[基幹和珥七氏」は、古事記に記載の和珥氏十六氏の内、畿内に登記のあった和珥氏族を指し、具体的には次の七祖族を指します。    基幹和珥七氏:春日臣・小野臣・粟田臣・羽栗臣・大宅臣・柿本臣・壱比韋臣

 この内、春日氏(大春日朝臣)・小野氏は既に報告済みです。本報では、粟田臣・羽栗臣を中心に取り上げます。

目次(1) 粟田臣
          <1> 山城国愛宕郡上粟田・下粟田
    <2>   粟田氏は小野神社を祖神祭祀社とする
          <3> 粟田臣の代表例:
                  <3-1>  粟田臣細目  :7世紀前半
                        <3-2>  粟田朝臣真人:7世紀半ばから8世紀初頭。
                        <3-3> 粟田人上    :8世紀前半。粟田真人の子。官位は従四位下・武蔵守。
                        <3-4> 粟田臣道麻呂:8世紀後半
                        <3-5> 遣唐使
            <4>   近江国坂田郡人・粟田臣乙瀬

  (2) 羽栗氏
            <1> 山城国久世郡羽栗郷
            <2> 尾張国葉栗郡
            <3>   葉栗郡の式内社
      <4> 羽栗吉麻呂とその二児
                       <4-1>  羽栗吉麻呂
                 <4-2>  羽栗翔
                       <4-3>  羽栗翼

(1) 粟田臣

<1>  山城国愛宕郡上粟田・下粟田

 粟田朝臣は、和名類聚抄に「山城国愛宕郡上粟田・下粟田」とあるので、現在の京都市東山区粟ノ口を本拠地としたと考えられています。

  「新撰姓氏録」では粟田朝臣は右京と山城国に登記され、大春日朝臣同祖と云い、 天足彦国押人命三世孫・彦国葺命の後裔である事を明かしています。
       ・新撰姓氏録:152右京皇別      粟田朝臣  大春日朝臣同祖    天足彦国押人命之後也
          187山城国皇別 粟田朝臣                           天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也


  粟田郷の現地名は「東山区粟田口」(京都市東山区西町)です。
  粟田口は三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲に亘る地名で、この付近は奈良時代以前から開かれた土地で、粟田氏が本拠とし、粟田郷と呼ばれていたのです。
         ・粟田口:平安遷都以前から粟田郷と呼ばれ粟田氏が本拠としていた。
        平安京遷都後は,東海・東山・北陸三道から京都への入口として交通の要衝となった。
       ・やがて粟田口(三条口・三条橋口・大津口)と呼ばれ、京都七口の一つにも数えられた。
       ・江戸時代は東海道五十三次の西の起点、三条大橋を間近にし、人や物資の往来で賑わった。
         ・平安時代の末以降、刀鍛冶たちが住居を構えていた。
       ・江戸時代の元和年間(1615~1624)には瀬戸から陶磁器技術が伝り、「粟田焼」の産地となった。
       ・右手の門跡寺院・青蓮院は「粟田御所」とも呼ばれている。
       ・「粟田口」には、石標(東山区神宮道通三条下る東側、粟田小学校前)が粟田口を示す。
                                                                                                                                [京都市の解説から]

  図表1は山城国粟田郷の地図の中に「粟田口」の位置を示します。
 
   左図は山城国の中での、A愛宕郡・小野氏、B粟田郷・粟田氏、C山科区小野地名、の三社の位置を知り、全体を鳥瞰する為の図です。

 右図はその内のB粟田郷・粟田氏の拡大図で、八坂神社・知恩院・清水寺を確かめて、粟田郷(粟田口)の位置を確かめる為の図です。

 

 

  この中で粟田神社を確かめて頂きます。
  粟田神社(京都市東山区粟田口鍛冶町1)
    祭神:建速素盞嗚尊
(牛頭天王)・大己貴命
           左座:八大王子命
(八嶋士奴美神・五十猛神・大屋彦神・大屋媛神・抓津媛神・須勢理媛神・大歳神・宇迦之御魂神)
           右座:奇稲田比賣命・神大市比賣命・佐須良比賣命
              
右座外殿合祀:竹生嶋社・猿田彦社・度会社・天御中主神・加茂社・日吉社・和歌三神・手力雄社・崇徳天皇
           由緒:清和天皇の876・貞観18年春、神祇官並びに陰陽寮より「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民

                    を悩ます」と天皇に奏上。直ちに勅が発せられ、全国の諸神に御供えして国家と民の安全を祈願された。
         ・その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社
(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願さ

        れました。その満願の夜、興世の枕元に一人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められるこ

                    と天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と告げられました。
                 ・興世が「このように云われる神は、如何なる神ですか?」と尋ねられると、老翁は「我は大己貴神なり。

                    祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言われて消                        えられました。興世は夢とは思わず神意なりと朝廷に奏上し、勅命により直ちに此の地に社を建てて御神

                    霊をお祀りしました。
             ・亦、一説には、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも

                    云われています。
                 ・旧社名は、感神院新宮、粟田天王宮と称していたが、明治になり粟田神社と改称された。
        当社の石段下の道は旧東海道・東山道であり、この辺りは京の七口
(京都の七つの出入口)の一つである粟田

                    口であり、京都を行き来する旅人は旅の安全を祈り感謝し、このお社に参拝されました。

                    何時しか当社は旅立ち守護の神として崇敬を集めております。


<3> 粟田臣の代表例:

 7世紀前半から、粟田臣は史料上に顕れ始め、対外関係の場での活躍が特筆されています。
 それ故か、粟田臣は、小野臣との関係が深い、とされています。9世紀中葉には勢力が衰えたと

見られ、10世紀以降には叙爵者も確認できなくなった、とも云います。
  そこで、主として「続日本紀」からの情報を基に、代表的な粟田氏の活動をリストします。

<3-1>  粟田臣細目:7世紀前半
 ・611・推古19年に粟田臣細目が薬猟の前部領を務めた記事を初見とする。
          細目は小徳(冠位十二階の第二位)まで昇る。
         ・舒明天皇の葬礼では軽皇子(後の孝徳天皇)に代り誄を奉っています。
          ・細目の他に誄を奉った人物に巨勢臣徳太(大派皇子の代り)・大伴連馬飼(大臣の代り)

           がおり、欽明期に粟田臣が巨勢臣・大伴連に比する地位にいたと云えます。
 

<3-2>  粟田朝臣真人:7世紀半ばから8世紀初頭。
            真人以降の粟田朝臣の氏人も、やはり対外関係の場での活躍が目立つ。
 ・650・大化6年、穴戸国(長門国)から白雉が献上されると、これを祥瑞として改元がおこなわ          れ、粟田臣飯虫ら4人が白雉を乗せた輿を執ったと云う。
 ・653・白雉4年、遣唐使と共に入唐した学問僧の道観がいる。
          この人は兼右本「日本書紀」に「春日の粟田臣百済が子、俗名は真人」                                     とあるので、粟田朝臣真人と同一人物説が有力です。
 ・681・天武10年、真人は還俗し、小錦下(従五位相当)の位を授かる。
 ・689・持統3年には筑紫大宰としてのちの大宰府管内を総領する地位にあった。
 ・699・文武3年までには帰京し、刑部親王・藤原不比等らと共に大宝律令の編纂事業に従事す。
 ・700・文武4年、その功績によって禄を賜った。
 ・701・大宝元年、遣唐執節使に任じられて渡唐す。
 ・704・慶雲元年、帰朝した際、大倭国の田20町・穀1000斛を賜った。
          ・渡唐直前に参議として議政官に列す。

           粟田氏で議政官に列した人物は真人ひとりであった。
 ・719・養老3年、薨去した時、中納言正三位であった。
 

<3-3> 粟田人上:8世紀前半。粟田真人の子。官位は従四位下・武蔵守。
 ・714・和銅7年、従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵。
 ・720・養老4年、従五位上に叙せらる。(父・真人が没した翌年に当たります)
 ・724・神亀元年、聖武天皇の即位に伴い正五位下に昇叙、
 ・729・神亀6年、正五位上、
 ・730・天平2年1月13日、大宰帥・大伴旅人の邸宅で催された宴会に際して和歌を詠んだ大宰

                            少弐・粟田大夫に比定されている。

 ・732・天平4年、造薬師寺司が置かれ、造薬師寺大夫に任ず。武蔵守も務める。
 ・735・天平7年、従四位下に至る。
 ・738・天平10年6月1日卒去。(最終官位は武蔵守従四位下)
 

<3-4>  粟田朝臣馬養、
  ・730・天平2年、粟田朝臣馬養が、播磨直乙安、陽胡史真身、秦忌寸朝元、文元貞と共に、                   弟子二人ずつとって漢語を習わせた。「続日本紀」
 

<3-5> 粟田臣道麻呂(後に朝臣):8世紀後半
 ・758・天平宝字2年、内薬佑
 ・759・天平宝字3年7月13日:臣姓から朝臣姓に改姓
 ・764・天平宝字8年正月21日:正六位上から外従五位下へ昇り
             7月19日:問新羅使として大宰府へ赴く。時に授刀大尉外。
                          9月11 日:従四位下、参議。「藤原仲麻呂の乱」の鎮圧に貢献。
                         10月20日:式部大輔、勅旨員外大輔・授刀中将で因播守を兼任。
 ・765・天平神護元年 正月7日:乱鎮圧の功労により勲三等の叙勲
               8月1日:「和気王の謀反」に与したとして譴責を受け、飛騨
                   員外介に左遷、飛騨にて幽閉された後、死去す。
                                  ●粟田道麻呂配流の伝承地(飛騨市国府町名張石原1,632番地)
                             粟田社は一之宮神社に合祀された(昭和8年岐阜県の方針)
<3-6> 遣唐使

   遣隋使・小野妹子については先報しました。
 その後の遣唐使にも和邇系三氏(小野・粟田・羽栗氏)からの参加が見られます。

 次の参考表に、特段のコメントなしに遣唐使からみの和邇諸氏をリスとし、これに若干の小話を

添えます。

 参考表   遣唐使に和邇系四氏(小野・粟田・羽栗・大宅氏)が参加している。
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 第 2回  653・白雉4年     ・道観(後の粟田真人)が留学僧として
 第 8回    702・大宝2年    ・粟田真人(執節使)
 第 9回    717・養老元年      ・阿倍仲麻呂・羽栗吉麻呂(阿部仲麻呂の従者)、
 第13回 759・天平宝字3年  ・羽栗翔(遣唐録事)、
 第16回 777・宝亀8年      ・小野石根(持節副使・大使代行)・小野滋野(遣唐判官)・羽栗翼(遣唐録事
 第18回 804・延暦23年      ・粟田飽田麻呂(留学生)                             →准判官)
 第19回 838・承和5年        ・小野篁(副使、
辞退して流島となる)・粟田家継(絵師・大使傔従)

               ・大宅年雄(通事)、大宅宮継(射手)・・円仁「入唐求法巡礼行記」」より
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 ・第一話:第8回遣唐使は702・大宝2年、粟田真人の「執節使」は大使より上格で、この時は2大  

      使が随従した。

          ・この時は「白村江の戦い」以来の遣使なので、国威を示した外交を狙った、と推測され

     ています。具体的には、

          ・近年の日本に政治体制の近代化の姿を紹介

           ・「日本」国号

             ・「藤原京」の造営

                   ・「大宝律令」の制定、
           ・白村江の戦(663)以来の正式な国交回復を目指す。
        この目的のため、朝廷での格も高く、大宝律令の編纂に関わった粟田真人を使節として

      派遣した、と見られ、その成果として真人は唐(武周)から「経史を好く読み、属文を解 

                し、容止温雅なり」 (旧唐書)と高く評価さ れた、と云います。

     ・粟田真人らは704・慶雲元年7月、白村江の戦いの捕虜たちを連れて五島列島福江島に漂

                着帰国したが、・副使の巨勢邑治は残留し707年3月に帰国した。
                                   ・大使の坂合部大分も残留し、次の遣唐使の帰国船に同行した。
          ・この遣唐使一行が、唐の地での律令制の実運用や都市作りを実際に目の当たりにし、

           唐の官僚らのアドバイスを得たことが、大宝律令の修正や貨幣鋳造(和同開珎)などの慶雲  

               の改革、新都平城京への遷都などに繋がった。                (出所) ウイキペディア「遣唐使」
      ・無事往復に成功した粟田真人の乗船「佐伯」に対し、従五位下の位が授けられた。


 ・第二話:第19回遣唐使は838・承和5年、大使・藤原常嗣、副使・小野篁の下に四船で構成され  

      たが、小野篁は大使の指示に不満を抱き渡航辞退すや、流島の処罰を受く。その他の上

                級職の渡航辞退トラブルや往復路での難破事件が多くあり、結局、第20回遣唐船派遣

      は、正使に指名された菅原道真の進言で中止、以後、 遣唐使は派遣されません。
 ・第三話:粟田家継は絵師・大使傔従として乗船、楊洲竜興寺に画仏所を定め、妙見菩薩、四天王  

     を描く。これは、円仁の「入唐求法巡礼行記」に記述あり。

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<4>  近江国坂田郡人・粟田臣乙瀬

  称徳天皇の天平神護元年に次の記事があるので、粟田氏は近江にも居住したります。
  ・765・天平神護元年3月癸巳、近江国坂田郡の人、粟田臣乙瀬、真瀬、斐太人、池守ら四人に朝臣を賜姓す。

    乙瀬氏については、ウイキペディア「乙瀬氏」が次の様に記します。
    ・乙瀬氏:近江国坂田郡人粟田臣乙瀬が徳島県鳴門市瀬戸町明神弐軒家に移住したのが起源。
        ・和珥氏の枝氏である。 和珥氏 → 春日氏 → 粟田氏 → 乙瀬氏   ・姓は「臣」から
        ・徳島県板野郡藍住町乙瀬は江戸時代から記録あり。山口県岩国市小瀬乙瀬の地名もある。
        ・子孫は大阪府堺市中区に乙瀬家、徳島県鳴門市に乙瀬家が居るとされる。


 この「近江国坂田郡人・粟田臣乙瀬」の事例は、粟田氏は、地方任官を通して、各地に拡散した事を示唆しています。
 「朝臣」姓(カバネ)は、格式が高い故に、地方に定着した時、尊崇されたことでしょう。

 徳島県鳴門市、山口県岩国市、大阪府堺市への展開した、との上記の推測からすると、現代の粟田姓・乙瀬姓の遺存状況を別にチェックしますと、乙瀬姓は大阪府堺市に僅かに見出せます。

 こうして、粟田氏は山城国久世郡羽栗郷にその拠点を見出すだけではなく、近江国坂田郡にも徴候を示しています。そこでは、時代推移と共に、羽栗氏が各地に転進・改姓した様子を推測させます。

似た様な動きは、他の和邇系氏族についても起こったに違いありません。
 

(2) 葉栗臣

 葉栗臣の本拠地は山城国久世郡羽栗郷と見られていますが、別に「尾張国葉栗郡」説は具体的な証もあるのです。

 ・天武朝、小乙中(冠位26階の第23位)葉栗臣人麿が葉栗郡に光明寺を建立したと云います。
  その名残が現存する遍照山光明寺と光明寺村(江戸期)の地名です。
        参考:遍照山光明寺(愛知県一宮市光明寺)創建:677・白鳳6年、天台宗

 だが、この二地間にある筈の「何らかの繋がり」の説明資料は見当たりません。
  本流は早くに衰退したらしく、僅か「正倉院文書」に下級官人としての活動の痕跡を残す、と云います。

<1> 山城国久世郡羽栗郷

  双栗神社は、山城国久世郡羽栗郷の式内社で、羽栗氏の祖神祭祀の社です。
  双栗天神社は、宇治田原町の山中にあり、式内・双栗神社の元鎮座地だと云われています。
 

 

 

  これは羽栗氏の祖神祭祀所と認められます。
  鈴木連胤先生は夙に江戸末期その著「神社覈録」に当社について考察しています。
 「776・宝亀7年8月癸亥、山背國乙訓郡人羽栗翼賜姓臣」(続日本紀)を引用し、この氏人は山城国にも住居し、羽栗神社を祀ったと見ています。その慧眼には感服します。
      神社覈録:双栗神社三座
       双栗は佐久里と読り〇祭神詳ならず○佐山村に在す、今椏本宮と称す(山城志)
       ・連胤按るに、
         姓氏録:(左京皇別)葉栗臣、彦姥津命三世孫建穴命之後也、
             ・(山城国皇別)葉栗、彦国葺命之後也、
                和名鈔:(郷名部)羽栗ともあれば、恐くは伝写の間に、羽ノ字を草書の双に訛り、其双ノ字

                                                    を正しく書んとて、雙に改めしにて、原は羽栗ならん、
                  古事記:天押帯日子者、羽栗臣、知多臣、云々之祖也、とあるは尾張国葉栗郡知多郡の事と見ゆ。
        続日本紀:宝亀7年8月癸亥、山背國乙訓郡人・外従五位下・羽栗翼賜姓臣
(文徳実録にも羽栗氏人見ゆ) 

             とあれば、此氏人の専ら当國にも住居しこと志られたり、然れは此氏神を祭りて、羽栗神社

              と称しゝにはあらぬか、猶よく考ふべじ、
             ・神位:三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国正六位上双栗神從五位下、


   こうして、山城国久瀬郡羽栗郷を確認します。

 宝亀7年は西暦776年です。この翌年、羽栗翼は遣唐使に通訳(渡唐録事)として随従するので、その姓を「臣」に整えられ、従五位下とされたのでしょう。
 

 尚、この羽栗翼は本報の後節で「羽栗本論」で再度、取上げます。暫くお待ち下さい。

 

<2> 尾張国葉栗郡

  山城国久世郡の羽栗郷の他にも、尾張国葉栗郡がありますので、この地を検します。

 尾張国葉栗郡の地は戦国時代に大洪水のために二分されて終いました。
    ・1586・天正14年、木曽川の大洪水の結果、それまでは美濃国と尾張国との二国の境として流れていた木曽川

                                     が葉栗郡内のほぼ中央を流れるようになります。
    ・1589・天正17年、豊臣秀吉は、改修工事を行い、新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とします。


 その際、美濃国側は羽栗郡に改称し、尾張国は葉栗郡とし、姉妹郡が誕生しています。
        但し、その時、中島郡と海西郡も同じ様に分断されたのですが、国境の整理後も、尾張(愛知県)でも美濃

   この結果、葉栗郡の延喜式内社(927年)は、現在の地名表示が二県に股がっています。
                   参考:葉栗郡式内社は美濃と尾張に二分された。
                           ・美濃・岐阜県:阿遅加神社・石作神社・論)綾衾神社
                 ・尾張・愛知県:(論)賀茂神社 若栗神社・黒田神社(籠守勝手神社)・大野神社


  「葉栗と羽栗」のどちらの表記が「先か後か」の問い、があります。
  藤原京(694・持統天皇8年)で出土した木簡「尾治国羽栗評人・椋椅部刀良」がその解を与えてくれそうです。即ち、羽栗評は葉栗郡を示すものの、「羽栗」の木簡表示の方が古いのです。
     ・701年の大宝律令の制定により評は郡となるので、「羽栗評」はそれより前です。
     ・927年成立の延喜式には葉栗郡の記載があり、延喜式より前に「葉栗郡」の呼称が出来たのです。
               ・938年「和名類聚抄」の「尾張国葉栗郡」に5郷(葉栗・河沼・大毛・村國・若栗)あり。


   これからすると、山城国の羽栗郷が先で、その後、尾張国に一族の移動があり、羽栗評が誕生した可能性を見ます。「評」が大宝律令(701年)で[郡]になり、827年には葉栗郡となったのでしょう。

 

 

 

  この参考図は岐阜県でも羽栗郡・中島郡・海西郡がある事の確認のためです。

  だが、美濃国に栗田郷(大野郡・本巣郡)、及び、春日郷(額田郡)を見出します。

  今.[和珥の基幹七氏]では畿内を見ていますが、これは、今後、畿外を見る時の備忘とします。

 

<3> 葉栗郡の式内社

   葉栗郡の式内社10社の内、葉栗氏に直接的に関係のあるのは「若栗神社」です。
 ここでは、祭神は和邇氏祖・天押帶日子命です。
   若栗神社(一宮市島村南裏山)尾張国 葉栗郡鎮座
     祭神:天押帶日子命 (配祀)応神天皇
     由緒:孝昭天皇はこの地に滞在時、有力者・興津余会公の娘を妃とし、天押帯日子を生む。

                     ・白鳳年中、葉栗臣人麿が延喜式從三位若栗天神を創建
        ・1605・慶長10年、領主・景松又四郎、正吉八幡宮を合祀
        ・1869・明治2年、元の若栗神社に改称
     氏族:羽栗臣
        ・神社覈録:若栗は和加具利と読り、和名抄、(郷名部)若栗、
         ・祭神羽栗臣祖歟   上門眞庄嶋村(一曰大家郷和梨村)に在す、今八幡宮と称す、(府志)
                 ・古事記、(孝昭段)天神帯日子命者、羽栗臣之祖也」、
                     ・日本紀、 孝安天皇巻、母世襲足姫、尾張連遠祖瀛津世襲之妹也、』
                   ・姓氏録、(左京皇別下)葉栗臣、和爾部朝臣同祖、彦姥津命三世孫建穴命之後也、同、
                                (山城国皇別)葉栗、小野同祖、彦國膏命之後也、
                                        ・彦姥津命は天押帯日古命男、彦国膏命は同三世孫也、
              ・集説云、天武天皇御宇、小乙中葉栗臣人麻呂者当郡木貫而光明寺本願也、当時有氏人者可知之也
       ・神位:国内神名帳云、從三位若栗天神、


   白鳳年中、葉栗臣人麿が延喜式從三位・若栗天神を創建した、と由緒は記します。
   これを裏付ける貴重な情報は「集説」にあります。「天武天皇御宇、小乙中葉栗臣人麻呂者当郡木貫而光明寺」とあるのです。

   今も、その名残が現存する遍照山光明寺と光明寺村(江戸期)の地名です。前述しました。
           参考:遍照山光明寺(愛知県一宮市光明寺)創建:677・白鳳6年、天台宗

 亦、近年の行政地名の推移は次の様です。
     ・1878葉栗郡が発足
     ・1906次の三村が、小村を併合した上で、合併して葉栗村が誕生
              ・光明寺村は、光明寺村、更屋敷村、笹野村、田所村を併合
              ・大田島村は、島村、大毛村、高田村、杉山村を併合
              ・佐千原村は、佐千原村、富塚村を併合
     ・1940葉栗村は一宮市に編入さる。
     ・2005木曽川町(黒田町)も一宮市に編入される

 
   図表2は「葉栗郡式内社10坐の中に和珥系式内社あり」と題します。
 この葉栗郡に次の和珥系式内社三社を認めます。
        1 若栗神社は祭神を天押帶日子命とし、葉栗臣の祖神だとします。
      2 宇夫須那神社は祭神を余曽多本比売命(尾張連祖の妹)とし、当地が尾張氏と縁深い地である事を背景に、

           その祭祀を正当化します。
     ・余曽多本比売命
(古事記表記)世襲足媛(日本書紀表示)と同一人であり、記紀は共 「この女性を天押帶日子

                命の母」だと認めているのです。
         3  綾衾神社は和珥色がやや弱いですが、岐阜県神社庁は「当社祭神・廬入姫は葉栗臣の子」説がある事を紹介し

             ているのです。
                  引用:岐阜県神社庁・・(出所)阜嵐健「綾衾神社」(延喜式神社の調査)
                    ・綾衾神社:創祀不詳。当社は天正年前、尾張國葉栗郡の内なり。
                                   ・里伝に、旧記無之縁由不詳。尾張國式内従三位宇夫須那神社、正考美濃國中野村綾衾

                                          明神と呼ぶもの是れなるべし。綾衾はあぶすまと読むべし。

                                          あやぶすまと読むは非なり。阿夫須万は則ち宇夫須那の転声なり。
                      ・里老曰く、栗木は葉栗郡根本の地なり。後世今の川
(宇井松本より海西郡古中島と伊勢の全廻り本まで)

                                          川中となりて潰れたり。今絶々薬師寺の西大堤の外に民三戸ありて栗木と呼ぶ。

                               正生考(中野、栗木、薬師寺、円城寺、無動寺、若宮地、笠田島は葉栗郷の市員なるべし)
                      ・和名抄 葉栗郡葉栗郷天野曰く、宇夫須那は産土の云ひなり。
                      ・出口延綴曰、風土記を按ずれば、此の郷は庵入比咩命降誕の地也。
                        ・正生考:葉栗臣は天押帯産命の裔なり。其の葉栗臣の子に廬入姫生れ給ひけるとなむ
                         猶考葉栗郷は栗木中野の辺に当たり葉栗郷は島村の方に当たれるなるべし。
                ・尾張國神明帳集説考訂に式内宇夫須那神社尾張國葉栗郷門間庄島村に在とし、張州府志亦同じ。

                           神明帳考証には門間庄とありて村名なし。又廬入姫は五百木入姫にて景行天皇の皇女なり。

                           此姫命は尾張國にて生坐けむ、と。平田篤胤が古史伝に云へり。

 

 

<3> 羽栗吉麻呂とその二児

 ここで、古代に国際結婚した羽栗氏の小話をメモ的に書き残します。

 父・羽栗吉麻呂は春日一族の人と云われていますが、その子・羽栗翼については「乙訓郡人・外従五位下・羽栗翼賜姓臣」(続日本紀・宝亀7年8月癸亥)として「臣」が与えられています。
 実は、この翌年、翼は、遣唐録事(遣唐使の通訳)として渡唐するので、この「臣」賜姓はその前にこの人の身分を整えたものと見ます。
                  ・続日本紀:宝亀7年8月癸亥、山背國乙訓郡人・外従五位下・羽栗翼賜姓臣、
      ・山背国乙訓郡:現在の

 
 この小話は、「新撰姓氏録」の注記に載る羽栗ファミリーヒストリーの覗見です。
 これは、古代の一家族の一断面に過ぎないと云われればそれまでですが、中々に興味を誘う話だと見て、ご紹介します。

<3-1> 羽栗吉麻呂

   話は「第9次遣唐使」(717・霊亀3年/養老元年)に始まります。
 第9次遣唐使・多治比県守に同行して、あの有名な阿倍仲麻呂が唐の都・長安に留学します。
 羽栗吉麻呂は、阿倍仲麻呂の従者(傔人)として渡唐しますが、翌年帰国せず、現地で唐人の女性を妻に迎えて翼・翔の二男子を儲けた由です。

           注 傔人ケンジン:使者の召使人。唐の制、節度大使・副使皆傔人あり。後世の承差に同じ。
                             

 733・天平5年、多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐した時、阿倍仲麻呂は留学生として唐に留まりますが、吉麻呂は息子らと共に帰国の途につき、734・天平6年、無事帰国を果たします。

 その後の吉麻呂とその夫人(中国女性)の話は伝わりません。
 
 ここでの話は、その後の吉麻呂の二子の話です。
  ・734・天平6年、父と共に翼・翔兄弟は帰朝します。
           翼・翔兄弟の推定年齢は13~15歳と思われます。
  ・736・天平8年、第20次遣新羅使の使節が詠んだ和歌の中に「羽栗」作あり。
          これが吉麻呂によるものであるとする説がある。
          これが事実ならば、羽栗吉麻呂はこの遣新羅使にも加わっていたことになる。
                                                          参照:ウイキペディア、「日本後紀」延暦17年5月27日条

 

<3-2>  羽栗翔

 弟の羽栗翔は、759・天平宝字3年、正六位上・遣唐録事に任じられます。推定38歳。
 遣唐録事として渡唐した翔は、其の儘、唐に滞在の藤原清河の許に留まり、唐で客死したと推定されています。

 

 次は私の推測です。

  大和朝廷は、船便が不安定で帰国が適わぬ藤原清河の在唐が長引いている事を憂い、その許に

 翔を留め、仕えさそうとしたのではないか。母の地に戻り、母と同じ唐女を娶ったかも。

 

☆ここで藤原清河について若干ご紹介します。

 

 藤原清河は、750・天平勝宝2年、第12次遣唐使の大使に任じられた人です。
 752・天平勝宝4年閏3月、清河は節刀を拝し正四位下に叙され、渡唐し、長安では玄宗皇帝に謁見し、「君子人なり」と称賛され、特進の称号を授けられます。

 

 だが、その帰還は適わず。通常は渡唐の翌年に帰国するのですが、清河の場合は遭難の連続です。

結局、帰還適わず、彼地で生涯を終えます。

 

参考表    藤原清河(藤原北家祖の参議・藤原房前の四男)

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 ・753・天平勝宝5年、在唐35年に及ぶ阿倍仲麻呂を伴って帰国の途につく。
      11月、遣唐船4隻は揚州を出航、清河の第一船は阿児奈波島(現沖縄本島)に到るが、
            12月、再出航した第一船は座礁。その後、再々出航するも、逆風に遭い、唐南方の驩州
(現ベトナム北部)

          漂着。土人の襲撃で殆どの船員が殺害され船も壊されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって逃れた。
 ・755・天平勝宝7年、清河と仲麻呂は長安に帰着。清河は河清と改名。秘書監として唐朝に出仕する。
 ・759・天平宝字3年、清河を迎える為、高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐。
         当時、唐朝は、安史の乱のため行路危険を理由に、清河の帰国を許さず。
           ・760・天平宝字4年、日本では清河を在唐大使のまま文部卿に任ず。
                            ・764・天平宝字8年、従三位に昇叙している。
    ・その後、遣唐使派遣中止は二度あり。清河は在唐十余年に及ぶ。
           清河の帰国熱望が推察される動きあり。
     ・760・天平宝字4年、渤海使・高南申が清河の作成した上表文を淳仁天皇に献上、
     ・770・神護景雲4年、新羅使・金初正が清河と仲麻呂が、故郷の親族向けの書信を大宰府に持参した。
     ・774・宝亀5年、新羅使・金三玄が清河の書簡を大宰府にもたした。
 ・776・宝亀6年、約15年ぶりに遣唐使派遣が決まり、佐伯今毛人を遣唐大使に任命。
 ・777・宝亀7年、光仁天皇は佐伯今毛人に節刀を授ける際、清河に対して帰朝命令と絁100疋・細布100端・

                          砂金大百両を与える旨が記された書簡を託す。
 ・777・宝亀8年7月、大使代行・小野石根ら第16次遣唐使が入唐、
 ・778・宝亀9年正月に遣唐使は長安に入るも、清河は既に唐で客死、唐は潞州大都督の称号を遺贈す。
     ・朝廷の清河処遇・779・宝亀10年2月、清河に従二位の贈位あり。
             ・その後、遣唐使派遣の都度、客死した清河を悼み、贈位が行われた。
              ・803・延暦22年、正二位、
              ・836・承和3年、従一品の
              ・清河は唐の婦人と結婚して喜娘という女あり。
              ・778年11月に喜娘は遣唐使に伴われて来日する。

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<3-3> 羽栗翼

 羽栗翼は「続日本紀」(776・宝亀7年8 月)に初めて登場し、その居所が「山背国乙訓郡」だと判ります。      続日本紀:宝亀7年8 月癸亥、山背國乙訓郡人羽栗翼は「臣」を賜姓す。 

 その頃、未だ長岡宮(長岡京市・向日市)は出来ていません。

 継体天皇の弟国宮は「磐余玉穂宮」(奈良県桜井市)に遷都(継体天皇20年)するまでの数年間、歴史の舞台に登場します。
  乙訓郡の式内社には和邇氏祖を祀る神社は見出しません。
  このような状況ですから、乙訓郡の人羽栗翼の居所を推測する事が出来ません。

 

 

 羽栗翼・初め翼は僧籍に入ったが、朝廷によりその才能を惜まれ還俗させられ、官途に就くことになります。
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 ・719・養老3年、羽栗翼は唐で生まれたと推定されます。
   ・734・天平6年、第10次遣唐使にて、父・羽栗吉麻呂の帰国に従い来日する。
              日本では、多くの事柄に通じており非常に聡明だとの評判を得るが、出家する。だが、学業が優秀で

        すぐに進歩を見せたことから、朝廷はその才能を惜しんで、翼を還俗させ官人に登用し、特別に得度の

        枠二人分を与えた。その後、大外記を務める。

 羽栗翼の出家期間は相当長かったと思われます。
 翼を遣唐録事に抜擢・起用する際に、その「位階と姓」が問題になったと思われます。
 急遽、翼に「臣」姓を与え、位階は5階級特進させています。
  ・775・宝亀6年6月19日:第16次遣唐使遣唐録事。この時、推定56歳。
          8月29日:正七位上から五階昇進、外従五位下、遣唐准判官となる。

  ・776・宝亀7年3月6日:兼勅旨大丞。8月8日:賜姓臣
          4月、大使・佐伯今毛人らが節刀を与えられ、出航。

            一旦肥前国松浦郡合蚕田浦まで到着するが、順風が吹かず、博多大津まで          

            引き返す。渡海時期を来夏に延期。
        同年8 月癸亥、山背國乙訓郡人羽栗翼は「臣」を賜姓されます。(続日本紀) 
  ・777・宝亀8年6月24日、今毛人に代り大使代行となった副使の小野石根ら遣唐使節一行に

            従う。この第16回遣唐使には、小野石根(持節副使・大使代行)・小野滋野

                 (遣唐判官)・羽栗翼(遣唐録事)など和邇氏系の高官が乗船している。
             7月 3日、揚州海陵県(現在の江蘇省泰州市)に到着。
             8月29日、揚州大都督に至り宿舎や衣食を供給される。

            揚州では、嘗て766・天平神護2年に日本の丹波国天田郡華浪山で産出した

                                 白鑞に似た鉱物を鋳工に示して鑑定させたところ、「鈍隠」と呼ばれる私

                                 鋳銭の偽造時に用いられる鉱物だと検定した。

                                 その後一行は長安へ向かうが、安史の乱による駅舎の荒廃を理由に入京人

                                 数を43名に制限される。
     ・778・宝亀9年正月13日、翼は石根や副使・大神末足らと共に長安に到着し貢物進上、
                    3月22日、皇帝・代宗への拝謁も果たす。
                    9月、     一行は4船に分乗して順次帰国の途につく。
                ・第一船は海上で分断し、小野石根が水死したが、翼は無事に帰国を果たす。
          ・翼は、唐で使用の「宝応五紀暦経」を日本に持帰り朝廷に献上したと云う。

           唐では当時日本で使用の「大衍暦」が既に廃止され、「五紀暦」を使用と報                           

           告している。
  ・779・宝亀10年、4月27日:従五位下に叙。(内位)内階に移された。
      ・これは外従五位上の時は本貫が畿外にあった事を意味し、それならば、当時の居所

                     尾張国羽栗郡だと推定されます。

                     畿内の山城国(久世郡羽栗郷も乙訓郡も)に居すれば、内位扱いとなる筈、と推考します。
      ・781・天応元年、難波に派遣され、朴消(芒硝)の精製を行っている。
  ・782・天応2年2月7日:丹波介
  ・785・延暦4年8月14日:従五位上
  ・786・延暦5年7月15日:内薬正兼侍医に任じられて都に戻り桓武天皇に近侍した。
  ・788・延暦7年3月21日:兼左京亮
      ・789・延暦8年、内蔵助と京官も兼ねる。
  ・790・延暦9年2月27日:正五位下
  ・797・延暦16年 正月7日:正五位上
  ・798・延暦17年5月27日:卒去(正五位上行内薬正、推定享年67歳)
 ☆ 羽栗翼の後裔:
     ・810・大同5年、渤海語を修習させられた羽栗馬長は翼・翔の血縁者と思われる。
   ・854・斉衡元年、従五位下叙の女官・葉栗臣乙貞も臣姓を称し、翼の後裔と推測されている。
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       (出所)國學院大學古典文化事業の「羽栗氏」、ウイキペディア「羽栗翼」・「羽栗翔」「羽栗吉麻呂」