2017年8月から2019年11月までの田中泯を追ったドキュメンタリー。日本は元より世界のあちこちでの踊りと旅、「私のこども」と名付けられた幼少期の頃のことを描くアニメーション(山村浩二)と山梨の桃花村での農作業の様子など。


泯さんの子どもの頃の記憶、一人で山に行くことが好きだったこと、近所の人々との付き合い、川原に打ち上げられた溺死体を観たこと、東京大空襲の日に生まれたことなど。自然の中に、やって来る季節のかすかな変化を見つけていたこと、その原点から、ただひたすらに歩んできた標となった言葉。


映画の中で紹介されたロジェ・カイヨワの「遊びと人間」

ー遊びは何も生まない 財産も作品も生まない それは本質的に不毛なのだ 遊びをやり始めるたびに 遊ぶ者はいつもゼロの地点に立っているー

という逆説的な文に、体に向き合い場に向き合う

田中泯の本質があるような気がした。


また、踊るための体ではなく土を耕し物を育てる、農業で培われた体で踊るということに、その幼少期に自然の中で実感したことが生きている気がした。村の生活の豊かさを決して手放さず、なおかつ様々な場所へ出かける行動力。


2018年11月の東京芸術劇場の舞台は、私が久しぶりに観た田中泯だったけれど、あのリハーサルシーンの謙虚な挨拶がすてきだった。フランスの教会での踊りを見つめる人々のフレンドリーで真摯なまなざし。終わっての質問で、見ている私たちも心の中でたくさん踊っているんだと思いますと言ったおばさんに「常に踊りはお客さんとの間に生まれるものなんです」と言う手ごたえを感じつつの観客への敬意。


実際に見た時には分からなかった、田中泯の足の指、爪。土を触っている手、丸い指先。筋肉ではない肉の丸みが、映像ならではの息づかいと共に伝わって来たのも良かった。


石原琳に稽古を付ける時に、発せられる言葉。

壁の隙間にはいって行くところ。「急ぐとね、僕らが幻想を待つ時間がカットされちゃうんだよ。」と言う言葉。全てがそうではないのかもしれないが、ゆっくりとしたペースの中身が少し見えたような気がして、日常の中で見失っているものを感じている気がしました。


東京芸術劇場の舞台には、ある種のテーマがありながら、形(和紙一枚のオブジェや晒布など)との対話もあったなぁと。その一方で、場踊りではその空間や隙間に深くダイブしていく身体があり。

ポルトガルの石畳の路地での踊りの後の「脳みそが、海に沈んでいきそうな感じ。あー幸せ」という言葉がとても心に響きました。


野の武士のように潔く、異彩を放ってカッコいい。だから役者としても貴重な存在。でもただひたすらに、こちらのモノにすることなく、向かっていく。うまく行ったら素直に喜ぶその姿に感動した。