【正論】「ニコポン宰相」の決断力に学べ 評論家、拓殖大学大学院教授・遠藤浩一 | 毎日のニュース

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 ≪没後百年の桂太郎を再評価≫

 明治末期の首相、桂太郎が没したのは、大正2(1913)年10月10日だったから、今日は、没後100年に当たる。

 ニコニコ笑いながら相手の肩をポンと叩(たた)いて懐柔していったことから、「ニコポン宰相」などと呼ばれた。そこには何となく揶揄(やゆ)の響きがある。なるほど伊藤博文や山縣有朋などと比べると、やや影が薄い印象で、近代日本政治史では脇役のように扱われてきた。

 しかし近年、小林道彦氏(北九州市立大学教授)の丹念な研究をはじめとして、再評価の動きが広がっている。

 徳富蘇峰は「桂公を誤解したる者の為(た)めに、其(そ)の誤解を悲しむ」と述べているが、桂の果たしたこと、果たし得なかったことについて、真剣に検討する必要があるのではないか。

 実際、宰相としての桂の業績は瞠目(どうもく)に値する。日英同盟締結、日露戦争の開戦と勝利、韓国合邦化による朝鮮半島政策をめぐる混乱の収束、関税自主権の回復、大逆事件の処理、そして立憲同志会(桂新党)の設立。個別に賛否はあろうが、ともあれ、これだけのことを1人の宰相が次々に成し遂げていったという事実は重い。

 通算在職2886日は憲政史上最長である。果たすべき目標を持つ宰相は権力への意志が明確だし、権力の方も決して彼を突き放そうとはしない。桂太郎こそ、明治国家を完成させた宰相だったといっていい。

 ただし、大きな決断には、常に激しい反対がつきものである。日英同盟は、日露協商論がこれに対抗した。日露開戦時も、開戦やむなしとする見方で要路はほぼ一致したにせよ、対露交渉については強硬論と慎重論が対峙(たいじ)した。戦後、賠償金や北樺太割譲を断念した講和について、一部の政敵は激しく批判し、世論もこれに煽(あお)られ激高して、暴動に発展した。日韓併合も強引に進めたわけではない。慎重な合意形成を経て日韓条約締結にいたったのである。

 ≪事決するや断乎として動かず≫

 対立が起これば、それは必然的に政争へと発展する。桂も、好むと好まざるとにかかわらず政争に巻き込まれていったし、その過程で、断念せざるを得なかった課題もあった。新橋から下関にいたる鉄道を広軌化し、朝鮮半島及び満州の鉄道と結んでヒトとモノの往来を緊密にしようとの構想は、結局、日の目を見なかった。

 “ニコポン”の綽名(あだな)が示すように、桂は調整型の政治家と目されている。確かに彼は、政治というものが調整や妥協の産物であることを熟知していた。

 が、調整や妥協それ自体を目的としていたわけではなかった。ひとたび事を決するや断乎(だんこ)として動かず、というのが彼の本質であり、したがって、“ニコポン”は決断した施策を遂行するための武器であった。今日の妥協や蹉跌(さてつ)は明日勝利するための準備にほかならなかった。

 晩年、政友会と競争しうる政党(立憲同志会)を自ら育てて、政党政治を軌道に乗せようとしたが、これは存命中に日の目を見ることはなかった。

 桂と西園寺公望が交互に政権を担当した「桂園時代」(明治39~大正2年)は、藩閥官僚政治から政党政治への過渡期だった。山縣の下で藩閥官僚ないし軍人として頭角をあらわした桂は、しかし藩閥官僚が主導する統治はやがて行き詰まり、政党政治に移行せざるを得ないと観念していた。政党政治を機能させるには、政友会のほかに強力な政党を育て、両者の競合関係の中で、全体として政党を鍛え上げる必要があると考えた。そこに憲政の要諦があるのであり、その意味で、憲政を擁護し閥族を掃蕩(そうとう)し得るのは自分を措いてないと、内心自負してもいた。

 ≪安倍氏本来の姿勢にも通底≫

 しかし、山縣を頂点とする藩閥官僚と政友会など既成政党からの挟撃にあい、既成政党が繰り広げた倒閣運動は国民運動へと発展した。万策尽きた桂は大正2年、第3次内閣を総辞職し、数カ月後、失意のうちにこの世を去る。最後の試みこそ失敗に終わったが、桂が藩閥官僚政治から政党政治への橋渡し役を務めようとした事実は見逃せない。

 こう見てくると、今日の政治指導者への示唆が少なくないことに気付かされる。

 安倍晋三首相も経済再建、財政の安定化、集団的自衛権行使、靖国神社参拝、教育再生、そして憲法改正など、多端かつ重要な課題について、決断したことを着実に実行していかなければならない立場にある。そうそう、政党政治の育成という百年来の課題もある。桂は政党政治というものの困難を見越したうえで、敢えてそれを引き受けようとした。

 安倍氏もおそらく、大衆民主主義における政治指導の困難を噛(か)みしめながら多くの決断を重ねているに違いない。その際、肝要なのは手段と目的の峻別(しゅんべつ)であり、ひとたび事を決するや断乎として動かずという桂と通底する(安倍氏本来の)姿勢ではないだろうか。(えんどう こういち)