目次1 前回までの要約
  2  検討:八咫烏が神武軍を案内した道
    (1) 「日神の御子は日を背にして攻めなければ勝てない」
       <1>  宇陀から伊勢に発する道
               <2>  道筋は縄文時代から大きく変わっていない
       <3>  幾つかの旧伊勢本街道の難所観察
       <4> 三街道の評価
        (2)  結論:八咫烏が神武軍を案内した道
       <1> 「旧伊勢本街道」ー最有力候補ー
       <2> 「八咫烏が神武軍を案内した旧伊勢本街道」(図表3)の説明
       <3> 参考:「戸畔の会」の示す「和歌山街道案」(当ブログの仮称)

1 前回までの要約:

 今回の一連の神武特論の狙いは「神武軍を八咫烏が案内した道」を探ることです。
 そのための調べは、次の諸々を推定して、ほぼ完了したと見ます。

 <1> 神武帝が「伊勢海の細螺キサゴ」を詠んだのは伊勢の海を知っていたからでしょう。
        ・伊勢海の案内したのは「八咫烏」でしょう。
   <2> その「八咫烏」は伊勢国の地理に明るく、宇陀への道も知っていたのです。
    ・それは建角身命(=八咫烏)一族は伊勢(含む伊賀)に勢力を張っていたからでしょう。
 <3> 子孫は祖神・建角身命(=八咫烏)一族を祀った筈と見て、神社を調べますと、果たして

           一族の祭祀を伊勢国に多数見出しました。
     ・その鎮座地域はいなべ市から始まり、伊賀・鈴鹿市を経て、櫛田川を南限とします。
         ・北限 :賀毛神社(いなべ市)・鴨神社(いなべ市)
     ・中間域:都美恵神社(伊賀市)・賀茂大神社(鈴鹿市)
               ・南限 :伊佐和神社(松阪市)・櫛田神社(松阪市)

         ・祭祀ある地は建角身命の上古勢力圏があったと見ます。
 <4> 系譜調べは、建角身命は伊勢津彦(櫛玉命・出雲建子命)の裔孫である可能性を示します。

2  検討:八咫烏が神武軍を案内した道

(1) 「日神の御子は日を背にして攻めなければ勝てない」

  前報で次の様に書きました。この基本策は変わらなかったと思われます。
   引用:「日神の御子は日を背にして攻めなければ勝てない」ーこれが神武東征軍が紀伊半島を迂回して

       大和に攻め入る軍略の根拠です。従って、この基本原則に反する策は認められない、と見ます。
     ・「日本書紀」によれば、孔舍衛坂の戦いで、五瀬命は流れ矢が当り、軍は進むことができず、神

       武天皇は、次の様に語って、作戦を変えます。
      「今回、私は日神の子孫であるのに、日に向って敵を討とうとしているのは、天道に逆らっていた。

                  そこで、一度撤退して相手を油断させ、天神地祇を祀り、背中に日の光を負い、日神の威光をかりて

                  襲撃すれば、刃に血を付けずとも、敵はきっと敗れるだろう」と。

  「古事記」(岩波文庫)の記載も略同じです。ここは原文のみ引用します。
         「古事記」からの部分引用:吾者為日神之御子 向日而戦不良 故負賤奴之痛手
                   自今者行廻而  背負日以撃期而 自南方廻幸之時・・・


   この基本策に基づき、神武軍は南方廻幸(迂回)策に出たのです。と云う事は、当時、知る人は      日本地理を承知していたのです。紀伊半島を廻り伊勢湾に出て、そこから西方に向かえば、「背    中に日の光を負い」日神の威光をかりて勝利できる、と読んでいたのです。

<1>  逆から見る:宇陀から伊勢に発する道

  神武軍の大和国の最初の到達点である「宇陀」から東方に伊勢海があります。
 「日神の御子は日を背にして攻めなければ勝てない」とする神武基本策から考えられるのは宇陀の東方からの攻略です。

 考えられる伊勢からの宇陀への道は次の三街道です。
   1初瀬街道(あを越え伊勢街道)
   2伊勢本街道
   3和歌山街道(高見越え伊勢街道)


  図表1はこれの三街道を示します。このいずれかの道を神武軍は西に進んだのです。

 

 

<2> 道筋は縄文時代から大きく変わっていない

  縄文の古代から今日まで、この三つの道筋は、地形地勢が変わらなかった限りで、基本的に変わらなかった、と思われます。

 古代の山間部は、獣ケモノ道、林道、谷間の道・山腹の道・九十九折れ(七曲り、羊腸小径)の坂道・峠道が多かったでしょう。
 だが、基本的にはその道筋は現代も引き継がれていて、大幅に変わらなかったと見ます。

 尤も、そう云い切るには幾つかの条件が付きます。
 古代からの九十九折れ(七曲り、羊腸小径)の坂道は、現代は自動車道の発達により道路舗装が進み、幅員は拡げられたり、直線に近い道路に改修されてもいます。バイパス道やトンネルも出来ました。

 道路の造成技術水準は大いに進んでいますから、古代道は現代の登山道・林道の様相を呈していたかも知れません。

  縄文の昔からその道筋(位置)が10kmも離れた別な道筋へと大幅に変えられたケースもあったでしょう。江戸時代までは兎も角として、現代社会では改修が進んでいます。
 だが、大まかには昔ながらの道筋が残っている筈だと見るのです。

<3>  幾つかの旧伊勢本街道の難所観察

 図表2でご覧のように、旧伊勢本街道の名残は今も遺ります。
  伊勢本街道について、幾つかの峠道を確認して、改変の有無とその踏破の難度レベルを検します。
 

 

  「神武進路案」として和歌山街道を主とする案が「戸畔の会」から示されています(後述)

   注:「戸畔の会」の神武進路案は厳密には和歌山街道だけではなく、大紀町錦地区から伊勢柏崎〜大台町を経て、

             松阪市飯高町に到り、ここから和歌山街道に乗るのです。
           後述あり。「参考図 和歌山街道を神武天皇東征の道と見る・丹敷戸畔の謎解明プロジェクト」(戸畔の会)


 そこで、その難所も「参考図:和歌山街道の難所観察」で観察しておきます。

 

 

 

<4> 三街道の評価

   宇陀はこの三街道が集まる交通の要衝なのです。
 この三街道は、名前は変わっても、道路状況が変わっても、縄文の古代からの道だと思われるので、この三道を「神武軍の進路」として評価してみます。

 「初瀬街道」は名張市・伊賀市を経て、青山峠から古代の一志郡(津市)に入る道です。
  ・この道は三街道の中で最も北にあり、紀伊半島迂回では、最も遠回りの感が否めません。
  ・だが、「都美恵神社」には「伊勢津彦命 建角見命 玉依比賣命」の三代に亘る祭祀が認   

         められるだけに、伊賀は重要です。
      ・一応留意しますが、この道は候補として採れません。

 「伊勢本街道」は、東から西への神武軍の進路として最も相応しいと思われます。
   ・この道が三街道の中で伊佐和神社(祭神:建角身命)から宇陀市への距離が最短なことも

        この道の魅力を高めています。
   ・この旧伊勢本街道は、難所もあるけれども、神武東征の約百年後、倭姫命が通って伊勢   

        に向かった道でもあったのです。
     ・この図表1の「相可」の地より北に「伊佐和神社」(祭神:建角身命)が鎮座しています。           この地域は南下してきたかもしれない健角身命勢力の拠点だった可能性が大です。
     ・当時、そこに神社がなかったかも知れませんが、「後世に建角身命が奉斎された地」は   

        建角身命に所縁ありと判断します。
   「伊佐和神社」の地から櫛田川を6km下れば、父・櫛玉命を祀る「櫛田神社」があり、             更に6km下ると「伊勢の海」なのです。
   ・「伊勢の海の細螺キサゴ」歌は、この辺で建角身命の饗応を受けた時の神武帝の思い出    

        でしょう。建角身命は「暫しの息入れをなさいませ」と伊勢の海を案内したと思われます。
   ・神武帝は、海を見ては安らぎ、饗応に満足し、明日の「山行き」の英気を養います。
         ・建角身命は近郷の首長とも通じ、多分、宇陀の兄猾・弟猾とも知合いです。
        神武帝は、宇陀着後、建角身命を指し向け、兄猾・弟猾の帰順を促します。(日本書紀)
   それは健角身命が猾兄弟と知己故に適任だったからです。

 「和歌山街道」は、もし八咫烏の神武軍出迎えが大紀町錦地区であれば、神武軍との話合い 次第では、この和歌山街道案を採っていたかも知れない道なのです。
  ・道程の難易度や所要距離は伊勢本街道と同じ程度と思われます。
      ・「丹敷戸畔の謎解明プロジェクト」(度会郡大紀町錦)が主宰した「神武天皇東征の道」は           この「和歌山街道」を選んでいます。
          参照:神武天皇東征の道編(第一回~第五回)
           注:度会郡大紀町錦で、地域活性化を目的に活動している「戸畔の会」ほかが協力して、平成24年から取り                       組んでいます。


 だが、神武帝はこの道を採る時は最後の20kmを北上する必要があるとの説明を受けて、この「和歌山街道」策の採用を止めた筈です。
  ・難点は、真東からの宇陀行きではなく、南からの北行が最後に含まれる道なのです。
   古代の事ですから、神武原則「日神の御子は日を背にして攻めなければ勝てない」は譲れま

   せん。この原則に照らして、神武帝はこの和歌山街道案は採らなかったと見ます。
        注:念のため、図表3に「和歌山街道」案も示してありますので、ご吟味下さい。

(2) 結論:八咫烏が神武軍を案内した道

<1> 「旧伊勢本街道」ー最有力候補ー

   やや短絡的で唐突ですが、ここで、結論です。

 八咫烏が神武軍を案内した道の最も有力なのは「旧伊勢本街道」だと見ます。

   注目すべきは、松阪市の柿野神社(松阪市飯南町横野)から仁柿川の遡上に沿うカタチで伊勢本街道は宇陀方面に向かいます。
   それと同時に、櫛田川は粥見神社(松阪市飯南町粥見)を目安に西の高見山(櫛田川の水源)に向かい、その沿道が和歌山街道になります。
             ・高見山は三重県松阪市飯高町と奈良県吉野郡東吉野村の県境に位置し、櫛田川(一級河川)の水源地です。

              多くの支流が櫛田川に流入し、いずれも、その沿道と共に、交通の便となっています。

 従って、大雑破な表現になりますが、伊勢本街道と和歌山街道は、柿野神社・粥見神社の地域以降、可成りの区間、6~10kmの間隔で間に山々を挟みながら、宇陀・吉野方面に併行・遡上しているのです。

 後に、お伊勢参りの街道としては「伊勢本街道」が栄えますが、古代は、この二街道は同程度の

道筋と見られます。

<2> 「八咫烏が神武軍を案内した旧伊勢本街道」(図表3)の説明

  図表3には「八咫烏が神武軍を案内した道」は旧伊勢本街道だとして、赤マークの鎖線で示してあります。

  目的地は宇陀市役所として赤マーク連鎖の左端に青丸で示し、その下方17kmには吉野町役場を示します。

   赤マーク連鎖の途中にある黒マークは「峠」を示し、そこは難所であることを示唆します。
 赤マーク連鎖の東端の赤・紫の神社マークは建角身命一族を祀る伊佐和神社・櫛田神社です。

   尚、青の神社マークは今回は建角身命に関係がなさそうなので特段の説明をしません。

  その周りにある黒白○マークは彌生~古墳前期遺跡です。
  これらの存在は、神武東征が弥生末期~古墳時代早期だっただろうと想定し、その頃の遺跡が人の居住状況を示唆すると見て事前調べしたものです。

 ここでは神社祭祀の前身の時代を「後世の神社祭祀」と「弥生~古墳早期遺跡」により推定する、と云う変則方法を採っています。
 だが、「伊勢弥生史」には深入り・説明せず、後に、伊勢古代の遺跡をまとめる機会を探します。

 


  図表3での「神武東征の道」の出発点は、神武台公園(大紀町錦地区)付近としています。
  そこから錦峠を越えて伊勢柏崎に至って、42(又は、538)号線をそのまま進む(本ブログ案)か、左折して山の中に入り荒木峠を目指すか(戸畔の会案)により進路は分かれます。

  本ブログ案では、青マークの鳥居群の道沿いに進み、最後に紫マーク鳥居・伊佐和神社に到ります。
  建角身命が何処で神武軍を出迎えたか、に次報で言及しますが、その時は再びこの図表3を見て頂くことになります。

<3> 参考:「戸畔の会」の示す「和歌山街道案」(当ブログの仮称)

  図表3の緑マークは「和歌山街道を中心にした神武東征の道」(戸畔の会)を示します。
  この「戸畔の会」の示す「和歌山街道」案は学者先生も参加して作成されたようです。

  三つのコメント。
   1神武天皇が基本策「日神の御子は日を背にして攻めなければ勝てない」を曲げれば、
   この案を採用することも出来たかも知れません。
     2 神武天皇の「伊勢の海の細螺キサゴ」歌を合理的に説明するためには、神武軍が伊勢の海

   を見ずに宇陀へ向かったとは云えません。
   ・神武軍は、少なくとも、伊勢海の見える処に立ったと考えるべきでしょう。
    これを説明出来た時、「和歌山街道」案もその価値を高めるでしょう。
   3 もう一つは「建角身命が神武軍を何処で出迎えたか」がこの「和歌山街道案」の採用に

   影響したかも知れません。これについては次報で触れます。

  今は、参考図をお示しするのみです。