問題は、磯部氏は「海の民」(海人族)なのか、それとも、「磯の民」(海士族)なのか、です。
これを確認するため、先ず、海人族を吟味します。
海部氏は海人族だと考えて、初めに取り上げましたが、どうも違うかも知れません。
海部氏は「海人族を統括する海政官」と見るべき、だと思う様になりました。
それは紀記と「但馬故事記」の記述に基づきます。 まあ、ご覧下さい。
目次 海人族1・・海部氏編
(1) 海部氏
<1> 海部直命・・但馬・丹後の海部氏のはじめ
<2> 海部氏は原尾張氏から分れる
<3> 但馬海部氏の拠点移動
(2) 尾張国への勢力圏の拡大と海部直との分離完了
<1> 尾張氏の誕生
<2> 尾張国海部郡の歴史推移
<3> 尾張海部郡・中島郡の海人祭神
(3) 「但馬海直」は時間矛盾(疑問)を露呈する
<1> 海政者は各海部区域に置かれたのではないか
<2> 海政令の施行時期に付いての疑問
<3> 最大の時間矛盾
(1) 海部氏
「倭名類従抄」の郡郷名に「海部」がある国々は古代海部氏の関わる海人族の居住地だったと思われます。
応神朝に海人部(紀)・海部(記)を設けたと記録があります。
・日本書紀:応神天皇5年秋8月13日、海人部、山守部を定めた。
・古事記 :応神天皇の御世に、海部、山部、伊勢部を定め給ひき。
・但馬(城崎)故事記:第15代応神天皇3年夏4月、大山守命に山海の政を統治させた。
・大山守命は、海部直命(多遅麻国黄沼前県主・水主命の子)に当国の海政を行わせ、
海部を司らせた。
前報「磯部1船形埴輪の歴史的な意味」では応神朝の特徴として「海船と対韓文化交流」(日本書紀)と「海」絡みを挙げましたが、「海人部」を設けたのは「海の時代」の重視を意味し、この時、海人を管理統括する海政職を設けたと見ます。
つれて、海の活動(船の入出港、各種漁業活動)に関わる地域に「海部郡」或いは「海部郷」を設けたのではないか、と見ます。
図表1は「古代の海部地名(倭名類従抄)」を示し、西から東にまで海部氏の居住地区が広く展開している様が読み取れます。
尚、「倭名類従抄」は承平年間(931~938年)に書かれていることをご留意下さい。
後に、図表1の太文字の「丹後国熊野郡海部郷」・「尾張国海部郡海部郷」・「伊勢国河曲郡海部郷」を取り上げて考察する事になります。
亦、海部氏所縁の当ブログの次の先行報文からも情報を採り入れます。
参照:丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須 2019年10月20日
丹波古史3 尾張氏の源流・本流・分流を探る1 2019年11月10日
丹波古史4 尾張氏の源流・本流・分流を探る2 海部直の丹波展開 2019年11月19日
丹波古史5 尾張氏の源流・本流・分流を探る3 丹波国造・海部直の地位を得た人々 2019年11月30日
丹波古史6 尾張氏の源流・本流・分流を探る4 尾張氏への接続 2019年12月11日
尾張古論1 尾張氏の発展 2019年12月16日
海人部は応神朝に設立されたとしても、海部地区の実態は、開化~崇神朝に始まり、元正朝(養老年中)の頃に一段落したと見ます。
<1> 海部直命・・但馬・丹後の海部氏のはじめ
応神朝に海人部が設けられると、その但馬海部の管理職には海部直命が任じられた様です。
「但馬故事記」(城崎故事記)が海部直命について詳述しています。
この海部直命は、天香語山命6世孫・建田背命の孫で、城崎郡に拠点を置いています。
次はその引用です。(図表2)
図表2 海部直命についての伝承(城崎故事記)
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第15代応神天皇3年夏4月、大山守命に山海の政を統治させる。
・大山守命は、海部直命(多遅麻国黄沼前県主・水主命の子)に当国の海政を行わせ、海部を司らせる。
第16代仁徳天皇10年秋8月、水先主命の子・海部直命を城崎郡司(黄沼前県主改め)、兼、海部直とする。
・海部直命は諸田の水害を憂い、子の西刀宿祢命に命じて、西戸水門を浚渫させ、それにより、御田
はたわわに生ると云う。海部直命は水先主命を深坂の丘に葬る。式内深坂神社:豊岡市三坂・見手山
第17代履中天皇:海部直命の子・西刀宿祢命を城崎郡司とする。西刀宿祢命は海部直命を気比の丘に葬る。
・海部直命は、在世中は仁政多くあり。故に農民・漁民など父母を亡くしたように哀悼し泣く。
その後、相談して国司に請い、祠を建て祀る。海神社がこれである。
この由緒により、天災風害があれば必ず祓い、不漁のときは必ず祈る。ある日、御霊が信者に告げた。
「海を守るは黄沼前宮に坐す海童神にあり。船を守るは神倉宮に坐す船魂神にあり。この海童神
をこの地に勧請し、歳時にこれを斎き祀れ。われ風災のたびにこの神などに供しまつり、難船
を救わん。もし社頭に不時の神火が顕れれば、すなわち災いが起きるものと思え」と。
地元の民は、これを城崎郡司、西刀宿祢命に申上げた。
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(出所) 「城崎郡故事記」(但馬国ねっとで風土記) 山根浩二
注 山根浩二氏(但馬国ねっとで風土記の著者)は、応神天皇3年を西暦272年、仁徳天皇10年を西暦322年として
います。これは当ブログの時代観とは百年ズレがあります。
建田背命はこの海部直命の祖父なので「海部直の祖」と云われ、そればかりか、神服連、丹波国造、但馬国造らの祖とも云われます。
天神本紀:天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の亦名を天火明命・天照国照彦天火明尊・饒速日命と云う。
饒速日尊の子・天香語山命の六世孫・建田背命は神服連、海部直、丹波国造、但馬国造らの祖である。
引用:武田背命の子・武身主命(水先主命)、海部直命は城崎郡の拠点を固めます。
・孫は、応神天皇皇子・大山守命は「但馬の海政」を任せ、「海部直」の名を賜姓します。
ここに但馬海部が誕生します。
この人は上代天孫族の要人の一人で、海部氏と云うよりは原尾張氏の祖とも云うべきで、やがて、子孫が尾張氏を興し、そこから海部氏や丹波国造も分かれて行くのです。
参考:丹波古史5 尾張氏の源流・本流・分流を探る3「丹波国造・海部直」の地位を得た人々 2019年11月30日
「新撰姓氏録」は日本海沿岸域の「海」に関わる氏族を伝えます。この内、但馬海直は正に今ここに論じる「海部直」所縁の人でしょう。
・409左京神別天孫 但馬海直 火明命之後也
・480右京神別地祇 青海首 椎根津彦命之後也
・611摂津国神別地祇 阿曇犬養連 海神大和多羅命三世孫・穂己都久命之後也
<2> 海部氏は原尾張氏から分れる
海部氏は原尾張氏から分れたと見ます。
先ず、天香語山命6世孫・建田背命の時から「丹波首長」としての立場が明確に顕れ、次に、この人の後継者達はいずれもその肩書きが「丹波」を冠に掲げている事がそれを物語ります。
6世孫・建田背命は初め「丹波県主」でしたが、最後は「丹波宰」を名乗ります。
・「天孫本紀」で見ると、丹波国造への流れは、
6建田背命(丹波宰)→7建諸隅命(丹波縣主)・8倭得玉彦命(丹波国造)と続いています。
・6武田背命の子・7武身主命、孫・8海部直命は遂に城崎郡の拠点を固め、応神天皇皇子・大山守命から 「但馬の海政」を任され、「海部直」の名を賜姓します。ここに但馬海部が誕生したのです。
7世孫・建諸隅命は、最早、「県主」ではなく、「丹波大縣主」を名乗ります。
8世孫・倭得玉彦命は「丹波国造」を名乗りますが、それだけではなく、倭得玉彦命は丹波から淡海・伊賀へと
勢力圏を拡大します。その顕れは、この命は、淡海国の谷上刀婢を妻として弟彦命を生み、伊我臣の
祖・大伊賀彦の娘・大伊賀姫を妻として、四男をお生みになります。
参考:丹波古史2 建田背命・建諸隅命・川上麻須 2019年10月20日
9世孫・弟彦命は「三野(美濃)国造」になり、弟彦命の弟・若都保命は尾張で伊福部氏を興すのです。
10世孫・淡夜別命は大海部直らの祖。弟彦命の子である。
「丹波国造・海部直」の地位を得た人々は、この段階では、丹波国造と海部直を兼任しているかの如くに見え、更に後世には、海部直は丹後国一宮・籠神社の社家となって、古代から現代まで籠神社宮司を世襲しています。
参考:丹波古史4 尾張氏の源流・本流・分流を探る2 海部直の丹波展開 2019年11月19日
丹波古史5 尾張氏の源流・本流・分流を探る3 「丹波国造・海部直」の地位を得た人々 2019年11月30日
丹波古史6 尾張氏の源流・本流・分流を探る4 尾張氏への接続 2019年12月11日
<3> 但馬海部氏の拠点移動
但馬海部氏は、初期の頃、但馬国内の美伊・城崎・朝来へと拠点を配していた様てす。
名神大社・海神社は城崎に鎮座し、その祭神が大綿津見命であることに注目します。(参照:図表3)
矢田神社(丹後市久美浜町海士)はその次の拠点だったのでしょう。
但馬から丹後熊野郡に拠点を移した理由はよく判りません。
だが、海神社が「白鳳年間~大宝元年の地震」により被害を受けた可能性があります。
荒廃した社を中世以降、対岸の絹巻神社の地に遷座したのではないか、と見られています。
海神社は、663・白鳳3年、絹巻神社の相殿に遷されています。
この白鳳3年は大変な年で、「白村江の戦い」の敗戦がわが国の中央政治と外交に大きな影響をもたらします。
紀伊半島から四国南岸に及ぶ「白鳳の大地震(南海トラフ大地震)」の大被害が起こっています。
舞鶴湾の凡海郷の島々が海没したのも大凡この頃かも知れません。
「続日本紀」は「大宝元年三月己亥、丹波国地震三日」とのみ伝えています。
日本海側にも別な大地震があったようです。大宝元年と云えば、文武朝で西暦701年です。
引用:「丹後風土記」
その昔、大穴持、少彦名の二神がこの地に来られ、小島を寄せ集めて、大地を拵えられた。これを凡海郷
と云う。だが、701・大宝元年3月、大地震が三日続き、この郷は一夜の内に青海になってしまった。
海上に残った高い山の峰が現在の冠島と沓島である。ここに海部直と凡海連の祖神である、天火明神、
目子郎女神を祀る。」と。
この自然大災害を受けて、海部直氏は拠点を海神社から東南10kmの久美浜湾・甲山南方の谷川周辺に移動した、と見ます。
それが矢田神社(丹後市久美浜町海士)を中心とする新拠点です。
参照:丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須 2019年10月20日
その後、丹波国造・海部直の拠点は熊野郡(及び、熊野郡から分割された竹野郡)の域内を移動したか、と思われます。
参考表は当ブログの先行文(丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須)からの引用です。
参考表 丹波国・国府所在地の移動
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<人名> <丹波國・国府所在地)> <資料出所> (原資料からの引用資料)
・6世孫・建田勢命 熊野郡川上庄海部里 扶桑略記・・丹後旧事記・丹哥府志・熊野郡誌
・7世孫・建諸隅命 竹野里(丹後町竹野) 丹後旧事記
・7世孫・笛連王 五箇庄(網野町五箇) 丹哥府志
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開化朝の拠点・竹田神社(熊野郡)は、約四百数十年後の719・養老3年に、籠神社(与謝郡)へ移された事を意味します。国府(宮津市国府)は先に設けられていたかもしれません。
・この養老三年は、奈良時代・元正朝で、前年に養老律令が、翌年に日本書紀の編纂が完了します。
藤原不比等は養老四年、日本書紀を完成させてから死去しています。
参照:丹波古史4 尾張氏の源流・本流・分流を探る2 海部直の丹波展開 2019年11月19日
尚、これは推測ですが、丹後海部氏は籠神社に新たに主祭神:彦火明命を分祀・奉斎した時、それまでの主祭神・豊受大神を相殿に遷し、且つ、奥宮・真名井神社を奉斎したのでしょう。
参照:丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須 2019年10月20日
次に、但馬・丹波における海部直氏の拠点移動を総括します。
図表3 海部直の拠点移動
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<1> 第一次拠点:(但馬)美伊・城崎・朝来
・崇神天皇11年、武額明命が美伊県主になった時の中心地は美含郡香住区浦上でした。
・成務天皇46年、武額明命の子・武田背命が黄沼前県主になります。
中心地は城崎町小島(旧海部村)辺りと推定されています。
・應神天皇3年、 海部直命が多遅麻海部直 兼 城崎郡司になります。その時も、城崎町小島辺り
が中心地で、後に、「海神社」が祀られた地です。
神社・海神社(豊岡市小島)但馬国 城崎郡鎮座名神大
祭神:大綿津見命
由緒:海部直が没すると、子・西刀宿禰命が海神社を創始、奉斎した。
・絹巻神社(豊岡市気比絹巻)海神社(名神大) 但馬国 城崎郡鎮座
祭神:天火明命、配祀:天衣織女命 海部直命
由緒:仁徳天皇10年8月創立
白鳳3年、城崎郡司・韓国連久々比命が海神社を絹巻山に移転して、
海神社絹巻大明神と称す。
<2> 第二次拠点:(丹後国熊野郡)竹田神社
・丹波宰の建田背命とその子で丹波県主の建諸隅命は、いずれも丹波を治めます。
・その丹波国府は熊野郡海部郷(現久美浜町海士)だったと思われます。
・開化天皇が竹野郡を丹波郡から分割して竹野姫の屯倉とした時、竹野姫の父・建諸隅命が
これを管理し、その支配域は結果として拡大したように思われます。
神社・矢田神社(丹後市久美浜町海士)丹後国 熊野郡鎮座
祭神:建田背命、配祀:和田津見命 武諸隅命
由緒:式内社にしてその創立最も古し、按するに海士の地は往古神服連・海部の居住地
にして、館跡を六宮廻りという。
・海部直は丹後国造但馬国造等の祖にして、「扶桑略記」にも丹後国熊野郡川上庄
海部里を国府となすとあり。されば、海部直の祖たる建田背命及その御子武諸隅
命・和田津見命を斎祀れるも深き由緒の存するなり。
(出所) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
<3> 第三次拠点:(丹後国与謝郡)籠神社
・719・養老三年、海部氏は祖神を矢田神社から籠神社(丹後国与謝郡日置)に分祀します。
神社・籠神社(宮津市大垣)丹後国 与謝郡鎮座・式内社・名神大社、丹後国一宮
祭神:彦火明命、配祀:天照大神 豐受大神 海神 天水分神
異説:伊弉(射)奈岐大神・・「丹後風土記・丹後国式社証實考」
住吉同体三神・・「和漢三才図絵・丹波府志・日本地理志料」
豊受大神・・「丹後與謝海図誌・・籠太明神縁起秘傳・大谷寺奏状」
国常立命・・「丹後細見録・丹後旧事記」
大綿津見命・・「籠神社誌・府中村誌」
天水分命・・「古事記伝」
相殿:豊受大神・天照大神・海神(社家海部氏の氏神)・天水分神
・奥宮・真名井神社・祭神:豊受大神(月神の一面あり、天御中主神と同神)
相殿:罔象女命・彦火火出見尊・神代五代神
由緒:垂仁天皇の時、天照大神は伊勢伊須須川上へ遷宮
雄略天皇22年、豊受大神を伊勢国山田原に遷す
・注・・祭神・彦火明命は邇邇藝命の兄弟神、社家海部氏の祖神。天祖から息津鏡・邊津鏡を
賜り、海の奥宮である冠島に降臨、
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「仲原文書」は「養老年中、海部直家が祭神を熊野郡より与謝郡に分祀した」と明かします。
その分祀先は籠神社だとします。養老年中は717年から724年までを指します。
それに対応するかのように、「篭名神社祝部氏系図」には、彦火明命が「養老三年己未三月廿二日、籠宮に天下り給う」と記してある由です。
引用1「久美浜町誌」:海士の仲原家に伝わる古記録には次のように書かれている。
・神服直海部直:往古海ニシテ船ノ通シ処ヲ与謝郡籠守神社底筒男命卜心ヲ合セ、此ノ海浦ヲ分陸トナス(中略)
古、此処海ニテ有リシ故、此ノ里ヲ海士卜云、
亦海部トモ書ク、部ノ字分ツト云心シテ唱ウト也 此処ニ船縻松トテ大松アリ卜云
・神主ハ養老年中ヲ元祖トス 此時ノ舎弟神命及由緒ヲ以テ与謝郡籠守神社ニ仕
故ニ両者共氏ヲ海部ト名付ク (後略)
引用2:「仲原文書」によれば、養老年中、海部直家が祭神を熊野郡より与謝郡に分祀した。
「仲原文書」を裏書きするように、宮津市府中の籠神社に伝わる「篭名神社祝部氏系図」には「養老三年己未
三月廿二日、籠宮に天下り給う」とあり、養老年中に海士から府中に移り住み、そこで先祖神を祀ったことを
明らかにしている。
引用3:海部直・愛志は、養老三年(719)より天平勝宝元年(749)まで31年間奉仕している。
その子・三兄弟(千鳥・千足・千成、いずれも海部直)の名前の下に、養老五年(712)より養老十五年(722)ま で奉仕したと記されている。
・養老年中に二組の奉仕者があるわけで、これも「仲原文書」と共通する点がある。
「仲原文書」は、海部直の国府は、矢田神社(熊野郡)から籠神社(与謝郡)に、養老三年(719)に移転するまでは熊野郡海部郷海士にあった事を示唆します。
少なくとも、籠神社に祭神を分祀・遷座するまでは、矢田神社(亦はその近傍)が海部直の祖神祭祀の場だった、と云う事かも知れません。
以上の知識集約を通して、次の様に見ます。
天孫族(後の海部氏)の祖神は海神ではなく、天孫族は海人を統括する海政者であり、神事も掌り、海神・綿津見命を奉斎した、と読みます。
(2) 尾張国への勢力圏の拡大と海部直との分離完了
<1> 尾張氏の誕生
尾張氏は海部氏と同系です。原尾張氏が尾張氏と海部氏に分れたというのが正しい表現かも知れません。
天香語山命5世孫・建筒草命、6世孫・武田折命(建多乎利命)、武碗根命(建麻利尼命)、建手和爾
命、若都保命(弟彦之命の弟、9世孫)の五人は尾張国の式内社に祀られていますので、本人、亦は、その子孫が尾張国に渡来していることが明らかです。
天香語山命13世孫・尾綱根命が「尾治連」を賜姓以降、直系裔は「尾治」を名の「冠」としています。
参照・丹波古史5 尾張氏の源流・本流・分流を探る3「丹波国造・海部直」の地位を得た人々2019年11月30日
初期の尾張系譜(天孫本紀)は三人(乎止與命・建稲種命・尾綱根命)が記載されています。
天香語山命11世孫・乎止與命から、愈々、原尾張氏から転じて、尾張系譜に入ります。
注:この人は、「尾張系譜」(天孫本紀)では、第11世孫とされ、「国造本紀」(先代旧事本紀・天孫本紀も
この一部に属す)では「成務朝に天別・天火明命13世孫・乎止與命を国造に定められた」とあり、同じ
編纂の下でも、11世孫と13世孫との違いがここに存在しています。
・類似の事例は「大倉岐命」です。「国造本紀」が大倉岐命は12世孫・建稲種命の4世孫とするので
大倉岐命は16世孫とされています。
具体的には、16世孫とする資料では、13 志理津彦命、14川上眞稚命(丹波大縣主)、15丹波大矢田彦命
の後に16世孫・大倉岐命が来ている。
図表4はこれまでの「海部直」論の総括です。
「海部直」論のキー・パーソンは二人。
第一が建田背命:丹波宰となり海部直・丹波国造・』尾張国造の祖と云われた。
第二が弟彦命 :父・得玉彦命の勢力圏拡大を受けて、三野国造となり、ここから
淡夜別命(大海部直の祖)と小縫命(尾張国造の祖)に分かれます。
注記 *1 穴穂天皇、億計王・弘計王行宮を造る
*2 応神天皇5年8月壬寅海部定賜 「伊勢国度遇之山田原
*3 石部度会神主等祖、泊瀬朝倉朝(雄略天皇)22年7月、丹波国真名井原豊受け神供奉遷座
*4 母 尾治大印岐命女・真敷戸嫥命、志賀穴穂宮朝、定賜尾治国造
*5 纏向日代朝、従日本武命東征、同朝43年癸丑没海而死
*6 母 仁波県君祖・大荒田命の女・玉姫命、軽島豊明宮朝、為大臣供奉、同朝賜尾治連姓
<2> 尾張国海部郡の歴史推移
尾張国にも海部郡がありましたが、今、海部郡に海神祭祀を見出しません。
現在は、特記することナシです。但し、留意すべきは古代の地形です。河川の氾濫、海岸域の地形変貌を考えて、海神祭祀のない理由ワケを配慮すべきなのです。
海部郡に海神祭祀を見ず、その一段奥の中島郡には宗像三女神・住吉神の祭祀を見るのはその傍証かも知れません。
図表5 尾張国海部郡の河川氾濫
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・678・天武天皇7年の木簡(飛鳥京跡苑池遺構から出土)に「戊寅年十二月尾張海評津嶋五十戸・韓人部田根舂
赤米斗加支各田部金」と記載されていた由です。
・一郷は1000人とする目安があるので、当時の津嶋郷の人口は1000人と推定されます。
・701年、大宝律令の制定により評が郡となり「海評」は「海郡」へ改名されます。
・713・和銅6年、好字二字令により「海部郡」と記されるようになります。
・正倉院文書(奈良期)
・延喜式(927年成立)は海部郡を記載し、域内に駅家・馬津駅があったと云う。
・11世紀頃(平安後期)、海部郡は東西に分割されて海東郡と海西郡になった。海東郡と海西郡の境界は善太川の
旧河道と推定されている。(佐織町史通史編) 当地(今の岐阜県)は海西郡となった。
・1586・天正14年、大洪水により木曽川が郡内のほぼ中央を流れるようになった。
・1589・天正17年、豊臣秀吉の命により、尾張国と美濃国の境を新木曽川とし、海西郡は二国にまたがる郡となり、
美濃国海西郡が生まれた。
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「延喜式神社の調査」(阜嵐健)で、尾張国海部郡の8座8社を調べても、海神祭祀は見当たりません。海神祭祀はあったかも知れませんが、古くに絶えたと見ます。
<3> 尾張海部郡・中島郡の海神祭祀
そこで、この海部郡に北接(川上)する中島郡の式内社(30座・・大3小27)を調べると、宗像神二社(宗形神社・塩江神社)と住吉神一社(石刀神社)を見出します。
図表6 尾張中島郡の海神祭祀
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・宗形神社(稲沢市国府宮、尾張国 中島郡鎮座)祭神:田心姫命
・塩江神社(尾張国中島郡鎮座)
・勝幡神社(愛西市勝幡大縄場)祭神:菊理姫命、合祀:木花咲耶姫命 田心姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命
・石刀神社(一宮市今伊勢町馬寄石、尾張国 中島郡鎮座)
祭神:手力雄命 国常立尊 豊斟渟尊 国狹槌尊、合祀:天照大神 豊宇気毘賣神 軻遇突智神 大鷦鷯尊
中筒男命 事代主命 伊弉冉尊 菊理媛命 大己貴命
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但馬海直の縁戚が拡大展開した地域はここまでと見ます。
(3) 「但馬海直」は時間矛盾(疑問)を露呈する
この図表4は幾つかの系譜を統合しているため、円滑に結べている訳ではないのです。
そこに含まれている矛盾(疑問)をご紹介します。
<1> 海政者は各海部区域に置かれたのではないか
海政令の最も基本的な実施要領としては、対象地域数に応じた複数の海政職が任命された可能性があります。
対象となる海部の郡・郷各地の海政者は一名任命されていると「但馬故事記(城崎郡記)」で読取れます。
・但馬(城崎)故事記:第15代応神天皇3年夏4月、大山守命に山海の政を統治させた。
・大山守命は、海部直命(多遅麻国黄沼前県主・水主命の子)に当国の海政を行わせ、
海部を司らせた。
対象地域は全国に複数ある海部郡・海部郷なのです。それならば、但馬国以外の他の海部郡・海部郷にも海政者が任命されたのではないか、と思われるのです。
これは各地の海部郡・郷に記録があれば確認出来ることですが、ここは推測の儘で終えます。
<2> 海政令の施行時期に付いての疑問
海政令の応神朝の施行時期と海部直命の海政職受任については疑問があります。
第一に、応神朝に海政令の出された時期は「日本書紀」と「但馬故事記」とでは若干の差異(応神天皇3年と応神天皇5年)はあります。
だが、この2年差は、これからの議論と比べたら、大した事ではないのです。
・日本書紀:応神天皇5年秋8月13日、海人部、山守部を定めた。
・古事記 :応神天皇の御世に、海部、山部、伊勢部を定め給ひき。
・但馬(城崎)故事記:第15代応神天皇3年夏4月、大山守命に山海の政を統治させた。
・大山守命は、海部直命(多遅麻国黄沼前県主・水主命の子)に当国の海政を行わせ、
海部を司らせた。
第二に、「日本書紀」の海政令に関する記述二箇所の示す時間差は35年にもなります。
・先ず、応神天皇5年秋8月13日に「海人部、山守部を定めた。」とあります。
それなのに、応神天皇40年1月24日条は「菟道稚郎子は皇太子、大鷦鷯尊は太子の補佐役、大山守命は山川林野の
管理人に任じられた。」となっています。
これは第一に比べて大きく、応神天皇40年の施行だとすれば、大山守命の海政関与期間は著しく短いものとなります。
応神天皇40年に海政令が出され、応神天皇44年に大山守命が死ぬ状況では海政令の実質的な実施度は低くかったのではないか、とも疑われます。
・応神天皇41年春2月15日、応神天皇は薨去されると、大山守命は帝位を争うも、大鷦鷯尊に水死させられます。 亦、太子・菟道稚郎子は大鷦鷯尊に帝位を譲るべく自殺します。(日本書紀)
<3> 最大の時間矛盾
最大の矛盾・疑義は但馬海直(海部直命)の任命時期が早すぎることでしょう。
「但馬故事記」によれば、「但馬海直」に任命された海部直命は天香語山命6世孫・建背田命の孫ですから、天香語山命8世孫・倭得玉彦命と同世代の筈です。
倭得玉彦命は崇神朝に起きた陸耳御笠の乱鎮圧に功あり、丹波国造に任じられた人です。
前に記した事ですが、「但馬故事記」は「第15代応神天皇3年夏4月、大山守命に山海の政を統治させる。大山守命は、海部直命(多遅麻国黄沼前県主・水主命の子)に当国の海政を行わせ、海部を司らせる」の後に「第16代仁徳天皇10年秋8月、水先主命の子・海部直命を城崎郡司(黄沼前県主改め)、兼、海部直とする」と記すのです。
崇神朝と応神朝の時間格差は約百年あります。これが上に云う最大の時間矛盾です。
図表4の左下は「尾張氏系図」(宮内庁書陵部)です。
ここにある「14世孫・佐布古直」も注記に「 応神天皇5年8月壬寅海部定賜」とあり、海部姓を賜った事を示します。
その右は「天孫本紀」に基づく「尾張氏系図」では、13世孫・尻綱根命は応神朝に大臣・大連となり尾治連を賜姓しています。亦、14世孫・尾治弟彦連は仁徳朝に大臣となります。
従って、応神朝に海部定賜の14世孫・佐布古直は右図と13~14世孫達と世代が一致しますので、14世孫・佐布古直の方が8世孫・海部直命よりも応神朝の人らしく見えるのです。
「但馬海直」の話を但馬から丹波・淡海・三野・尾張へと転じさせてきた積りなのですが、この系譜絡みの時間矛盾に行き当たりました。折角の推論も、再々の事ながら、時間軸について信憑性の薄い話となりました。
続く