前回「神も霊も死後の世界も信じない」と書きましたが、かと言ってそれらを否定するつもりもないんですよ。
例えば電波は目には見えませんが、対応したアンテナと受信機を用意し、チャンネルを合わせれば映像が映し出されます。
それと同じで、脳内に特殊な受信機を持っていて、何らかのエネルギー波を受信できる人がいてもおかしくはない。
未知のエネルギー波=霊とは限りませんが、将来的には解明される日も来るかも知れません。
なので頭ごなしに霊なんて気のせいだとか、ペテンだとか言うつもりは無いし、言い切る根拠もない。
それにもう一つ。
「死」と言う宿命を背負いつつ、不幸にも高い知能と強固な自我を持ってしまった人間にとって、神や霊や死後の世界は、癒しであり慰めだと思うんですね。
大切な人が闘病の末に亡くなって
今頃あっちで好きなものを食べてるよ。
行きたがってた温泉♨に入ってるわ。
先に旅立った婆ちゃんに会えたかな?
天🌠から私達家族を見守っていてください
私がそちらに行く時は迎えに来てね。
こう思えることが、どれだけ遺された人の心を癒してくれるか。
そして自分が死に向かう際も
痛みや苦しみや、思い通りに動かない体を抜け出して自由💃になれる。
家族の顔をちょっと見てから、ずっと会いたかったあの人に会いに行こう!
苦しみの向こう側へ希望を持って進んでいく事ができる。
それは十分に承知しているのですが、しか〜し残念ながら私にはやっぱり「死」とは「消滅」なんですわ。
究極的に言えば、私が私としての自我を持って生きている事に、ほとんど意味はありません。
意味がない、と言うよりは理由がない。
私にとっては
自分が生きていること=世界の全て
ですから、当然意味も意義も大層な理由もあるはずなのですが、大きな視点で見た場合には、
生きているのに理由はなく
死ぬのに理由はない。
何だかんだで頑張って生きているのに、それはないわ〜〜!と言いたくもなりますが、ま、あくまでも大きな視点で見た場合の話で、個人にとって自分の生は当然意味があります。
ではそんな残念な私は、どのように死を受け入れるべきなのか。
で、出した答えが
人間という種族の、大きな遺伝子の流れの中の一部
どんなに孤独に死んだ人も、若くても年寄りでも、善人でも悪人でも、種としての営みの流れの中にいる。
個人の殻に隔てられてはいるけれども、源流は一緒なんですね。
鴨長明『方丈記』の有名な冒頭の一節。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
人間の考えるこたぁ、今も昔もあんまり変わらんのであります。
ただ一つ。
私は今まではこの文章を
人間には永遠なんてないんやで〜残念!
的なニュアンスで捉えていましたが、意外と
人間は皆同じ流れの中で、生き死にを繰り返しながら連なって行くんやで
と言う、慰めの言葉なのかも知れません。