「私たちが元気になることで、原発事故でつらい思いをしている人たちの希望の光になりたい」。東京電力福島第1原発から約20キロの福島県広野町で2度の工場閉鎖の危機を乗り越え、地元従業員らと新会社「広野製作所」を立ち上げた。
大手電機メーカーの総務畑で、新潟県中越地震の際の半導体工場の支援と、その後の大型リストラを担った。それを契機に転職し、原発事故で福島工場からラインの大半が移転した園部製作所(東京都文京区)茨城工場の運営にかかわったが、今度は福島工場の閉鎖に直面した。
福島工場は、70~80人の従業員でトラック部品の加工や塗装などを手がけていたが、本社が茨城移転を決断。避難指示解除後、移転できずに残った塗装ラインで細々と操業を続けたものの、景気低迷による本社の経営悪化で平成24年11月、最終的に閉鎖が決まった。
「このままではすべての雇用が失われてしまう。同じ経験はさせたくない。従業員を守りたい」と奔走し、十数億円の資金を集めた。昨年11月、園部から工場と設備を買い取り、再出発した。東日本大震災から丸3年の3月には、新たに投資した機械も入り、生産態勢がすべて整う。
広野町は今も8割近くの住民が帰還していない。町の再生には雇用が必要だ。「雇用が人を呼び、商業施設もできる。他の企業進出の先駆けになる」という。
昨年12月には40人の従業員と家族が集まって創業の記念式典を開き、喜びを分かち合った。「従業員や被災地で暮らす人たちの自信と誇りを取り戻したい」。子供たちの未来につなぐ、町の復興が願いだ。
(大塚昌吾、写真も)