第一段階の磯部論の入口は、一応通過できたと思ったのに、第二段階で躓きました。
 第二段階では、「磯部と海部との関係」は「密接ではなく、余り関係ない」との印象を得て、挫折です。そこで、
 第三段階は、暫く進路を探ります。探るべき方向も判らず、手探りの「磯部探しシリーズ」を挿入します。


  本ブログでは磯部を名前に含む古代人三人をご紹介します。
        <1> 磯部臣命:仁徳朝の出石郡司・天日槍裔
    <2> 磯部臣 :仲哀天皇皇子・誉屋別命の後裔

    <3> 磯部王 :天武天皇後裔

 

<1> 磯部臣命:仁徳朝の出石郡司・・「但馬故事記(出石記)」

   「但馬故事記」(出石郡記)は、磯部臣命が仁徳朝に出石郡司に任命された、と記しています。
    引用: 「但馬(出石)故事記」
          ・神功皇后6年秋9月、須賀諸男命の子、須義芳男命を出石県主とする。
               ・須義芳男命は皇后に従い、新羅征伐の功あり。皇后は特に厚遇を加えた。
           ・第15代応神天皇40年春正月、須義芳男命の子・日足命を出石県主とする。
         ・第16代仁徳天皇40年夏4月、出石県を郡とする。
                67年春3 月、日足命の子・磯部臣命を出石郡司とする。
         ・第21代雄略天皇2年秋8月、 磯部臣命の子・埴野命を出石郡司とする。


 701・大宝元年に制定された大宝律令による「律令制」では、地方を国・郡・里の三段階の行政組織に編成して統治したのです。

 ところが、県主制は、仁徳朝に、郡司制に変わった、と「出石郡記」は云います。
 仁徳朝
(仁徳天皇40年夏4月)に、出石県主から出石郡司に職名変更があったとする「但馬故事記」の記述は、それよりも約350年後の大宝律令(701・大宝元年に制定)により国郡制が敷かれたとする正史との間に差があり過ぎます。

 ここに訝しさを抱きますが、ここは、その侭、通過です。
 
 国郡里制:国を郡に分け、郡を50戸を単位とする里に分けた。 里には里長,郡には郡司,国には国司を夫々置き、

         国郡里制は中央政府の支配力が拡大されるにつれて遠国へも実施して行った。

  但馬人の子は父を聖なる丘地に祀ります。
 「国司文書 但馬神社系譜伝」によれば、天日槍一族の場合、次の通りです。
          ・式内・須義神社(豊岡市出石町荒木273)には、日足命が父・須義芳男命を荒木山に祀る。
    ・式内・日出神社(豊岡市但東町畑山329)  には、磯部臣命が父・日足命を祀ります。 
    ・式内・石部神社(豊岡市出石町下谷62)  には、埴野命が父・磯部臣命を出石丘に祀る


  そうであるならば、「磯部臣命」は式内社・石部神社の祭神として祀られている筈です。

 

 「延喜式神社の調査」(阜嵐健)も「玄松子の記憶」も「石部神社祭神は石部氏祖・天日方奇日方命」だとします。
            ・式内・石部神社(兵庫県豊岡市出石町下谷62)但馬国 出石郡鎮座
                             祭神:天日方奇日方命(石部氏の祖神)
            合祀神:大山積神・大巳貴神・大物主神・事代主神・健御名方命・高彦根命・瀧津彦命
              なお、かつては祭神を天之日矛(天日槍)とする伝もあった。

 

 だが、「神社拾遺」は「石部神社の祭神は石部臣命だ」とします。
 「神社拾遺」
(Kojiyama)は「国司文書 但馬神社系譜伝 第四巻・出石郡」を引用して、石部神社の祭神は石部臣命であることを示します。10世紀末の一見識として、これを評価します。

 

 ついでながら、出石郡の主要神社の祭神を「国司文書 但馬神社系譜伝」から纏めて図表1とし、参考とします。現代の祭神とは大分異なります。

 


 

   尚、「神社拾遺」の原典は「国司文書 但馬神社系譜伝」です。この原典について、koujiyama氏の紹介文を其の侭引用して、ご参考に供します。
        引用:但馬国司文書とは、『但馬風土記』が、人皇52代陽成天皇の御代、火災にかかり消失したことが『但馬故

       事記』序にも載っており、その再現を意図したことが分かる。編纂者は但馬国府の国学者達である。
       ・『但馬故事記』・『古事大観録』・『但馬神社系譜伝』及び『国司文書別記 但馬郷名記抄』の四書(三十巻)

      を云う。
     ・また、四書の底本となった資料と考えられる書として、『但馬秘鍵抄』・『但馬世継記』がある。
     ・編纂時期は『古事大観録』(天禄3-12年)、『但馬神社系譜伝』が天禄4-12年(973-991)、『但馬故事記』

      が起稿:弘仁5年(814)~脱稿:天延2年(974)、『但馬郷名記抄』が天延3年(975)である。
       ・『国司文書 但馬神社系譜伝』は、天禄4-12年(973-991)であり、延長5年(927)12月に上皇された『延喜

                  式』の官社一覧が記された巻九・十より後なのでそれを見習って作られたものかは不明だが、各郡、郷毎に

      詳しく神社の系譜が記されている、これら但馬国司文書を調べた吾郷清彦氏は、「日本全国で唯一無双とい

      ってよい」と述べている。

  
「但馬故事記」や「国司文書 但馬神社系譜伝」は、但馬国について、紀記や「先代旧事本紀」より詳しく伝え、亦、紀記や延喜式の記述と異なる内容を伝えています。

   参考までに、「天日槍の渡来伝承」です。古史料を要約・比較すると、次の通りです。
         ・古事記    :天之日矛・(渡来時期)・応神天皇記で、昔、新羅王子・天之日矛が渡来したとす。
     ・日本書紀 :天日槍・・(渡来時期)・垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来す。
     ・但馬故事記:天日槍・・孝安天皇53年 新羅の王子、天日槍命が帰化する。
                                 ・・孝安天皇61年春2月、ヒボコを多遅摩国造とする。ヒボコは、御出石県主
                                  天太耳命の娘・麻多鳥命を妻にし、天諸杉命を生む。
                               注 「古事記」では但馬諸助(多遅摩母呂須玖)とある.
                                      ・・孝霊天皇38年夏6月、天日槍命の子・天諸杉命を多遅麻国造とする。
                              ・・孝霊天皇40年秋9月、(2代多遅麻国造)天諸杉命は天日槍を出石丘に斎祀る。
     ・播磨風土記・揖保郡揖保里 粒丘条:客神・天日槍命が、韓の国から渡海して宇頭川の川辺に着き、

                     当地の長・葦原志挙乎命に宿所としての土地を求めた。
               ・宍禾郡比治里 奪谷条:葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合った。
               ・宍禾郡雲箇里 波加村条:伊和大神の国占めの時、天日槍命が先着、大神は後から来た。
     ・筑前国風土記(逸文):足仲彦天皇による球磨・囎唹征伐のための筑紫行幸の際、怡土県主祖・五十迹
               手が出迎え、「自分は高麗国の意呂山に天降った日桙の後裔だと云った。

 

  「但馬故事記」は天日矛の来日を孝安朝とするのに対し、紀記は異なります。

        ・「古事記」は「応神天皇記で、昔、新羅王子・天之日矛が渡来した」として、渡来時期は応神朝より昔です。

      ・「日本書紀」は「垂仁天皇3年3月条において、新羅王子・天日槍の渡来」を記します。

 

  すると、「石(磯)部臣命」(天日矛9世孫)の時代も、古史料間で、時代がずれてしまいます。

  「但馬故事記」(出石郡記)に従えば、磯部臣命(仁徳朝に出石郡司)は四世紀前半の人と思われます。

 

 参考までに、「但馬故事記」ベースで「天日槍とその子孫の出石郡での動静」をご紹介します。

   その中で、磯部臣命の位置をご確認下さい。その実在は確かめきらないのですが、・・。

 

 

 

<2> 磯部臣:仲哀天皇皇子・誉屋別命の後裔

 「新撰姓氏録」(皇別編)によれば、 仲哀天皇皇子の誉屋別命の後裔は、左京と山城国に間人宿禰・間人造が、河内国に蘇宜部首と磯部臣が登記しています。
  ・「新撰姓氏録」   
   ・左京 ・間人宿禰・・85左京皇別   間人宿祢           仲哀天皇皇子誉屋別命之後也
   ・山城国・間人造 ・・205山城国皇別 間人造(間人宿祢同祖) 誉屋別命之後也
   ・河内国・蘇宜部首・・300河内国皇別 蘇宜部首            仲哀天皇皇子誉屋別命之後也
   ・河内国・磯部臣 ・・301河内国皇別 磯部臣           仲哀天皇皇子誉屋別命之後也


  「日本書紀」と「古事記」は、勿論、誉屋別命を記していますが、短い内容です。
   ・「日本書紀」 巻第八 仲哀天皇二年正月甲子条, 
            ・二年春1月11日、気長足姫尊を皇后とした。
            ・これより先、叔父彦人大兄の女・大中媛を妃とし、籠坂皇子と忍熊皇子を生んだ。
            ・次に、来熊田造祖・大酒主の女・弟媛を娶り、誉屋別皇子を生んだ。
   ・「古事記」 中巻 仲哀天皇段:
            ・大中津比売命:香坂王、忍熊王
      ・息長帯比売命:品夜和気命、大鞆和気命(別な:品陀和気命)
      ・               初めて生まれましし時、鞆
トモの如き宍、御腕に生りき。
         注:鞆
トモとは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放った後、弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具。

     古語では「ほむた・ほむだ」と云う。鞆字は国字である。
           ・弓矢神・応神天皇は、鞆を携えて生まれたとされ、それ故に生まれながらの武神だといわれ、誉田別尊、

      大鞆和気命。誉田天皇という別称も持つ。

     ・これを理由に、実は応神天皇は「せむし」だったのではないか、とする説すら出されています。

 

 こうして、「磯部臣」は仲哀天皇皇子・誉屋別命の後裔だとして「新撰姓氏録」(皇別編)河内国に登記されているのです。亦、仲哀天皇は日本武尊の第二子です。

 

 誉屋別命の父・仲哀天皇は明白ですが、母については異説があります。
 「日本書紀」は母を弟媛だとし、「古事記」母は息長帯比売命(神功皇后)だとします。

 仲哀天皇は日本武尊と両道入姫命の子とされ、日本武尊は景行天皇と播磨稲日大郎姫の間に生まれたとされます。すると、誉屋別命は日本武尊の孫ですから、日本武尊の没地「能褒野」(伊勢亀山市)に何か手がかりがあるか、と探ります。
    ・能褒野神社(亀山市田村町)
       祭神:日本武尊、配祀:建貝児王・弟橘姫命
       由緒:1884・明治17年3月に能褒野陵の側に神社創建
                ・日本武尊能褒野御墓(全長90m後円部径54m、同高さ9m)、三重北部最大の前方後円墳。

         東征帰路に日本武尊が伊勢国能褒野で亡くなられたとする記紀に基づき、明治12年、内務省は

                          「日本武尊能褒野御墓」と定め、現在も日本武尊墓として宮内庁が管理。
        ・縣主神社(亀山市田村町 1537) 伊勢国 鈴鹿郡鎮座、(旧地)県主神社 現在:能褒野神社に合祀
       祭神:建貝児王
         神社覈録:縣主は安加多奴之と訓べし、和名鈔、(郷名部)英多、(安加多)とあるは転訛なるべし、

              祭神詳ならず、川崎村に在す、(国史、俚諺)今穂年大明神と称す、
            ・考証云・古事記に、倭建命御子建貝児王者、伊勢別之組、
                  ・姓氏録(和泉國皇別)縣主、日本武尊之後也、とあるを引り、されば日本武尊と

                 いふにや覚束なし、
              ・連胤按るに、儀式帳に、伊勢国桑名野代宮に坐時に、伊勢國造遠祖建夷方に國名を問賜へ

             ば、神風伊勢國と白し、又鈴鹿小山宮に坐時に、川俣縣造等遠祖大比古に国名を問賜へば、

             味酒鈴鹿國と白ずと見えたれぱ、此等の祖神ならん、猶考ふべし、

                     類社:河内国志紀郡志貴縣主神社の下見合すべし

    ・江田神社(四日市市西坂部町、旧西酒部村・古の刑部郷)

       祭神:五十功彦命(伊勢刑部君・三川三保君の祖・・先代旧事本紀)
                 由緒:刑部造が代々神社を守護した。
   ・長瀬神社(亀山市菅内町)伊勢国 鈴鹿郡鎮座
              祭神:倭建命、
      合祀:底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命、品陀和気命 天照大神 天児屋根命 宇迦之御魂命 大国主命 別雷命

         大伴武日命 速玉之男命 伊邪那美命 大事忍男命 水波能売命 火之迦具土命 速須佐之男命 大山祇神

                        木花之佐久夜毘売命
     参考・古事記(景行天皇段):吉備臣建日子の妹・大吉備建比賣を娶りて生みませる御子、建貝児王。
                     建貝児王は、讃岐の綾君、伊勢の別、登袁の別、麻佐の別、宮首の別等の祖、
     ・日本書紀(景行天皇51年8月壬子条):武卵王は讃岐綾君之始祖

              ・武卵王・武鼓王(日本書紀)=建貝兒王(古事記)=武卯王(先代旧事本紀)
            ・新撰姓氏録:331和泉国皇別  県主 和気公同祖 日本武尊之後也

 

 このように、建貝児王は「伊勢の別」の祖と「古事記」は指摘します。

  更に、伊勢国総社・式内社・伊奈富神社(奄藝郡)がを検すると、そこに「神主は代々仲哀天皇の御子・品屋別命の子孫(磯部氏)が勤めた」と社伝があります。

    ・伊奈富神社(三重県鈴鹿市稲生西2丁目)式内社 伊勢國奄藝郡 伊奈富神社、伊勢國総社
      祭神:保食神、大国道命、
         諸説:稲生神            ・・「皇大神宮引付」
            那江大國道命、地主姫命、雷電神・・「勢陽雑記・神名帳考証・三國地誌」
                             「神名帳考証・大日本史神祇志」
            保食神     ・・「神名帳考証再考・勢陽五鈴遺響・延喜式神名帳僻案集」
      合祀:豊宇賀能賣命 稚産靈神 鳴雷光神 大山祇命
      社伝:神代、東ヶ岡(現・鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ、崇神天皇五年、霊夢の神告により

                           勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、神路ヶ岡に大宮・西宮・三大神の三社

                           を鎮祭されました。
        ・その後、仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕えます。
        ・雄略天皇5年、数種の幣物奉納あり、主祭神・保食神には「那江大国道命」の御神号を賜ります。


 伊奈富神社の神主家には「品屋別命の子孫(磯部氏)」説が語り伝えられていたのです。
              ・「全国神社祭祀祭礼総合調査」(神社本庁 平成7年)もこの説を伝えています。

   だが、当社の創始が崇神天皇5年です。
 崇神・垂仁・景行・成務・仲哀と続き、仲哀帝の皇子・品屋別命が当社神主になるとすれば、その間、四~五代=約百年の情報が無く、残念ながら、空白です。
 

 これをどう見(評価す)るかは、更なる別情報が俟たれますが、地域密着の史家の地道なご研究が期待されます。

<その3> 天武天皇後裔

   「磯部王」は天武天皇5世孫です。同時に、「磯部王」は悲劇の長屋王の裔でもあります。
 
   「長屋王の変」は、729・神亀6年2月、藤原氏の血を継ぐ皇子を立てるべく、藤原氏が起こしたと疑われる事変です。この時、長屋王妃・吉備内親王一族は自死しますが、別な妃・藤原長娥子とその子女(安宿王ら)はお咎め無しです。
        ・自死:妃・吉備内親王とその子女(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)
    ・無咎:妃・藤原長娥子とその子女(安宿王ら)


  「長屋王の変」は、第45代・聖武天皇の即位の5年後に起っています。

    ・聖武天皇:724・神亀元年2月4日に即位、光明皇后は民間から初めて皇后となった藤原氏の女性です。

     749・天平勝宝元年7月に娘の孝謙女帝に譲位します。

    ・「長屋王の変」の背後にいたとされる「藤原四兄弟」はこの事変の暫く後、コロナ死しますと、人々は長屋王 

       の祟り・呪いを噂した由です。実際、史書は長屋王の事変は誣告により始まり、間違いだったと記します。

   
 この「事変」の翌日には、「長屋王の兄弟・姉妹・子孫と妾らとの縁坐すべきものは、男女を問わず悉く皆赦免する」と伝えられます。              
    ・「続日本紀」神亀6年2月18日条
    
 更に数日後には「長屋王の弟・姉妹、及び、その子供らで生存者に位禄・季禄・節禄などの禄給が認め。」と伝えられ「事変」は落着します。           
・「続日本紀」神亀6年2月26日条

  こうして「磯部王」はこの政変絡みの「長屋王の変」を辛くも生き延びられた皇子なのです。

  「磯部王」については、「天武天皇からの系譜」(図表2)で次のような所縁を読み取れます。
       ・天武天皇の直系の高市王・長屋王の血筋を引く
   ・長屋王一族の裔は臣籍降下して、皇姓「高階氏」
(高階真人・高階朝臣)を賜姓す
   ・宗像大社神主家の宗形氏に遙かな血縁あり


 図表2   天武天皇5世孫に磯部王あり・・高階氏系譜
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 □ 天武天皇  大海人皇子
 2 高市王    高市皇子は、天武天皇の皇子(長男)、母は宗形徳善の娘・尼子娘(庄子郎女)。
              壬申の乱では近江大津京を脱出して父に合流し、美濃国不破で軍事の全権を委ねられ活躍。
                持統天皇の即位後は太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位に就く。
                 ・宗像神社(桜井市、大和国外山鎮座)は高市皇子が母方の氏神を祀り創建したと伝わる。
 3 長屋王    太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。 
                    皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となるも、藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自死。
 4   桑田王    長屋王の第二皇子。母は吉備内親王(石川虫丸女説あり)。
                 ・729・神亀6年月、父・長屋王が謀反の疑いで、長屋王、吉備内親王、膳夫王、葛木王、
                                                         鉤取王らと共に桑田王も自死(長屋王の変)
 5   磯部王    礒部王(生没年不詳)は、妻:巨勢部女王、左大臣・長屋王の孫、桑田王の子。官位は従五位上・内匠頭。
           経歴:729・神亀6年(聖武朝)、「長屋王の変」の時、礒部王は乳幼児だったと想定されている。
       ・767・天平神護3年(称徳朝)、従五位下に叙爵。
             ・769・神護景雲3年、大監物に再任された。
               ・774・宝亀5年(光仁朝)、多治比長野の後任として参河守を兼任。
               ・776・宝亀7年、従五位上に昇叙。
               ・778・宝亀9年、参河守のまま内匠頭に任ぜられた。
 6   石見王    
 7   高階峯緒  高階峯緒は、平安時代初期から前期にかけての貴族。左大臣・長屋王の玄孫。
      (高階氏)   従五位上・石見王の子。官位は従四位上・神祇伯。
            経歴:844・承和11年、高階真人姓を与えられ臣籍降下する。
            ・846・承和13年、従五位下・下野介に叙任される。
                                   その後も伊予守・肥後守・近江介と仁明朝末から文徳朝にかけて地方官を歴任。
                 ・849・嘉祥2年、従五位上、
               ・855・斉衡2年、正五位下
               ・857・斉衡4年(文徳朝末)、左中弁、その後、大蔵権大輔・大蔵大輔と清和朝初頭に
                   かけて京官を務め、貞観2年(860年)には従四位下に昇叙される。
                 ・861・貞観3年、丹波守、その後、伊勢権守・山城守と再び地方官を歴任、
               ・868・貞観10年正月、従四位上、同年2月、神祇伯。
            <新撰姓氏録> 28左京皇別 高階真人 出自謚天武皇子浄広壱太政大臣高市王也 続日本紀合
           子孫:高階真人・高階朝臣、    
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 ここで手短に、「高階真人」姓についてご紹介し、その「磯部王」との関わりを見ます。

 

 仁明朝の773・宝亀4年、長屋王の五男・安宿王が高階真人姓を与えられて臣籍降下します。

   これは「長屋王の変」から約50年後の「熱ホトボりが冷めた」頃と云えます。
 

 その後も引続き、長屋王の類縁の人々は「高階真人」を賜姓します。図表3に要約します。

 

  図表3   長屋王裔(安宿王、桑田王、鈴鹿王など)への高階真人の賜姓
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高階真人: <新撰姓氏録> 28左京皇別 高階真人 出自謚天武皇子浄広壱太政大臣高市王也  続日本紀合
    ・773・宝亀4年、長屋王の五男・安宿王が高階真人姓を賜姓、臣籍降下す。
             この系統か推定される氏人あり。高階遠成・高階浄階・高階石河。
           ・「続日本紀」光仁朝:宝亀4年10月6日条:戌申、安宿王(長尾王五男)、賜姓高階真人
    ・843・承和10年(仁明朝)、高市皇子五世王・春枝王&秋枝王の子女7名、
                 ・「続日本後紀」承和10年6月丙申条:
    ・844・承和11年(仁明朝)、長屋王の子・桑田王・六世王・峯緒王が高階真人姓を賜姓す。
    ・848・嘉祥元年 (仁明朝)、長屋王の弟・鈴鹿王の裔・豊野沢野と兄弟姉妹10名が高階真人姓を賜姓す。
    ・873・貞観15年(清和朝)、成相王、後相王が高階真人姓を賜姓す。
高階朝臣:<日本書紀>684・天武天皇13年11月1日、52氏が初めて朝臣を賜姓す。
     ・後に高階真人も高階朝臣に改姓する時が来る

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   余談:遣唐判官・高階遠成(757・天平宝字元年生誕~818・弘仁9年死没)の船は五島列島福江島の大宝寺浜に漂着し、その後、那ノ津(博多)へと到着ます。
 時に、806・大同元年、秋・丸三年ぶりに第18次遣唐使団の留学生を乗せた帰国船には、留学僧・空海が乗っていました。

 空海は、20年の留学期間を2年で切上げて帰国します。
 これに対して、朝廷は809・大同4年まで空海に入京を許可していません。この「闕期の罪」の
ため、空海は、入京の許しを待って数年間、大宰府に滞在することを余儀なくされますが、むしろ、積極的に布教活動をした様です。空海はくじけず、前向きに「事」を受け止める人なのです。
 807・大同2年からの2年、空海は大宰府・観世音寺に止住したと云います。

 この時期、空海は宗像大社ゆかりの地に一寺・鎭国寺を創建しています。
                     注・東長寺(福岡市博多区御供所)南岳山にも空海による創建伝承あり。
 
   空海は、帰国に際して、遣唐判官・高階遠成に大変お世話になっています。

 この高階遠成は宗像大社所縁の人です。
 宗形徳善の娘・尼子は天武天皇嬪となり、高市王が生まれ、その裔に高階真人一族が出たのです。高階遠成は尼子娘(天武帝)の玄孫(曾孫の子)ですから、当時の血縁性の強い社会を考えれば、高階遠成は、空海と宗形家を引き合わせた筈です。宗形家は空海を厚遇したでしょう。

 空海は宗像大社に紹介されもし、且つ、その要請にも応えたと思われます。
 「鎭国寺」は、空海が帰国後に創立した日本最古の真言宗寺院と目されます。
 後に、「鎭国寺」は宗像大社の「神宮寺」になるのですが、そのことが、宗形家ー高階氏ー空海の三者の強い「縁エニシ」を示唆しているように思えます。
   ・鎮国寺(宗像市吉田)真言宗御室派の別格本山。
           山号・屏風山。本尊・大日如来。                                      
     寺伝:空海が第16次遣唐使船で唐に渡航中に大暴風雨に遭遇した際、海の守護神・宗像三神などに祈誓を込めた

                    時、波間に不動明王が現れ、右手に持っていた利剣で波を左右に振り払い、暴風雨を静め、空海は無事に

                    入唐出来た。
       ・長安青龍寺の恵果阿闍梨より真言秘法を授かり、806・大同元年に博多に到着すると、空海はまず宗像大

                    社に礼参した。その時、屏風山の瑞雲が棚引くのを見て、奥の院岩窟に於いて修法を始め、「この地こそ

                    は鎮護国家の根本道場たるべき霊地」というお告げを聞き、一宇を建立して屏風山鎮国寺と号した。
       ・宗像三柱の御本地仏として、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊を刻み、本尊と定められた。

                    このころ空海は大宰府に数年間滞在している。
   ・昔、鎮国寺は宗像大社の神宮寺だった。

 

 

結:こうして、磯部探しの第一段階で「磯部臣命・磯部臣・磯部王」を見出したのです。

  今は、発見の段階です。

  次は、考察の段階です。後に、磯部臣と伊勢・伊奈富神社との関連を検討したいところです。

 ・その他の二件の「磯部」からみは、「磯部探し」の最終「総括」まで、ペンディングです。