豊臣秀吉について、安積艮斎が論評を加えている。

 

安積艮斎『史論』

 

 豊臣秀吉上

 覇天下者、非必有攻取戦勝之勇也。非必有運籌出奇不窮之智也。要在於攬群雄之心而已矣。苟攬群雄之心而発縦指示、使其当勍敵、陥堅陣、天下不足平也。

 若恃我智勇、与群雄較勝敗於戦闘之間、群雄皆為吾敵。天下将何時而定耶。

 然則攬群雄之心、何為而可。土地金帛可以攬之乎。高位重爵可以攬之乎。曰不可。

 夫徒以土地金帛、高位重爵為餌、吾餌有限、而群雄之心無限。以有限供無限、如沃焦釜、灌漏巵。挙天下不足給之。

 且以此為餌、是所以待鄙夫繊人、而非所以待群雄也。士固有得千金之利而不喜、而能殺身於一言之下者。

 何則有信義焉以感之也。故信義之所感、不頒土地金帛而喜、不与高位重爵而服。既喜且服驩然以我為可仗而不可叛。然後随其有功、而賞之以土地金帛、寵之以高位重爵。彼益喜喜而愈服。此馭群雄之道也。

 豊臣秀吉嘗説美濃大沢某降之。織田氏疑其詐、欲殺之。苦諫不聴。乃退告大沢使亡去。而以身当其怒。美濃豪傑聞之、皆争属豊臣氏。而雲蒸之勢自茲始矣。

 其与毛利氏相持、京師変起。秀吉不秘、即告以実、而毛利氏和立成矣。迄于平北陸、上杉氏未服。秀吉従十余騎、直入越後。而上杉氏約忽成矣。

 夫毛利上杉蟠拠十余州、帯甲敷万、士馬精強。非竭数年之力不易服。而太閤定之立談之頃。何其壮也。

 其征小田原、会諸将、指地図部署。真田昌幸在末座、秀吉進之曰、吾以汝為山道先鋒。昌幸退而謂人曰、殿下一言、栄於百万石矣。

 蓋是時天下久罹騒乱、人情危険。雖有父、安知不虎。雖有兄、安知不狼。俔々然惟恐其叛而噬我也。況乎敵国外患、相欺以詭謀、相擠以機穽。

 而秀吉独披肝胆示信義、或暴白大事於勍敵、或挺身入悍獷不測之地。此其所以鼓舞籠罩天下之群雄、而定大乱於数年之間者也。

 雖然、秀吉信義乃覇者之微権。仮焉而営其私。与聖賢作為廻然不侔。嗟夫此秀吉之所以為秀吉也歟。

 

 天下に覇たる者は、必ずしも攻取戦勝の勇に有るにあらざるなり。必ずしも運籌出奇、不窮の智に有るにあらざるなり。要は群雄の心を攬するに在るのみ。苟しくも群雄の心を攬して発縦指示し、其れをして勍敵に当たり堅陣を陥らしむれば、天下、平らぐに足らざるなり。

 若し我が智勇を恃み、群雄と勝敗を戦闘の間に較ぶれば、群雄は皆吾が敵と為る。天下、将に何れの時にか定まらんや。

然らば則ち群雄の心を攬するは、何為れぞ可なる。土地金帛、以て之を攬すべけんや。高位重爵、以て之を攬すべけんや。曰く、不可なり。

 夫れ徒らに土地金帛、高位重爵を以て餌と為せば、吾が餌に限り有りて、群雄の心に限り無し。限り有るを以て限り無きに供すること、焦釜に(そそ)ぎて、漏巵(ろうし)(水のもれる杯)に灌ぐが如し。天下を挙げて之を給するに足らず。

且つ此れを以て餌と為すは、是れ鄙夫繊人を待つ所以にして、群雄を待つ所以にあらざるなり。士固より千金の利を得て喜ばず、而して能く身を一言の下に()ぐ者有り。

 何となれば則ち、信義以て之を感ぜしむるに有り。故に信義の感ずる所、土地金帛を頒けずして喜び、高位重爵を与へずして服す。既に喜び且つ服し、驩然として我を以て()るべくして叛くべからずと為す。然る後に其の功有るに随ひて、之を賞するに土地金帛を以てし、之を寵するに高位重爵を以てす。彼れ益ヽ喜喜として愈ヽ服す。此れ群雄を馭するの道なり。

 豊臣秀吉嘗て美濃の大沢某に説きて之を降す。織田氏其の詐を疑ひ、之を殺さんと欲す。苦諫するも聴かず。乃ち退きて大沢に告げて亡去せしむ。而して身を以て其の怒に当たる。美濃の豪傑之を聞き、皆争ひて豊臣氏に属す。而して雲蒸の勢ひ茲れ自り始まる。

 其の毛利氏と相ひ持するや、京師の変起こる。秀吉秘せず、即ち告ぐるに実を以てし、而して毛利氏和立成る。北陸を平らぐるに(いた)るも、上杉氏未だ服せず。秀吉、十余騎を従へ、直に越後に入る。而して上杉氏約忽ち成る。

夫れ毛利上杉、十余州に蟠拠し、帯甲敷万、士馬精強たり。数年の力を竭くすにあらずんば、服し易からず。而れども太閤、之を立談の頃に定む。何ぞ其の壮んなるや。

 其の小田原を征するや、諸将を会して、地図部署を指さす。真田昌幸、末座に在り、秀吉之を進めて曰はく、「吾、汝を以て山道の先鋒と為す」と。昌幸退きて人に謂ひて曰はく、「殿下の一言、百万石よりも栄なり」と。

 蓋し是の時天下久しく騒乱に罹り、人情危険なり。父有りと雖も、安んぞ虎にあらざるを知らんや。兄有りと雖も、安んぞ狼にあらざるを知らんや。俔々(けんけん)然として惟だ其の叛きて我を噬むを恐るるなり。況んや敵国外患、相ひ欺くに詭謀を以てし、相ひ(おと)すに機穽を以てす。

 而れども秀吉独り肝胆を披きて信義を示し、或いは大事を勍敵に暴白し、或いは身を挺して悍獷不測の地に入る。此れ其の天下の群雄を鼓舞籠罩して、大乱を数年の間に定むる所以の者なり。

 然りと雖も秀吉の信義は乃ち覇者の微権なり。仮りて其の私を営す。聖賢の作為とは廻然として侔しからず。嗟夫、此れ秀吉の秀吉()る所以なるか。

 

豊臣秀吉下

 天正十三年、豊臣氏歳入二百万石。府庫称之、曰、吾不可独自封殖。乃分金五千枚銀三万枚於諸将。十七年復分金銀各三十六万五千両于文武百官。

 予謂、豊臣氏此挙可謂英雄之度也。昔者董卓貯財於郿塢、而敗亡。徳宗豊瓊林大盈之積、而出走。聞太閤之風、可以愧死矣。特惜其不頒於所当頒、而頒于所不当頒。何則諸将有封国、文武百官有秩禄。乃優与之。而天下無告之民、反不沾一金。是継富不周急、何与聖人之言相反也。

 豊臣氏起自人奴、諰々然恐諸将之昇其寒族而叛己也。故不倹土地以啗之、又屢為駭世絶俗非常之挙、以震動天下之視聴、欲使其畏服而不肯叛焉。而不知民之可重、甚於諸将也。

 孟子曰、民為重、社稷次之。君為軽、是千古奇論、亦千古確言。雖聖人、不能易矣。蓋孟子之時、天下大乱、人主惟知屠城略地之為利、而不知斯民之重。故孟子以此激発当世。而至理亦不外乎此矣。

 吾邦元弘建武以降、四海悉化為戦場。至足利氏季世、壊乱極矣。英雄割拠者三十余名、視孟子七雄之時、更有甚焉者。男子終歳不釈耒耜、而不足供兵糧。女子窮年不下機杼而不足充征衣。加之以漕輓之労、徭役之煩。其凋勊亦甚矣。

 且王室租税之制、大約二十而取一。及鎌倉置守護於正税之外、毎叚取粮五斗。織田氏六民而四公、豊臣氏縮畝数、広税額。又有課役賦調地子銭之類、不翅什倍於王室。奈之何、其不窮且盗也。

 然無赤眉黄巾闖賊之禍者、封建之勢已成、守護地頭皆武人、提干戈、拠城塁、故勢不得起也。勢不得起、而憤怒惨戚無聊之心則有之矣。況無告之民、倀々乎無所哀𥸤。遂淪胥而為溝壑之鬼者、不知有幾千万也。為人主者、詎可不惻然動心、思其所以救之々道邪。

 王室之隆、免一年半歳之租者、史不絶書。鎌倉以還、惟聞増賦加税、未聞能蠲半歳之租也。豈或有之、而史不書歟。抑軍国多費用、雖有賢君明主、勢不能免租税歟。

 当是時、豊臣氏以其頒于諸将百官者、頒賜於天下民、悦之如大旱之得雨仰之、如赤子之慈母、其遺祉流、慶于子孫。宜何如哉。百官諸将、雖不受其賜、亦莫不手額相慶、曰天下不世出之仁主。又何怨叛之足憂哉。

 雖然豊臣氏此挙、可偶為之、而不可常也。聖人之政則不然、曰恵而不費。

 

 天正十三年、豊臣氏の歳入は二百万石なり。府庫、之を称して曰はく、「吾独り自ら封殖すべからず」と。乃ち金五千枚銀三万枚を諸将に分く。十七年、復た金銀各三十六万五千両を文武百官に分く。

 予(おも)へらく、「豊臣氏の此の挙は、英雄の度と()ふべきなり。昔者(むかし)、董卓、財を郿塢に貯ふるも敗亡す。徳宗、瓊林大盈の積を豊かにするも出走す。太閤の風を聞けば、以て愧死すべし。特だ惜しむ、其の当に頒くべき所に頒けずして、当に頒くべからざる所に頒く。何となれば則ち諸将に封国有り、文武百官に秩禄有り。乃ち(ゆた)かなるに之に与ふ。而れども天下無告の民、反つて一金を沾ほさず。是れ富めるに継ぎ急なるを(すく)はず、何ぞ聖人の言と相ひ反するや」と。(君子は急なるを周ひて富めるに継がず。雍也篇)

 豊臣氏は人奴()り起これば、諰々然として諸将の其の寒族より昇りて己に叛くを恐るるなり。故に土地を倹せずして以て之を(くら)はし、又屢ヽ駭世絶俗非常の挙を為して、以て天下の視聴を震動し、其れをして畏服して肯へて叛かざらしめんと欲す。而して民の重んずべきこと、諸将よりも甚だしきを知らざるなり。

 孟子曰く、「民を重と為し、社稷之に次ぐ」と。君を軽と為すは、是れ千古の奇論、亦た千古の確言なり。聖人と雖も、易はる能はざるなり。蓋し孟子の時、天下大いに乱れ、人主は惟だ城を(ほふ)り地を略するの利と為るを知るも、斯の民の重を知らず。故に孟子は此れを以て当世を激発す。而して至理も亦た(ここ)より外にせざらんや。

 吾が邦、元弘建武以降、四海悉く化して戦場と為る。足利氏の季世に至り、壊乱極まれり。英雄の割拠する者三十余名、孟子七雄の時に(くら)ぶれば、更に甚しき者有り。男子終歳、耒耜を釈かざれば、兵糧を供するに足らず。女子窮年、機杼を下さざれば、征衣を充つるに足らず。之に加ふるに漕輓の労、徭役の煩を以てす。其の凋勊も亦た甚し。

 且つ王室租税の制は、大約二十にして一を取る。鎌倉、守護を正税の外に置くに及びて、毎に叚りて粮五斗を取る。織田氏は六民にして四公、豊臣氏は畝数を縮め、税額を広ぐ。又課役賦調地子銭の類有れば、()だに王室よりも什倍ならざるのみ。之を奈何せん、其れ窮且つ盗ならずや。

 然れども赤眉黄巾闖賊の禍無き者、封建の勢ひ已に成り、守護地頭は皆武人にして、干戈を提げ、城塁に拠り、故に勢ひ起こるを得ざるなり。勢ひ起こるを得ざるも、憤怒惨戚無聊の心は則ち之れ有り。況んや無告の民、倀々乎として哀𥸤する所無し。遂に淪胥して溝壑の鬼と為る者、幾千万有るを知らざるなり。人主為る者、詎ぞ惻然として心を動かし、其の之を救ふ所以の道を思はざらんや。

 王室の隆んなる、一年半歳の租を免ずる者、史に絶へて書かず。鎌倉以還、惟だ賦を増し税を加ふるを聞くのみにして、未だ能く半歳の租を(のぞ)くを聞かざるなり。豈に或いは之れ有らば、而して史に書かざらんや。抑も軍国、費用多く、賢君明主有りと雖も、勢ひ租税を免ずる能はざるか。

 是の時に当たりて、豊臣氏、其の諸将百官に頒くる者を以て、賜を天下の民に頒くれば、之を悦ぶこと大旱の雨を得て之を仰ぐが如く、赤子の慈母の如く、其の祉流を遺し子孫に慶ばん。(うべ)なり何如(いかん)ぞや。百官諸将、其の賜を受けずと雖も、亦た手額して相慶び、天下不世出の仁主と曰はざるは莫からん。又何ぞ怨叛を之れ憂ふるに足らんや。

 然りと雖も豊臣氏の此の挙は、(たまた)ま之を為すべくも常とすべからざるなり。聖人の政は則ち然らず、「(けい)にして費やさず」(尭曰篇)と曰ふ。