目次 1  志摩・磯部神社の成立
     (1) 礒部界隈
        <1>  志摩市磯部町界隈の主要神社
        <2>  礒部氏の日神信仰
        <3> 礒部の地名
     (2)  磯部神社の成立
   2 志摩・磯部神社の祭神由来考
     (1)  磯部神社の祭神構成
        <1>  牛頭天王& 八王子、+宇気比神社
        <2> 熊野三神
        <3>  水戸神
        <4> 大山祇神、天岩戸~ 国譲り~ 天孫降臨に関わる神々
        <5>  地神:度会氏祖・宇治土公祖・建角身命祖
     (2)  磯部神社の祭神由来考
 

1  志摩・磯部神社の成立

(1) 礒部界隈

  先ず、志摩・磯部神社の界隈を眺め、 志摩・磯部神社の成立背景を検します。

<1>  志摩市磯部町界隈の主要神社

  志摩市磯部町界隈の主要神社は次の四社です。

 今の関心は磯部神社ですが、実はこれら四社がもつれ合う様にして磯部神社と共にあるのです。
      ・伊雑宮(志摩市磯部町)伊勢神宮内宮の別宮の一。延喜式内の粟嶋坐伊射波神社の比定社
       祭神:天照坐皇大御神御魂 相殿:玉柱屋姫命
                 <町史> 伊雑宮の祭神:中近世に、伊雑宮の祭神を「天日別命の児、玉柱屋姫命」(倭姫命世記ほか)

                                としているのは、磯部氏の氏神と考えてのことであろう。
      ・粟嶋坐伊射波神社(鳥羽市安楽島町加布良古)かぶらこさん、式内社(大)・志摩国一宮・無格社
                     祭神:稚日女尊、伊佐波登美尊、玉柱屋姫命、狭依姫命
      ・佐見長神社(磯部町恵利原)式内社・伊雑宮の所管社、祭神:大歳神、
      ・磯部神社 (磯部町恵利原) 祭神:後述


 志摩には一之宮が二社(伊雑宮と伊射波神社)あり、伊雑宮は伊勢神宮の別宮として扱われていますが、粟島(現・安楽島)の伊射波神社は伊雑宮の元宮だとも云います。

 「皇田太神宮儀式帳」(804年)には「粟島坐伊射波神社」と社名が見えます。

 粟島神戸が伊雑神戸より上位の神となっていると伝える人もいます。
   粟島神戸と伊雑神戸:「磯部町史
   ・「輸庸帳」(729年)に大神宮神戸、粟島神戸、伊雑神戸とあり、粟島神戸は伊雑神戸と同等だった。
   ・伊雑神の祭祀地は現・伊雑宮の地であり、粟島神の祭祀地は粟島(安楽島町贄)の地。
   ・粟島神は出雲氏と同族の志摩国造が奉祭していた常世信仰にかかわる少名彦命。


<2>  礒部氏の日神信仰

  「磯部町史」は、当地は海上遙か彼方の東方世界(常世国)から豊かな海の幸が運ばれてくる処と理解され、海の幸に多くを依存していた縄文時代よりその信仰が芽生えていた処だとしますので、これは別報します。
     ・「太神宮諸雑事記」聖武天皇731・天平3年6月18日、二見郷長石部嶋足
       ・二見浦の日神信仰= 磯部氏の太陽信仰
     ・興玉神石(夫婦岩より沖合約700m)1854・安政東南海地震で海没
             ・沖魂神は夏至の日に東方常世国から海を照らしてより来る神:海照大神


<3> 礒部の地名

 磯部の地名について、「磯部町史」は概略次のように説明しています。
    ・町名の磯部は、古代以来当地に居住する氏族である磯部氏によっている。
    ・磯部は「紀」の応神天皇五年八月十三日の条に「諸国に令して海人及び山守部を定む」、また「記」の応神天皇

     の条に「此の御世、海部、山部、山守部、伊勢部を定め賜う」とあることから海部と共に海洋民の一集団を伊勢

           部(磯部)という部民(特殊な技能を持った職能集団)に編成したことが知られる。    

        ・海部は漁業を専業とし西日本に多く見られるのに対し、磯部は半農半漁で伊勢を中心に東日本に多く見られる。

  志摩市磯部町は、伊雑村→磯部村→磯部町と変遷し、その後、合併を繰返してきました。
    ・1955年、志摩郡磯部村・的矢村が合併して磯部町が発足。
    ・2004・平成16年、磯部町・阿児町・大王町・浜島町・志摩町が合併して志摩市が誕生して、志摩市磯部町とな

           っています。
        ・磯部町の地名:穴川・飯浜・恵利原・上之郷・沓掛・栗木広・五知・坂崎・三ヶ所・下之郷・築地・迫間・

           檜山・的矢・山田・山原・渡鹿野
    ・磯部川は現・神路川です。


  「伊雑村」が初めにあり、次に「礒部村」となる点に気付かされます。
  礒部よりも伊雑の方が古名なのです。
   ・「コトバンク」が引用する「志摩国旧地考」は今「伊佐布イザフ」の本辞は「伊佐波イザワ」だとし、    

            平城宮出土木簡に養老2年(718)4月3日の日付と共に「志摩国志摩郡伊雑郷」とある、とします。
   ・亦、「皇太神宮儀式帳」(804)に「伊雑宮一院」として「在志摩国答志郡伊雑村」と見えます。
    「倭姫命世記」垂仁天皇27年、伊佐波登美神に命じて、「島国伊雑方上」に伊雑宮を造らせたとある由です。


(2)  磯部神社

 磯部神社の成立は明治末期の合祀策の結果ですから、比較的最近のことです。
 明治の一村一社令で周辺の神社多数を合祀して出来た磯部郷の惣社が新たに「磯部神社」と名付けられたのです。
   ・磯部神社(志摩市磯部町恵利原)
      祭神:49柱(不詳12柱)は具体的には後述
      由緒:磯禰神社の公式由緒・沿革
        ・ここ磯部町は伊勢の神宮の別宮「伊雑宮」の鎮座地であり、神宮との関係が密接でした。
          ・磯部の地名の由来は、古くから当地に居住して、長く神役公役を務めた磯部氏の名をと                   

                         って地名としたであろうと云われています。
        ・井坂丹羽太郎著『志摩国旧地考』には、「度会神主氏の支族磯部氏人此宮ニ奉仕シ此地ニ居住シ

                         テ・・云々、磯部氏伊雑神部二居住シテ神役公役雑務ニ預リシ事『伊雑宮遷宮記』

          ・『内宮引付』及び『古文書』等二載セタル二テ著明ナリ」と著され、伊雑宮との深い結びつきを

                         窺い知ることが出来ます。
        ・従って、郷内40余社は、恰も伊雑宮の摂末社のような関係を保ちつつ、伊雑宮の神人達により

                         氏神・産土神として奉祀が続けられてきました。

   祭神は37柱とされ、さらに不詳12柱があると云いますから、全部で49柱でます。

2 志摩・磯部神社の祭神由来考

   伊勢の諸神社での明治末期の合祀は極めて徹底していたようです。
 磯部神社の由緒もそれを伝えています。
    合祀由緒:明治後期、全国的な神社合祀の気運の高まりに、村内の10大字アザの各神社を正月殿社

          跡地に移転合祀したのが「磯部神社」の始まりで、磯部郷の惣社と称すべき神社です。
        ・更に、昭和30年町村合併に伴い、度会郡神原村成基地区の産土神を神原神社より分祀し、

         同年12月9日、磯部神社に奉遷合祀して現在に至っています。
        ・その為、磯部の神人は今尚正月に伊雑宮・磯部神社・佐美長神社の順に三社詣での慣わ

         しを守っています。

(1) 磯部神社の祭神構成

 そこで、現在の磯部神社の祭神37柱の由来を考察して、礒部神を探します。
 図表1は「磯部神社の祭神」を分類したものです。

 

 

 尚、明治・昭和期の合祀された神々は図表2に示します。
              合祀:全21社+境内社44社=合計65社(うち明治54社+昭和11社)
 

(2) 祭神構成の考察

 祭神全部の中から合祀神を除いていくと、本当の祭神が最後に遺る事を期待します。
 単純にそのように考えて、当初の祭神を探す努力をしてみます。

<1>  牛頭天王& 八王子

  京都の八坂神社は、当初、牛頭天王と八王子を祀るべく、九世紀末に創立されます。
 その後、牛頭天王信仰は、社会の悪疫発生とその拡大に伴い、顕著な社会浸透が始まります。
 ・863・貞観5年、疫病の流行により朝廷は神泉苑で初の御霊会を行った。
          御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮める祭で、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなっ

          た人々の怨霊の祟りであると考えられていた。
                       だが、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を
                           祈念した。
 ・869・貞観11年、陸奥では貞観地震による津波により多数の犠牲者が出た。
             全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が

                         立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り、薬師如来を

                         本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。御霊会が祇園祭の起源なり。
 ・876・貞観18年、播磨国広峯から牛頭天王を京都八坂神社の地に遷座し、祇園社・感神院と号して、比叡山延暦寺

         に属した。比叡山の鎮守である日吉権現では山王祭が行われ、祇園御霊会は連動して催された。

 この貞観11年に、都に疫病が流行し多数の死者が出ると、「牛頭天王の祟り」と考えられる様になり、そこで祗園社に「牛頭天王」を祀り、疫病退散を祈願して鉾を立て祈願した由です。

 これが現在の祇園祭の始まりで、「牛頭天王」はその祇園精舎の守護神とされます。
      ・詳細は「伊勢の祭祀2 八柱神社と神仏分離令 2022年12月15日」をご覧下さい。
      ここではその目次のみを記します。
      目次 1  八柱神社・八柱神の謎 <1>八柱神の通説は五男三女神  <2>八王子神社・八王子宮
               2 「祇園牛頭天王御縁起」が八王子を解題する
                  <1>八坂神社の祭神変更    <2>八坂神社の設立経緯    <3>祇園牛頭天王御縁起」
                  <4> 午頭天王と八王子に係わる祭  <4-1>茅萱チガヤの輪」と蘇民祭<4-2>天王祭・津島祭
                  <5>八王子神の元神(八神将)と代替神・八柱神
                3  伊勢における八柱神の実情
                 <1>伊勢八柱神社の四事例 <2>伊勢神郡の八柱神とその類縁の神
                 <3> 伊勢における八王子信仰の広がりと深さに驚く


   伊勢における牛頭天王信仰の普及は相当早く、しかも、広かったようです。
 磯部神社の周辺も例外ではありませんでした。

  それが、磯部神社の合祀神に顕れます。
 図表2の合祀社*1は牛頭天王社と八王子社が、明治政府の令で一度は八柱神社に改変させられた後、合祀により磯部神社に吸収されたものです。
     具体的に「牛頭天王社・八王子社」合祀リストを再掲します。
      B ・八柱神社(築地・村社)
      C ・八柱神社(山原)・・境内社3社共に、 旧号「八王子」、慶安三年(1650)の創祀
        ・八柱神社(桧山)・・末社4社と共に、 旧号「日天八王子」として明徳元年(1389)鎮座
        ・栗木広神社(栗木広)・・末社天皇社と共に、 元禄十六年(1703)弁財天を鎮祭


 更に、「宇気比神社」は祭神を五男三女神としており、これも、明治の神仏分離令により「蕃神名」の改変を命じられた「八柱神社」とは別なケースです。

 それは八柱神社と同じ理で、明治初期に、牛頭天王社・八王子社の蕃神名の改変する様に命じられた時、或る場合は八柱神社へ、別な場合は宇気比神社へ改名した名残りです。
           ・宇気比神社  穴川   村社                                       (+築地八柱社)
           ・宇気比神社  下之郷 村社 境内社5社 享禄四年(1531)の創祀   *永正年間(1504~)の勧請
           ・宇気比神社  飯浜   村社 境内社3社 享禄二年(1529)の創祀


  これらの宇気比神社は磯部神社に合祀されましたが、合祀されずに現在も祀られている「宇気比神社」もあります。「三重県神社庁の神社一覧」では10社を数えます。

  こうして、牛頭天王信仰の明治期の改変を受けた神々を確認し、磯部神社の祭神から留保します。

<2>  熊野大神

  五知の新宮熊野神(村社)は、寛治五年(1091)に勧請されたとの記録があり、熊野三神がセットで祀られていただろうと推定します。
     参考:熊野三神(28伊弉冉命・29速玉大神・30家都御子大神)

  この点について思い出されるのが「天日別命は伊勢国に来る前は熊野邑に住んでいた」という

「86系図」の注記情報です。
              注 天日別命:始居木国熊野邑 樫原宮天皇 征東国時従軍有功賜居地於大倭国耳梨邑○同朝賜伊勢国造

  熊野神の志摩国遷座と云い、天日別命の熊野邑居住伝承と云い、「熊野」は紀伊半島南部沿いに志摩・伊勢に進入してくるのです。
   伊勢国おける熊野神の祭祀は、伊勢北辺まで拡がって行きます。

<3> 水戸神

  速秋津彦命・速秋津姫命に二神は、可成り古い時代に生まれた水戸神とされています。
 水戸神の伊勢志摩での祭祀は四社を確認し、四日市市にも一社を確認します。
                       伊勢の祭祀12  伊勢・出雲古神の謎 2023年03月30日
  ◆水戸神(速秋津彦命・速秋津姫命)の伊勢志摩での祭祀は次の様です。
   ・第一が「滝原宮」と「瀧原竝宮」です。今は伊勢神宮の別宮です。
    勿論、現在の祭神は天照大神御魂(滝原宮)と天照大神荒御魂(瀧原竝宮)とされています。
    だが、別説が「倭姫命記」にあり、そこでは次の様になっていて、速秋津比古神・速秋津比売神の二神の

           祭祀が推測されるのです。
      ・祭神別説(倭姫命記):瀧原宮 ・・祭神・水戸神(別名:速秋津日子神)、
                   瀧原竝宮・・祭神・妻・神速秋津比賣神
   ・第二が磯部神社(志摩市磯部町)です。
        磯部神社は、合祀を重ねて今日に至っていますので、合祀社のいずれが速秋津彦命・速秋津姫命を 祀ってい

          たのかは判りません。速秋津彦命・速秋津姫命は少なくともこの近在に祀られており、合祀によって磯部神社

          の祭神に含められたものと見ます。
     ・更に、少なくとも、次の三社が速秋津彦命・速秋津姫命を祀っていると推定出来ます。
    伊勢に合計四社の速秋津彦命・速秋津姫命祭祀を見るのです。
      ・大口神社(伊勢市竹ヶ鼻町) 祭神:速秋津彦命・速秋津姫命・河神・水神
      ・並大神社(度会郡大紀町崎) 祭神:速秋津姫命・武速須佐男命・宇迦之魂命・加具都智命・
                       大山祗命・木花開耶姫命・金山彦命・譽田天皇
              ・日野神社(四日市市西日野町)祭神:伊邪那岐命
                    配祀:予母都事解男命・速玉之男命・大山咋命・大日孁貴命
                                                       合祀:速秋津日子神、大山祇神、応神天皇

   
水戸神(速秋津彦命・速秋津姫命)の八子神の内、二子神(天之水分神・国之水分神)は伊勢国に広域に鎮座しています。これが何を意味するのかは今の段階では俄に云えないのが残念です。
    ◇天之水分神・国之水分神
        速秋津彦命・速秋津姫命の二神は、「古事記」によれば、次の八神を生みます。
        ・速秋津彦命・速秋津姫命の神産み:沫那藝神・沫那美神・頬那藝神・頬那美神・天之水分神・
                          国之水分神・天之久比奢母智神・国之久比奢母智神
        その内の二神(天之水分神・国之水分神)が伊勢に八社も祀られています。
           ・大谷神社(いなべ市員弁町大泉)祭神:水分大神・天兒屋根命・保食神 
     ・雨宮八幡社(多度大社境内、桑名市多度町多度)祭神:天之水分神 國之水分神 品陀和氣命
     ・千種神社(菰野町大字千草)   祭神:天照大神・國之水分神・建速須佐之男命
     ・波多神社(津市一志町八太)   祭神:宇賀神・天水分神・稲倉魂神
     ・葉生田神社(松阪市法田町)   祭神:天之御中主命・國狹槌命・水分神、猿田彦神・神魂命、
                                                   速須佐之男神、天忍穂耳命、天長白羽命、宇受女命、
                        屋船命、大日女命、豊宇気毘売命、櫛御気野命、
                        水波能女神、級長津彦命、級長戸辺命、誉田別命
      ・伊佐和神社(松阪市射和町)    祭神:建津奴身命 伊弉諾命 天之水分命 宇賀之御魂神
                      大山祇命 大山祇荒魂神 水波女命 他18神
      ・伊勢庭神社(松阪市伊勢場町)式内社 伊勢國多氣郡 牛庭神社
                     祭神:天忍穂耳命、田心姫命 瑞津姫命 市杵島姫命、誉田別命 水波能女神 水分神
            ・若宮神社(瀧原宮境内,度会郡大紀町滝原)祭神:水分神


<4> 大山祇神、及び、天岩戸~ 国譲り~ 天孫降臨に関わる神々、天皇&皇祖神

  「礒部神」を念頭に置いた時は、次の神々は検討対象から略くことができると見ます。
  即ち、「大山祇神、及び、天岩戸~ 国譲り~ 天孫降臨に関わる神々、天皇&皇祖神」です。
     ・大山祇神     :14大山祇命・17少名彦命
     ・天岩戸神・道導き神:18石凝姥命・19手力雄命・20天鈿女命・21天太玉命・23猿田彦命
     ・国譲り交渉神       :24武甕槌命・25天尾羽張命・
     ・金属加工神        :26天目一箇命・27金山彦命
       ・天皇&皇祖神 (神武祖父母)・31彦火瓊瓊杵尊・32木花開耶姫命、
                            (神武父母)   ・33鸕鶿草葺不合命・34玉依姫命、
                     (神武天皇&裔)・35神倭磐余彦命、・36譽田別尊(応神天皇)


<5>  地神:度会氏祖・宇治土公祖・建角身命祖

  最後に残ったのが伊勢の地主神と思われる次の神々です。
    ・度会氏祖    ・・37大幡主命・伝承上の伊勢神宮の初代大神主。天日別命の子孫。
             (大若子命)     倭姫命が天照大神を伊勢神宮に鎮めた時、尽力し神国造と神宮大神主に任ず。
      ・宇治土公祖 ・・16大田命・舟木氏祖・宇治土公家祖
          ・建角身命祖 ・・22櫛玉命・


 これは先行する「伊勢の祭祀・志摩の祭祀」シリーズで既に取上げた神々です。
         参照:伊勢津彦の謎3 「神魂命は女神」説
            伊勢津彦の謎5 新説:国引き神・意美豆努命は伊勢生まれ
            特論            伊勢における出雲神
                  ・参照:志摩の祭祀1    別宮・伊雑宮の謎                                      2023年04月20日
                              志摩の祭祀2 神社移遷の因・・古代の南海トラフ地震        2023年05月09日
                            志摩の祭祀3 神乎多乃御子神社の謎ー狭依姫命ー                 2023年05月16日
             志摩の祭祀4 贄神事の神と航海の護り神                        2023年05月23日
                                志摩の祭祀5   かぶらこさんの謎                                      2023年06月06日
                                  志摩の祭祀6 稚日女命の出自の謎                                   2023年06月10日
                                  志摩の祭祀7 伊射波神社ー伊佐波登美尊・玉柱屋姫命ーの謎 2023年06月13日


 度会氏及び宇治土公氏は礒部氏に繋がるとされている事は次報に続く話です。

(2)  磯部神社の祭神由来考

  このようなスクリーニングを経て、磯部神社祭神の内、次の三地主神を得ました。

  これらは礒部神である可能性があるのです。
    ・度会氏祖  37大幡主命 (大若子命)・伝承上の伊勢神宮の初代大神主。天日別命の子孫。
    ・宇治土公祖 16大田命        ・舟木氏祖・
        ・建角身命祖 22櫛玉命


    結局、志摩市磯部町界隈の磯部神社を含めた主要四社を考察対象に組み入れることにします。
      ・伊雑宮              (志摩市磯部町)               祭神:天照坐皇大御神御魂 相殿:玉柱屋姫命
    ・粟嶋坐伊射波神社(鳥羽市安楽島町加布良古)祭神:稚日女尊、伊佐波登美尊、玉柱屋姫命、狭依姫命
    ・佐見長神社         (磯部町恵利原)       祭神:大歳神、
      ・磯部神社          (磯部町恵利原)     祭神:大幡主命(大若子命)・大田命・櫛玉命


  考察対象に組み入れるべきかが判断し難いのは、祭神:水戸神(速秋津彦命・速秋津姫命の二神)の位置付けです。この二神は、「古事記」によれば、櫛八玉神(櫛玉命と同神)の祖父なのです。
   ・古事記:大国主神の国譲りに際して、出雲国の多芸志の小浜に天の御舎を作って天の御饗を献る際、
        水戸神の孫である櫛八玉神が膳夫として奉仕に当たった。献上する時に、寿詞(鑚火詞)が

        唱えられ、櫛八玉神は鵜となって海の底の土を食い取って容器の八十びらかを作り、海布

        の茎で燧臼、海蓴の柄で燧杵を作って、それによって火を起こした。
 

   櫛玉命と櫛八玉命は大歳神にも建角身命にも繋がっているのです。水戸神は櫛玉命の祖神ですから、一応留意することにします。
   ・伊勢国風土記逸文:伊勢と云うは、伊賀穴志社坐神、出雲神子、出雲建子命、 又名は伊勢都彦神、又名櫛玉命、

                     此の神、昔、石もて城を造り、 其の地に坐しき。ここに阿倍志彦神、来り奪えど勝たずして

                                 還り却りき。因りて名を為しき」とある。

  そこで、今までの調べから、上に示した神々の系譜上の相互関係を図表3に示します。

 

 

 

 今の関心は磯部神社です。
 だが、実はこれら四社がもつれ合う様にして磯部神社と共にある、と見るのです。
 
 そこで、次報では、この図表3を出発点として、礒部氏の系譜を更に深めたいのですが、そこには「礒部氏最大の謎」が立ちはだかるのです。次報での「礒部氏最大の謎」との苦闘をご覧下さい。