世の中には、「置いてきたものほど気になる」という不可思議な心理がある。それが元カノであれ、青かった夢であれ……あるいはキープしたボトルであれ。
ある日の海浜幕張勤務。仕事を終えた我々3人、「さてどこ行こか?」と軽いノリで飲み屋を探していたとき、ふと私の脳裏に一本のボトルが浮かんだ。そう、前回まったく別のメンバーと訪れた居酒屋に、「次回用」として預けてきた「かのか」である。
キープとは、いわば大人の約束手形だ。ただし期日の保証もなく、しかも飲兵衛の世界においては裏切り上等。他人のボトルに手を出すことなど、もはや日常茶飯事的な弱肉強食の世界である。
…まだ残っているか?
…いや、すでに飲まれているかもしれぬ。
心はすでに幕張の夜空を駆ける「キープボトル奪還作戦」の志願兵であった。
のれんを匍匐前進でくぐり、棚を見上げた瞬間、私は思わず息をのんだ…。
そこにいたのだ。「かのか」が。
はっきり言って愛おしい。まるで忠義の侍が、主の帰りを無言で待ち続けていたかのように思えてならぬ。
その瞬間、私の中の倫理観は泡と消えた。
「申し訳ない」よりも「勝った」という気持ちの方がずっと大きい。飲るか飲られるか。酒飲みの世界に情けは無用なのである。
さて、勝者の晩餐である。
メヒカリの唐揚げ。
外はカリッ、中はホクッ。塩をひとつまみ振れば、海風の記憶が口の中で再現される。
あら煮。
魚の顔というものは、煮てみて初めて本性がわかる。骨ばかりで実が少ないが、そこに滲むコラーゲンと旨味の濃さは、いわば「人生の出汁」である。
秋刀魚と関サバの刺身。
秋刀魚は自由奔放な若造、関サバはしっかり者の長兄。同じ皿の上で並んでいる姿は、まるで兄弟のようだ。秋刀魚の脂が舌の上で暴れ、関サバの旨味がそれを制す。
人間もこうありたい。酒の場で多少はしゃいでも、最終的には理性で締めたい。
天ぷら盛り合わせ。
この天ぷら、実に良心的な揚げ具合だ。
衣は軽やかで、油の香りがほんのり甘い。
カロリー? そんなものは翌朝の私が考えることだ。
気づけば「かのか」は、跡形もなく空になっていた。勝負は終わったのだ。飲るか飲られるかの戦場で、私はようやく完全勝利を収めた。
会計を済ませ、外に出る。夜風が少し冷たい。
だが心の中には、奇妙な満足感があった。今日という一日を、文字通り“飲み干した”のだから。






