芥川賞・直木賞の創設者としても知られる作家の菊池寛は、一高卒業間際に友人の窃盗の罪をかぶって退学している。ところが、別の友人の父親が学資を出してくれることになって、京都大学への入学を果たす。
▼井上ひさしさんは、『ちくま日本文学 菊池寛』の解説で、その前半生は「『ところが』の連続」だった、と書いている。貧しい家に生まれ、何度も危機に陥りながらも、そのたびに「ところが」、つまり助け舟があらわれたというのだ。
▼埼玉県狭山市のマンションで先週末、警視庁の男性巡査(24)が婚約中の女性(24)を刺殺し、直後に自殺する事件があった。小学校に今春入学した新1年生の男の子に、なりたい職業を尋ねたところ、スポーツ選手に続いて、警察官が2位になったそうだ。そんなあこがれの職業に就き、幼なじみでやはり警察官の恋人との結婚も決まっていた。幸せの絶頂にあったはずの青年に何が起こったのか。
▼3月に予定していた2人の結婚は、延期になっていた。男性巡査が起こした、採用試験をめぐる業務上の不祥事のためだ。男性巡査にとっては、人生最大の危機だったかもしれない。それでも、この世で一番大切な女性と自分の命を引き換えにするほどの、深刻な事態だったとはとても思えない。
▼井上さんによれば、菊池寛の作品の根底にある明るさは、実人生で出合ったいくつもの「ところが」によって養われたものだ。読者もまた、作品を楽しみながら、「ところで自分たちの『ところが』はいつくるのだろう」と、夢見顔になったものだという。
▼男性巡査の人生にも、いつか必ず「ところが」がやってきて好転したはずだ。なぜ、それを待てなかったのか。なんとも、やりきれない事件である。