目次(1) 海神社・綿津見神の祭祀
      <1>  海神社・綿津見神の祭祀
                  <2>  海政者・海部直
      (2)  振魂命は綿津見神の子・・裔に海直あり
      <1>  振魂命は裔に海直(海政者)あり
      <2>  御戈命は頸城国造となる
      <3>  市磯長尾市宿禰は瀬戸内の海直の太祖か
      <4>  都弥自宿禰は播磨国の明石国造
      <5>  阿波名方郡の海直の祖・海田作(海直)は都弥自宿禰(明石国造)の子
      <6>  黒島磯根御食媛を図表3に登場させる理由
       (3)  吉備海部直
                  <1>  吉備海部直は振魂命に出ず。
      <2>  吉備海部乙日根も振魂命(綿津見神の子)系に属する
                  <3>  吉備海部直の記録
                  <4>  「吉備海部氏の本拠地は邑久郡」説

(1) 海神社・綿津見神の祭祀

  綿津見神を祀る神社は全国に多数あり、総数853社とする調査*もあります。

<1>  海神社・綿津見神の祭祀

  ここでは図表1に海神社綿津見神祭祀を大掴みにした後、その中の数社をレビューする方式を採ります。

 

 図表1       特撰・海神社のあらまし・・綿津見神を祀る
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1 和多津美神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦小崎) 祭神:和多津美命 罔象女命 速秋津日命
2 和多都美神社(住吉神社 境内脇宮)式内社・對馬嶋下縣郡
     祭神:和多都美神
    ・住吉神社(対馬市美津島町雞知字浜田原上) 對馬嶋下縣郡 名神大
      祭神:彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(本来は住吉大神)、配祀:豊玉姫命 玉依姫命
3 海 神社  (壱岐市石田町筒城西触)壱岐島 石田郡鎮座
   祭神:豊玉彦命
   由緒:当社ハ式内大、壱岐國廿四座ノ一ナリ。創立年代詳ナラザレドモ此ノ神、神功皇后西戎征伐ノ御時功ヲナシ

                  給ヘルニ依リ、此ノ島ニ祀ラレタルモノナルベシ。〔三代実録二巻〕ニ貞観元年正月22日壱岐島從五位下

                  海神從五位上トアリ。 (以下略)                     (出所)      壹岐國神社誌
4 志賀海神社(福岡市東区志賀島)式内社(名神大社)  全国の綿津見神社・海神社の総本社を称す。
   祭神:表津綿津見神、相殿:神功皇后
              仲津綿津見神、相殿:玉依姫命
              底津綿津見神、相殿:応神天皇
       由緒:龍の都と称えられ、古代氏族・阿曇氏(安曇氏)ゆかり地として知られる
       摂社:沖津宮(福岡市東区勝馬)     祭神:表津綿津見神、天御中主神
                        ・前庭部から中津宮古墳を発見。神社造営に伴う破壊により墳丘規模・形態は不明。
           竪穴系の石室と共に副葬品が発見。7世紀前半の築造、当地の海人集団の首長墓。
      ・今宮神社(本社境内)祭神:宇都志日金拆命、住吉三神、阿曇磯良丸を初め神孫・阿曇諸神
      ・弘天神社(福岡市東区弘) 祭神:伊邪那岐命、伊耶那美命
        ・大嶽神社(福岡市東区大岳)祭神:志那都比古神、志那都比売神、大濱宿禰、保食神
        末社:志賀に12社、勝馬に5社、弘に1社、大岳に1社の計19社が鎮座す
  ・住吉神社(福岡市博多区住吉)式内社 名神大3座 筑前国一宮  祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命
5 海神社(隠岐郡西ノ島町別府)祭神:海神(少童神、二座)
6 和田津見社(賣布神社 境内摂社:海の若宮、松江市和多見町)
                   賣布神社・祭神:速秋津比売神、櫛八玉神(摂社、速秋津比売神の孫神)、
                                          相殿三神(五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命)
7 海 神社(豊岡市城崎小島)
         祭神:大海神、海部祖・建田背命
     由緒:周辺には津居山漁港あり。海部とは、大和朝廷に海産物を献上した部民を云う。
      1873年(明治6)まで、小田井縣神社に併祀されていた。社内には鰐石と磐座が残る。
8 海 神社(神戸市垂水区宮本町) 播磨国 明石郡鎮座
     祭神:上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神、(垂水神・大日向神)
   由緒:海直の氏神・5世紀後半に五色塚古墳を造ったとされる明石国造の祖先を祀った神社説あり。
           ・下畑海神社(神戸市垂水区下畑町城ケ原)海神社三座、並名神大 播磨国 明石郡
            祭神:底津綿津見神 中津綿津見神 上津綿津見神、配祀:大日ルメ貴命
            由緒:下畑海神社には海神社(垂水区)の元宮説あり。太古に下畑海神社から海神社へ分祀した。
9 海   神社(紀の川市神領272)

     祭神:豊玉彦命・国津命
   由緒:垂仁天皇の御世、明神が熊野の楯が崎に出現するのを見た忌部宿弥が当時に創立した。
        山の中に海の神を祀る。平安初期には当地に鎮座していた。
10 大海神社(大阪市住吉区住吉町、住吉大社境内、式内社)祭神:豊玉彦命・豊玉姫命
      ・志賀社  (同上)                祭神:底津少童命・中津少童命・表津少童命
    ・住吉大社(名神大社4座、摂津国一宮)         祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后
11 穂高神社(安曇野市穂高)名神大社
     本宮祭神・中殿:穂高見命(別名:宇都志日金拆命)綿津見命の子
          左殿:綿津見命 海神・安曇氏の祖神
         右殿:瓊瓊杵命
    別宮祭神:天照大御神
    若宮祭神:安曇連比羅夫命、若宮相殿:信濃中将
      由緒:穂高見命を御祭神に仰ぐ穗髙神社は、信州の中心・安曇野市穂高にあり。
        ・奥宮は穂高連峰の麓の上高地に、嶺宮は北アルプスの主峰奥穂高岳に祀られています。

            ・穂高見命は海神族の祖神であり、その後裔・安曇族は北九州方面に栄え、海運を司り、

         早くより大陸方面と交流し文化の高い氏族であったようです。
12 籠 神社(宮津市字大垣)
   祭神:彦火明命(別名・天照国照彦火明命)
   相殿:豊受大神・天照大神・海神・天水分神
   奥宮・真名井神社・・祭神:豊受大神
   由緒:天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め

                  開拓された神。国宝系図「勘注系図」を伝える。
13 矢田神社(京丹後市久美浜町海士)
    祭神:建田背命(海部直の祖)、配祀:和田津見命 武諸隅命

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   注1 豊後・能登輪島は有力候補地でしたが、該当する神社を見つけられませんでした。
    2 図表1には全13社を取り上げ、その内訳は、海神社8社、綿津見社2社、地名社3社です。


<2> 海政者・海部直

   前に、「磯部4 但馬海直」で海部直命を取上げた時、各地の海部郡・海部郷の海人族を統率する官として、各地に「海政官・海部直」が配されていただろう、と見ました。

   果たせるかな、今回、各地の海神社を調べる内に「海政官・海部直」を見出します。
 悉皆調査ではありませんが、図表2に諸例を示します。

  図表2   海政官・海部直の諸例
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1 大浜宿禰・「日本書紀」応神天皇3年11月:
  諸所の海人、訕哤
サバメきて命に従はず。則ち、阿曇連の祖・大浜宿禰を遣して、其の訕哤を平ぐ。

  因りて、「海人宰」とす。故、俗人の諺に曰はく、「佐麼阿摩サバアマといふは、其れ是の縁なり。
        宇治谷孟訳:各地の漁民が騷いて命に従わなかった。阿曇連の先祖大浜の宿禰を遣わして、その騒ぎを平定した。

                          それで海人宰とした。時の人の諺に「佐麼阿摩」というのはこれが元である。
2 但馬海直・「但馬故事記(城崎記)」海部直命は、天香語山命8世孫で、仁徳天皇10年秋8月、海部直に任じられた。

                                     ・・参照:前報(磯部3 但馬海直)
 ・海 神社(城崎郡絹巻山鎮座) ・「國司文書 但馬神社系譜伝」
     祭神:上座・海童神、中座・住吉神、下座・海部直(大海部彥命)・海部姫命(大海部姫命)
                 一に曰く櫛日方命、玉櫛姫命
    由緒:仁徳天皇10年8月創立、境内に鰐岩(磐座)あり。
       白鳳三年、城崎郡司の韓國連久々比命が海神社を絹巻山に移転して海神社絹巻大明神と称す。
      ・絹巻神社(豊岡市気比絹巻)但馬國城崎郡鎮座 式内社 海神社 比定
             祭神:大綿津見命、配祀:天衣織女命 海部直命
           ・城崎郡司の韓國連久々比命の「韓國連」とは、韓國へ派遣された物部眞鳥の功績で賜姓した姓
            である。式内社 海神社と同じ但馬國城崎郡式内社として 物部神社
(現社名 韓國神社:豊岡市城崎町

            飯谷)がある。「韓國連久々比命が海神社を絹巻山に移転して海神社絹巻大明神と称す。」とは、 

                   既に白鳳三年当時から荒廃していたとでも云うのだろうか。
  ・矢田神社(丹後市久美浜町海士)式内社、丹波国熊野郡
     祭神:建田背命、配祀:和田津見命・武諸隅命
           由緒:川上摩須(丹波道主命の舅 須田伯耆谷の王)が勧請す。 
3 丹波海部直:丹波及び尾張国造の中に海部直、亦は、海部直の祖と云われる人々おり。(前報参照)
4 吉備海部直:海部を統轄した海部直の、吉備国を本拠とした氏族。
 ・「国造本紀」はこの地に大伯国造が置かれていた事を示し、吉備海部直が大伯国造だった可能性は高い、とされる。
5 阿波名方海部直:都弥自宿(明石国造)の子・海田作は阿波名方郡海直の祖と云われる。
6 青海直:御戈命(頸城国造)の子・幣久利(頸城直・青海直祖)

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  こうして見ると、

  ・海人族は対馬・壱岐・筑前の地にはじまり、

      ・日本海沿岸では、西は出雲・但馬・丹後・若狭、東は能登半島を越えて頸城まで展開し、

    ・瀬戸内海では、児島・穴海の吉備海部直、明石の五色塚一族、及び、

   その分派の阿波名方郡の海部直へと展開していることを確認出来ます。

 

 亦、前報では、

  ・丹波海部直は丹波(但馬・丹後)から尾張へ展開し、

  ・丹波国造・倭得玉彦命は淡海・伊賀へ足を伸ばし、

  ・その子・弟彦命は淡海から三野(美濃)国造へ、

  ・更に、その子・淡夜別命は阿波長国へ旅したことがその阿波長国での祭祀で確認しました。

 

 このまとめからは、安曇族はその定住地に綿積神を祀り、その勢力は諸処に展開した、と云えるでしょう。
     ・但し、ここでは広義の安曇族を云い、綿津見神・豊玉神・住吉神・宗像神の諸族を含みます。

    いずれ時期を見て広義の安曇族に一考を加えます。
     ・豊後や隠岐・能登輪島の諸国にも「海政官・海部直」が設けられただろうと推測します。

    だが、それを伝える古史料が入手できませんでした。

(2)  振魂命は綿津見神の子・・裔に海直あり

<1>  振魂命の裔に海直(海政者)あり

 

   次の図表3は、色々な系図を用いて接続して得たものです。

 基本的な元系図は「倭(倭国造)・大倭国造」(古代豪族系図集覧)です。この図に色々な系譜(末尾に示す)を接続しています。

 引用した元系図の正しさレベルによりこの図表3の信用度が決まりますが、今は、元系図の吟味は致しません。


   

 

  この図表3で判ることは、各地の海直の起源がこの振魂命*(綿津見神の子神、布留多麻命)に見られることです。リストします。
         1 御戈命(頸城国造)とその子・ 幣久利(頸城直・青海直祖)
   2 都弥自宿禰(明石国造)の子・海田作(海直)(阿波名方郡海直祖)
   3 都弥自宿禰(明石国造)の孫・海古根(海直)、及び、裔・稲人(都弥自宿禰6世孫) (西海直)
   4 吉備海部乙日根とその女・黒日賣(仁徳帝采女)

        *振魂命は、「新撰姓氏録:481」により、「和多羅豊命児」とされます。
        亦、「和多羅豊命」は、「新撰姓氏録:477」により、「海神・綿積・豊玉彦神」と同神とされます。
                          参考・新撰姓氏録:481右京神別地祇 八木造     和多羅豊命児布留多摩乃命之後也


  そこで、この図表3について以下に系譜別に記述し、且つ、寸論します。

<2> 御戈命は頸城国造となる

  御戈命は頸城国造に任じられると、その子・幣久利は頸城直を賜姓、青海直祖と呼ばれます。
      ・国造本紀:崇神朝、大和直と同祖・御戈命を国造に定められた。

 それは崇神朝のことです。操船力のある海人族だけが船で親不知・子不知の沖合を抜けて、越前から越後に至ることができ、頸城の地に新展開出来たと思われます。

 先住者は、縄文人(丸木舟)か、二田物部の先駆者(丸木舟、亦は、準構造船)の可能性があります。


<3> 市磯長尾市宿禰は瀬戸内海の海直の太祖か

   市磯長尾市宿禰は、「日本書紀」によれば崇神朝~垂仁朝の人です。

 この図表3の系図に従えば、子・矢代宿祢の裔に海直を多く見ますので、市磯長尾市宿禰は瀬戸内海の「海直の太祖」と見る事が出来ます。
 

   市磯長尾市の別な子・五十野宿禰の裔からは、倭直・倭国造・倭連・大倭忌寸・大倭国造を賜姓した人々が出ています。

 

 これは「国造本紀」が「神武朝の御世に、椎根津彦命を初めて倭国造とした。倭直の祖である。」と記していることに対応しています。

    ・市磯長尾市(倭国造、倭直祖、崇神~垂仁朝の人)     (出所)「日本書紀」
   ・崇神天皇7年8月7日条:倭迹速神浅茅原目妙姫
(倭迹迹日百襲姫命)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君ら3人は同

                                          じ夢を見て、大物主神(大神神社祭神)と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主を夫々大田田  

                                         根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になると夢告があったと天皇に奏上した。
     ・崇神天皇7年11月8日、夢告通りに大田田根子と長尾市とに祀らせると、疫病は収まって国内は鎮まったという。
     ・垂仁天皇25年3月条「一云」:同様の記述あり。三輪君の祖・大友主と倭直の祖・長尾市を遣わし天日槍て、
   ・垂仁天皇3年3月条  「一云」:三輪君祖の大友主と共に新羅から渡来した新羅皇子・天日槍を尋問するため、

                                                   市磯長尾市播磨に行くよう天皇から命じられた。
     ・垂仁天皇7年7月7日条:当麻蹶速の相撲相手として出雲の野見宿禰を連れてくるよう命じられた。

 

   市磯長尾市宿禰は、椎根津彦命を祖とする故に、「瀬戸内海の海直の太祖」とも云えるのです。

 

<4>  都弥自宿禰は播磨国の明石国造


 「国造本紀」は都弥自宿禰は応神朝に明石国造を賜姓したと伝え、その父は八代足尼だとします。

 「八代足尼」は上の図表3で云う「矢代宿禰」に通じます。

 明石国造の居所近くには綿津見神を祀る海神社が鎮座し、且つ、綿津見族首長を埋葬したと思われる五色塚古墳が威容を誇る神戸市垂水区は古代の明石郡なのです。

  ・五色塚古墳:当社西方約550mには兵庫県下最大の前方後円墳・五色塚古墳あり。その成立は二世紀末から五
                世紀初めとされ、瀬戸内海の海上航路の重要地である明石海峡大橋を望む高台に造られています。
                    この墳丘を覆っていた茸石は、明石海峡を挟んでだ岸の淡路島から運んできたものと云う。

                            被葬者は、海人を治め、当地を勢力圏とした豪族と思われる。

 

 そして、明石国造家は綿津見族・大倭直裔なのです。(図表3)
    ・国造本紀:明石国造・・応神朝、大倭直と同祖・八代足尼の子・都弥自足尼を国造に定められた。
 

 都弥自宿禰の裔はこの明石の地で海部直を継いだようです。
    ・メモ:都弥自宿禰(明石国造)の孫・海古根(海直)、及び、裔・稲人(都弥自宿禰6世孫) (西海直)

<5> 阿波名方郡の海直の祖・海田作(海直)は都弥自宿禰(明石国造)の子なり

   図表3によれば、阿波名方郡の海直の祖・海田作(海直)は都弥自宿禰(明石国造)の子です。
  これは、海田作が明石から四国阿波に船で渡った事を意味します。

 この人が「阿波名方郡の地で海直の祖となった」と伝える知見には思い当たる節があります。
   阿波名方郡で鎮座する式内社に豊玉神系の祭祀が多いのです。

 名方郡の中心地は気延山です。嘗て、その頂上に鎮座していた天石門別八倉比売神社(阿波国一宮・式内大社)今はその中腹に遷座しています。
 この名方郡の式内社にはこの他に天石門別豊玉比売神社、和多都美豊玉比売神社があり、祭神は豊玉姫命(天石門別豊玉比売)なのです。綿津見豊玉彦系の海人族です。

  図表4           阿波の海神祭祀
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  勝浦郡:朝立彦神社(徳島市飯谷町小竹)式内社 阿佐多知比古神社          祭神:豊玉毘古命 豊玉姫命
       ・速雨神社(徳島市八多町板東) 式内社 阿波國勝浦郡               祭神:豊玉比女神、
    名方郡:式内社 天石門別豊玉比売神社・和多都美豊玉比売神社
       ・雨降神社(徳島市不動西町)                                                  祭神:豊玉姫命
       ・豊玉比売神社(徳島市眉山町大滝山、春日神社境内社)祭神:天石門別豊玉比売
       ・王子和多津美神社(徳島市国府町和田宮の元)                   祭神:豊玉姫命  和多都美豊玉比売神社
         ・王子神社(名西郡石井町高原桑島)式内社、別名:豊玉毘売神社、祭神:豊玉比売命
         ・王子神社(名西郡石井町高原中島)式内社、別名:豊玉毘売神社、祭神:豊玉比売命
         ・雨降神社(徳島市不動西町)式内社 天石門別豊玉比賣神社、        祭神:豊玉媛命
                      式内社 和多都美豊玉比賣神社
           ・ 大御神社(神山町、上一宮大粟神社境内社)                          祭神:豊玉姫命
    那賀郡:宇奈爲神社(那賀郡那賀町木頭字内の瀬)式内社                     祭神:豊玉彦命 豊玉姫命 玉依姫命
    美馬郡:横田神社(三好郡東みよし町加茂字中村)                                祭神:市杵島姫命

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       注 海神祭祀のない阿波国の郡:麻殖郡:8座(大1・小7)・板野郡:4座(大1・小3)・阿波郡:2座(小2)
                                                                        (出所) 「延喜式神社の調査」(阜嵐健)


  海田作の子孫はこの阿波名方郡の海直になったと思われます。
  前報(*)では、阿波を取り上げたのに、当時は調べ不足でこれを漏らしていました。今、「阿波名方郡の海直」をここに明記することが出来たのです。
                *磯部5 黒島磯根御食媛、淡夜別命、そして、和奈佐大祖、2024年05月27日
    


   海田作の子孫がこの名方郡の海直になった事は、云われてみれば、成る程と判ります。
 だが、情報が与えられるまでは、判らないものです。

   瀬戸内海を横断する船交通は、当時も、多かったのでしょう。
 海田作は、明石から四国阿波に渡り、阿波名方郡(現・徳島市の中枢部と見て良い)の海直の祖となったのです。
 前報した様に、淡夜別命(尾張氏)は三野、亦は、尾張から遠路、阿波長国に到来し、式内・ 和耶神社(阿波国 那賀郡)に祀られています。この地に活躍し、骨を埋めたのでしょう。
 古代人は、結構、長途の旅をしているのです。

<6>   黒島磯根御食媛を登場させた二つの理由

 この図表3には黒島磯根御食媛が、またしても、登場しています。
 

 黒島磯根御食媛を図表3に登場させたのには理由があります。

  この再度の登場の二つの理由を説明します。

<6-1> 理由1:黒島のつながり

  三年前、黒島の所在を探して児島半島や瀬戸内市まで行ったのに最終的に黒島を見逃しています。                              

                   参照:阿波古史試論(4) 天背男命 八倉姫命に妻問いす 2021年10月05日

 

 前報では、黒島磯根御食媛は、振魂命の女で、阿波の忌部氏祖・大麻比古命妃だと判り、驚かされたものです。               参照:磯部5 黒島磯根御食媛・淡夜別命、そして、和奈佐大祖

 今回、黒島古墳の存在を知り、黒島磯根御食媛は吉備・牛窓の「黒島」(瀬戸内市牛窓町)の出身ではないか、とする推理が浮上したのです。

 確かに、瀬戸内市牛窓町に「黒島」があり、そこには「黒島古墳」も「黒島貝塚」もあり、です。「牛窓町史」を見ると「黒島」の牛窓古史上の重要性が認められるのです。

 黒島古墳(岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓)「吉備の穴海」を東西に抜ける航路を監視する位置にあり、

これに対比出来るのは五色塚古墳でしょう。

   ・五色塚古墳は、明石国造の本拠にあり、明石海峡を眼下に見る位置にあり、海神社はその麓に鎮座します。

 

 図表6  黒島古墳 ・・築造時期は5世紀前半~中葉と推定。黒島には定期便が無い島だが人家はある。────────────────────────────────────────────

  ・黒島は牛窓港から南約2kmに浮び、その中央の山上33mに、5世紀前半に築造の黒島古墳(未発掘)がある。
     ・墳丘上に武内神社が鎮座する由です。

     ・墳形は前方後円形で、前方部を南西方向に向ける。墳丘は2段築成と見られる。
         ・墳丘外表に葺石、円筒埴輪片・形象埴輪片(蓋形・家形・人物埴輪)・須恵器・土師器・陶質土器を検出。
         ・埋葬施設:後円部に武内神社、南側に推定天井石が一部露出)、前方部にも竪穴式石室の盗掘坑が認める。
         ・この前方部石室は長さ2.4m・幅0.65m・高さ0.4mを測り、内面には赤色顔料が塗られる。     
         ・他に後円部東側にも箱形石棺があり、1933年調査で人骨のほか鉄剣・鉄鏃・矢筒金具などが出土。
         ・周辺では北側に陪塚と見られる黒島2号墳(直径10-12mの円墳)の築造あり。
     ・黒島自体は本古墳の規模に見合わない小島であることから、被葬者は広く牛窓湾を基盤として活動した
      と推測され、他の前方後円墳4基と共に当時の牛窓湾の港湾としての政治的重要性を示す古墳になる。

     ・前代の牛窓天神山古墳とは50-80年の間が空くが、間に首長墓は認められないため、本古墳被葬者が
      牛窓天神山古墳被葬者の直接的後継者になるか、1代空いた後継者になるか、が吉備地方全体の政治動向を
      考察する上でも注意される。
     ・亦、吉備地方では陪塚を伴う古墳は造山古墳・両宮山古墳などと少ない点、当時貴重な初期須恵器を伴う点、
      全国的にも最古級の人物埴輪を伴う点、朝鮮半島の陶質土器を伴う点などで、ヤマト王権・吉備中枢部・
      朝鮮半島を間に活躍した被葬者像が示唆される。

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 以上が黒島磯根御食媛を再登場させた第一の理由です。
      

 加藤謙吉先生によると、黒島古墳に関係すると見られる前方後円墳5基が牛窓湾を取り囲む様に造営され、その内の一墳は消滅したが、この牛窓湾岸の五古墳は吉備海部直一族のものだ云います。                  

                        参照:「日本古代の王権と地方」加藤謙吉著(大和書房)、2015年


<6-2> 理由2:黒島磯根御食媛の妹・大野手媛命は小豆島に鎮まる

   図表3の黒島磯根御食媛から右に「大鐸比売命」を見ます。
 この大鐸比売命は大野手比賣と同神として見られていて、牛窓の対岸・小豆島に鎮座しています。
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  ・大野手比賣は小豆島の星ヶ城山817mの頂上(寒霞渓ロープウェイ終点から直ぐ)に鎮座されています。
      ・阿豆枳島神社(香川県小豆郡小豆島町神懸通、・・寒霞渓星ヶ城山頂)
           祭神:(西峰) 大野手比賣(小豆島の神)、罔象女神
              (東峰) 豊受大御神、天之御中主神、高皇産霊尊、瓊瓊杵尊、天児屋根命、天太玉命
            由緒:古事記に曰く「次に小豆島(あずきしま)を生みたまひき亦の名は大野手比売と謂ふ」。
               往古より我が小豆島の祖神である阿豆枳島神社は最高峰星ヶ城の頂上に鎮座します。
           ここ寒霞渓の三笠山の拝殿は昭和37年11月に建立されたもので、毎年9月16日祭
           典を斎行しています。例大祭は星ヶ城山頂と寒霞渓の三笠拝殿で催されます。

                                        (出所)   境内由緒書
     ・大野手比売は小豆島の各地に祀られている
        ・大野手姫神社(香川県土庄町肥土山、小豆島銚子渓自然動物公園お猿の国内)
          ・島玉神(小豆島町蒲生)
                                      (出所) 「小豆島巨石探訪」山陰百貨店―日常を観光する―(山陰百貨店・店主)
        注・・「諸系譜」は布留多摩命(振魂命)の女・大野手比売の別名に天日方奇日方命の妻・日向賀牟度美良姫

        の名を挙げています。ここでは、大野手比賣=大鐸比売命=日向賀牟度美良姫です。
          ・大多摩流別(周防大島)の妹とされる大野手(鐸)比賣は、夫君・櫛日方命(天日方奇日方命)を迎え、
         健飯勝方命の母となり、三輪氏・鴨氏の祖とされます。
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                                                  参考:特論:玉祖命一族は瀬戸内海に展開した 2021年11月10日


   これを踏まえた上で、海田作が「名方郡海部直祖」と云われる事の意味が判るのです。

   牛窓の黒島から小豆島(土庄町)まで海路13km、小豆島から讃岐(高松市)まで20kmなのです。
 古代の備前・播磨と讃岐との交流は充分あり得るのです。

    参考・景行天皇の播磨行幸は夙に有名です。正后・播磨稲日大郎姫は播磨女性です。
      ・景行天皇妃・五十河媛が生んだ神櫛皇子は讃岐公(讃岐国造)・酒部公祖となり、

          次子・稲背入彦皇子は佐伯直・播磨直(播磨国造)祖となっています。

      ・これらは播磨・讃岐の交流の証と云えましょう。

   ここに、吉備海部直一族の内には、牛窓から黒島(黒島磯根御食媛)、小豆島(大野手比賣)、讃岐・阿波(海田作・海部直祖)へと海上を島伝いに渡った人々がいた可能性を見るのです。第二の理由です。
              
(3)  吉備海部直

 「吉備海部直」は、図表3の説明の続きなのですが、特別扱いで独立して扱います。


<1> 吉備海部直は振魂命に出ず。

   吉備海部直族は吉備津彦族と関係があると見る向きもあります。
 だが、この系図に信を置く限り、吉備海部直は振魂命に出たことは明らかです。

 そして、振魂命は綿津見神の子です。

 

<2>  赤磐市是里の宗形神社に黒日賣伝承あり

  「古事記」(仁徳記)は「吉備の海部直の女・黒日賣」を伝えます。

 系図3は、「黒日賣は吉備海部乙日根の女ムスメだ」と明かしています。これは出来過ぎです。

 黒日賣はその端正美麗な容姿を買われ、仁徳帝の采女として仕えていたのですが、仁徳帝大后の

嫉妬に耐えず帰国すると、帝はその後を吉備国まで追ったと云うのです。

 その黒日賣伝説は赤磐市是里の宗形神社に遺ります。

 海部直に関わる黒日賣伝承は海岸からーkm奥に遺っていたのです。
      ・宗形神社(岡山県赤磐市是里)備前国 赤坂郡鎮座
     祭神:多紀理比売命 市寸島比売命 田寸津比売命
     由緒:仁徳天皇は吉備国海部直の娘黒比売を寵愛し、吉備国山方に幸行された。
        黒比売は帝を当社に奉迎し方物を採り、歓饗し奉った。帝は喜び
        「山方に、播ける青菜も吉備女ヒトと共にしつめは、たぬしくもあるか」と詠んだ。

        是より以降、今に至る迄諸人挙て「山方の大宮」と称すると云う。
       ・「備前国神名帳」(神上金剛寺本)に「正四位下 宗形大明神」とある。

                                         (出所)  岡山県神社庁・・「延喜式神社の調査」(阜嵐健)

   是里・宗形神社は吉井川の上流にあり、邑久町豆田まで26kmの距離です。

   この一帯は現在瀬戸内市で、邑久町に北接する長船町も含み、往古、吉備海部直族の地だったとする説(後述)があります。
 豆田から鹿歩山古墳までは更に10kmありますが、そこは瀬戸内海に面する地です。
  重要なことは吉井川が是里・宗形神社と邑久町を結び、その下流一帯は古代に大伯国だった、とされていることです。まあ、問題含みではありますが、・・。
 
  亦、古代の吉備穴海の海岸近くにも式内・宗形神社(岡山市北区大窪)が鎮座しています。
 式内・是里宗形神社(赤磐市)からこの式内・大窪宗形神社までは直線距離で31km。共に宗像三女神を祀ります。
   ・宗形神社(岡山市北区大窪)式内社、備前国津高郡
              祭神:多紀理比売命 市寸島比売命 田寸津比売命 素盞嗚命
              由緒:神社本殿背後に、宗形神社古墳あり。
           崇神天皇の御宇勧請の式内の旧社なり。帝より宗形神社神領として神地三四町神月若干を附置かる。

                           依て、今に其の地名を京免及神戸と呼ぶ。
        ・明治4年、加之歴代の皇室御崇敬の余り、神付従四位上に叙せられ、後正一位に昇進贈位に預かる。
        ・往古氏子は七十五ケ村ありて、其区域、西南は旧赤磐群島月村(現岡山市)大字牟佐に至り、東北は

                          旧久米南條郡福岡村(現津山市)大字小布に至れりと云ふ。
               ・宗形神社古墳は、4世紀後半から5世紀前半(築造:古墳前期後半から中期前半)に築かれた中小首長の墓と

                          考えられており、盗掘もなく、古墳の高まりは、現況で直径約15m、高さ2mの円墳。
         ・頂部中央の埋葬施設は、丁寧に加工した板状花崗岩を組立てた箱式石棺。
         ・内面に赤い顔料が塗られ、長さ190cm、幅50cm、高さ40cmの棺内には、頭の方向を東西に違え

          て男女二体の人骨が残っていた。
         ・副葬:鉄製の斧・鍬・刀子、碧玉やガラス玉、青銅鏡(鏡は本来の大きさが20数cm。古い時代に

                                   割れ、破片状態で布に包まれていた)。
         ・眼下に見る大窪地区一帯を支配した中小の首長墓。


 ここから邑久町豆田までは、旭川・百間川・吉井川を挟んで、20kmです。
 この位置関係は参考図表に示します。

 


<3> 吉備海部直の記録は「日本書紀」にあり

   吉備海部については「日本書紀」(仁徳朝から敏達朝まで)にその活動が記されています。
 この頃、吉備海部直は海船操舵の技量を買われて対朝鮮半島外交に一役を担わされたのです。

 

 吉備海部直の登場する場面は、仁徳朝の5世紀前半から敏達朝の6世紀後半まで150年に亘る、色々な事件がありました。掘下げ・脱線はせず、その記事の概要をそのままご紹介します。

 

  図表7        吉備海部氏は「仁徳朝~敏達朝」(古事記・日本書紀)に登場する
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  仁徳朝・・吉備海部直の女、名は黒日売、仁徳帝はその容姿端正しと聞し召して、采女とす。(古事記)
  雄略朝・・吉備海部直赤尾
     ・・463・雄略天皇7年:
         時に新羅、大和朝廷(中国)に仕えず。天皇、田狭臣の子弟君と吉備海部直赤尾とに詔した、
        「汝、往きて新羅を討て」とのたまふ。是に、西漢才伎歓因知利、側に在り。乃ち、進みて奏 
                して曰さく、「奴より巧なるもの、多に韓国に在り。召して使すべし」とまうす。
          天皇、群臣に詔して曰はく、「然らば、歓因知利を以て、弟君等に副へて、路を百済に取り、 
                  幷せて勅書を下ひて、巧の者を献らしめよ」とのたまふ。
   敏達朝・・吉備海部難波 (敏達朝573~574年)
                  越に到着した高句麗使を送る役を命じられた吉備海部直難波は、使節二人を海中に投じ殺した。
                  それが露見すると、朝廷は吉備海部難波を処刑した。
      ・・吉備海部直羽島(551・敏達天皇12年)肥の葦北国造阿利斯登の子・達率日羅を迎えに朝鮮に渡
        らせた。羽島は日羅を迎え、吉備児島屯倉に着いた。
 
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<4> 「古代の大伯国・邑久郡は吉備海部直氏の拠点」説

 

 吉備には「海部郷」はなく、吉備海部氏の本拠地を特定するのは難しいです。
 これまで有力なのは「吉備海部氏の本拠地は古代の邑久郡」説です。
  ・「吉備古代史の展開」(吉田晶著)は「海部の本拠地は牛窓のある邑久郡である」(第5章三「吉備の海部につい

   て」)旨の論考を発表していますが、未読です。

 その論拠は次の諸情報かも知れません。
    1平城宮跡出土木簡:備前国邑久郡石上郷に戸主・海部三□□いう人物がいた。(年代不明)
    2「類聚三代格」 :731・天平3年6月24日、備前国の海部が聖武天皇に供奉した。
    3長和4(1015)年4月21日付の備前国司解案(前田家本「年中行事秘抄」裏書):
        少領・外従五位上・海宿禰共忠が「老耄」のため、擬太政(大領)従八位上・海宿禰恒貞」

         を少領とすることを求めている。

 

 このため、「古代の大伯国・邑久郡は吉備海部直氏の拠点」説が出されているのです。

        注 大伯国:備前国久邑郡、吉井川東側の岡山県備前市・瀬戸内市・岡山市の一部)

 

 大伯国の初代国造には、応神朝、神魂命7世孫・佐紀足尼命が任命された、と「国造本紀」は伝えます。この国造は神魂命系なので、吉備海部直氏は綿津見神系の振魂命系とする立場からは、系統が異なる事を認めなければなりません。「国造本紀」:応神朝に神魂命7世孫・佐紀足尼命を大伯国造に定めた。

 

 ところが、この国造・佐紀足尼の記事を離れると、後世には海宿禰が登場するのです。

   ・再掲:3長和4(1015)年4月21日付の備前国司解案(前田家本「年中行事秘抄」裏書):
          少領・外従五位上・海宿禰共忠が「老耄」のため、擬太政(大領)従八位上・海宿禰恒貞

            を少領とすることを求めている。

 

   この海宿禰・共忠(或は、恒貞)を吉備海部直の後裔と見ると、その本拠は邑久郡を中心とする地だろう、とする推理が成立つのです。

 これは、時代変遷の中で、国造家が変わったとする前提の下に受け入れることになりましょう。

 

   吉備海部直の領域を邑久郡だとすれば、綿津見神を祀る式内社がある筈だと期待します。

 だが、その期待は裏切られます。阿波名方郡の豊玉神祭祀の盛大さとは真逆の姿を見ます。
 

 綿津見神の祭祀はなく、宗像神の祭祀があるのです。

     備前国・邑久郡に綿津見神の祭祀なし。

        ・赤坂郡・津高郡に式内・宗形神社各一社あるのみです。

     備中国・下道郡の嚴島神社に主祭神としての宗像三女神を確認し、穴門山神社・神神社の  

         二社に合祀神としての宗像神を見ます。

 

 「古代の大伯国・邑久郡は吉備海部直氏の拠点」説も、中々、確固たる基盤を持ち難いのです。