伊勢舟木2 「心の御柱」造りを宇治土公・大内人が担う理由ワケ

  『何故、宇治土公・大内人は「心の御柱」造りを担うのか』の答は「宇治土公・大内人は太田命を祖とするから」です。
 これは夙に知られている事実(記録)ですが、それだけでは「答えの中身」とは云えません。
 これに続く説明が「その答の中身を明らかにする」のです。

 続く説明はこうです。
 「太田命は太田田命と同神」仮説を用いると、舟木氏と宇治土公は、太田命を祖神とする、同族だと判断されるのです。
 太田命は「森林から船材・神殿聖材を切り出す」部族・舟木氏の祖神です。

 太田命は自領・宇遅国の中から伊勢神宮の鎮座地を倭姫命に献上します。
 これが縁となって、太田命の一裔・宇治土公は大内人となり、神宮の祭祀に仕えたのです。

  更に、この見方を別な角度から支援するのは伊瀬川叱古命と宇治比売命の娘・伊瀬玉移比古女乃命の聖婚伝承(船木等本記)です。
  舟木氏の伊瀬川叱古命が太田命裔・宇治氏の伊瀬玉移比古女乃命と結ばれたことは、仮にそれまでの血統が別々だったとしても、この段階で血流は合一したのです。

 二人の間に生まれた子たちは伝え遺されていませんが、男子は宇治を名乗ったことでしょう。
 舟木は宇治と合一し、宇治土公家の流れが出来たのです。

 宇治土公は、伊勢神宮の神職として幾つかの役割を担いますが、舟木氏一族であるが故に(と推定します)、その伝統的な木材技術を援用する「聖材を取り扱う神事」(心の御柱造り)を奉斎する立場を与えられたのです。
 これが上で云う「読みの中身」です。

 既に、前報ではこれらの説明根拠を提出しておりますが、本報ではその根拠を再引用して、心御柱と宇治土公家とを結ぶ論理を組み立てたのです。
  以下は、この説明を肉付けるものです。

                    参照:伊勢舟木1 伊勢川叱子命と伊西・舩木神社  2024年01月12日

目次 (1) 心の御柱
      <1> 遷宮小史
      <2> 「心御柱」
         <2-1> 「世界大百科事典」の解説をイントロに
         <2-2> 「太神宮心御柱記」&「神道五部書」
      <3>「立柱祭」と「心御柱」の関係する諸祭事
         <3-1> 「心御柱」に関わる式年遷宮祭事
                          <3-2> 「天の御柱」(国生み神話)
   (2)  宇治土公・大内人の役割
                 <1> 「心御柱」の関係する諸祭事における宇治大内人
       <2>  何故、宇治大内人が「心の御柱」造り役を専任するのか
   (3)  舟木氏と宇治氏との血縁関係を推測する
       <1> 「大田田命と太田命と同神」仮説の下での姿
         <1-1> 太田命は宇治土公の祖神
         <1-2> 太田田命は舟木氏の祖神
         <1-3> 「大田田命と太田命と同神」説
      <2> 伊瀬川叱古と宇治比売命の娘・伊瀬玉移比古女乃命の聖婚伝承(船木等本記)
   (4) 結論:「心の御柱」造りを宇治土公・大内人が担う理由ワケ

(1) 心の御柱

   心御柱とは、伊勢神宮の正殿床下中央部分に建てられた柱です。
 ここは神霊が宿る柱と説明されて、神聖視されて来た由です。
 だが、多くは「心御柱の狙いはよく判らない」としています。その作業実態が明かされず、闇に包まれているからです。

 神は木や柱を依り代とすると考えられ、神が降臨(依り憑く)する神籬があるべきと見られているのは確かですが、闇は深いのです。

 「心の御柱」については多くの紹介記事があり、ここはその引用に留めます。
 しかも、おかしな事に、それだけ多くの記事あり、研究あり、なのに、「心御柱」の宗教上の意味は確定的ではないのです。

<1> 遷宮小史

 第 1回遷宮は、685・天武14年に決定され、690・持統3年に行われた、と云います。
   戦国時代、第40回(1462年)内宮遷宮~第40回(1563年)外宮遷宮の間、の約百年間は実施されなかった。然し、この期間を除けば、20年間隔で式年遷宮は7世紀末から現代に到る1400年間続けられていることは驚異的です。
  ・2013・平成25年に、第62回遷宮が行われました。

   この中で、「心御柱奉建」に先行する関係祭事は山口祭・木本祭・上棟祭・だと云えます。

   そこに登場する「屋船大神」については次報で取り上げます。 

      ・山口祭:ご神体を納める御樋代、それを納める御船代の用材奉伐に先んじて行う。
        ・木本祭:山口祭の夜、木本祭において用材は伐り出される。
          ・心御柱にする木を切出す前に、その木の神を祭る儀式。
      ・上棟祭:次の三儀式から成る。
        ・丈量の儀:正殿の中心「心御柱」から「瑞垣御門」までの距離を正しく測量する
        ・上棟の儀:棟上げの儀式、
        ・屋船大神を祭る儀:建築の神様に祈願する
      ・祭典:山口祭から数年後の後鎮祭・御神楽まで、数多の祭典・祭祀が行われる。
                                                                                         (参照) 神宮式年遷宮(ウイキペディア)

 遷宮は、平成17年の山口祭から始り、平成25年10月に無事遷御の儀を終えています。
   遷宮の過程は、2005~2013年の8年間、その間の祭事は30件に及びます。
 2038年に第63回式年遷宮を完成するには2025年5月には山口祭・木本祭を始めると思われます。


    

<2>  「心御柱」

<2-1> 「世界大百科事典」の解説をイントロに

 心御柱についての[世界大百科事典]の紹介記事を導入に用います。

 引用:伊勢両宮の神殿の床下中央に建てられた檜の掘立柱を云う。
   〈正殿心柱〉(皇太神宮儀式帳)と云い,つまり社殿の中心に立つゆえの名(古事記伝)だが、         別に社殿の実用的な支柱でなく,しかも神宮祭祀上きわめて清浄神秘を重んじられ  

        る柱として特に忌柱とも称される。
    ・20年毎の式年遷宮に当たって、特別にその用材を伐採するための「木本祭」と、これを建て

     る「心御柱祭」とがいずれも夜間の秘儀として執行され、奉仕者も禰宜・大物忌など特定の

           神職に限られる。
    ・1279・弘安2年の遷宮などの諸記録によれば、柱は地上3尺3寸,地中2尺ほどに埋め立て、

          終われば榊の枝で柱を包み隠す。地鎮,立柱の神事とは別に行われる重儀
                          (出所) 改訂新版 世界大百科事典 「心御柱」

   ・執筆の薗田 稔先生を調べると、埼玉県秩父市出身の高名な学者先生です。様々な論文・著書

         を出されているばかりか、秩父神社の宮司も長年なさっていた由で、実践的な神道文化のご

         造詣の深さを知ります。何時もの事ですが、他人様のご経歴を拝見すると、私と同年の方で

         もあり、年数を経たこの方の人生に想いを馳せます。
      薗田 稔:1936・昭和11年生、宗教学者・秩父神社元宮司・京都大学名誉教授。
                   1960年東京大学文学部宗教学科卒業、1965年同大学院博士課程満期退学。
                           1972年に國學院大學文学部講師、1974年に同助教授、1981年に同教授、
                           1991年京都大学教養部教授、のち京都大学総合人間学部教授、
                           2003年國學院大學神道文化学部特任教授、皇學館大学大学院特任教授を歴任。

<2-2> 「太神宮心御柱記」&「神道五部書」

 次に、「太神宮心御柱記」(国書データベース)を眺めてみて、これは「神道五部書」の各書に記されている「心の御柱」に関する部分を寄せ集め、更なる説明を加えたものと判断します。

 その冒頭は「それ大宮柱は太田命が下津磐根の金磐を初めて奉仕して以降、相続いて怠りなく、是を一気に顕現し、万品を起す惣揃の源也」で始まります。

 


 

 続いて、「豊受皇太神御天降坐本記は云う」として「天四徳地五行。径四寸長五尺。御柱坐以五色意図奉纏之。以八重榊奉飾之」と続きます。これは下記の引用3に対応しています。

 そこで、ここでは「太神宮心御柱記」が引用する「神道五部書」の「心御柱」に関わる部分を抜粋引用(原文のまま)してご紹介します。
  「神道五部書」は伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の祠官が鼓吹した伊勢度会神道の根本教典五部を云います。

  次をご覧(赤字部分を拾い読み)になると、直ぐに気付かれると思いますが、「太田命訓伝」「宇遅」「天下の土公」「太田命」など「心御柱」に繋がる名に出会うことになります。
    引用:1「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」・別称:「御鎮座伝記」「大田命訓伝」「神記第一」
                                       伝・継体天皇元年、神主飛鳥撰
          ・御鎮座傳記卷首:纏向珠城宮垂仁皇女倭姬命,伊勢國渡遇之宇遲の乃五十鈴河上之邊,立礒宮御座之時爾,

         狹長田之猿田彥大神、【宇遲、土公氏人遠祖神也。】齋內親王、神主部、【天村雲命之孫,大若子命弟。

                乙若子命等也。】物忌等,【天見通命之孫,宇多大牟禰奈,大阿禮命等也。】 訓悟白く久:「凡天地開闢之 

                事,聖人所述也。爰伊勢天照皇太神,五十鈴の乃河上に爾御鎮座之制作,未露紙墨。故,元始綿邈,其理難

                言し志。願爾諸聞給へ倍,『吾是天下之土君也,故號國底立神也。吾是應時從機ひ比,化生出現之,故號氣

                神。吾亦根國、底國より與理麤び備疏び備來物に仁,相率守護之,故名鬼神。吾復為生物に仁授與壽福之,

                故名大田神。吾能反魂魄之,故號興玉神。悉皆自然之名也,物皆有效驗。我將辭訖。』遂隱去矣。」
    2「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」・別称:「御鎮座次第記」「阿波羅波記」「神記第二」
                                                                                                                                  伝・阿波羅波命ら撰
            ・九、神託戒律:以前,大田命,皇太神宮御鎮座之時參相。狹長田の乃御刀代田奉て天,即地主と度為て天奉

     仕,三節祭ゐ井。春秋,神御衣祭,及時時幣帛驛使時太玉申ゐ井。天八重榊儲供奉,神代之古風,地祇之忠

     神也
            ・飛鳥神躰,假櫃內納之云云。都合十二卷。の内に『大田命訓傳次第記』あり。
    3「豊受皇太神宮御鎮座本紀」・別称:「御鎮座本紀」「飛鳥記」「上代本紀」   伝・継体朝、神主飛鳥撰
      ・心御柱。一名天御柱,亦名曰忌柱,亦名天御量柱。
      ・謂,應天四德地五行,徑四寸長五尺御柱座。以五色絕奉纏之,以八重榊奉餝之。是則伊弉諾、伊弉冉尊鎮府,

     陰陽變通之本基,諸神化生之心臺也。都,合天心而興木德,歸皇化而助國家。故皇帝曆數,天下之固,常磐、

     堅磐無動。三十六禽,十二神王,常住手護座,依損失,必有天下危。
           ・心御柱は檜ヒノキであり、長さ5尺(150cm)、直径4寸(12cm)だと云います。「外宮では心御柱を、地下に2

              尺(60cm)分を埋めて、地上に3尺(90cm)分を突き出す」が、「内宮では、心御柱の全部を地面下に埋める」

              とも云われています。
     4「造伊勢二所太神宮宝基本紀」:                                                       伝・881年、荒木田神主行真の書写
        ・「三、神宮諸物例事」に次の如くあり。
     心御柱。一名忌柱,一名天御量柱。是則一氣之起,天地之形,陰陽之源,萬物之體也。故皇帝之命,國家之

     固,富物代,千秋萬歲無動。下都磐根大宮柱廣敷立。稱辭定奉焉。
           5「倭姫命世記」・伝:768年、禰宜・五月麻呂撰
            ・特に引用しない。


 「太神宮心御柱記」の冒頭に出てくるだけあって、太田命は心御柱行事の大元なのです。
 宇治土公は伊勢神宮の玉串大内人で心御柱奉建の秘事を担当する立場です。

 その宇治土公の祖が太田命なのです。

<3> 「立柱祭典」と「心御柱」の関係する諸祭事

<3-1> 「心御柱」に関わる式年遷宮祭事

  「心御柱」に関わる式年遷宮祭事を抜き出しますが、抜き出し漏れがあるかも知れません。
  1山口祭
  2木本祭
   ・「立柱祭」遷宮前年の3月に催し、柱一本を最初に立てる非公開の祭で、内宮→外宮の順に行う。
   ・「心御柱奉建」は、屋根葺きなど全ての建築工事が完了した9月末にある。
     ・正殿完成後に、正殿の中心床下に「心御柱」を立て、構造を支える役目ではないと云う。
     ・心御柱は下方三尺を地中に埋め、その周囲には天平甍(平たい円盤状土器)数百枚を積み置いた。
       ・心御柱の奉献は[鎮地祭]の同日深夜の古儀で、「神宮最極秘」とされてきた。
       ・遷宮時、古社殿が取壊されるが、心御柱だけは古殿地にそのまま次の遷宮まで覆屋の中に残される。
   参考・天皇の最も重要な即位儀式である「大嘗祭」も深夜に執り行われ、その場合、新天皇が降臨した神(祖霊)

                 と一体になる「真床御衾」が重要だ、と云う。
         ・「心御柱記」(元は御鎮座本紀)によると、心御柱は長さ五尺、径四寸の木柱で、五色絕(白布説あり)を全体に

     巻き、八重榊で飾ったものだった。
     ・伊勢神宮の「年中三節祭」は、九月の神嘗祭、六月・十二月の月次祭を云い、最重要な祭とされている。
     ・由貴大御饌:この三度の祭事は内宮正殿に御饌を献進する。
                     ・いずれも十六日夜と十七日晩方の二回供えるもので、内宮では御贄行事より調理された大御饌

                    を、大物忌(童女)の手で正殿に供える。
                         ・「建久三年皇太神宮年中行事」では(御殿下)と記して、正殿床下の心御柱前に御饌を据える。
                     ・それは明治初年の神宮祭式の大改正まで一貫して行われていた。
                     ・この大御饌は祢宜を先頭にして正殿の前まで運ばれる。
                 ・床下に入ることができるのは大物忌ら物忌の童女とその介添え役の物忌父だけで、彼らの

                手で床下の三ヶ所に燈火を灯して供進を行う。

<3-2> 「天の御柱」(国生み神話)

 「天の御柱」が「古事記」の「国生みの神話」に出てきます。
 この「天の御柱」が「心の御柱」と結びつくのかどうか、は判りません。
 しかし、その類似の故に、亦、「御柱」の共通性の故に、ここに引用し、お読みの皆さんのご参考に供します。
  引用・伊弉諾・伊弉冉が、天の浮橋に立ち、海を掻き回して、引き上げた矛の先からできたのがオノゴロ島。

                二柱の神はその島に天降りまして、大きな「天の御柱」を立てて、八尋殿を建てます。
    ・伊弉諾・伊弉冉の二神は、「天の御柱」の周囲をまわって、数々の島と神々を生んだ。


  太安万侶は「天の御柱」の思想を中国から借用してきたのでしょうか、それとも倭国在野の伝承から「古事記」の中に採り入れたのでしょうか。

  「縄文期の立柱文化]の意味も問わずには居れません。
  日本海沿岸地域の20遺跡に78基の縄文立柱が確認されています。その立柱は様々に解釈されているようです。
         参照:立柱祭祀の史的研究 立柱遺構 と神樹信仰の淵源をさぐる 植田文雄
                                    日本考古学 第19号 95~113 (能登川町埋蔵文化財センター・神埼郡能登川町 山路2225)


  「御柱」が全くの新概念だったとしても、その概念に先行する何らかの事象・概念があって、その異質かも知れない事象・概念から着想を得て、人は新概念を創造するのではないか、と思うのです。

 「新規な創造とは何か」と云う「問い」とつながる問題がここに底在しています。

(2)  宇治土公・大内人の役割

<1> 「心御柱」の関係する諸祭事における宇治大内人

 大内人・宇治土公の伊勢神宮での役目については「皇大神宮儀式帳」に次の如くあります。
    引用1 三節祭、春秋の神御衣祭の時、幣帛し、駅使の時、太玉串並びに天八重坂木(榊)供奉す。(45コマ)
        2 正殿の心柱造り奉るのは宇治大内人。諸々の内人等戸人等を率いて杣入りし、「木本祭」用の資材を

                  調達する。(18コマ)
       ・吉日に、御船代木を造り出す時、宇治大内人は諸々の内人・戸人を率いて、 杣山の木祭用物を調えます。                                                                                          (20コマ) 但し、用具揃えについての記述引用は略す。
             ・内親王御坐及び諸司の敷物敷き、月別、宮中守護宿直長番長忌み仕奉
      3 三節祭、春秋の神御衣祭の時、幣帛
                 (出所) 「皇大神宮儀式帳」(18コマ、20コマ、45コマ)  (国書データベース - 国文学研究資料館)
                      「皇大神御形新宮遷奉時儀式行事」における宇治大内人の役目。
               参照:伊勢の祭祀13  宇治土公の秘密 2023年04月08日


 就中、古来、宇治大内人が「心の御柱」造り役を専任してきたのです。
 而も、その工事は極秘(非公開)に行われるのです。

<2> 何故、宇治大内人が「心の御柱」造り役を専任するのか

  だが、伊勢神宮の「式年遷宮」において『何故、宇治大内人が「心の御柱」造り役を専任するのか』は誰も説明出来ていないのが現状です。
  「心の御柱」用の聖材の切り出し役は宇治大内人です。それに関わる祭典「木本祭」は密かに行われる由です。
  神宮正殿の完成後、「心の御柱奉建」の祭事は、遷宮諸祭の中でも一際重んじられる秘儀だとされます。  (参照) 上記、 第62回神宮式内遷宮の中での「心の御柱祭」の位置づけ

 その上、「心の御柱奉建」を宇治大内人が担うのは昔からの「定め」だとされ、その理由ワケは「謎」だったのです。

(3) 舟木氏と宇治氏との血縁関係を推測する

   今までは、舟木氏と宇治氏とは無関係かと思われていたようです。
 だが、どうも、次の二点で両氏族は血縁で結ばれていると思われるのです。
  1 伝承を比較すると、太田田命と大田命とは同神ではないか。
  2「伊瀬川叱古と伊瀬玉移比古女乃命の聖婚」(舟木氏伝承)は両氏族の血縁関係を示す。
 

   この場合、伊勢の神社伝承によれば、伊瀬玉移比古女乃命は宇治比売命の娘だと判り、宇治比売命は宇治土公と繋がる可能性があるのです。

  これを以下で推察しましょう。

<1>  「大田田命と太田命と同神」仮説の下での姿

<1-1> 太田命は宇治土公の祖神

 先ず、太田命は宇治土公の祖神だとされています。
 「倭姫世記」によりますと、垂仁朝、伊勢に到着した倭姫命に、太田命は、自領は「五十鈴川の畔の<さこくしろ宇遅の国>」ですと申上げ、神田を献上します。

 太田命はこの五十鈴川上の地主神だったのです。
  引用:「倭姫命世記」抜粋
      1 五十鈴川の後の江に入ると現れたのは佐美川日子、祭祀社:江神社
      2 神淵河原で参上したは宇遅都日女。後江で、御饗を奉った。
      3 その時、宇治土公の祖の大田命が現はれ、「さこくしろ宇遅の国」と領地を紹介し、                       御止代の神田を進った。
              ・倭姫命が「吉き宮処あるや」と問ふと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上は、大日本の

                 国の中にも殊勝なる霊地あるなり。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ視知らざる

                 霊物あり。

              ・照耀くこと日月の如くなり。惟ふに、小縁の物に在らじ。
              ・定めて主の出現御坐さむとする時に、「献るべし」と思ひてここに敬ひ祭り申す。」
                                                       (出所) 「倭姫命世記」神話の森

  興味深いのは、太田命は倭姫命を宮川上流の滝原まで案内していることです。
  それは次の様な大滝神社の社伝により判るのです。
  引用:「垂仁天皇25年丙辰春、倭姫命行啓の時、大田命の啓行によって、この地に至り給い、                 (天照大神の御魂が)この岩滝の上りに鎮座されたことが古老の伝えに残っている。」

  この伝承は、大田命の勢力圏は宮川上流域の滝原・舟木から川下の「宇遅国」(伊勢市)まで広かったのではないか、とする見方を支持します。

<1-2> 太田田命は舟木氏の祖神

 住吉大社の神官・船木氏の祖については「住吉大社神代記・船木等本記」に次の伝承があります。
 「大田田命の子、神田田命の子、神背都比古命。この神が天売移乃命の児、富止比女命を娶って生んだ児は、長子は伊瀬川比古命で、この神は伊瀬玉移比古女乃命を娶られて、この伊勢国の船木に鎮座している。」
     原文:[大]田田命子。神田田命子。神背都比古命。此神者。天賣移乃命兒。冨止比女乃命娶生兒。先者伊瀬川比古乃

               命。此神者。伊瀬玉移比古女乃命娶坐。此伊西國舩木在。                                     (出所) 船木等本記
                                           参照:天火明命の河内降臨7 「謎」多い船木族の系譜 2019年08月21日


 太田命の祭祀が宮川の上・下流の沿岸に展開する様子は、その裔が宮川の上・下流の沿岸に展開し、祖神・太田命を祀った姿を示していると思われます。
  その裔とは、一には太田命裔の宇治土公君一族であり、別には舟木氏だと見られるのです。
 舟木氏は伊勢・宮川の上流から下流にかけての沿岸部に展開していた、と思われます。

<1-3> 「大田田命と太田命と同神」仮説

  <1-1>と<1-2>とを照合すると、太田田命と太田命とは重なり合い、ここに「大田田命と太田命と同神」仮説が生まれるのです。

  舟木氏と宇治土公家とが太田命を共通の祖としていることが明らかになると、今まで謎とされた諸々の謎が、朧げながら明かにされていくのです。
 その解明度に応じて「大田田命と太田命と同神」仮説の有効度は高まるでしょう。

  ここでは、太田命(太田田命)が「森林から木材を切り出す」氏族(舟木氏)の祖神である点に注目します。その氏族の経営する森林の木材は船材となり、宮殿・神殿の聖材となるのです。

 一方、太田命が宇遅国内に伊勢神宮の鎮座地を献上すると、その一裔・宇治土公は大内人(神職)としての地位を与えられたのです。

  宇治土公・大内人の役割は、様々な神事に加えて、「心の御柱」造りの大役を含みます。
  それは舟木氏の祖・太田命(太田田命)が「森林から木材を切り出す」氏族だったからです。

 舟木氏が、経営する森林の木材を船材とし、或いは、宮殿・神殿用の聖なる建材とする時、神事を行うのは古代の慣わしだったのです。

<2> 伊瀬川叱古と宇治比売命の娘・伊瀬玉移比古女乃命の聖婚伝承(船木等本記)

   更に、この見方を別な角度から支援するのは伊瀬川叱古と宇治比売命の娘・伊瀬玉移比古女乃命の聖婚伝承(船木等本記)です。

  「船木等本記」の云う「伊瀬玉移比古女乃命」は葦立弖神社の祭神:玉移良比女命の事だと推測できます。

 葦立弖神社は、伊勢神宮内宮末社ですが、社殿廃絶のため、内宮摂社の国津御祖神社に同座しています。
    ・国津御祖神社・葦立弖神社(伊勢市楠部町字尾崎)
       祭神:(国津御祖神社、式内社、皇大神宮摂社)祭神:宇治比賣命・田村比賣命
          (葦立弖神社、皇大神宮末社)     祭神:玉移良比女命
                   由緒:玉移良比女命は宇治都比女命(国津御祖神社祭神・宇治比賣命と同神)の御子、産土神。
               参考:大土御祖神社・宇治奴鬼神社(伊勢市楠部町尾崎)は国津御祖神社・葦立弖神社とほぼ
           同一鎮座地に在り。


  決め手は宇治比賣命の登場です。国津御祖神社の伝承は玉移良比女命(葦立弖神社の祭神)の母神は宇治比賣命(国津御祖神社祭神)だとするのです。

 宇治比賣命は宇治氏の女性です。宇治氏と舟木氏はこの聖婚で血統の合一裔を生むのです。
  ここに、舟木氏の伝統を継ぐ、新しい宇治土公の一党が誕生したと見ます。

(3) 結論:「心の御柱」造りを宇治土公・大内人が担う理由ワケ

 舟木氏の祖神・大田田命は「聖材取扱い神事」を太田命裔・宇治土公家に伝えたのです。

 玉移良比女命は宇治都比女命(国津御祖神社の祭神・宇治比賣命と同神)の女子とされ、この地の産土神とされています。

  「宇治」=「宇遅」です。この近傍で、次の名前を見出しています。
   故事・宇治都日女(倭姫命世記)、
     ・宇遅国  (倭姫命世記:太田命の自領、神宮鎮座地として提供)
         ・宇治比賣命((国津御祖神社、式内社、皇大神宮摂社の祭神)
       現代・宇治山田・宇治町・

   玉移良比女命は宇治比賣命の娘ですから宇治氏で、宇治土公家と繋がる位置にいる女人です。 舟木氏の伊瀬川叱古命が、宇治氏の女人・玉移良比女命に産ませた男子は当地・宇治を冠とする宇治氏を継ぐのです。

  伊瀬川叱古(舟木氏)が伊瀬津日女(宇治氏)と結ばれた事は、仮にそれまでの血統が全く別だったとしても、この段階では血統合一を意味します。

 二人の間に生まれた子たちは伝え遺されていませんが、男子は宇治を名乗ったことでしょう。
 ここで舟木は宇治と合一し、宇治土公家は舟木含みの流れが出来たのです。

  舟木氏の「採木・木工技術」があったればこそ、宇治(舟木)氏が「心御柱」行事を担当することになる基本的な正当性がある、と云えるでしょう。

  次に、「図表1  宇治大内人の奥に舟木氏の影を見る」をお示しして本ブログを終えます。