数学者の藤原正彦さんは、「天才」が生まれる条件を3つ挙げています。(以下引用は中略あり)
私はかつて、天才がどんなところから生まれるのかを調べたことがあります。天才といわれる数学者やノーベル賞を受賞した物理学者たちがどんな所で生まれ育ったのか、実際に足を運んで調べてみたのです。その結果、天才はある一定の条件がないと生まれないことがわかりました。一つ目は「天才は美しい場所で生まれる」ということ。面白いことに、人口に比例して天才が生まれるわけではないのです。経済的に豊かだからたくさん天才が育つわけでもない。
インド出身の数学者にラマヌジャンという天才がいます。彼は高等教育を受けていないのですが、「なぜそんなことを思いつくのか想像もつかない」といったタイプの大天才です。私は彼の故郷に足を運んだのですが、その景色を見てとても驚きました。マドラスから南へ二百数十キロ、クンバコナムという田舎町なのですが、そこはかつてチョーラ王朝という裕福な王朝が栄えた地で、美しい寺院がたくさん建てられていたのです。ラマヌジャンだけではありません。クンバコナムの半径30キロの円内からは、ほかにもノーベル賞物理学者のチャンドラセカールや、ラマンといった天才が輩出されています。
二つ目は「ひざまずく心」です。日本もかつて神や仏、自然にひざまずいて暮らしていました。例えば数多くのノーベル賞学者を輩出しているイギリスは、伝統にひざまずいています。私がかつて研究員として赴任していたケンブリッジ大学では、伝統にのっとり黒いマントを着て食事をしていました。350年前にタイムスリップしたような光景です。そのくらい伝統を大切にしているというわけです。
そして最後の条件は、「精神性を尊ぶ風土」です。これもイギリスの例ですが、イギリス紳士は金銭より精神性を重視します。たたき上げで金持ちになっている人もたくさんいますが、それだけでは尊敬されません。ノーベル賞をもらっていても、年収は日本の大学教授の半分ほどです。教員の収入も日本に比べると約半分。それでも誰もパニックを起こしません。お金がなくても常にどんと構えているのです。
その中でも私は「ひざまずく心」が、人間が伸びる条件なのではないかなと思っています。
ブログで以前に書かせていただいたM君と飲みにいったときの話です。
M君は、U18、U19日本代表。U19日本代表ではキャプテンも務めました。
その後J1で10年近くレギュラーとして活躍しました。
そのM君は「自分は指導者に恵まれた。特に中学時代のFC東京JY時代の〇〇さんには、サッカーの基本のすべてを教えてもらった」と語っていました。
M君は本心から、自分を指導してくれた方々に感謝していました。
そしてそれは「ひざまずく心」なのだと思います。
将棋界を考えます。
藤井聡太八冠は、以前にこのように語っています。
富士山でいえば、何合目ぐらいに登っているイメージがあるか。藤井は記者会見でそんな質問をされた。ありふれた問いかけと言っていいだろう。対して藤井の回答が話題を呼んだ。
「将棋というのはとても奥が深いゲームで、どこが頂上なのかというのもまったく見えない」
「頂上が見えないという点では森林限界の手前というか、まだまだやっぱり、上のほうには行けていないのかなとは思います」
富士山では5合目あたりから樹木が生えなくなる。それが森林限界だ。多くの人から見れば、藤井はすでに目もくらむような高みにいるように感じられる。しかし藤井本人の意識からすれば、現在の場所はまだ山の中腹の深い森の中。将棋の真理という頂点ははるかかなたの見えない先にある、というのだろう。
昭和の偉大な棋士・升田幸三先生は、同じようなことを過去に聞かれて以下のように答えたと言います。当時はタイトルが3つしかなく、つまり升田先生が全冠制覇したときの言葉です。
私も、まだまだまだ将棋、わかっとらんですよ。だからぼくは、三タイトルとったり、名人を香落ちに指しこんだりして勝ったときに書いたのが、
──たどりきて未(いま)だ山麓
という言葉でしたよ。
私の将棋棋力はアマチュア三段です。
段位の目安としては、小さい大会に出れば、優勝を争えるくらいでしょう。
そして当たり前のことですが、それなりには将棋を指せるはずの私から見ても、藤井先生の将棋はもはや意味不明です(笑)。プロ棋士の先生の解説を聞いても、藤井先生の将棋はレベルが高すぎてよくわからないのです。たぶんプロの先生方ですら、藤井将棋に関してはほとんど本質をわかっていないのではないでしょうか。そうじゃなけば勝率9割近くなんていう、化け物じみた成績を藤井先生は残せるはずがないのです。
そして、そのように私から見ればもはや宇宙人に見えるような藤井先生も升田先生も、同じようなことを語っているのです。
つまり「将棋の神様にひざまずいている」のだと思います。
私はサッカーに対しても学問に対しても「サッカーの神様」とか「学問の神様」にひざまずく姿勢を常に持っていたいと思っています。
そう思っていたとき、ちょっと批判になってしまいますが、中村俊輔引退試合のある光景を見て「なんかサッカーの神様に嫌われちゃうんじゃないのかなー」と思ったのです。
35秒の場面です。
中村俊輔がフリーキックを蹴り、川口能活が横っ飛びのセーブを見せました。
私はその場面を見たとき「おお!今でも2人とも超人的にすげえな!いいもの見れた!」と感嘆しながら思ったのでした。
ですが主審は、入ってないのにゴールの判定を下し、エアVARというギャグまで出しました。
それを見たとき、私は一気に醒めて「これはサッカーの神様に嫌われるのではないか」と思ったのです。
というのは、ゴールが決まってないのに決まったと判定するならば、もはやサッカーではないでしょう。
つまり引退試合で「人」を気持ちよくさせるために「サッカーそのもの」を捻じ曲げたと私は感じたのでした。
それは「サッカーの神」よりも「人」の方が偉いのだという、なにかそんな印象を持ってしまったのでした。
最後に私の熱狂的なファンであるアルゼンチンです。
往年の世界的名手・リケルメの引退試合でのスピーチです。
リケルメは「自分はマラドーナとメッシとプレーできて、最高だった」と語っています。
もはやアルゼンチン人は「マラドーナとメッシにひざまずいている」のだと私は思っています。
前近代的に思えるかもしれません。
ですが、アルゼンチン人がそういう姿勢を持っているのならば、今後もまた、マラドーナとメッシに続く「史上最高のフットボーラー」がアルゼンチンから三度生まれてくると、私は予想しています。