【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(39)危機意識が招く満州事変 | 毎日のニュース

毎日のニュース

今日の出来事をニュース配信中!

 ■「あたかも噴火山上に放置されていた」

 昭和6(1931)年9月19日午前6時半、放送を始めて数年しかたっていないラジオが、ラジオ体操の番組を中断して「臨時ニュース」を伝えた。

 満州(中国東北部)の奉天(瀋陽)郊外で、日本と支那(中国)の軍隊が衝突したという「満州事変」の一報だった。

 事件が起きたのは前日9月18日の午後10時20分である。奉天駅から東北に8キロほど離れた柳条湖という場所で、南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破されたのだ。

 被害は小さかったが、この付近で満鉄の警備に当たっていた日本の関東軍独立守備隊は張学良率いる東北辺防軍(東北軍)の仕業だとして、東北軍が駐屯する近くの北大営を攻撃、占拠した。

 「衝突」の事実は直ちに、旅順にあった関東軍の司令部に打電された。本庄繁軍司令官は、深夜にもかかわらず参謀ら幹部に非常呼集をかける。まだ詳しい状況もわからないうえ、東京の政府や陸軍中央の意向も伝わってこない。どう動くか、迷いを見せる本庄に対し、作戦主任参謀の石原莞爾中佐は「もはや一刻の猶予もない」と大規模攻撃を進言した。

 本庄は「よろしい。本職の責任においてやろう」と決断した。石原が戦後、東京裁判の酒田法廷での証言で明らかにしたことだ。

 石原の生涯を描いた福田和也氏の『地ひらく』によれば、石原は本庄の許可を得た後、メモひとつ見ず、電報や電話で満鉄沿線の各連隊や独立守備隊を次々に出動させていく。19日昼ごろには奉天を制圧、同日中には沿線の主要都市をほとんど占領してしまった。