厚労省あたりから出されているパワハラの「定義」

 ここまでやったら裁判で負けるラインとか、厳しい指導をなんでもハラスメントとされて指導ができないということへの対策が中心に定められているように感じる・

 そもそもなぜパワハラを問題視して無くそうとしているか、から かけちがっているように感じる。

お題目では、職場環境を悪化させて仕事の質が低下するというようなことを書いてあるけれど、「裁判の勝敗ラインを覚える」ような視点になってないか。

 パワハラの定義に当てはまらないとしても、職場の空気を重くし、もの言えない組織にし、組織の課題や問題点に対し声を上げると排除の力が働くような職場で良いのか。そもそも、社員がみんな気持ちよく元気でいきいきと仕事をし、もしよくないことがあったとしても自浄作用が働く組織でありたいとは思わないのか?

たとえばこんなことが起きていないだろうか。

・一つは、会社が社員に対して発信していることとやらせていることの矛盾

  ラーフワークバランスや人的資本経営の二面性からこの矛盾を起こしているところがある。経営者が社員向けに発しているメッセージと管理者が指示をされている事のベクトルが違うと言うことが起きてしまう。別のベクトルのことを同じ組織内で目指せば軋轢が生じる。社員は言っていることとやってる事の矛盾に苦しむか思考を停止させる、管理職は自己矛盾の中で、権力に頼らざるを得ないということが起きていないか。

・一つは、管理主義というか古き良き時代の成功体験

  高度成長期時代の大量生産の手法をそのまま、現代の精神ワーク、知的ワーク、不確実性へのチャレンジに当てはめようとしていないか?数字や目に見えるものとしての成果以外は認めない、というか評価できない。頭では「今どき」のマネジメントがありながら、過去の成功体験を活かそうとし続けてしまう。やはり矛盾が起きる。

 

・一つは、管理職のスキル不足

  管理職自身が育ててもらってない。担当業務成績が良ければ昇進し、人の育て方も何も教わることなく、プレイング中心のマネージャーとなる。その中でハラスメント対策で「あればダメ」「これを言うな」と言われて萎縮しているか、開き直ってしまうと言う話をよく聞く。自分やハイパフォーマーの行動だけを正解とする。気に入らないと相手の人格まで正してあげたくなってしまう。

 

 その場の言動はハラスメントに該当しないかもしれない。それで本当にその企業が望んでいることに向かっていくことができているだろうか。管理職も苦しみ、社員も苦しみ、業績が伸び続けるのだろうか?経営者は幸せなんだろうか。

 

 みんなが幸せに向かうような企業経営ができればいいよね。