安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
この歌は、『万葉集』の「安積山の歌」(巻十六・三八〇七番)である。紀貫之が歌の父母と称している。
この歌の詞書は、「伝へて云ふ」ではじまる。若き日の葛城王(後の橘諸兄)が陸奥国に下向したときの逸話が記されている。
橘諸兄は、聖武天皇の側近の名宰相で、天平文化の中心人物である。
葛城王は、陸奥国府多賀城の道中、安積郡衙に宿したと思われる。郡衙は郡の政治を行う官庁で、郡山市清水台や虎丸町の一帯に存在した。
奈良時代は中央集権で、比較的平和で、道も良かった。中央と地方は最短距離で結ばれた。葛城王は今の奈良県を出発し、内陸を通って、長野県・群馬県・栃木県を経て福島県にいたった。
東海道は川や湿地帯にはばまれて駄目だった。
中央からの使者は、郡衙ごとに置かれた馬で、リレー式に移動した。伝馬制という。
葛城王が来たとき、安積郡の郡司の接待が怠慢で、王は宴を楽しまなかった。当時、安積郡は蝦夷と戦うためのハブ基地だったので、人の気性も荒く、都人には堪えがたかったのだろう。
この場をとりおさめたのは、雅びかな安積采女であった。阿尺国造の子孫である安積郡司の娘で、宮中に仕えたあと安積郡に戻っていた。
采女は都の文化に通じていたので、自らの出番とさとり、酒杯をささげ水をもち、王の膝もとをたたいて、
「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」と詠じた。
王の機嫌はなおり、楽しい宴となった。
江戸時代の万葉学者契沖は言った。
「葛城王という名の人は歴史上3人いて、安積に来た葛城王は諸兄ではなく、天武天皇の頃の葛城王だ」と。
またこうも言った。
「『万葉集』編纂者の大伴家持と諸兄は親しかった、「安積山の歌」が諸兄に関わる伝聞なら、家持が「伝へて云ふ」とするはずがない、葛城王が諸兄だという注記もない、だから諸兄の事ではなく昔の伝説なのだ」と。
私は、『万葉集』の「伝へて云ふ」にはじまる説明文をすべて調べた。
契沖が言う、昔の伝説もあったが、多くは年代不明だった。
そしてついに、佐為王が詠んだ『万葉集』巻十六、三八五七番の歌の説明文に、「伝へて云ふ」とあるのを見つけた。
佐為王は諸兄の弟である。
「伝へて云ふ」が、昔の伝説だけでなく、同時代の身近な伝聞にも使われていたことが判明した。
よって、契沖の論拠は無くなった。
葛城王=後の橘諸兄、これを否定し得る材料は見当たらない。