、、、。今朝は特別かな。その後冷房して羽毛布団を胸まで着て寝たら蚊の被害は無くなりましたが、5時半まで寝すぎてしまい、早朝散歩が遅れてしまいました。

辺りはすっかり明るくなっています。散歩する人の数は結構多いです。いつもは会わない人ばかり。

散歩から帰って来たSさんやOさんと会い行きはIさんと一緒に中無田閘門まで歩きました。上天草市に住んでいた頃の話をしながら、釣りバカだったことなどで盛り上がります。Iさんは高齢になりもう釣りはしなくなったと言いました。5号橋が出来る前の話をしてくれました。私は5号橋ができてから赴任したので以前のことは知りません。でも天草に行くのが大変だったことは確かです。

Iさんと別れもう少し先の折り返し地点まで歩きました。雲に隠れて日の出は拝めませんでした。

中無田閘門の広場にはムクドリの群れが餌を啄んでいます。

空には川の文字。雲には新しい発見があるので楽しみです。

宇土半島方面の山には雲が掛かり、山の下半分に日が差しています。天気が良いのでとても近くに見えます。

頭上にはうろこ雲が浮かんでいます。空気が澄んでいて気持ち良いです。

加勢川河川敷の木々からクマゼミの声が聞こえてきました。今年初めてです。

あの時もそうでした。52年前の今日は、天草大水害が起こりました。その翌日はカラッと晴れて梅雨明けで、クマゼミが五月蠅いほどに聞こえてきました。当時のことは鮮明に覚えています。3年目の病院勤務だった私は大雨の中、寮から病院に出勤しました。窓から見る光景は後の被害を物語るものでした。裏山の土砂が雨に流されてひび割れて少しずつ押し寄せて来ました。私の住んでる寮も時間の問題だと思いました。雨は昼前に酷くなり小児喘息病棟、看護学校講堂などが土石流に押しつぶされ、1階の1病棟(当時は西病棟)は土砂に呑み込まれてしまいました。患者は職員の避難誘導で屋上に逃れて皆さん無事でした。が、非番で家にいた調理師さんと看護師(20歳)が土石流に流されて亡くなりました。同級生が一晩中泣いていました。自分の死も危ういと感じました。大雨と雷鳴が鳴り響く中、屋上で武者震いをしました。恐いのに恐怖が何処かへ飛んだような気がしました。当時の思いは語り尽くせませんが母にも連絡も取れず、母は心配して3日間も食事が取れなかったそうです。やっと船が出るようになって知人に母への手紙を託しました。1週間後の新聞には病院の航空写真が載っていて竜ヶ岳町(現上天草市)全滅か!!と。鳥肌が立ちました。それから40日間、復旧作業に専念しました。当時のことを知る人も少なくなってきました。

こんな、晴れた日に、クマゼミの声を聞く度、あの日の事が蘇って来ます。黙祷。