目次  1   鐘崎の海女たちは輪島・舳倉島へ移住した
                <1>   鐘崎の海女の輪島・舳倉島への移住
                <2> 鐘崎の海女文化
      <3> わが国の海士集落の展開
                <4>  日本遺産「海女文化」
         2  縄文~弥生の鰒アワビオコシの出土
               <1> 弥生時代の「鰒アワビオコシ」の出土が海女文化の古さを示す
               <2>   鰒アワビオコシの出土状況
               <3> 伊勢志摩の海女文化は磯部氏の源か

1   鐘崎の海女たちは輪島・舳倉島へ移住した

<1>  鐘崎の海女の輪島・舳倉島への移住

 宗像・鐘崎と能登・輪島との「遠い昔につながっていた因縁話」が、知人が送ってくれた、「むなかた」(令和6年水無月761号、宗像大社発行)に載っていました。

 能登・輪島の海士町は、「日本海沿岸の海女発祥の地」とされる宗像市鐘崎の海女が、455年前、能登半島沖40kmの舳倉島に上陸し、漁期だけ滞在し、毎年、宗像と往来していたが、その後、海女は舳倉島に定住した、と云います。
 それが現・輪島市海士町のはじめだと云うのです。

 この「むなかた」を補足するのが読売新聞の記事です。次は要約です。
   ・「筑前鐘崎漁業誌」や「海士町開町三五〇年記念誌」などによると、1569年、筑前国鐘ヶ崎の海士又兵衛ら男女

   13人が、北東へ約700キロ離れた能登半島に上陸した。
   ・春から漁期の間は現地に滞在し、秋に九州へ帰る「アマアルキ」と呼ばれる季節移動を繰返した。
   ・その後、定住し、半島から48キロ沖の 舳倉島や七ツ島で鰒・貝や海藻を採って生計を立てた。
     ・1649年には、加賀藩から1000坪の土地を拝領して移り住んだのが、海士町の始まりとされる。
   ・現在も町やその近辺に120~130人の海女が暮らし、舳倉島、七ツ島などで漁をし、鐘崎と似通った方言や風習も

        伝わる。
   ・2018年には「輪島の海女漁の技術」が国の重要無形民俗文化財に指定された。
                                              (出所) 読売新聞2024・02・15、 13:17


   いずれも、今年正月に発生した能登大地震の災害見舞いに宗像鐘崎の人々が能登の人々に義援金を届けたことを報じた時に、鐘崎と舳倉島(能登輪島)との歴史的な繋がりを解説したものです。

<2> 鐘崎の海女文化

 別に調べると、「宗像市」のネット広報が「海女文化」を学ぶのに相応しく思われます。
 次の様な記事が載っています。
  1「筑前国続風土記」(貝原益軒):糸島から芦屋までの漁村の内、鐘崎、大島、波津、志賀島では、女は海女として

                                                  働いている。特に、鐘崎の海女は漁が上手である。
  2海女あるき:鐘崎は、アワビやサザエが生息する漁場が狭かったため、鐘崎の海女は良い漁場を求めて出稼ぎに行

                       くようになりました。やがて、海女の中には鐘崎に帰らず出稼ぎ地に定住する人が出てくると、その

                       定住地で優れた潜水技術を教えました。

                       このような海女の出稼ぎや移住のことを「海女あるき」と呼びます。
  3海女の移住:海女の移住集落は日本海側の各地にあります。東は石川県輪島の舳倉島、西は壱岐や対馬の曲、五島

                        列島まで及びます。このことから鐘崎は「日本海沿岸の海女発祥の地」と云われます。
  4海女の規模:鐘崎の海女は、江戸時代には300人位だったと云われています。出稼ぎ先の各浦で海女漁が増えるに

                       つれ、鐘崎は衰退し、大正6年に200人に、昭和13年に130人、昭和26年に29人となり、現在は僅か

                       2人だけです。
          ・戦後、ウェットスーツの普及で女性よりも皮下脂肪が少ない男性が素潜り漁をし易くなったことが、

                       海女の数が減った要因だといわれています。
  5上海女と潟海女:海女は「ジョウアマ(上海女)」と「ガタアマ(潟海女)」に分けられます。
          ・上海女は沖に出て漁をするため、深く潜ることができ、ガタアマは浅い磯部で漁をします。
          ・「福岡県史」にある鐘崎の民俗調査では、ジョウアマが12尋から13尋(18~19m)、ガタアマ
           が4尋から5尋(6~7m)潜ったと書かれています。
          ・「海の道むなかた館」で展示の「水メガネ入れ箱」のふたにも12尋潜ったと書かれていて、来館した

                       人に12尋を18mと説明すると非常に驚かれます。

   宗像女神の分祀遷座も、この海女の移住に伴い、行われたようです。

   舳倉島には式内・奥津比咩神社が鎮座します。
 七ツ島(大島・荒三島・御厨島・烏帽子島・赤島・狩又島・竜島)が輪島市20km沖にあり、その内の大島の中津島神社には市杵島姫神が祀られている、と云います。
          ・中津島神社(輪島市輪島崎町、大島) 祭神:市杵島姫神
            ・この中津島神社は、グーグル地図でも石川県神社庁でも確認出来ません。だが、
             上記の宗像大社広報誌「むなかた」(令和6年水無月761号)が銘記しています。
         ・奥津比咩神社(輪島市海士町舳倉島高見)祭神:田心姫命          (出所) たんぽぽろぐ


<3> わが国の海女・海士集落の展開

   田畑論文(ネット上)は、五島列島の宇久島の海女・海士に焦点がありますが、先行論文を踏まえつつ、そこにまとめている「わが国の海士集落の展開」を引用させて頂きます。
                            *田畑久夫「わが国における海士部落の変貌」五島列島宇久島平を中心として

 そこには「全体の鳥瞰の中で対象を捉える」姿勢が認められ、これは重要なのです。

   応神海政期は5世紀初頭です。
 鐘崎の海女が鰒採りに能登の舳倉島へ渡ったのは、上述の資料に依る限り、16世紀末です。

 資料の示す海部直・海政期と海女漁との時間差は、千年を超えます。

 図表1は日本列島全体での海女・海士集落の現代の全体像を示して有用です。
 この図表に、海女・海士の歴史が凝縮している、と云えるでしょう。

 

<4>  日本遺産「海女文化」

   海女文化は、最近、「日本遺産」として登録されています。
               ・日本遺産73番:「海女(Ama)に出逢えるまち 鳥羽・志摩~素潜り漁に生きる女性たち」

 その基盤として、海女文化の研究は鳥羽市教育委員会から「海女習俗調査報告書」と云う貴重な

報告書が出されています。
 その中で海女たちへのインタビュー記事は、ここではご紹介しませんが、極めて貴重です。
 ここに記された海女たちの生活文化・経済文化は、記録として長く伝えられるでしょう。
  (出所) 海女習俗調査報告書(平成24・25年度)鳥羽・志摩の海女による素潜り漁
                                                                              三重県教育委員会・・平成26(2014)年3月
                 関連ネット記事:「志摩半島の海女」海女文化国際発信事業実行委員会


   縄文時代以後の遺産helitageとしてのその重厚さは「海女・海士の歴史」を一書に纏めて公表する時には、一層高まる筈です。いや、ネット上に発表する時代かも知れません。期待します。

  図表2は「わが国の海女・海士集落の展開」の現状(2012年現在)を鳥羽市が全国都道府県に問合わせて作成したものです。
 当ブログの意図には不釣り合いに詳しすぎるのですが、敢えて書写引用します。

  この図表2については、僅かなコメントで済ませます。
  1 女(海女)と男(海士)が共に「素潜り漁」を行っています。
    「調査報告書」は、その理由を保温ウエットスーツの普及を挙げ、男性の参加が容易になったとします。
      海女数がゼロ又は一桁の地域は、海女文化は海士文化へと移り変わっています。
    2 図表1と図表2とを対照してみると、列島全体の姿が見えます。
      図表2の太字県名が海女文化の比較的残っている処、図表1が示す古来の海女文化地は図表2の海女数では既に

          消えているか、と思われます。「海女文化残存の主要地域」を敢えて指摘します。次の通りです。
      ・太平洋沿岸:宮城・千葉・静岡、三重、徳島、
      ・玄界灘沿岸:長崎・佐賀・福岡・山口
      ・日本海沿岸:石川・福井・鳥取
  3 三重県はこれらの地域と比較してその海女文化は突出しています。

 


 

   海女の人数は近年激減しているようです。
 次の10年で海女の活動が無くなる地域も出てくるでしょう。次表のB/A値が0.5以下の県は、余程の対策がなければ、海女活動は見られなくなるでしょう。

 海女活動が残れるのは、千葉、三重、石川、福井、熊本の五県です。それも「じり貧」です。


<5> 志摩の海女文化

 伊勢・志摩・伊賀三国の中で、「海女文化」と云えば「志摩」です。

   志摩(三重県)は、地域と比較して、海女文化の規模が突出しています。

 2014・平成26年の「海の博物館」(鳥羽市)による調査では、海女総数761人という結果が出ています。これは日本の他の地域と比べて最大の規模です。

 だが、海女漁は、高齢化引退と後継者不足が原因で、年々減少していく可能性が大きいです。
 そんな時、「日本遺産」に認定されて志摩の「海女文化」はこれからの堅実な展開が期待されています。大いに期待します。

 勿論、漁場の環境維持(磯焼け防止)策と黒潮の蛇行や海温上昇への対策が基本的に求められ、漁獲高の減少と収入源が懸念されます。

  図表3には、志摩28箇所に展開する海女漁の様子です。「海の博物館」(鳥羽市)から情報をお借りしています。

 

2 鯨骨製・鹿角製鰒アワビオコシの出土

   以上は全て序論です。
 ここで、本論に戻ります。当ブログの最大の関心は「海女文化」の歴史の古さです。

 それが「磯部氏史」、或いは、「伊勢・志摩古史」として、縄文・彌生の時代まで遡れるのではないのか、とする期待があるのです。

  幸い、その期待は報われたのです。
  すなわち、古代の海女たちが使ったと思われる「鰒アワビオコシ」が出土しているのです。しかも、その使用年代は縄文・弥生時代にまで遡る、と確認されていたのです。

<1> 弥生時代の「鰒アワビオコシ」の出土が海女文化の古さを示す

  「海の博物館」(鳥羽市)の展示資料は「縄文~弥生期に海女漁があったこと」を明らかにしているのです。(図表4参照)
  ◇ 白浜遺跡出土遺物:1987・昭和62年、発掘調査。
    ・縄文中期末から後期、弥生時代前期後半、弥生中期後半から古墳時代前期の土器を始め、小銅鐸、銅鏃といっ

     た青銅器、100点を超える骨角器  が出土。
          ・時期は弥生中期から後期前半に集中する。特に漁撈活動に関わるヤス・銛・鏃・釣針・アワビオコシ・柄・

               装飾品の垂飾・貝輪・ト骨など多様な骨角器があり、当時の志摩半島の漁撈活動の多様さを示す遺跡。

                                                                             (出所)  日本遺産ポータルサイト

  鳥羽市浦村の白浜遺跡出土の鰒アワビオコシは弥生中期から後期前半の鹿角製ですが、鯨の肋骨製の鰒アワビオコシも多数発見されています。

 

<2> 鰒アワビオコシの出土状況

 

 図表5-1は中尾論文が紹介する「鰒アワビオコシの出土状況」です。出土地及び関係博物館は別途調べたものです。

  ここでの注目点を述べます。
  ・第一の注目点はこれら出土した鰒アワビオコシの時期推定です。
     縄文中期から弥生時代~古墳時代の遺跡からも鰒アワビオコシが出土しているのです。
  ・第二の注目点は、
   ・鯨の肋骨製のアワビオコシが対馬・壱岐・佐賀・唐津など西北九州の島嶼~玄界灘に見られること。
   ・それに対して、青谷上寺地遺跡では弥生期の鹿角製アワビオコシが出ていること。
   ・第三の注目点は、この論文は伊勢志摩以東のアワビオコシ情報は、礼文島を除いて、含んでいないことです。

 

 

  中尾論文は九州・日本海沿岸を中心に鯨骨製鰒アワビオコシを中心として取上げています。 この中尾論文には「伊勢・東海・太平洋沿岸域を中心とする鰒アワビオコシの実態」は含まれていないので、ネット検索により二、三の事例を知り、図表5-2に記載します。


  「鹿角製へら骨角器」と云う分類の一部に「鹿角製アワビオコシ」が含まれるのでしょう。

 多数の「へら骨角器」の中から「アワビオコシ」を取出す判定基準は素人には判りませんので、ここでは「アワビオコシ」だとする指摘があったもののみをリストしています。

                         そのような指摘がないものの中にも類似品はありますが、・・。

 日本列島の西部遺跡からは「鯨骨製アワビオコシ」が出土し、東部遺跡からは「鹿角製アワビオコシ」が出土している、との見方は極端過ぎるかも知れません。

 いずれにしても、この鰒アワビオコシの出土は縄文~弥生期に海女漁があったことを示します。
  それは海女文化の古さを示し、且つは、海女文化を担った人々の歴史の古さを物語ります。

<3>  伊勢志摩の海女文化は磯部氏の源か

  鳥羽市浦村町の白浜遺跡で出土した「鹿角製鰒アワビオコシ」が弥生中期(BC300年)頃のものだと判定されていることは重要です。
 ここに、弥生中期に既に海女文化はあった事実がクローズアップしたのです。
 勿論、それ以上に遡る可能性を秘めているのです。

 この他にも多くの鹿角製や鯨骨製のアワビオコシの出土例が報告されています。
 伊勢志摩の海女文化はかなり古く縄文時代に遡る可能性があるのです。

 こうした諸事実を念頭に置いて、次報で「伊勢の海神祭祀」を観察することになります。