B073 【真田信繁(幸村)公との歓談】 家康公を直接撃った!?
※大坂城に入城する時
名前を幸村に改名?
(最近の研究では幸村には一度も改名していない。江戸時代の作り話?)
本名は真田信繁。
巫女>人望もあった人ですね。重鎮的な感じのイメージであんまり多くを語らないイメージの人ですね赤い鎧を着てわりと体格的にはそんな大きな人ではないですね。
真田信繁(幸村)公>何かご用か?
巫女>鎧甲をとって話を始めてくれようとしています。
信繁公>我が家臣に何か用か?
阿山>家康公を直接撃たれたのは信繁公ですよね?
信繁公>さよう(剣を横にして持って)
阿山>馬に乗って短銃で撃っていますよね?
信繁公>さよう。
阿山>家康公も認められていますから(※家康公との対談をご覧ください)
※解説
徳川家康公 証拠の物品(カゴの穴、血のついた服、墓跡、短銃など)が揃っている
籠にある鉄砲の穴の角度から見て 馬にのって鉄砲を撃っていたので 信繁公が直接馬にのって短銃を撃ったと推定していました。
巫女>火縄銃で撃っていますね。結構、戦略がある方
阿山>お父さんの昌幸さんが凄かったから
巫女>生きるための処世術を色々な寺へ
行ったり臨機応変に変えながら生きてきている
生きるためにどんなことでも行う 武将って言えば武将
阿山>今の日本人へのメッセージをお願いします
信繁公>なまぬるい。
人が人を殺しあう世の中はたくさんだ
いくさの無い世の中にせねばならない
何のために血を血で洗ったのか分からぬ
若者の意識も廃っとるということ
諸外国との付き合いや色々あろうとて
我が身を本当に捧げようと思うのならば
もっと美しい死や生き方と
いうこともできるはずであろう
新しい世にしたいのであれば
全力をかけて戦うことだ
その戦いとは己が内にあることであり
諸外国と直接戦うという意味ではない
どこに行っても敵(内なる闇)はいるのだ
心の中をみつめろ!
阿 山>今、何をされていますか?
巫女>戦場の指導と言う形でまだいるみたいですね
そういうところで結果的には
この方の中に指導者として
生きるという天命を全うするという
やったらやり続けるということで
誰か一人でも戦う者が(天国へ)
上がってなければ
自分はその場にいて戦いの者たちの
そばにいてやる家臣がいるのであらば
主君はいて当然であろうと
見捨てないという感覚
それが故に この人自身はもう上に
上がっても良い方なんだけども
何かこの人を慕う人、
おぼつかない人がいたりすると
一緒にそこで残っていてあげている
みたいです大分ぽろぽろと抜け
戦国いた人たちも生まれ変わっていますしね
時期がきて まだ子供みたいな人が初陣だとか
そういう人が一生懸命、馬に乗っている姿が
見えるのである程度位があったのかな
その人は亡くなったとは思いますが
意識の中で その世界の中では
平行次元で ずっと戦場にいるわけですね
阿山>死んでも想念の世界、幽界で彷徨っている、
いやその世界で生きているのでしょうね
※裏話
大坂の陣の後、真田信繁公は豊臣秀頼と共に九州の島津家へ逃れたそうです。最近の情報ではお墓が存在。使われていた名前は真生田(まえだ)。島原の乱を起こした天草四郎は秀頼の子。軍の指揮官は信繁公の子。真田信繁は伊達政宗と仲が良く、鹿児島から商人として仙台まで旅し情報交換していた?
伊達政宗はスペインに船を出していますがそれは当時世界最強の軍の派遣を依頼していた様です。ところが島原の原城にはスペイン軍が現れず敗北。この乱の時に徳川家光の実母、春日局(明智家出身)は当時は島原の乱とは呼ばれず、豊臣家の反乱だとして皆殺しを指示したそうです。
原城周辺の遺体は虐殺された跡が残っている。徳川軍が悪戦苦闘したのは信繁公の戦略を学んだと思われる子が活躍?歴史は勝者が書き変える