これまで、磯部探しシリーズはA~Hと行ってきました。
磯部探しA 磯部臣・磯部臣命・磯部王
礒部探しB 上野国碓氷郡の磯部郷
磯部探しC 常陸国の「磯部」を検す
礒部探しD 「東国の古磯部は西進して日本海に達した」説
磯部探しE 石部神社の分布
磯部探しF 越前の石部神と磯部
磯部探しG 越中の磯部神と大幡主命(大若子命)
磯部探しH 越後の磯辺神・石部神
磯部探しI 磯部神・石部神の総括・・天日方奇日方命の系譜
ここでは、角度を変えて、そのまとめを行います。
1 地域別に磯部・石部は移動・拡散した様を見る
2 天日方奇日方命一族の発展・移動を神社祭神に追う
目次 総括1:「石部神・磯部神の源は多元」説
<1> 「石部神・磯部神の源は多元」説
[説明1] 東国の礒部地名と磯部神社
[説明2] 越中北陸の礒部地名・磯部神社
[説明3] 竹連(多気連・麻績連)とその祖神・長白羽命祭祀
[説明4] 天日方奇日方命の祭祀
[説明5] 磯部臣は誉屋別命
[説明6] 𡶌部三社
<2> 天日方奇日方命に関する最古の祭祀伝承は伊賀国にあり
<2-1> 伊勢国での天日方奇日方命の創祀
<2-2> 伊奈富神社(鈴鹿市)
<3> 伊勢は磯部氏・石部氏の大元の地と云えるか
<3-1> 伊勢・伊賀が磯部神・石部神の原発地なのか
<3-2> 中世の新磯部氏
<3-3> 磯部氏・石部氏のルーツは多元的
<4> 石部神の創祀時期
(1) 総括1:「石部神・磯部神の源は多元」説
<1> 「石部神・磯部神の源は多元」説
図表1は磯部神・石部神の奉斎地の集大成のつもりです。
この図表1について説明します。
[説明1] 東国の礒部地名と磯部神社・・・図表1の赤字部分(地名のみ、磯部神社は不記載)
・景行朝、日本武尊は東海から常陸に東行します。
その際、磯部氏は随行し、東国各地に定住して磯部の地名を遺したと見ます。 磯部氏は日本武尊の指示に従い「伊勢神宮」を祀り、同時に、磯部神・玉柱屋姫命を
祀ります。
・磯部神社・・この地域は石部社はなく、磯部社のみです。
・いわき磯部神社(いわき市川部町北ノ内)
・桜川・磯部神社(桜川市磯部)
・熊野鹿島神社 (旧五十部神社=磯部神社か)
・安中・磯部神社
・姫宮神社 (成田市磯部486、)
・岩根神社 (秩父郡長瀞町井戸) 神主:磯部水穂
・相模原・磯部八幡宮
・千曲・磯部神社」による「磯部」の列島各地への拡散です。
(参照) 礒部探しB 上野国碓氷郡の磯部郷
磯部探しC 常陸国の「磯部」を検す
礒部探しD 「東国の古磯部は西進して日本海に達した」説
これに先行する、伊勢津彦、及び、天日鷲命の東行にも磯部氏が同行した可能性があります。
[説明2] 越中北陸の礒部地名・磯部神社・・・図表1の青字部分
・垂仁朝、伊勢櫛田の磯部氏・大若子命は「阿彦の乱」の鎮将に任じられます。
その際、磯部氏は手兵として随行したと見ます。その一証が射水・礒部神社です。 ・大若子命は、伊勢では磯部氏ですが、その功により「大幡主命」を賜姓し、北陸 各地(越中・能登・佐渡・越前・加賀)に祀られています。
(参照) 磯部探しG 越中の磯部神と大幡主命(大若子命)
☆[説明1&2]は総じて「伊勢の磯部氏」に関するものです。
[説明3] 竹連(多気連・麻績連)とその祖神・長白羽命祭祀・・図表1の太い黒字部分
長白羽命の祭祀は、孝徳朝の646年に竹評(後の多気郡)創設の時、伊勢に始まります。
多気連の祖神・長白羽命を祭神として、式内・竹神社が創祀されたのです。
伊勢式内社・竹神社(創立:646・孝徳朝) 祭神:長白羽命
長白羽命の祭祀は伊賀二社にも見られますが、その創始時期は不詳です。
伊賀・穴石神社 創始年代不詳
祭神:木花佐久夜比賣命 天津兒屋根命 天長白羽命 天香香脊男命
・木代神社 主:猿田毘古神,
合:菊理比咩神・大山祇神・天児屋根命・火之迦具土神・住吉三神
・建速須佐之男命・応神天皇・稲倉魂神・菅原道真
・長白羽命・大物主神・火産霊神,
由緒:当社の創祀は詳かにし難い、
社伝及び『三国地誌』に因れば、白髭明神詞と呼ばれ、往古より高山、喰代、蓮池三ヶ村
即ち 木代郷総社としで近郷の人々の崇敬を集めでいた。
・1908・明治41年、三ヵ村の各社を合祀し社名を木代神社と改称した。
特筆点は当社は伊賀を開拓せられし伊賀津姫の父・伊勢土公を氏神として奉斎す。
地理的な動線を考えれば、長白羽命の移遷座は、伊勢・伊賀から近江甲賀へ、さらに北上して、越前今立・加賀能美へと続いた、と理解できます。(図表1参照)
その創立時期は、野洲石邉社(663・白鳳3年)は「大化改新期」(645・皇極天皇4年~701大宝元年)に、加賀能美石部神社(小松市、823・弘仁14年3月)は嵯峨朝に、夫々、推定されています。
近江・甲賀石部鹿塩上神社(創立時期不詳) 祭神:吉姫・吉彦の裔・多気連が祀る
・野洲石邉神社(663白鳳3年-天武朝) 祭神:
越前:今立石部神社 (創立時期不詳) 祭神:吉日古命、吉日売命、
加賀:能美石部神社(小松市)823・弘仁14年3月 祭神別説:吉日古命、吉日売命、
神社由緒の伝えを信じれば、646年の伊勢・竹神社の創祀から823年の加賀:能美石部神社の創祀まで157年の時間差を確認できます。
その時間差の中で、長白羽命(及び、吉日古命、吉日売命)は平均年速1.25㎞で伊勢(明和町)から越前・加賀(小松市)に到達したのです。 210÷157=1.25
孝徳朝、多気郡の発足に際し、竹連は祖神・長白羽命を式内・竹神社に祀ります。
推定ですが、長白羽神の裔は伊勢多気郡から伊賀二社(穴石神社・木代神社)を祀り、 やがて、伊賀から近江甲賀(石部鹿塩上神社)へ、更に琵琶湖を北上して越前・今立(石部神社)、そこから越前・能美(菅生石部神社)へと移動する毎に、多気連一族は祖神を祀り続けたと見ます。
(参照) 磯部探しE 石部神社の分布、磯部探しF 越前の石部神と磯部
丹後與謝の阿知江𡶌部神社も長白羽命を祀ります。この長白羽命を祀る流れは伊賀の穴石神社からのものかも知れません。鎖線はその可能性を示します。
長白羽命の代わりにその後裔の祖神・吉日古命、吉日売命が祭神とされる場合があります。
これは祖神の祀り方の別例と見ます。
追記:「倭姫世記」(出所:神話の森)に次の記述あり、吉日売命の由来を知ります。
・垂仁天皇十八年[己酉]、阿佐加の藤方片樋宮に遷坐し、四年間奉斎。
「(倭比売命が)その地を渡り坐す時に、阿佐加の加多なる多気連等の祖・宇加乃日子の子、吉志比女、
次に吉彦の二人が現はれ参上し、(中略)、吉志比女は、地口・御田・麻園を進った。」
[説明4] 天日方奇日方命の祭祀・・図表1の紫字部分
・天日方奇日方命(櫛日方命)は石部神としてよく知られています。
このグループは、図表1では紫字で表記し、具体的には「朝来・播磨☆・氷上・ 愛智・蒲生・能美☆・古志」をグループとしています。☆印は祭神に別説ありを示します。
・出石・石部神社の祭神については、「奇日方命ほか」とする現祭神と、天日矛神 とする「兵庫県近世社寺建築緊急調査表」とに意見が分かれています。
・石部神社(豊岡市出石町下谷) 但馬国 出石郡鎮座
祭神:奇日方命 大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
別説:天日矛神・・・「兵庫県近世社寺建築緊急調査表」 (出所) 延喜式神社の調査
・これに限らず、祭神を「奇日方命」に統一しようとする意思がある一方で、それ に疑問を投げかけ、別説を提出する動きがあります。
尚、「天日方奇日方命」は石部神論の中心ですから、次に「天日方奇日方命の伊勢祭祀」
と共に考察を続けます。
[説明5] 磯部臣は誉屋別命
・譽屋別命(新撰姓氏録)は、譽屋別皇子(日本書紀)・品夜和氣命(古事記)とも表記される、 仲哀天皇の御子です。母は房総・菊間国の国主・大鹿国直(天熊田造祖・大酒主)の娘の
弟媛とされています。 参照:磯部探しA 磯部臣・磯部臣命・磯部王
磯部探しH 越後の磯辺神・石部神
・「日本書紀」と「先代旧事本紀(天皇本紀・国造本紀)」からの示唆として、誉屋別命の
母・弟媛の居地・市原郡菊麻郷はその生育の地と思われます。
・日本書紀 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条,
・二年春1月11日、気長足姫尊を皇后とした。
・これより先、叔父彦人大兄の女・大中媛を妃とし、籠坂皇子と忍熊皇子を生んだ。
・天熊田造の祖・大酒主の娘の弟媛を娶り、誉屋別皇子を生んだ。
・大鹿国直(大酒主直)・成務朝の初代国造。
・男子・小鹿直、女子:弟媛・・仲哀天皇妃となり、誉屋別皇子を生む。
・先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 仲哀天皇元年正月庚子条
・天熊田造の祖・大酒主の娘の弟媛を妃に一児・誉屋別皇子を生んだ。
・国造本紀:成務朝、无邪志国造祖・兄多毛比命の子・大鹿国直を国造に定めた。
・菊麻国造:来熊田氏(姓)か。无邪志国造(胸刺国造)、波伯国造、大島国造と同族。 本拠:市原郡菊麻郷(現市原市菊間)
支配地:菊麻国(上総国市原郡、現・市原市北部から千葉市南部の村田川流域)
市原郡南域は養老川まで。菊間古墳群に国造クラスの古墳多し
[説明6] 𡶌部三社については先に「分水界鎮座」説を提出したところです。
<2> 天日方奇日方命に関する最古の祭祀伝承は伊賀国にあり
最古の石部神祭祀は天日方奇日方命一族を祀る式内社・葦神社(伊賀国山田郡)にあると見ます。
神社名は「式内・葦神社」であって、石部神社ではないのですが、・・。
「式内・葦神社」については後に述べるとして、先ず、伊賀を含む伊勢の「天日方奇日方命祭祀」を総覧します。
<2-1> 伊勢・伊賀国での天日方奇日方命の創祀
伊勢国での天日方奇日方命の祭祀は次の六社で確認したので、順次、これらの祭祀についてコメントします。
1 石部神社 (いなべ市大安町石榑南)
2 朝明・石部神社(四日市市朝明町512)
3 朝明・櫛田神社 (桑名市島田205-1)
4 森大明神社 (桑名市上深谷部)
5 葦 神社 (伊賀市上阿波)
6 阿波神社 (伊賀市下阿波)
1 石部神社
第一の石部神社は式内社を名乗りながら、「延喜式神社の調査」には記載がありません。
・石部神社(いなべ市大安町石榑南)
祭神:天日方奇日方命
合祀:大国主命、天児屋根命、誉田別命、大山津見命、市杵島姫命、火産霊神
由緒: (出所) 三重県神社庁(各種資料より抜粋)
・延喜式朝明郡二十四座の内に石部神社二座とある是なり。・・「員弁雑誌」
・式内石部神社大字石榑南間の谷にあり、延喜式内にして天日方奇日方命、大物主神、
天兒屋根命、譽田別命、大山津見命、市杵島姫命、火産霊神を祭神とす。
・創立の年月は詳ならざれども、当神社はもと、二社並座(旧俗称石大神宮、山王権現と
いいしならん)せしを、中古(永禄の頃ならんか)合せ祀り、石部神社と正称せしもの
ならん云々、・・「員弁郡郷土資料」
2 朝明・石部神社
式内社・石部神社は、朝明郡に鎮座しますが、その祭神は、天日方奇日方命ではなく、中臣系の天児屋根命です。「延喜式神社の調査」はこちらが式内社だとします。
・式内・石部神社(四日市市朝明町512)
祭神:天照大御神 天児屋根命
・当社は鈴鹿山系の朝明渓谷に源を発する朝明川の辺、下野地区は朝明町に鎮座し、
旧下野三郷(中里・北山・山城)の氏神であったが、明治の合祀令により、朝明・ 北山・西大鐘・札場(山城・大鐘の氏神は戦後に分祀)の氏神として現在に至っている。
・創祀年代は詳らかでないが、「延喜式神明帳」に記載されていることから、約1200
年前には既に国家の待遇を受けている.
・「石部(いそべ)」の由来は、下野の歴史の中で、「神宮御領荘園目録」に下野御園「岩田御厨」
の名が見られ、神宮との関係が深く、当時神宮の神主で勢力を持った「石部一族」が統括,繁
栄し、氏族と由緒の深い神々をお祀りされたものと考察される。 (出所) 三重県神社庁
3 朝明・櫛田神社
桑名の櫛田神社も奇日方命を祀りますが、創始年代も不詳で、特段の示唆を見出しません。
多気郡在の櫛田神社(松阪市櫛田町)と同名ですが、祭神は全く異なります。
・櫛田神社 (桑名市大字島田) 祭神:櫛名田比売命、奇日方命・須佐之男命・保食神・大山津見命
・櫛田神社(松阪市櫛田町)祭神:大若子命・櫛玉命・須佐之男・天忍穂耳・市杵島姫
この櫛田二社については、「謎」を残した侭で終えます。
4 森大明神社
森大明神社は式内社ではありません。
しかし、その由緒は驚くべきことが伝えられています。天日方奇日方命は崇神朝に当地の首長となった後、不慮の死を遂げた、と伝わるのです。
・森大明神社(桑名市上深谷部) 祭神:天日方奇日方命、
祭神:天日方奇日方命、
由緒:勧請年月不詳、村家古伝書に次のごとく見える。
・崇神天皇11年人天日方命東国を守護したまう。当時此大淀を渡らせ賜う時、卒に大風波起こり破船
して遂に溺死し賜う。漁夫瀬太郎という者尊骸を揚げて上聞に達す。
官人来て尊骸を埋葬す、其後靈告に依り宮人下向、此社を建て森大神として漁夫を挙て神主とせしむ
合祀:明治40年9月、伊奈利社(宇迦之御魂命)小田神明社(天照大御神)八幡社(品陀和気命)山神社(大山津見 神)を合祀し現在に至る。 (出所) 三重県神社庁
この由緒に記されている伝承は矛盾を孕みます。
だが、天日方奇日方命の伊勢縁ユカリの可能性を示唆します。
5 式内社・葦神社
最も示唆深いのは伊賀国山田郡の「式内社・葦神社」です。
葦 神社(伊賀市上阿波)伊賀国山田郡
祭神:大国主神・事代主神、・宗像三女神(市杵島姫命・田心姫神・湍津姫命)、
・天日方命・奇日方命、・天手力男命・少名毘古那命・布都御魂神・神功皇后
社伝:孝霊天皇3年、現地の東5kmにある伊勢伊賀境の黒岩峯(655m)に顕現し、三船明神と相殿と
なっていた。 垂仁天皇33年、鮫ヶ原三女垣内に遷座し粟皇神淡護明神と称した。
・神功皇后三韓征伐の後、高良命が勅命により、宮を三所に分け、
1 大国主神・事代主神を芦谷へ葦神社として祀り、
2 天日方命・奇日方命を別府宮として祀り、
3 市杵嶋姫命・田心姫神・湍津姫命を粟皇神として三女垣内に祀った。
・葦神社七王子淡護大明神と称した。
・天和年中、葦神社八王子淡護大明神となり、
・宝暦年中、三所の旧号を合わせて、葦神社粟皇神別府宮と称した。
・明治4年7月、村社に列し、葦神社と改称。
伊賀市の式内社・葦神社の祭神構成と社伝は「天日方奇日方命一族の祭祀」を最も明示的に解説している、と見ます。その祭神の構成は次の通りです。
・ 第一に、天日方奇日方命の男祖神・大国主命・事代主命を葦神社に祀ります。
・ 第二に、天日方奇日方命の女祖神・宗像三女神を三女垣内に祀ります。
・ 第三に、天日方奇日方命を別府宮に祀ります。
この祭神構成は「本宗家祭祀」とも云えます。
結論として、葦神社は「天日方奇日方命一族の本宗家祭祀」ではないか、と考えます。
その意味は、天日方奇日方命の伊勢での淵源は「式内・葦神社」にあり、と見るからです。
・類似の本宗家祭祀例は、弥彦神社を挙げられると思います。
事代主命・天日方奇日方命はどこから来たのか、その裔孫はどこに行ったのか。これは別シリーズ「仮称)伊賀の神々」で取り上げ深掘りしたい話題です。暫く、お待ち下さい。
今は、伊賀山田の地に天日方奇日方命一族の本宗家祭祀を見出した事で満足します。
天日方奇日方命一族は、伊勢と云っても伊賀に第一拠点を持ち、そこから、伊勢・志摩・北伊勢へと拡がり、別府宮の人たちは天日方奇日方命を祖神と仰ぎ、そこから甲賀へと展開したと見ます。
社伝は孝霊天皇3年の創始を伝え、垂仁天皇33年、鮫ヶ原三女垣内に遷座し、粟皇神淡護明神と称した、と云います。
この粟皇神を祖神として掲げる人たちは志摩に粟皇神祭祀の諸社を遺します。
志摩における粟皇神の祭祀は次の通りです。
・粟皇子神社(二見町松下鳥取)、内宮摂社(式内社)
祭神:須佐乃乎命御玉道主命(淡海子神)
・粟皇子神社の鎮座地は海に近いため、色々と移って行ったようです。
・当初、池の浦に浮かぶ中之島に鎮座していた。
・祭祀が断絶した後、1692・元禄5年の再興時に中之島を望む鳥取海岸に移動した。
・・「鳥取」の地名は二見町松下鳥取がありますが、鳥羽市鳥羽町の一部が鳥取だった
かも知れません。未確認です。
・1712・正徳2年、高波被害を受けたので、現社地に移転した。
・土宮神社(鳥羽市小浜町)に関係する伝承があります。
祭神:大土御祖神、(古)粟海子神
社伝:この社は元粟海子神を祭りたるもの。風波のため境内を壊す憂いがあり、伊浦の海岸
に移せしも、このところもまた風波の被害を受け、正徳2年(1712年)、今の伊勢市二見
町松下に遷し奉り、村人その跡に、大土御祖神を斎き奉りしものなり。
参照:志摩の祭祀9 汎二見浦の祭祀 2023年06月28日
志摩の祭祀5 かぶらこさんの謎 2023年06月06日
葦神社の創始は孝霊天皇3年とされています。
先に推考した「15才婚・六世孫で百年」仮説に基づき、この創始年は西暦200~220年頃と推測します。葦神社の創始は上古弥生晩期の神祭なのです。
6 阿波神社
この阿波神社は式内社であり、葦神社と共に阿波の上下の地に分れて鎮座しています。
阿波神社(伊賀市下阿波)式内社 伊賀國山田郡 阿波神社
祭神:稚日女神 猿田毘古命 火産靈命
合祀:菅原道眞 火迦具土命 健速須佐之男命、大物主命 少彦名命 速玉之男命 大山祇命 山王
八柱神(天忍穗耳命 天穗日命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命多紀理比賣命 狹依毘賣命 多紀津比賣命)
別説:天日方奇日方命 『神名帳考證』(出口延経)
息長田別命 『三重縣神社誌』(大正版?)
猿田彦命 神功皇后 『伊水温故』
神功皇后 『三國地誌』
阿波神社には、出口延経の[天日方奇日方命]説があります。
「神名帳考証」は出口延経が記したものだけに、無視出来ません。
参考・出口延経(1657~1714年)は伊勢神宮外宮権禰宜・度会氏。父・出口延佳の考証研究を引継ぐ。
葦神社と阿波神社の検察結果、天日方奇日方命は伊賀の地に確固たる立場を築いた一族により祀られたと見ます。
<2-2> 伊奈富神社(鈴鹿市)
「伊奈富神社(鈴鹿市)」は祭神に磯部神を含みません。
だが、神主家が磯部氏だと云う点が重要です。
・伊奈富神社(鈴鹿市稲生西2丁目)式内社 伊勢國奄藝郡 伊奈富神社、伊勢國総社
祭神:保食神・大国道命、合祀:西宮:豊宇賀能売命 稚産霊神、三大神:鳴雷光神 大山祇命
祭神諸説:稲生神 ・・「皇大神宮引付」
那江大國道命、地主姫命、雷電神 ・・「勢陽雑記・神名帳考証・三國地誌」
「神名帳考証・大日本史神祇志」
保食神 ・・「神名帳考証再考・勢陽五鈴遺響・延喜式神名帳僻案集」
社伝:神代、東ヶ岡に御神霊が出現せられ、崇神天皇五年、霊夢神告により勅使参向のもと、「占木」
の地にて社殿造営の地を占われ、神路ヶ岡に大宮・西宮・三大神の三社を鎮祭されました。
・その後、仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕えます。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」(神社本庁 平成7年)もこの社伝説を支持し、伝えます。
・雄略天皇5年、数種の幣物奉納あり、主祭神・保食神には「那江大国道命」の御神号を賜ります。
・古来より「大宮・三大神・西の宮の三社があり、大宮一座が式内社として認められた。
現在は「三大神」「西の宮」は社殿跡のみ石碑で残っている。
ここで重要なのは神主家は「神主は代々仲哀天皇の御子・品屋別命の子孫(磯部氏)が勤めた」と社伝にある点です。崇神5年の創祀伝承も重要です。
確かに、祭神が磯部神・石部神ではなく、保食神なのでやや状況が異なります。
だが、磯部氏が神主となっていた当社は、長く伊勢国総社であった点を強調しています。
・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀と続き、仲哀帝皇子・品屋別命の裔が当社神主になるとすれば、
その間、四~五代=約百年の情報が無く、残念ながら、空白です。
・これをどう見(評価す)るかは、更なる別情報が俟たれますが、地域密着の史家の地道な研究が期待されます。
神主家・磯部氏が仲哀天皇の御子・品屋別命の子孫である点に中伊勢・奄藝郡(鈴鹿市)の特徴を見ます。
<3> 伊勢は磯部氏・石部氏の大元の地と云えるか
<3-1> 伊勢・伊賀が磯部神・石部神の原発地なのか
磯部氏と石部氏とは、夫々、度会氏と宇治土公家との祖だと「磯部3」で学んだ処です。
参考:磯部3 伊勢磯部氏二流の解釈 2024年04月30日
<3-2> 中世の新磯部氏
だが、その後の学習では「事はそれほど単純ではないこと」を二三の事例で知りました。
・中世に佐々木氏盛綱流れの磯部氏の上野国碓氷郡での登場や山名宗全流れの磯部氏が但馬国朝来郡に登場し、
その末裔は安芸磯部氏(神主家)・周防磯部氏・朝来磯部氏を生みます。
中世に古代磯部氏とは別流の磯部氏が発生していたのです。
・上野国磯部家:佐々木盛綱は上野国碓氷郡磯部郷に領地を得ると磯部城を築城し、磯部氏を名乗る。
・盛綱の父・秀義は室町期に近江総追捕使となり、没後は贈近江権守となり、盛綱の六男・時基は
佐々木氏の故地・近江国甲賀郡石部(現湖南市石部)の地で近江国磯部家を開く。
・盛綱七世孫・秀実は神官職を安芸国に得て、安芸国磯部家を開く。
注:安芸国磯部家は、関が原の戦い後、、周防国磯部家となったものと思われます。
安芸国領主・毛利輝元は関ヶ原の戦いを機に大幅に領地を削減され、長門・周防二
国に減らされますが、配下の武士達全員を引き連れて減封の地に移るのですから、経済的には
大変だった筈です。 参考:礒部探しB 上野国碓氷郡の磯部郷 2024年07月13日
但馬には山名氏は「応仁の乱」(1467・応仁元年~1477・文明9年)後も、日本海沿岸域に勢力を張り、一族のうち、山名豊次は朝来郡の地名磯部に因み「磯部義太夫豊次」を名乗った。
参考:磯部探しE 石部神社の分布 2024年08月10日
これらは中世磯部氏の興りであって、古磯部氏とは別ものです。磯部氏・石部氏の系統分析は中世磯部の登場で更に輻輳化しているのです。
中世はこのブログの主対象ではなく、視野の中に収めるだけで、その追求は終えます。
<3-3> 磯部氏・石部氏のルーツは多元的
結論として、磯部氏・石部氏のルーツは次の様に多元的な事を知ったのです。
これは、先行の「磯部探しA~H」を図表1に纏め、且つ、その後に考察を進めた結論です。
・図表1には集めた情報は、作為を込めずに、整理した積もりです。
・整理結果は、図表1の最下段に見るように、全ては伊勢に源流があるかのように見えるのです。
第一:景行朝の日本武尊の東国行も、垂仁朝の大若子命(大幡主命)の越中行も、いずれも磯部氏が同行している という点で「伊勢」発なのです。 説明1&2
・大若子命が磯部氏の出だとする見方では、磯部氏が「阿彦の乱」を鎮圧した、とさえ云えるのです。
第二:祖神・長白羽命(吉彦・吉姫)を祀る竹(多気)連・麻績連も伊勢多気郡が原点です。 説明3
・伊勢多気郡から→近江・越前への祖神崇拝の道が見えます。
第三:伊賀・伊勢における天日方奇日方命祭祀です。 説明4
取り分け重視するのは「式内・葦神社」の祭神構成は本宗家の祭祀と見て、ここに「石部神・天日方奇
日方命」の淵源を推測するのです。参照:<2> 天日方奇日方命に関する最古の祭祀伝承は伊賀国にあり
第四:伊奈富神社(奄藝郡)には、神主家は誉屋別命の裔だとの社伝があります。
この故に、伊勢は誉屋別命の裔の原郷だと主張するわけではありません。
だが、上古にあっては、神主家は中々に重要な意味を持つのです。
屡々、地域の統治者家が神主家を出しますし、その逆もあるのです。 説明5
<4> 各地の石部神の創祀時期
最後に、「石部神の創祀時期」を社伝・由緒伝承をベースに纏めます。
一部に磯部神は含みますが、基本は石部神についてです。残念ながら、創祀時期を明示して
いない神社は省いています。
これをどう読むかはお読みの皆さん次第です。
一番易しい読みは、
「伊勢国に源があり、右下に向かって石部神社は移遷している」様子です。