今年のはじめ、会津三庭園の一つ・攬勝亭庭園が失われた。
会津若松市民は攬勝亭を守る会を結成して、会津若松市に保全を求めたが、結局、市は動かなかった。
攬勝亭庭園は、中世の舘跡で、芦名氏が上杉一門の長尾氏に与えた地である。
「攬勝」は藩祖保科正之公の命名と伝える。
鷹狩りの休憩などに使われた。
元禄年間、会津藩主の命で庭園を改築した。それを担ったのは幕府の庭師目黒浄定である。
磐梯山をはじめ、会津の十景を借景として庭園にとり集めた。
かつまた庭園は平地にあるので、実際の会津の十景も皆見える。
風雅な趣向、まさに元禄文化の精華である。
十景にはそれぞれ漢詩が添えられている。一つだけ紹介する。
羽黒山の新霜
孤峰 天に当たりて秀で
樹杪 仙宮に出づ
識らず 微霜の下
怪み看る 林葉の紅なるを
過去の活字資料に「戸に当たりて」とあるが、これは「天に当たりて」である。「戸」と「天」は、筆字だと似ている。
文政年間、会津藩家老丹羽能教がここに別邸を建てて退隠した。
儒学者安積艮斎は、能教の子息に頼まれて「攬勝亭記」を書き、後に『艮斎文略』続に収めた。
艮斎「攬勝亭記」に、
「会津はめずらしい山水が多い。この亭は、その景勝をあつめ、それをもとにして十景に分けた。攬勝は、林述斎公が名づけた。以前に子息の丹羽親卿殿は、海老名叔尚を介して私に委嘱し、この記を作らせた。私はもとより丹羽能教公の人となりを慕っている。だから、その出処進退のすばらしいことを挙げて、記とした
」とある。
また「攬勝亭記」に、
「丹羽能教公は人徳があって、文武両道の人であった。1807年、東のはてをロシアが略奪した。幕府は会津藩主に海防を命じた。公は諸隊の監督となって樺太島を守った。平和ぼけの時代だったので、国中騒然としたが、公は軍隊を率いて不毛極寒の地をわたった。号令は厳粛で、古の名将のようで、毅然としていた」と書いた。
丹羽能教は信望厚く、家老に進み、1829年に退官して攬勝亭に住んだ。
攬勝亭庭園は、中世以来の豊かな歴史文化と会津士魂を伝えていた。
鶴ヶ城の復元の天守も、本物の石垣や土塁や堀があってこそ感銘を与える。本物が残るからこそ、歴史が伝わる。
資料や図面で残しても感動はできない。
令和2年、攬勝亭庭園に文化庁の調査が入ったが、文書類が戊辰戦争で焼失しているので、圧倒的に不利であった。
負けた方の歴史は消されてしまう。
勝った方の萩城下は、昔の町割りがそのまま残っていて世界遺産になった。
近々出る私(安藤智重)の著作『マンガで読む 儒学者・安積艮斎』((令和4年1月15日発刊予定・文芸社)に、攬勝亭庭園のことをわずかばかり載せた。