太安万侶は「古事記」の中で神八井耳命には19裔ありとし、その中に「伊勢舩木直」が挙げられています。

  これまで、段階を踏んで次の三報を作成してきました。

  だが、不思議なことに、伊勢に「舟木氏」はあれど、「舟木直」の所在は杳として知れません。
               ・伊勢舟木4 日神をお出し申上げるー天手力男命を想う 2024年02月11日
     ・伊勢舟木5 神八井耳命裔の上代系譜         2024年02月23日
     ・伊勢舟木6   神八井耳命とその裔の伊勢祭祀      2024年03月02日

  そこで、前報の終わりに、次の様に記したのです。
    引用: (2) 伊勢舟木直の謎
       こうして、神八井耳命とその裔の伊勢祭祀は、先ず、朝明川流域(四日市市)に見出します。
       しかし、そこでは「伊勢船木直」なる語彙に出会うことはなかったのです。
       その後も、飯野郡(明和町)&多気郡(松阪市)には、仲神社と意非多神社に島田臣や多臣の定住と

       祖神祭祀の姿を見ます。だが、ここでも、「伊勢船木直」に出会うことはありませんでした。

     ・伊勢の地ですから、「伊勢」なる表現は使わないかも知れません。だが、「直」のついた船木氏、

      即ち「船木直」なる語は使う筈なのです。それなのに、「舟木直」に出会わなかったのです。
       こうして、伊勢における神八位耳命とその裔の祭祀を集めた後の感想は、何故、伊勢の地で舟木直は

                 語られず、記されることもなかったのか、と云う疑問です。

      ・次報では、太田亮先生を初めとする二、三の先学の記述の中にその答を探してみましょう。

  本報はこれを受けています。だが、最後まで「伊勢舟木直」を探し倦
アグねています。

  そのため、「伊勢舟木氏の伊勢国内での展開シナリオ」でブログ文を閉めることになりました。

目次 (1)「伊勢舟木直」を探す
     <1>「伊勢舩木」情報の地理的分布
     <2> 舟木氏裔の展開ー伊西国・古斯國・嶋東国・葛木忍海部・高(多珂)国ー
     <3> 寸論:舟木氏(太田田命の裔孫)の妻問い展開地
        <3-1> 伊西(伊勢)
        <3-2> 葛城の朝妻・忍海
        <3-3> 高(多珂)
        <3-4> 古斯志国
        <3-5> 嶋東国
        <3-6> 神直
     <4> 「船木等本記」の伝える舟木
  (2) 先学の「舟木直」資料
     <1> 「姓氏家系大辞典」(太田亮)の「船木」の項
     <2> 「國學院大學古典文化事業」の「舟木直」の項

     <3> 集約:先学の「舩木直」情報
    (3)  伊勢舟木氏の伊勢国内での展開シナリオ
  ◇   付属資料: 太田命・天手力男命・神八井耳命

(1) 「伊勢舟木直」を探す

  「伊勢船木直」は神八井耳命裔だと「古事記」は記しています。

   多気郡滝原の「船木神社」と「伊勢船木直」とは同じ系統の祭祀なのでしょうか。
   四日市市(朝明郡)には「伊勢舟木直」の祖・神八井耳命とその弟・神沼河耳命を祀る耳常・耳利二神社があり、「伊勢船木直」の裔が祖神を斎祀ると伝わります。
 然し、そこに「伊勢舟木直」の証は見つかりません。

   船木氏とはどの様な氏族なのか。
 これまで、「船木等本記」を中心に船木族の系譜を調べ、伊勢で船木氏を見出したのです。
                                       参照:伊勢舟木1    伊勢川叱子命と伊西(勢)・舩木神社
                           伊勢舟木4  日神をお出し申上げるー天手力男命


 一方、神八井耳命の朝明郡祭祀に神職・舟木氏が登場し、舟木氏は伊勢国内に多様に活動したか、に思われたのです。だが、これらの舟木氏と舟木直との繋がりを示す証拠が出てこないのです。
                                  参照:伊勢舟木5  神八井耳命の神裔系譜

<1> 「伊勢舩木」情報の地理的分布

 ここで「伊勢舩木」情報の地理的分布を図表1に示します。
 これは前報までの調べに新情報(図表2後述)も加えたものです。
                    参照:伊勢舟木6  「伊勢舩木直」ゆかりの祭祀

   図表1           「伊勢舩木」情報の地理的分布ー本ブログの調べー
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   A 宮川地区:多気郡舟木村は宮川上流にあり、此処には舟木神社が二社あります。
                 宮川の上流から下流にかけて、太田命を祀る神社が六社点在します。
                                                         ・当ブログは太田命は太田田命(舟木氏祖)と同神とみています。
 
 B 佐那地区:佐那神社界隈に地名・舟木があるとするのはネット上の「日子坐王ノート」と「神

         奈備」です。だが、その根拠は示されておらず、不明です。
           ・地図上には「地名・舟木」を見出せません。例えば、舟木地名の記された江戸期の地図、亦は、

                          寺社棟札が遺るなどの情報があれば、確認出来るのですが、残

 C 朝明地区:朝明川の上流から下流にかけて、神八井耳命の祭祀社が数社あります。
 D 多気郡・度会郡の伊勢湾岸近くの地区:
       ここ(多気郡の海岸部)は6~8世紀に仲臣や多臣の裔が、有功の賞として土地を賜り、開   

       拓定住し、祖神を祀った地だと推定します。
       ・田中卓先生は、伊勢船木直は、「神八井耳命の当時」にその一族が伊勢地方に進出したのではな

          く、その「当時より以後」の時期に、子孫が進出して伊勢船木直を名乗ったと認められる場合が

                            あると、述べていた。・・とネット上にあります。
          ・・何故、「場合がある」などとぼやかして云うのか、誠に不可思議です。
            具体的に述べるべきでしょう。その場合とは「仲神社・意非多神社」でしょう。

  E  宇治地区:宇治地区、古代の宇遅国で、宮川下流と五十鈴川に挟まれた地域です。その西端・
         五十鈴川沿岸に国津御祖神社・葦立弖神社(伊勢市楠部町尾崎)が鎮座しています。
        その祭神・玉移比古女乃命(宇治比売の女)は舟木氏・伊勢川比古命と婚し、この宇治国は舟木氏

           を受け入れたと見ます。
  F 越地区ほか:舟木氏の一流は伊勢に、別流は古斯(越)・葛木忍海部・嶋東国・高国に展開した

        と推定されます。これは「船木等本記」が記す「太田田命の裔孫系図」(図表2)

        読み取れます。            参照:伊勢舟木1    伊勢川叱子命と伊西(勢)・舩木神社
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<2> 舟木氏裔の展開ー伊西国・古斯國・嶋東国・葛木忍海部・高(多珂)国ー船木等本記(に基く-

 図表2は「船木等本記」の記述を系図化したものです。

  

   
 

   この系譜の示唆は、太田田命の裔孫は妻問いして次の諸国に展開したと云う事です。

   纏め表             太田田命(舟木氏祖)の裔孫の妻問いと展開地
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       展開先                   太田田命の裔孫                         娶(妻問い)の相手
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      1伊勢(舩木亦は宇治):伊瀬川叱古命(神背都比古命長男)        伊瀬玉移比古女乃命
  2葛城(朝妻)        :木西川比古命(神背都比古命次男)              葛城阿佐川麻之伊刀比女
    3葛城(忍海)        :田乃古乃連 (牟賀足尼命長男)     葛木乃志志見乃興利木田乃忍海部乃刀自
  4古斯(越)       :田田根足尼命(木西川比古命男)                 斯止移奈比女乃命
  5 嶋東(志摩国)      :牟賀足尼命 (木西川比古命男)                 嶋東乃片加加奈比女
  6 高 (多珂国)        :野乃古連      (牟賀足尼命次男)     
           高乃小道奈比女
      7 神直                   :女郎女         (牟賀足尼命長女)                 神直腹娶入

──────────────────────────────────────────
   参照:「船木等本記」に次の記述あり。図表2はこれを系図化したもの。
   ・〔大〕田田命子。神田田命子。神背都比古命。此神者。天賣移乃命兒。冨止比女乃命娶生兒。
     ・先者伊瀬川比古乃命。此神者。伊瀬玉移比古女乃命娶坐。此伊西國舩木在。
     ・又次子坐木西川比古命。此神。葛城阿佐川麻之伊刀比女乃命娶坐生兒。
     ・田田根足尼命。此神。古斯國君坐兒止移奈比女乃命娶坐生兒。乎川女乃命。馬手乃命。口以乃命。
                                    ・此三柱者古斯乃國君等在。
     ・牟賀足尼命。此神者。嶋東乃片加加奈比女乎娶坐弖生兒。先兒女郎女。次田乃古乃連。次野乃古連。
      次尾乃連。次草古乃連。兄在兒女郎女者。神直腹娶入。次田乃古連。和加倭根子意保比比乃命乃王子
      彦太忍信命兒。葛木乃志志見乃興利木田乃忍海部乃刀自乎娶坐弖生兒。古利比女。次久比古。次野乃古連。

            此者。高乃小道奈比女娶岐。
     ・更田田根足尼乃命乃時仁大波冨不利相久波利支。息長帶比女乃御時爾大八嶋國乎事定了。彼時奉齋大禰宜。

            麻比止内足尼命。又津守遠祖折羽足尼子。手瑳足尼命。又船木遠祖・田田〔根]足尼命。此三柱相交矣。
     ・自巻向玉木宮大八嶋知食御世至二于巻向日代宮大八嶋食知氣「帶」長足姫比古御世一二世者。意彌那宜多命

            乃兒。意富彌多足尼仕奉。津守宿禰遠祖也 於レ是舩司。津司任賜。又處處舩木連被賜。

 

<3> 寸論:舟木氏(太田田命の裔孫)の妻問い展開地

 「舟木氏の妻問い展開地」(図表2)について若干の寸論をします。

<3-1> 伊西(伊勢)
 伊勢では、舟木氏
(長男・伊瀬川叱古命)は宇治比賣(宇治国の女神)の女・玉移良比女命と結ばれたのですが、その後裔の伝承はありません。

 当ブログは、舟木氏が伊勢国の中枢に位置する部族・宇治土公家に通婚・合流した事実を重視します。

<3-2> 葛城の朝妻・忍海
 この「葛城朝妻」の地は大和国葛上郡朝妻
(奈良県御所市朝妻)に当たります。
  朝妻は秦氏の渡来地として知られ、賀茂氏・物部氏もこの地に所縁あり、です。
      参考・新撰姓氏録・914山城国諸蕃 漢    秦忌寸    太秦公宿祢同祖    秦始皇帝之後也
        注記:率二百廿七縣伯姓一帰化。并献金銀玉帛種々寶物等。天皇嘉之。賜大和朝津間掖上地居之焉
           功智王。弓月王。誉田天皇[謚応神]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。
                 并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。男真徳王。次普洞王。
                [古記云。浦東君]大鷦鷯天皇[謚仁徳]御世。賜姓曰波。今秦字之訓也。次雲師王。次武良王。

                      普洞王男秦公酒。大泊瀬稚武天皇[謚雄略]御世。奏普洞王時。秦民惣被劫略。今見在者。

                  十不存一。請遣勅使括招集。天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。
                     得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛詣闕貢進。
                     如岳如山。積蓄朝庭。天皇嘉之。特降籠命。賜号曰禹都万佐。是盈積有利益之義。
                     役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側。納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時始置大蔵官員。
                     以酒為長官。秦氏等一祖子孫。或就居住。或依行事。別為数腹。天平廿年在京畿者。
                     咸改賜伊美吉姓也

  舟木氏
(次男・木西川比古命)は葛城阿佐川麻之伊刀比女(葛城朝妻の糸姫命)と結ばれ二子を生んだのです。
     ・その長男・田田根足尼命は越の女性・斯止移奈比女乃命に妻問いします。
         生まれた三子は古斯国君と呼ばれ、舟木氏が越に定着したことを推測させます。
         当ブログ調べでは、越中・能登に舟木氏の痕跡を見出します。
                     ・参照:伊瀬舟木3   屋船大神は舟木氏の神か
                     ・「越」を越前とする通説とはややズレています。
   ・次男・牟賀足尼命は嶋東の女性・片加加奈比女に妻問いし、一女四男
(女郎女・田乃古乃連・野乃古連・尾乃連・

          草古乃連)が生まれます。
                  ・長女・女郎女は神直腹に娶嫁します。
                  ・長男・田乃古乃連は葛城
志志見乃興利木田忍海部乃刀自に妻問いします。
                  ・二男・は高乃小道奈比女を娶ります。
                          

  舟木氏・田乃古乃連は葛城の地で天皇家の血を引く女性・忍海部乃刀自と結ばれた節があります。

  この女性は開化天皇、亦は、孝元天皇の皇子・彦太忍信命の女だとされるからです。(系図参照)

  葛城の忍海
(奈良県葛城市忍海)は、角刺忍海宮で飯豊皇女が親政したと云う伝承がある地です。
    忍海については、「播磨風土記(美嚢郡志深
シジミの里)」、及び、「日本書紀」と「古事記」の清寧天皇・億計・

  弘計両天皇の項に記された事件があります。
   ・忍海部造細目の家で新築祝の際、亡命潜伏していた履中天皇(雄略天皇に)の遺児が見出されます。
   ・この地を、日本書紀は明石郡、古事記は針間国の志深牟、風土記は美嚢郡と様々に異伝を伝えます。
   ・「葛城忍海高木の角刺宮」
(古事記)に飯豊女王が大いに慶び、二人を上京させた由です。

     ・飯豊女王は、市辺忍歯別王の妹・忍海郎女と云い、後に億計・弘計両天皇となる二人の姥に当るのです。
  実は「住吉大社神代記」には「忍海刀自家」が登場します。
     ・領域を定めるのに「四至」と云う表現があります。葛城山(元高尾張也)の四至を次の様に表現しています。
     四至: 東限・大倭國の季道・葛木高小道・忍海刀自家・宇智道。
           南限・木伊國伊都縣の道側、并び大河。
                     西限・河内泉の上鈴鹿・下鈴鹿・雄濱・日禰野公田・宮處珍努宮・志努田公田・

                                                                                      三輪和泉国大鳥、郡上神道。
              北限・大坂・音穂野公田・那波多乃男神女神・吾嬬坂・川合・挾山・槇田・大村・斑・熊野谷

<3-3> 高
(多珂)
 高乃小道奈比女は高
(多珂)国の女性と見ます。
 「国造本紀」で云う高国造は「古事記・常陸国風土記」では多珂国造と云います。
 高国造は、天穂日命の子・建比良鳥命が遠祖
(古事記)で、弥都侶岐命の孫・弥佐比命が初代国造に定賜(国造本紀)し、 

 亦、建御狭日命が多珂国造(常陸国風土記)だったとされます。
    牟賀足尼命の二男・野乃古連は、遙々、この地の高乃小道奈比女に妻問いし、定住したと思われます。

<3-4> 古斯志国
 古斯志国は、後に越前・越中・越後に分れた「越」の国です。
 この地には、船木姓も多く遺り、舟木氏
(宮司:船木清史、禰宜:船木清崇)の奉斎する式内社・天日陰比咩神社が能登に

   遺る事は先報しています。                       参照:伊瀬舟木3   屋船大神は舟木氏の神か 2024年01月31日

<3-5> 嶋東国
 嶋東国は志摩国の東部だと当ブログが推定する地域です。
 推定根拠は、先ず、「嶋」は「志摩」に通じると見ます。亦、「嶋津国造」(国造本紀)が志摩国の東部域を治めていたと推定できるからです。今は、なぜ出雲臣系が志摩の国造なのか、は論じません。
   ・国造本紀:成務朝、出雲臣祖・佐比祢足尼
(天夷鳥命10世孫)の孫の出雲笠夜命を嶋津国造に定賜。
     ・加須夜神社
(伊勢市柏町)祭神:出雲笠夜命

<3-6> 神直
  神直は「ミワノアタイ」と読むのでしょう。神魂命五世孫・生玉兄日子命の後裔・神直が和泉国に登記しています。
    ・新撰姓氏録:714和泉国神別天神 神直     神魂命五世孫生玉兄日子命之後也
      ・神直
ミワノアタイ・・大神神社(オオミワジンジャ、奈良県桜井市三輪)は名神大社・大和国一宮で、神をミワと読ま

              せていますので、三輪系かと考えたまでです。

     生玉兄日子命は三輪(陶津耳命)系の神人で、後裔に和泉国の神直が居ることを確認します。

   この一族の系譜は多様で、一譜に纏められません。

     だが、参考図表を得て、生玉兄日子命がこの系統の人である事が確認出来ます。




 

     こうして、舟木氏(太田田命の裔)は各国に展開した、と読みます。
    舟木氏の立場は、「船木等本記」に準拠する限り、君・臣・直・連に準ずる姓カバネの人々と同等 

  と読めます。通婚相手は時に上位の階級(皇孫)にさえ及びます。
 

<4> 「船木等本記」の伝える舟木

 「國學院大學・古典文化事業」の「伊勢舟木直」では「船木等本記」に言及していますが、その解説は「船木等本記」の資料価値をやや否定的に見ているやに見受けます。
   引用:731・天平3年の解文という形式をとり、嘗てはその原本であると主張されたこともあった。
      ・そこに記された系譜には伊勢国の船木に在する伊瀬川比古乃命の名があり、さらに津守氏が支配下に収め

                   た5ヶ国の船木連のひとつとして伊勢が挙げられている。
     ・「船木等本記」は住吉大社の奉斎氏族である津守連と船木連の関係が歴史的に遡ると主張する為の操作だと

                  の指摘あり、伊勢船木直と船木連との間に血縁関係はなかったと考えるべきだ。
            ・「船木等本記」は伊勢国に船木連が存在していた事を前提に書かれ、それ自体は首肯してよい。
      ・船木氏は日本海側を中心に諸国に点在し、その中に住吉大社神官を務めた船木連も含まれる。


 ここでは基本的に「船木等本記」の資料価値を認め、改めて、前報「伊勢舟木4 日神をお出し申上げるー天手力男命を想う」から、注目点を次の様に再記します。

  参考1  前報「伊勢舟木4 日神をお出し申上げるー天手力男命を想う」からの抜粋
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   「住吉大社神代記」に含まれる二記(膽駒・神南備山本記・船木等本記)は次の様に記しています。
     引用1・船木等本記:昔、日神を出し奉る宇麻〔呂〕・鼠緒・弓手等が遠祖大田田命の兒、神田田命が
                                           日神を出し奉りて、即ち此の杣山を領すところなり。
     引用2・膽駒・神南備山本記:大八嶋國の天の下に日神を出し奉るは船木の遠祖・大田田神なり。

 「日神を出し奉る」神人は「舟木氏の祖」だったのです。
   「舟木氏の祖」は、次の様な表現を含む文の引用により説明されます。
   即ち、・「膽駒・神南備山本記」は「船木の遠祖大田田神」と云います。
            ・「播磨國の賀茂郡、椅鹿山」では「船木・鳥取の二姓を定め」、「是に於て、船木宇麻〔呂〕・同鼠     

                緒・同弓手等、御神の山を斎護る」と記します。
 
   更に、舟木氏の職掌に基づく姓
カバネ、役職も垂仁朝~景行朝・神功皇后期に生まれたことが記されています。
       引用・「船木等本記」:
         ・「巻向の玉木宮に大八嶋知食しし御世垂仁天皇より、巻向の日代宮に大八嶋食知景行天皇・氣長足姫
                  比古の御世に至るまでの二世は、意彌那宜多命の兒、意富彌多足尼仕へ奉る。(津守宿禰の遠祖なり)
        ・是に於いて舩司・津司に任け賜ひ、又、處處の船木連を被らせ賜ふ。
            ・但波國・粟國・伊勢國・針間國・周芳國の五箇國、爾時より船津の官の名を負ひて仕へ奉る。」

  舟木氏は、舟材の伐採から始まり、造船から湊(船津)管理まで、その職掌は拡がり、それに相応しい役職(舩司・津司、船木連、船津の官の名)が授けられているのです。

  こうして、舟木氏の特徴は、一方では「舩司・津司、船木連、船津」が表しているのですが、他方では「日神を出し奉った」祖神を持つのです。

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 尚、「舟木等本記」では、船木氏裔が皇室と婚姻関係を結んでいる事例があり、それは「船木氏裔の高貴性」を示唆している事もここに記しておき、この件については本ブログの後方で寸論します。
                  参考:天火明命の河内降臨7 「謎」多い船木族の系譜    2019年08月21日(図表1)

 

(2) 先学の「舟木直」資料
 

   次に、伊勢舟木直に関する「先学」の情報二点を集め、そこから派生的に見つかる資料を追い、情報を確め、当ブログのこれまでの情報との対比を図ります。ここは飛ばし読みもありです。
          ・「姓氏家系大辞典」(太田亮)の「船木」の項
    ・「國學院大學古典文化事業」の「船木」項

 
<1> 「姓氏家系大辞典」(太田亮)の「船木」の項

 先ず、太田亮先生の「姓氏家系大辞典」の「船木」の項に学びます。

  参考2    太田亮先生の「船木」の項に学ぶ
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 1伊勢舟木直:多臣の族にして、舟木部の伴造家なるべし。
  11・多気郡に舟木村あり。此の氏は古事記神武段に「神八井耳命は、伊勢舟木直云々等の祖也」と見ゆ。
    12・耳常神社は下の宮村に在りて、下之宮と称し、又舟木明神と云う。
    13・伊勢の船木直の祖神・神八井耳命を祀ると伝えられ、その裔・船木氏、世々祭祀を掌るとぞ。
    14・又、地名辞書、三瀬谷条に「三瀬、舟木は対岸にして、滝原の北一里、大杉谷、野後谷の交会にて、

        和歌山藩政の時、此処に番所を置き、木材薪炭の逓送、及び、舟筏の上下を監視したり」(五鈴遺響)と。
      15・「神都志」に「舟木は御舟木村と云う、此の地より上下数里の間、層峰重岩屹然として対峙し、浩瀚たる

            長江、その中を盤廻せり」と。
    16・「古事記」に伊勢舟木直祖とあり。この舟木は何処の族にや」とあり。
      17・船木:伊勢の古豪にして、船木直の宗族なるべし。
      18・船木宿禰:船木臣又は直の宿禰を賜る者なるべし。
    19・「太神宮諸雑事記」に「船木宿禰麻呂(791・延暦10年)」あり。
 2越前船木直:「類従国史巻78」に「794・延暦13年云々、越前国人、船木臣安麻呂」などと見えたり。
 3舟木系図:その記述・解説を太田亮先生が引用していると見て、別掲します。

 4~7は土岐氏分れの「舟木氏系図」を取扱っており、次報します。
 8「三国地志」朝明郡氏族の条:「按ずるに、兵部少輔舟木躬常と云う人、本国の守護職にて本部下宮村にし、

               (後略)。・・・又、神宮社家に船木氏あり。
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                                        (出所) 「姓氏家系大辞典」太田亮著 第3巻607~609コマ


 太田亮先生は、多氏系氏族の分布とその特徴について、次の様にと述べています。
  ・大和より東西に分かれ、一は九州に、一は奥州に達しており、その区域の広いことは「皇別氏中一、二と云っても」

   良いと見なしています。
  ・中でも「最も古く且最も有力であった」と推定している地域は、九州北部で肥には火氏、阿蘇氏、豊には大分氏、

   筑紫には三家連があることを挙げ、また「大分から海を越えた伊  豫国造」も多氏であると述べていた。
  ・東に向かうこの氏族の分布は、伊勢、尾張と進んで東海道を下り、安房、上総、下総、常    陸、磐城に「蔓延って」

     いることは注目に値する。

  この太田亮情報を元に、その参照している古史料をチェックします。次の通りです。
  1 「五鈴遺響」:「勢陽五鈴遺響」は、江戸時代末期の1833・天保4年に完成した伊勢国地誌。
            概要・伊勢国山田古市の郷土史家・安岡親毅(1758~1828)編纂、没後は妻・安岡八千女が引継ぎ補修、

                 門人・増井惟休、中西正稻等の校正により約50年で完成。
              ・江戸時代以前の伊勢国各郡別に歴史・地理を詳記し、三重県内の郷土資料に数多く引用。
  2 「太神宮諸雑事記」:平安末期に成立した伊勢神宮の歴史書.  注 791・延暦10年、794・延暦13年
                          ・垂仁天皇から後三条天皇の延久元年(1069)までの伊勢神宮の諸事件を記録しています。
              ・皇大神宮禰宜・荒木田氏により代々書き継がれてきたとされる。
    3 「類従国史巻78」・六国史の編年体記事を分類再編集した歴史書。菅原道真の編纂、892・寛平4年に完成。    
  4 「舟木系図」・1603・慶長8年成立の「舟木氏系図」によれば、「船木」の地名は貞治2年(1363)に南朝方の

                             舟木頼尚が入植した事に由来ありとされており、後代の史料ではあるが看過する事はできない。
  5 「三国地誌」:伊賀上野「司城」藤堂元甫の企画により編さんに着手躬。
                 伊勢鈴鹿の国学者・菅生由章を招請、伊賀の富治林正直や川口維言が編纂に参加。
               1761・宝暦11年、伊勢・志摩国二国分を完成、翌年元甫は死去。
               1763・宝暦13年、元福が遺志を継ぎ、全巻112冊を完成。
               ・川口維言:伊賀上野の人、藤堂玄蕃良次の家臣・辻景路の二男、
                川口家に養子。号・竹人又は寓子、通称・庄太夫。菩提寺は念仏寺(上野市寺町)。
              1692・元禄5年生まれ。采女家(藤堂元甫)の家臣で、史学に通ず。
           [内容] 伊勢(上巻)、伊賀・志摩(下巻)三国を、郡ごとに城邑・村里・神祠・山川・梵刹・故蹟
              ・土産・女流・僧侶などの事項別に、全地域にわたって調査したもの。
               古文献を渉猟し、それを正確忠実に収載しているため、史料価値が高い。
       ・参考:太平記引 舟木氏系図曰従五位下右近将監源頼重者鎮守府将軍摂津守頼光十代之後胤
           土岐隠岐守光貞之男母者平貞時女也少名号隠岐孫三郎 是舟木祖也 幕紋瓦中桔梗也
                       ・北条家執権之時、於濃州江○等賜領知且命伊勢守護職按兵部少輔舩木躬常ト云人本国ノ守護職

                      ニテ本郡下宮村下宮(祠官ニ今舩木ノ称号存ス)ニ住シ、天台ノ理仙遷化ノ後慈恵ヲ厚ク信ジ舞坂山

                          ヲ建立シテ招キテ住シムト云是所見ナシトイエルモ舩木ノ称号アルヲ以テ此処ニ記シ後ノ考ヲ俟ツ
                                  (出所)「三国地誌」(国書データベース)朝明郡・氏族459分の149コマ


  太田亮先生情報は、三拍子(調査範囲の広さ、出所明記の原則を守る姿勢、記述の的確さ)揃っていますので、その情報には安心感を与えてくれます。

  だが、その中に、「船木等本記」(住吉大社神代記)から引用されていない事に気付かされます。
  当ブログはむしろ「船木等本記」に着目しているのですが、・・・。

<2> 「舟木直」(國學院大學古典文化事業)の「船木」項

 「伊勢舟木直」を「國學院大學・古典文化事業」で検索すると、ここでは太田亮先生が触れなかった「住吉大社神代記・船木等本記」も取り上げられています。

 参考3  伊勢舟木直を巡る諸説
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1 伊勢舟木直の始祖は、神八井耳命、田田足尼命(住吉大社神代記)、大荒男命(阿蘇家略系譜)だとします。
2 後裔氏族:船木臣・船木連
3 造船などを職掌とした船木氏の中でも、伊勢国を本拠とした氏族。
   31 伊勢船木直の本拠地については、多気郡(現・度会郡)に「船木」の地名が残っており、それを根拠
       として多気郡とされることが多い。
     挿入・参考情報・1889年町村制の施行    滝原村(三瀬川村、船木村、野後村、阿曽村)
            ・1940年滝原村が町制施行して滝原町へ
            ・1956年滝原町・七保村が合併して大宮町が発足度会郡大宮町船木村
            ・2005年大宮町・紀勢町・大内山村が合併して大紀町が発足。
   32「後拾遺往生伝」には、朝明郡に在住する船木氏の存在が確認できるし、朝明郡芦田郷に居住していた           船木東君は臣姓を称し、これが伊勢船木直の後裔氏族の一つである可能性は高い。
                             (出所)「大日本古文書」正倉院編年文書之三・748・天平20年4月25日付写書所解

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                                 注「阿蘇家略系譜」について記述あるも「伊勢舟木直」から離れた情報なので省略する。


 「國學院大學・古典文化事業」が次の様に批判的に書いているのは、この記述故でしょうか。
     引用:「船木等本記」は住吉大社の奉斎氏族である津守連と船木連の関係が歴史的に遡ることを主張するために                    操作されているとの指摘がある。

 

<3>  集約:先学の「舩木直」情報

  先学の「伊勢舩木直」の探求は次のレベルに留まっています。
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 (ア)  国学館大学の資料は「舩木東君」を探し当て、この人が「舩木直の後裔である可能性が高い」と述べています。
        引用・「後拾遺往生伝」には、朝明郡に在住する船木氏の存在が確認できるし、朝明郡芦田郷に居住していた

                     船木東君は臣姓を称し、これが伊勢船木直の後裔氏族の一つである可能性は高い。
    だが、この「可能性」表現は「舟木直」を探しても見つからない状況を示しています。

 (イ) 太田亮先生は次の三点の指摘に留まります。此処でも「船木直の宗族なるべし」が示唆するのは推定であり、決定

   打は出ていないのです。
          引用・船木:伊勢の古豪にして、船木直の宗族なるべし。
        ・船木宿禰:船木臣又は直の宿禰を賜る者なるべし。
        ・「太神宮諸雑事記」に「船木宿禰麻呂(791・延暦10年)」あり。
 (ウ) 神奈備(ネット上にあり)は「布奈木の郷」特集の中で「10 伊勢国多気郡相可郷」を記し、ここは「古事記」が云          う佐那の県だとし、次の様に記します。
      引用:『延喜式神名帳』に伊勢国多気郡に佐那神社二座と載せられています。
         ここは伊勢船木氏の拠点で、祖神の手力男神を祭る佐那神社を祀っていました。
     だが、そこに掲載の地図にある地名を調べても、「船(舟)木」はなく、文中にも「ここは伊勢舟木氏の拠点」だと

       する確たる根拠資料が記されていません。「相可町」(古相鹿)や「佐那神社」を調べても、舩木関わりは出てこな

   いのです。ネット上にはこの情報を引用する人もいますが、今は採用出来ないのは残念です。

  (エ) 美濃国の元伊勢・伊久良河宮の近くに本巣郡舟木郷があり、同地は船の用材を供給する舟木氏の拠点の一つだと

        する見方があります。人によっては、この舟木氏は多氏と同祖だと云い、他方では、舟木直の本拠は伊勢国多気郡

        相可郷(現・多気町)だとする説もあります。

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  こうして二資料プラスアルファから得た情報は、先に当ブログが得た神社祭祀情報と対応させることが出来、二資料の引用する元資料まで辿りましたが、求める新情報は少なく、残念ながら、この段階に到っても、「伊勢舟木直」を充分に示す資料には出会っていません。

(2) 伊勢舟木氏の伊勢国内での展開シナリオ

   そこで、最後の総括表です。判断に迷う時は総括することにより、全貌を確かめます。
   次の総括図表では有力な情報を得られなかった所は横線で示してあります。

 意外ですが、当ブログの「神社とその祭神調べ」の方が情報量が多く、二資料が示す情報は確度が高いかも知れないが、情報量が少ない結果を見ます。

 

 

 ここで、「伊勢船木直」の不鮮明な状況を脱する為に、「仮説:伊勢舟木氏の伊勢国内での展開シナリオ」を記して、本ブログ文を終えます。やや苦し紛れです。

「伊勢船木直」を離れて、伊勢舟木氏についてのシナリオ仮説と考えて頂きます。

 

  仮説:伊勢舟木氏の伊勢国内での展開シナリオ
        1 宮川:舟木氏は宮川上流から下流に向けて展開し、祖神・太田田命を祀り続けた。
       ・太田命の祭祀6社は宮川流域にあり。
       ・太田田命裔・長男・伊瀬川叱古命は宇治比賣(宇治国の女神)の女・玉移良比女命        

                        と結ばれ、宇治国に住み、宇治土公家の基礎を固めた。
       ・舟木社は遺ったが、舟木姓は衰退した。
        2 朝明川:やがて、この一流から北上する者あり、朝明川流域に展開した。
       ・ある時、神八井耳命の一流が朝明・舟木氏の女性に妻問いし、朝明川流域に        

                        地歩を築き、祖神・神八井耳命を祀った。神官・舟木姓は遺った。
        3 伊勢国全体に天手力男命の祭祀社は18社に及ぶ。
     内宮相殿神として、亦、佐那神社祭神としての天手力男命が認められます。
    「大田田命の児・神田田命が日神をお出し申し上げ」(船木等本記)る故に、神田田命は

    天手力男神に擬せられます。   伊勢舟木3 日神をお出し申上げるー天手力男命
           ・地名・舟木は佐那社近辺では失せた、と見ます。この見方は最も非難されそうです。