【古典個展】立命館大フェロー・加地伸行 閃きに賭ける魂に期待 | 毎日のニュース

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 今年の1月以来、STAP(スタップ)細胞をめぐって、いろいろと報道がなされている。

 そのほとんどは、論文の不備や責任の所在や理研の対応など、マイナス面が中心となっており、さらには捏造(ねつぞう)という倫理問題まで出てきている。

 その騒ぎにおいて、老生が大きな違和感を覚えたのは、理系(自然科学)の論文と、文系(人文科学・社会科学)の論文とのありかたが、まったく異なっている点であった。

 その最大のものは、共同執筆という形である。文系では共同執筆などほとんどない。仮にあったとしても、例えばA・B・C3人が著者であった場合、それぞれの担当箇所を明記している。3人の内のだれが書いたのか分からない〈融合的文章〉となっている論文など見たことがない。個人執筆論文の場合、教えてもらったり調査を頼んだりしたときは、論文末尾にその氏名を挙げ謝意を示すのが普通。

 つまり、担当責任箇所が明確であり、文系論文のほとんどが個人名であるから、全責任はその執筆者個人にある。

 一方、理系論文では氏名を列記した共同執筆であり、責任の所在がはっきりしなくなる。今回のSTAP論文騒ぎの根源はそこにある。すなわち、理系論文の共同執筆形式という〈構造的無責任体制〉からきたお騒がせではなかろうかと悪友と話していると、この悪友、こう喩(たと)えてくれた。神社の祭りのだんじり(関東では山車(だし))だと。