いつもより増して熱い日差しが照りつける中、このところ街角や庭先でひときわ目を引くのが、さるすべり(百日紅)の鮮やかな花だ。
品種改良があってか、ピンクや赤、紫、白といった色彩で枝を埋め尽くし、暑さに負けず咲き誇るその姿は、確かに力強い生命力を感じさせる。
しかし、自分はこの花がどうも好きになれない。その理由は、さるすべりの花があまりにも長期間咲き続けるため、儚い美しさという花の魅力が感じられないからだ。
さるすべり(学名:*Lagerstroemia indica*)は、ミソハギ科に属する落葉樹で、中国や東南アジアを原産とする。日本では古くから庭木として親しまれ、夏から初秋にかけて、約100日間も花を咲かせることから「百日紅」という名がつけられた。
この長期間の開花は、他の多くの花が暑さで萎れる中、さるすべりの強靭さを象徴している。
また、その滑らかな樹皮から「猿が滑る」というユニークな名前も生まれ、どこか親しみやすい印象を与える。実際に、さるすべりの樹皮は剥がれやすく、木の表面が滑らかで美しいため、観賞用の庭木としても重宝されてきた。
しかし、この「百日」という長さこそが、自分にとってさるすべりの魅力を減じる要因だ。
桜や朝顔のように、短い期間で咲いては散る花には、刹那の美しさがある。その一瞬の輝きは、命の儚さや時間の流れを見る人に教えてくれる。
一方、さるすべりは夏の盛りに咲き始め、秋の気配が漂う頃までその姿を保つ。確かにその持続力は見事だが、どこか「咲き続けること」に執着しているようにも感じられる。花の美しさは、散るからこそ際立つのではないか。さるすべりの花は、まるで永遠に続くかのような存在感で、儚さという日本の美意識から遠く離れているように思える。
日本の文化では、桜や萩のように、短い期間で散る花が愛されてきた。『源氏物語』や和歌の世界でも、桜の散りゆく姿に人生の無常を見出し、詩情を紡いできた。
さるすべりも和歌や俳句に詠まれることはあるが、そのテーマはしばしば「夏の暑さ」や「鮮やかさ」に焦点を当て、散る瞬間の哀愁はあまり感じられない。たとえば、高浜虚子の「炎天の 地上花あり 百日紅」という句は、さるすべりの暑い中での持続的な強さを称えているが、自分にはその姿が、どこか単調に映る。
もちろん、さるすべりの長く咲く性質は、庭園や都市の緑化において実用的だ。
暑い夏の間、コンスタントに彩りを添えるその姿は、多くの人にとって心の安らぎとなるだろう。
また、熱帯や亜熱帯地域では、さるすべりは街路樹としても広く植えられ、風景に欠かせない存在となっている。このような視点から見れば、さるすべりの持続的な美は、むしろ力強さと安定感の象徴なのかもしれない。
しかし、自分は、どうしてもその「長すぎる美」に冷めてしまう。
花の命は短く、だからこそ愛おしい――そんな感覚が、さるすべりには欠けているように感じるのだ。
それでも、さるすべりの花を嫌いだと言いながら、その鮮やかな色彩に目を奪われる瞬間がある。その一瞬だけは、まるで桜のように儚く見えることもあるのかもしれない。
だが、翌日もその次の日も同じように咲き続ける姿を見ると、ふと「またか」と醒めた気持ちが戻ってくる。
結局、さるすべりへの思いは、花そのものの性質というよりも、今の自身の美意識の投影なのかもしれない。
弱く儚さを愛でる心が、さるすべりの強く持続的な美を拒む。
詳しく調べると、今よく目にするさるすべりは、日本の固有品種で屋久島と種子島だけに分布しているヤクシマサルスベリをアメリカが品種改良したものらしい。
ほらね、やっぱりと妙に納得させられるww







