ドイツの哲学者アドルノは「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と言った。「無力」でも「欺瞞(ぎまん)」でもなく、「野蛮」と言ったところに芸術への深い絶望がある。「東日本大震災以降、詩を書くことは野蛮である」と言いたいところが、僕にはある。しかし、いずれは誰かが「野蛮である」ことをきちんと引き受けなければならない。
僕は川崎に住んでいるが、ほんの少しの揺れでもこれは茨城、これは千葉、これは福島と、ほぼまちがいなく震源地がわかるようになった。目をそむけていたい心と、大地の揺れを覚えてしまった身体とが引き裂かれていく感覚にどこまで耐えられるか不安がある。木村朗(さえ)子『震災後文学論』(青土社)は、こういう引き裂かれた状況と向き合おうとする文学を論じたものだ。だから、「あたらしい日本文学のために」というサブタイトルを持つ。ほんの少しの希望と、もう戻れないという感覚とが共存している。「震災後文学」よりもっとすぐれた「震災後文学論」が先に出てしまった奇妙な事態かもしれない。文学者はこの挑発にどう答えていくのだろう。
その「震災後文学」の代表作の一つとなった、いとうせいこう『想像ラジオ』が「第35回野間文芸新人賞」を受賞した。『群像』誌上の「選考委員の言葉」では、「彼はヒューマニズムを持ち出す時も、一周余計に回っている」(島田雅彦)とか「本当の媒介者となるのは、読み手である私たちである」(星野智幸)とか「他者の記憶と呼応してあたらしい記憶を作る試み」(堀江敏幸)といった具合に、震災と向き合ったことよりも、想像上のラジオDJが震災を語るこの小説の工夫を評価している。震災後文学としては、松浦理英子の「このあっぱれな負けっぷり」というやや腰の引けた評価がある程度だ。文学者はまだ戸惑っているようだ。