主な「礒部氏の謎」は次の四つです。
    謎1  度会氏・宇治土公氏)は、同系ではない二系なのに、共に礒部氏であるのは何故か。
    謎2  礒部氏の系譜が見つからないのは何故か。・・探し方が悪いのか。
    謎3  礒部氏は、何を信仰していたのか。・・祖神信仰ではなく、自然神信仰だったのか。
      謎4なぜ志摩には礒部情報が乏しいのか。

  
  ここでは「伊勢磯部氏二流の解釈」と題して、謎1の理解を深めます。

 目次 1 「礒部総括」(太田亮)の礒部氏リスト

             (1)  宇治土公
                        <1> 宇治土公磯部小紲
                        <2> 宇治土公家の謎

       (2)  伊勢国人(磯部祖父・高志の二人)に度相神主を賜姓
          <1> 磯部祖父
                    <2> 「豊受太神宮禰宜補任次第」との突合せ
                    <3>  度会神主姓の賜姓ーその後の例
          <4>  「志摩国旧地考」:磯部は度会神主家の支族なり

            2  伊勢礒部の最大の謎
      (1) 「玉柱屋姫命は礒部神」説
              <1>  「玉柱屋姫命は礒部神」説
          <2> 玉柱屋姫命の遠祖・大年神を認める時、両氏族の血縁親族姓を認められる
                  (2)  伊勢諸部族の統合系譜
          <1> 伊勢諸部族の統合系譜
          <2> 度会神主家・宇治土公家の礒部関わりの可能性

1 「礒部総括」(太田亮)の礒部氏リスト

  「姓氏家系大辞典」(太田亮)は各地の礒部氏をリストしています。次はその要約です。

 参考表1 「礒部総括」(太田亮)・・引用:磯部の項「姓氏家系辞典(第一巻)」567頁(189コマ)
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 A 1度会神主流、2宇治土公流、3志摩、4尾張、5三河、6遠江、
 B 7下総、8常陸、9信濃、10上野、11越前、12越中、13越後、14丹波、15丹後、16美濃、17隠岐、
  18但馬、19神礒部、20敢礒部、21、22、23、24、25礒部直、26礒部宿禰、27佐々木氏流、28、29、30、31、 

    32、33 佐渡礒部、34甲斐礒部、35美作礒部、36安芸礒部、37相模礒部、伊豆礒部、(一部略す)
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   本ブログの関心は伊勢国の「礒部A1・2・3」です。

 志摩は、礒部氏の本拠地だとすら推測されるので、もっと詳しく「礒部」の記述が欲しい所です。  

 だが、太田先生の集めえた志摩情報は乏しく、尾張・三河・遠江の礒部と共に、志摩についても僅か一行だけです。(参考表1b)

  参考表1b   「礒部総括」(太田亮)・・志摩・尾張・三河・遠江
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  3 志摩の磯部 :答志郡に磯部あり。この部民の住居せしは明らかなり。
  4 尾張の磯部 :貞観8年7月紀に中島郡人磯部逆麻呂という人見ゆ。
  5 三河の磯部 :渥美郡に磯部郷あり。和名抄に見ゆ。国帳に正五下磯部神社あり。この部の奉斎たるべし。
  6 遠江の磯部 :天平十年の駿河国正税帳に遠江国使磯部という人見ゆ。

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 ここに「なぜ志摩には礒部情報が乏しいのか」と云う大きな謎が既に潜んでいます。
 従って、ここでの考察は、事実上、「礒部A1・2」だけとなります。(参照:参考表2)

・「度会神主流」と「宇治土公流」は共に礒部氏

  ここでの注目点は度会氏も宇治土公家も共に「礒部氏」だとする指摘です。
 そして、それは史料に裏付けがあるのです。

  太田先生の引用史料は次の如くで、一流の史料です。
    1「続日本紀」
    2「豊受大神宮祢宜補任次第」
    3「皇大神宮儀式帳」
            4「延喜式」
    5「大神宮諸雑事記」


 参考表2 「礒部総括」(太田亮)  における「1度会神主流」と「2宇治土公流」
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1 度会神主流:
 ・「続日本紀」和銅4年3月紀に「伊勢国人磯部祖父、高志二人に姓を度会神主と賜う」と見ゆるは伊勢国造の裔にし         て、度会氏の祖なり。
      ・このことを「豊受大神宮祢宜補任次第」には「大神主祖父云々、庚子年籍に誤りて石部姓を負う。
       而して、和銅4年3月16日の官符によりて、旧姓神主に復す」と見ゆ。以て磯部、石部の通じるを知るべし。
   ・この文に、「誤りて庚子年籍に石部姓を負う」とあるが故に、この家石部を称するは、一時的のことと思われるが

        然らず、伊勢国造家は磯部の管理者なるが故に、その族に磯部氏のあるは当然なりとす。
   ・蓋し、和銅4年3月16日の官符によりて、旧姓神主に復す」と見ゆ。以て、磯部、石部の通ずるを知るべし。
    この文に「誤りて庚子年籍に石部姓を負う」とあるが故に、この家石部を称するは、一時的のことと思われるけれ

    ど、然らず。伊勢国造家は磯部の管理者なるが故に、その族に磯部氏のあるは当然なりとす。
   ・蓋し、庚子年籍が磯部と記したるはその点より考えられる。然るに、この祖父の家は早く既に神主姓を称する故

    に、和銅4年願い出て神主姓に復したるなり。
    補任次第には猶も石部飛鳥という人も見ゆ。この人は継体朝の人なりと云う。
   ・亦、「皇大神宮儀式帳」に「難波朝庭(孝徳)転訛に評を立て給う時、十郷を以て竹村を分かち屯倉を立つ。

    麻績連廣背を督領とし、磯部真夜手を助督として仕え奉らしめき、」と見ゆる多気郡領磯部も度会氏と同じく伊勢

        国造族なり。儀式帳に陶器作内人無位磯部主麻呂あり。度会郡に磯神社、亦、磯上神社あり。
    関連するところあらんか。

2 宇治土公流:
   ・宇治土公磯部とも、同石部とも、単に石部ともあり。
   ・「延喜式」に「凡そ斎主国に至るの日、度会二見郷磯部氏の童男を取り、卜して戸座となす」と載せ、亦、              「延暦皇大神宮儀式帳」に宇治大内人無位宇治土公磯部小紲あり。
     ・これにより考えるに、磯部氏は蓋し宇治土公姓にして、昔、倭姫命に大宮地を教え奉れる太田命の裔にて、斎主に          所以ある故に、その氏人をもって戸座とせしか」など神祇志料に見ゆ。猶、石部条を見よ。
    注 戸座
ヘザ:精選版 日本国語大辞典 
         <名>神祇官に属し、天皇、皇后・皇太后・太皇太后の三宮、斎宮などの祭祀に参列し、外出に随行する者。                   特定の地域の七歳以上の未成年・未婚の男子から卜によって定められる。

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   総じて「度会氏も宇治土公家も共に礒部氏だ」とする指摘は受け入れるべきです。
 そうだとすると、「両氏が礒部氏であること」をどう理解すべきか、が問われるのです。

(1)  宇治土公

  「皇大神宮儀式帳」と「止由気宮儀式帳」は804・延暦23年年に作成された 儀式書です。
 その中で、「礒部・石部」が宇治土公・度会の両氏の伊勢神宮での職務チームメンバーになっているのが判ります。

<1> 宇治土公磯部小紲

「皇大神宮儀式帳」の「職掌雑仕」に登場する人名の中に「宇治土公磯部小紲」があり、他にも磯部姓の人がいます。これが太田先生の云う「宇治土公流」です。

  参考表3  「皇大神宮儀式帳」に見る「礒部」
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    内宮神職   1・祢宜         大初位・神主  荒木田公成
         2・大内人           無位・宇治土公磯部小紲
         3・内人     外正八位上・荒木田神主家守
         4・内人        無位・神主広川
         5・大物忌       無位・神主小清女   ・父 無位・神主黒成
         6・宮守物忌      無位・磯部鯵麻呂   ・父 無位・磯部四五麻呂
         7・地祭物忌      無位・磯部部成女    ・父 無位・磯部子松
         8・酒作物忌      無位・山向部古負女 ・父 無位・山向部虫麻呂
         9・清酒作物忌     無位・磯部大河女  ・父 無位・磯部稲守
         10・滝祭物忌      無位・磯部塩眉女  ・父 無位・磯部古麻呂
             11・御塩焼物忌     無位・神主稲眉女  ・父 従八位上・神主牛養
         12・土師器作物忌    無位・麻続部春子女 ・父 無位・麻続部倭女
             13・御笥作内人     無位・磯部稲長
             14・忌鍛冶内人     無位・忌鍛冶部正月麻呂
             15・陶器作内人     無位・磯部主麻呂
             16・御笠縫内人     無位・郡部乙継
         17・日祈内人      無位・神主宮守
             18・御至内人      無位・磯部足国
             19・御馬飼内人 外従七位上・磯部清人

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                                   参考:伊勢の祭祀13  宇治土公の秘密 2023年04月08日

 宇治土公氏の一族磯部氏は、前掲の磯町一帯に居住していたとみられるが、その一族が居た志摩国答志郡伊雑郷の磯部邑(三重県志摩郡〔現志摩市〕磯部町一帯)には、皇大神宮別宮伊雑宮やその付属社としての佐美長神社がある。
    ・佐美長神社:出口延経の「神名帳考証」は延喜式神名帳にある粟島坐神乎多乃御子神社に比定していた。

           粟島神とは少彦名神を指すことから、「佐美」がこの神に関係深い語であることが推される。

        ・因幡国巨濃郡の式内社に佐弥乃兵主神社(鳥取県岩美郡岩美町太田、もと佐弥屋敷という地

        に鎮座)があげられ、鳥取市街地の東北方10kmに位置している。

         ・この鎮座地は因幡国造(海神族系統で日下部同族)の領域にあり、その一族の奉斎神社と考えられる。
   ・神道大辞典:宇治土公を苗字のように扱う。元磯部姓であったが、後一条天皇の頃より宇治土公と称したと記す。

                        磯部(石部)姓の本宗が宇治土公という姓氏を称し、姓の公も含めて、そのまま苗字としたもの。
   ・二見氏(二見郷)は、宇治土公姓にして大田命の後裔と称す(「皇大神宮権祢宜家筋書」)と云う。
   ・大神宮諸雑事記:大田命が垂仁朝に玉串大内人として奉仕したと伝えられる。
   ・宇治土公氏の起源:崇神朝の大田田根子の大叔父・久斯気主命について、伊勢ノ宇治土公・石辺公・狛人野等の祖

                       と記される系図があり、その所伝によれば、崇神前代に大和から伊勢に入ってきたと見られる。

  大内人の宇治土公磯部小紲は、特に磯部姓に「宇治土公」を冠にしており、内宮ナンバー3の地位(大神宮司・祢宜に次ぎ)にあったようです。

  こうして、内宮では上級職の宇治土公磯部氏を確認します。
  この「宇治土公磯部氏」は、宇治土公を冠とした磯部氏縁故(出身)者であることを示しています。                                                                            参照: 伊勢の祭祀13  宇治土公の秘密 2023年04月08日

 

<2>   宇治土公家の謎

 

  宇治土公家の血統については次の先行二報で触れています。今はご紹介まで。
         参照:伊勢の祭祀12 宇治土公の秘密                                            2023年04月08日
                       ・伊勢舟木1    伊勢川叱子命と伊西・舩木神社                          2024年01月12日
                               ・伊勢舟木2   「心の御柱」造りを宇治土公・大内人が担う理由   2024年01月21日

 

(2)  伊勢国人(磯部祖父・高志の二人)に度相神主を賜姓

 「続日本紀」和銅4年3月に「伊勢国人磯部祖父、高志二人に姓を度相神主と賜う」とあります。  

 和銅4年は711年。これは元明天皇の御世です。

<1> 磯部祖父

 これは礒部祖父・高志の二人が、賜姓により度相神主となったとする一見は単純な話です。
 だが、事はそれほど単純ではなく、太田先生は次の様に記すのです。
   ・「豊受大神宮祢宜補任次第」には、このことを「大神主祖父云々、庚子年籍に誤りて石部姓を負う。
    而して、和銅4年3月16日の官符によりて、旧姓神主に復す」と見ゆ。
    以て磯部、石部の通じるを知るべし。
   ・この文に、「誤りて庚子年籍に石部姓を負う」とあるが故に、この家石部を称するは、一時的のことと思われるが 

    然らず、伊勢国造家は磯部の管理者なるが故に、その族に磯部氏のあるは当然なりとす。
   ・蓋し、和銅4年3月16日の官符によりて、旧姓神主に復す」と見ゆ。以て、磯部、石部の通ずるを知るべし。
   ・この文に「誤りて庚子年籍に石部姓を負う」とあるが故に、この家石部を称するは、一時的のことと思われるけれ

        ど、然らず。伊勢国造家は磯部の管理者なるが故に、その族に磯部氏のあるは当然なりとす。
   ・蓋し、庚子年籍が磯部と記したるはその点より考えられる。
               注 「庚子年籍」・・670・天智天皇9年庚午の年に作られた、全国的規模のものとしては最古の戸籍
   ・然るに、この祖父の家は早く既に神主姓を称する故に、和銅4年願い出て神主姓に復したるなり。


<2> 「豊受太神宮禰宜補任次第」との突合せ

  「豊受太神宮禰宜補任次第」は「乙乃古命の三男・神主水通の三男・神主加味(1)」から数えて12代目の、太神主・祖父は持統朝に大神主・二所大神宮大神主だったと伝えます。
   ◆補任次第:12太神主祖父:持統天皇御宇大神主 二所大神宮大神主、二門吉田男大建冠奈波男也。

         誤庚子年籍負石部姓依。
        ・和銅4年3月16日官符復旧姓神主 9祢宜外正五位下神主忍人:在任十九年、安麿三男也、

                    ・天平廿年(748)任正五位上、天平勝宝元年、従陸奥貢金伝其御祈賞二所大神宮各賜爵之日
                       叙外十五位下随件民被進二宮云々、同五年正月八日叙外十五位下称徳天皇代始賞


 この「補任次第」によれば、この人は二門吉田の男・大建冠奈波の男子です。
       ・12太神主祖父:持統天皇御宇 大神主 二所大神宮大神主、二門吉田男大建冠奈波男也
                誤庚子年籍負石部姓、依、和銅4年3月16日官符復旧姓神主
                                                                         参照:豊受太神宮禰宜補任次第

 
 但し、「続日本紀」の和銅4年(711、元明朝)と持統朝(690~697)とでは約10~20年の時間ズレがあります。太田先生も他の識者もこの点には触れていません。
 20年差は他の事例に比べれば、大した差異ではない、とも思われますが、・・・。
         注 持統天皇の生没年(645~~703)、在位期間(690~697年)
         元明天皇の生没年(661~721)、在位期間(707=715)


  抑え:「続日本紀」によれば、礒部祖父の賜性「度会神主」は和銅4年(711、元明朝)です。
           「豊受太神宮禰宜補任次第」によれば、太神主・祖父はそれに先立つ持統朝に大神主・            二所大神宮大神主だったと伝えます。


   かくて、持統朝~元明朝に「礒部祖父」(度会神主系)の存在を確認したのです。
   天日別命は礒部氏であり、その裔・祖父に至って度会神主の賜姓があったことになります。
 これを、度会氏側は次の様に修正経緯を記します。
  ・「庚子年籍」(天智天皇9年庚午の670年に作成)の時、誤って「石部姓(礒部と同じ)」を負ったが、

    礒部姓を称することを止めて、旧姓神主に復したと」と理解します。        参照:豊受太神宮禰宜補任次第

 

 <3> 度会神主姓の賜姓ーその後の例


  先に、711・和銅4年、礒部祖父が度会神主姓を賜姓していることを確認しています。
  従って、804年の「止由気宮儀式帳」(職掌祢宜内人物忌事)での石部は追確認でしかないのですが、ここで「止由気宮儀式帳」での外宮神職構成を以下にご紹介しておきます。

 ここには、磯部氏の代わりに石部氏とありますが、通説では磯部氏と石部氏を同一としていますので、これを容れます。

  参考表4  「止由気宮儀式帳」(804)に見る「石部」
────────────────────────────────────────────            外宮神職   1・祢宜    正六位上・神主・五月麻呂 長上
         2・大内人     無位・神主・御受
         3・大内人     無位・神主・牛主
         4・大内人     無位・神主・山代
         5・大物忌     無位・神主・岡成女 ・父 無位・神主諸公
         6・御炊物忌    無位・神主・河刀自女・父 無位・神主乙麻呂
         7・御塩焼物忌   无位・神主・乙継女 ・父 無位・神主虫麻呂
         8・管裁物忌    无位・神主・米刀自女・父 无位・神主長麻呂
         9・根倉物忌    无位         石部称依女・父 无位・神主吉縄
         10・高宮物忌            无位・神主・種刀自女・父 无位・神主夫献
           ○ 11・御巫内人 外従八位上・石部老麻呂
         12・大綿作内人   无位・石部部清人
         13・忌鍛冶内人   无位・敢石部廣公
         14・御馬飼内人   无位・神主・豊縄
         15・御笠縫内人   无位・石部宇麻呂

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<4> 志摩国旧地考:磯部は度会神主家の支族なり

 尚、参考までに「志摩国旧地考」をご紹介します。

 そこには「磯部は度会神主家の支族なり」とあります。

  参考表5   「志摩国旧地考」:磯部は度会神主家の支族なり
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 1この地に居住せる磯部氏*1は天牟蘿雲命の孫・伊勢国造の始祖・天日別命の裔にて伊勢朝臣*2度会神主*3等同祖の

    支族なり。 *1又は石部に作る、*2元は連なるを朝臣を賜りて事績日本紀に見えたり、
                                         *3元は神主と称せるを後度会を冠らしめたり
 2其氏本元の地は皇大神御遷の時、行宮造りて坐しける地にて
    ・「倭姫世記」には「百船度会ノ国玉掇伊蘇国」と載せ、
    ・「内宮儀式帳」には「玉波流磯宮」と見えたる所、                                         <804年>
    ・すなわち、伊勢ノ国度会郡今の磯村の地にて(和名抄度会郡郷名云伊蘇・・以曽=イソ)<940年頃>
      ・「光明寺所蔵寛喜4年3月5日文書」にて伊蘇郷石部とあるこれなり。                  <1232年>
 3「神宮古記」に所載の「伊蘇ノ宮」には天牟蘿雲命の裔・天日別命の子・玉柱屋姫命を祀るとあれば、その裔孫なる

    度会神主氏の支族・磯部氏人此の宮に奉仕し、此の地に居住して子孫蛮息せるより氏名の磯部を以て居地の名に負せ

    たるにて後までも磯部氏伊雑神戸に居住して神役公役雑務の職掌に預りし事,「伊雑宮遷宮記」(元享3年),「内宮引    付」(寛正・文正・文明中の内人)及び「子文書」(永承・天喜等)に載せたるにて著明なり。
 4今も伊雑宮の旧神人等磯部氏なり。
 5神名式に所載の伊勢・近江・越前・加賀・越後・丹波・但馬・播磨等に石部神社あり。
                                    或いは、伊蘇上又は石辺・磯部・部等に作れるあり。但し、磯部は一祖にあらず。
 6志摩の磯部九郷:五智・沓掛・山田・上郷・江利原・迫間・筑地・穴河・下郷

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 (出所)「志摩国旧地考」井坂丹羽太郎著 明治16年.9月刊行、国立公文書館デジタルアーカイブ巻二18頁(48コマ)
    注 井坂丹羽太郎は、明治9年10月に編集を終えた時、70才。
      その後、明治16年9月に、「志摩国旧地考」は精心社より刊行されます。
     ・例によって、国立国会図書館デジタルコレクションにお世話になっています。
       ・但し、原文のカタカナ表記はひらがな表記に替えてあります。


2  伊勢礒部二流の解釈

 

 この「伊勢礒部の出自に関わる最大の謎」をどう解釈するか。

  こうして、度会神主系も宇治土公系も礒部姓だったことを追確認しました。
  それならば、両氏は血縁で結ばれた親族なのか、と云う極めて単純、且つ、基本的な疑問が浮かびます。これは「伊勢礒部の最大の謎」の一です。

  ところが、先人がこの疑問を提出した形跡はなく、論じた学者もいないようです。
  伊勢の礒部氏には「度会神主流」と「宇治土公流」とがあると、太田先生が指摘しているのにも関わらず、です。誠に不思議です。

 

 当ブログは仮説:を用いて、伊勢礒部二流を解釈します。

<2> 「玉柱屋姫命は礒部神」説

   玉柱屋姫命は礒部神とも礒部氏の祖とも云われています。
 別に度会神主家を継ぐ彦国見賀岐建與束命らがいますが、ここでの焦点は玉柱屋姫命です。

  天日別命は地主神・大国玉神の女・美津佐々良比賣命と結ばれ、彦国見賀岐建與束命(大幡主命)

姫前羽命・彦前羽命・玉柱屋姫命の四子を得ます。
     注:その天日別命の注記には「始居木国熊野邑、橿原宮天皇征東国時従軍、○荒神界山川定地画、       

                  有功賜居地大倭国耳梨邑美園、朝賜伊勢国造」とあり。

  玉柱屋姫命については、これまで次の「志摩の祭祀シリーズ」で取り上げています。
       ・志摩の祭祀1  別宮・伊雑宮の謎                 2023年04月20日
       ・志摩の祭祀3   神乎多乃御子神社の謎ー狭依姫命ー               2023年05月16日
       ・志摩の祭祀7  伊射波神社ー伊佐波登美尊・玉柱屋姫命ーの謎    2023年06月13日
       ・志摩の祭祀8   おくわさまの真実ー御鍬祭と鍬神神社ー      2023年06月20日
       ・志摩の祭祀10 常陸国の玉柱屋姫命                    2023年07月06日


  これら「志摩の祭祀シリーズ」で取り上げた「礒部関わり」の部分を簡約してお伝えします。
      簡約 1 玉柱屋姫命は礒部神である(志摩の祭祀10)
         2 伊佐波登美尊・玉柱屋姫命は夫婦神であり、伊佐波登美命も磯部氏祖、伊佐波登美神は、伊雑宮と伊射波

      神社の双方に祀られていた。粟嶋神は伊佐波登美神のことで、粟嶋(後の安楽島)二地浦贄の地に磯部氏に

      より古くから祀られていた(志摩の祭祀7)
               3 玉柱屋姫命・伊射波登美命の祭祀は志摩から始まり、やがて稲葉神社(津市)に伝わります。

      更に伊勢国から尾張・三河・科野へと「おくわさま」信仰として拡がります。(志摩の祭祀7&8)
           4 伊雑宮は、現在、伊勢神宮(内宮)の別宮で、式内社、志摩国一宮、「磯部の宮」・「磯部の大神宮さん」の

      別称を持ちます。
                  ・奈良・平安時代に「粟嶋神・伊雑神」の二座がありました。

      ・中世から近世に、この祭神について諸説顕れます。

      ・中世末以降は伊雑宮神職の磯部氏の祖・伊佐波登美命と玉柱屋姫命の二座を祀ると考えられていた。

                                               (志摩の祭祀1)

 ここに「玉柱屋姫命と伊佐波登美命とは共に礒部神」説があります。
     ・参照:  志摩の祭祀7 伊射波神社ー伊佐波登美尊・玉柱屋姫命ーの謎 2023年06月13日

   だが、伊佐波登美命は、玉柱屋姫命と夫婦となるも、出雲臣系の神だと身元が明らかです。

 即ち、天穂日命の孫・伊佐我命の一系は伊佐和登美命として伊勢・志摩に来住したのです。

     ・参照:伊勢津彦の謎4 出雲建子命の伊勢三族 2023年09月20日   

 

 これが現在の到達点です。

(2) 伊勢諸部族の統合系譜

   ここで云う「伊勢諸部族」とは、「伊勢古史」に登場し、これまでの「伊勢・志摩の祭祀」に登場した神々とつながる部族を指します。
 具体的には、 1 天背男命(天村雲命・天日別命)系、     ・・度会神主家に通ず  
                        2 出雲臣(天穂日命・伊佐波登美命)系     ・・
                    3 大年神(大山祇命・佐之男命・大国魂神)系・・磯部氏
                    4 大年神(大山祇命・佐之男命・大土神)系   ・・宇治土公家に通ず


  太田亮先生が指摘され、当ブログが追確認した伊勢情報は「礒部氏に二流あり、第一が度会神主流、第二が宇治土公流だと云うこと」です。

  志摩情報は、太田亮情報が少ないので、当ブログの前報では磯部神社界隈を調べて、図表3を得たものです。
 この狙いは、磯部神社の祭神構成を分析して、歴史の途中に採り入れた神々を控除することです。

 控除後に、古来、この地域に祀られていた元々の神々を抽出できるとの判断があるからです。

 その結論は次に示す「図表3 磯部神社界隈の主要四社祭神の系譜関係」(前報)となりました。
 そこで見出した神々を図表3では赤字、及び、青字で示しています。

 

  この図表3は省略が多いので、省略した様々な「要素」を加えて、次の「統合系譜」(図表2)に書き換えます。その追加要素の中で「最大の要素」が次に述べる「仮説」です。

<1>  仮説:大年神の二子神は「礒部氏女」を娶った

 常識では、「礒部氏に二流あり、第一が度会神主流、第二が宇治土公流」が孕む「謎」は解けないと思われます。

 

 これを解釈する有効な手段は、大年神の二子神(大土神・大国玉神)の妻神が礒部氏女だと見る仮説だ、と考えるに至りました。 注 現実に集めた系譜情報には大年神の子神の妻神情報はないのですが、・・。
 
 礒部氏女が大年神(亦は、その子神)と婚姻関係に入れば、その子達は磯部姓を名乗る可能性があるからです。勿論、この場合、大年神自身が伊勢妃を礒部氏に求めたこともあり得ます。

 

  仮説:大歳神の二子神(大国玉神及び大土御祖神)は礒部氏女を娶った

  この仮説を導入するのには、三つの理由があります。
 ・第一:大歳(年)神の二子神の伊勢での妻神は知られないのに、伊勢ではその子神たちは報知されている事。
 ・第二:大歳
(年)神及びその子神(大国玉神・大土神・+あり)・孫神の伊勢祭祀は相当広く、然も、根強い事。
   ・第三:朝熊神社(内宮摂社、式内社)の現在の祭神は大歳神、苔虫神、朝熊水神だが、古史料は違うのです。
     具体的には・「皇太神宮儀式帳」は、桜大刀自(大歳神の子)・苔虫神・朝熊水神の3柱を祭神とします。
          ・「倭姫命世記」は、桜大刀自・苔虫神・朝熊水神も祭神とするが、更に、その親神(櫛玉命・

           保於止志神=大歳神・大山罪)も含めて、全六柱を祀るとします。

   この仮説は、礒部氏女の大年二子神との婚姻情報が古資料・古伝承にはないので、あくまで仮説でしかありません。

 だが、この仮説を入れると、図表2の系譜の眺めが良くなり、「礒部氏二流(度会神主流、宇治土公流)の謎」が、少なくととも一部が、解けてくると思われます。
   ・尚、「大歳神の神裔譜」は、基本的には、「古事記」に拠ります。

      伊勢における大年神、及び、その子神・孫神の祭祀は「礒部シリーズ」の後に、別に「大年神シリーズ」

             を立て、ご報告することになります。それまでは「伊勢津彦の謎8 大年神の伊勢妃」をご参照願います。
                                      ・伊勢津彦の謎8 大年神の伊勢妃 2023年10月31日


<2> 伊勢諸部族の統合系譜

  図表2は当ブログの先行報文から「伊勢諸部族の系譜」を集めて統合的系譜(簡略版)を作成したもので、ここには「仮説:大歳神の二子神は礒部氏女を娶った」も織り込んでいます。

 

 

 図表2の作成経緯を説明します。
 

  Ⅰ一番左を縦に読む系譜はⅠ天背男命(天日別命)の系譜で、1度会神主家の上古系譜です。
    ここでの注意点は、
  1天背男命の上代は示していないこと
      2天村雲命から天日別命・大幡主命・大若子命 乙若子命の後継を示しているが、この      

   部分については諸説あり、「豊受大神宮祢宜補任次第」では次の様になっています。
   ・天日別命→彦国見賀岐建與束命(妹・玉柱屋姫命)→彦田都久禰命→彦楯津命→彦久良為命→大若子命(乙若子命)

   だが、基本骨格は変わらず、今の論議にはこの相違は影響しない、と見ます。
      3重要な点は天日別命と美津佐々良姫命との婚姻、その女・玉柱屋姫命の伊佐波登美命    

   との婚姻です。

   このニ婚姻を通して、磯部氏の血が度会氏に流入したと見るからです。
    ・そこで、大国玉神の伊勢妃として伊勢氏女を仮説想定したのです。

 

  Ⅱ 出雲臣(天穂日命)系は、伊勢渡来の伊佐波登美命が玉柱屋姫命(礒部氏系)と婚し、ここに出雲系と        伊勢地主系との接点を見るのです。
      ・図表2では、スペースの都合で、*印で伊佐我命と伊佐波登美命とを結んでいます。
     この出雲臣系の系譜の基礎検討は、先に、「出雲基礎8  女神・神魂命は天穂日命妃説」          で行っています。参照:出雲基礎8  「女神・神魂命は天穂日命妃」説  2023年12月22日
                            特に、図表1神魂命(神活須毘命・天神玉命)・天穂日命・大年神三系譜の融合


 Ⅲ 大年神(大山祇命・須佐之男命)

      大年神系は可成り古くに伊勢の地に展開・居住したと見ます。
  ・大年神の子・大国玉神が天日別命を出迎えたのはその一証左です。出迎えるのは先住の人、出迎えられるのは

    後来の人です。

  礒部氏も大年神に劣らず、古くから伊勢・志摩の海岸地域に展開していたと思われます。
      志摩の海女文化は、遅くとも彌生時代、早ければ縄文時代に始まったでしょう。

  この海女文化は礒部氏に繋がると思われます。
    ・白浜縄文遺跡(鳥羽市浦村)からアワビの貝殻が出土し、素潜り漁を推測させています。
    ・志摩市大王町波切から平城京への貢納木簡札は、西暦745年、アワビを都へ運んだ事を記していた由です。

  大年神一族はこの磯部氏世界への後来の人々なのです。

 かくて、「仮説:大年歳神の二子神(大国玉神及び大土御祖神)は礒部氏女を娶った」を導入できると

判断したのです。

 そして、図表2の系図に「(推)礒部女1」を大国玉神の対面に、「(推)礒部女2」を大土神の対面に、夫々、記し、磯部氏との婚姻を表現したのです。

<3>   葛木彦命の事例を参考とする

 何故、それが度会氏と宇治土公氏の二流が磯部氏流でもあるとする論理を支えるのか。
 それを当ブログの先行事例「 天村雲命家と葛城家との通婚」で、ご説明しましょう。

  葛木彦命の事例(参照:図表1)
      ・神武朝に初代葛木国造を定賜した葛木剣根命は「国造本紀」に葛城直の祖と記します。

  ・「新撰姓氏録」は剣根命は高皇産霊尊五世孫、天押立命の四世孫とします。
      ・その剱根命には四(亦は三)女あり、皆、天村雲命の男子と結婚します。
      ・瀛津世襲命は、父・天忍男命と母・葛木賀奈良知姫の子に生まれ、亦名を葛木彦命と名乗ります。

         その子・葛木大諸見足尼は葛木直の祖、且つ、尾張氏の祖と伝わります。
      ・葛木大諸見足尼の姉は建田背命と婚し、その子・建諸隅命は母方の姪・葛木諸見己姫を娶り、倭得玉彦命を成す。


 

<4>  葛木・先行事例はの示唆

 磯部氏女を娶った大国玉神・大土神、及び、水佐々良姫命(母が磯部氏女と仮説)を娶った天日別命も、この事例の「葛木賀奈良知姫を娶った天忍男命」に擬することが出来ます。

 天忍人命の息・瀛津世襲命は亦の名・葛木彦命を名乗り、葛木氏の祖とされたのです。
   これが許されるならば、図表2の玉柱屋姫命・大幡主命にも磯部氏を名乗る権利を許してもよいでしょう。

 瀛津世襲命は、母方の葛木姓を受けて、亦名・葛木彦命を名乗ります。

   その後、この二流は代々婚姻を重ねます。(図表1参照)

   そして、裔孫氏族は、一は海部直(丹波国造・但馬国造)系、二は葛木直・葛木厨直系になり、更に、分岐は続きますが、以後は略します。

 こうして、「磯部氏の女が度会氏の男と婚するとそこに磯部氏流が生じる」のは「古代姓氏の称制」に原因があると考える事も出来ると思われます。
 

  磯部氏の女性を娶ったが故に、度会氏裔と宇治土公家裔の二流が磯部氏を名乗る流れが生まれた。・・・この解釈が、余りにも単純ですが、「伊勢礒部二流の謎」に出せる解でしょう。
 

  惜しまれるのは「度会氏も宇治土公家も」其の系譜に女系を銘記していないことでしょう。