目次 (1) 牛岳の謎に挑む
       <1> 牛岳
       <2> 牛岳神社(牛嶽社)の分布
       <3> 史料上の牛嶽(岳)の初見は「康富記」の宝徳(1450)7月
       (2) 三熊・牛嶽神社のヒント
       <1> 三熊
                   <2> 宇斯=主=大人
                   <3>   本居宣長大人の「古事記伝」
                   <4> 三熊大人の「大人(宇斯)」はウシを介して牛となる。
   (3) 日本海沿岸の上古史の断面
       <1> 天熊人命の東行
                   <2> 天熊人命=武三熊大人命を祀る神社の日本海沿岸での展開
                   <3>   美井姫命(大国主命女)・長饒穂命(天熊人命孫)は越国に行く
                   <4>   越国上古史の一断面
                   <5>   白山信仰の大元
       (4) 三熊・牛岳神社の謎

(1) 牛岳の謎に挑む

 「阿彦の乱」の大若子命勢の甲良彦の守城「辻城」(黒河郷浅野谷)を探している時の事です。

   先ず、浅谷神社を見つけます。次いで、地図上でその周囲を探っていると、近くに牛岳神社を見つけ、更にその外郭に多くの牛嶽社の散在を知るのでした。そこで、寄り道して調べます。

<1> 牛岳

 越中立山と加賀白山の中間に牛岳はあり、その山頂には牛岳神社が鎮座し、そこが砺波市庄川町・南砺市利賀村・富山市山田地区の境界になります。
                   ・正確には山頂を示す987mの三角点が庄川町・利賀村の境界です。

 牛岳はこの地域では遠くからでも眺められる山です。県内中級山岳の殆どの山頂から見えているし、平野部からも望められる、と云います。
   牛岳(富山市山田鍋谷)には展望台があり、その中腹には色々な遊びの場が出来ています。
       ・牛岳温泉スキー場  (富山市山田小谷)
       ・牛岳パノラマ展望台 (富山市山田若土151)
       ・牛岳温泉健康センター(富山市山田赤目谷31-28)


 この山は婦負郡側で牛岳、東砺波郡側で鍬崎山と呼ばれ、砺波市庄川町の最高峰987mだと云い

ます。                  参照:尾田武雄のブログー石仏や散居村、郷土史に関する事

 その呼称から推測すると、牛岳信仰は、砺波郡側ではなく、富山市側から始まったものと思われ

ます。           ・現在は旧山田村側(現・富山市)から頂上まで車で上がれる道が整備されたようです。

<2> 牛岳神社(牛嶽社)の分布

  牛岳神社(牛嶽社)は牛岳を源流とする川筋に40余社が分布していると云われます。亦、その内12社が庄川町庄の社家・藤井家の持宮だとも云われています。
       ・牛岳神社(祭神)大己貴命、素戔嗚尊

  地図上に牛岳神社を探すと、図表1に示す様に27社を見出しましたが、40余社には及びません。
 
  若干、この図表を説明します。
    ・黄の鳥居は砺波市域にあり。
    ・赤の鳥居は富山市域にあり。この色違いが、往古、砺波郡・婦負郡の境界を示唆する。
    ・黒の鳥居は、上から櫛田神社・荊波神社・高瀬神社。何れも式内社。
               ・紫の鳥居は、浅谷神社(甲良彦の辻城は黒河郷浅野谷にあった)
    ・黒丸マークは牛岳
    ・紫丸マークは地名・三熊
    ・その側の赤鳥居マークは三熊牛岳神社

  この中で注目したのは「三熊」です。
 これは、後で説明しますが、「牛岳信仰」を天熊人命に結びつける原動力になった地名です。

 

 

<3> 史料上の牛嶽(岳)の初見は「康富記」の宝徳(1450)7月

  牛岳の呼称が何時生まれたのか、は「牛」絡みで重要です。

  牛岳の遠望は全然「牛」には見えない、と思われます。(眺める位置にもよりますが)
 従って、「牛」は当て字であって、元来のウシは「宇斯=大人」だったのではないか、と云う「穿ち疑念」が生まれたのです。

  ネット上に見つけた「牛嶽神社の御神体」(尾田武雄)と云う優れた論文から引用します。
 引用:「史料上の牛嶽の初見されるのは「康富記」の宝徳(一四五〇)七月の条である。
    「越中国奇異事 十六日戌牛晴陰、後日人々語説、今日於越中国、有不思議、大風大雨之中、牛嶽ト云所ヨリ

     光物出、其体雲中鬼形有之、指艮飛行、其間十里許也、山河草木悉損失云々」とある。

    室町時代にすでに牛嶽の名がみられ、宝徳二年(一四五〇)七月一六日に暴風雨があり、牛嶽より雲中鬼形の

    光物が艮(北東)に向かって飛行し、一〇里ほどにわたって山河草木が悉く損失を受けたというのである。」
  ・その他のネット上に見る「牛岳信仰」参考資料
   参考:「八尾町史」(1968) p807-887、「婦中町史」(1996) p217-218
        「牛嶽権現の像容とその信仰」(北陸石仏の会研究紀要 2号)
                 「ウシダケ信仰に就いて」(高志人 1946.7)


 尾田論文は「ウシ」を15世紀まで遡及しています。
 今の関心は更にその500~1000年前なのですが、それは判り得よう筈がありません。

  「牛岳初出」の別な可能性は高瀬神社の「越中一ノ宮伝記」です。
  そこに次の様にあります。
   引用:「人々は大神の御神徳を讃え、三津ケ峰(現・牛岳)を大国主の山→主の山→主の嶽、後に牛嶽と

       呼ぶようになったと云う。」(出所) 「神々のまにまに」(高瀬神社HP)

 だが、この高瀬神社の由緒を記す「越中一ノ宮伝記」の編纂年月は今のところ判りません。
 何時頃、「牛岳」はその名を受けたのでしょう。これは判りませんでした。

(2) 三熊・牛嶽神社のヒント

<1> 三熊

  地名「三熊」に注目したのは「武三熊大人」を祭神とする複数の神社があるからです。
  当地に近いのは金沢の武三熊神社です。
  また、武三熊大人は天熊人命の別名の一として認められています。

   図表2にその他の神社祭神をリストしますが、神社伝承を元に次の等式をお示しします。
   大飯彦命=大背飯三熊大人(別名・武三熊之大人)=阿太賀都健御熊命(略称・御熊命)
 

 

  この神の呼称の骨格は「三熊大人=三熊+大人」ですから、「三熊」は注目に値するのです。

  それならば、「大人」はどう見るべきでしょうか。

<2> 宇斯=主=大人

 神々の名前に「宇斯」を含む事例は多いと思われます。
  古事記の表記法では、「和豆良比ワズラヒ能宇斯神」、「飽咋アキグイ之宇斯能神」に「宇斯」が顕れ、屡々「宇斯」の使用例とさていれます。
     A古事記:和豆良比ワズラヒ能宇斯神
  ・日本書紀  :煩神(五段一書六)
   ・先代旧事本記:煩神(陰陽本紀)、和豆良比能宇斯能神(陰陽本紀)、和爪良比能守斯能神(陰陽本紀)
   ・神性:伊耶那岐神が黄泉国から帰還して禊をする際に、身に着けたものを脱いで化成した十二神(衝立船戸神・

       道之長乳歯神・時量師神・和豆良比能宇斯能神・道俣神・奥疎神・奥津那芸佐毘古神・奥津甲斐弁羅神・

       辺疎神・辺津那芸佐毘古神・辺津甲斐弁羅神)の内、投げ捨てた衣に成った神。
      B古事記:飽咋
アキグイ之宇斯能神
  ・日本書紀:開齧神(五段一書六)
  ・先代旧事本記:開齧神(陰陽本紀)/飽咋之宇斯能神(陰陽本紀)
  ・神性:黄泉国から帰った伊耶那岐命が穢れを濯ぐため禊祓をした際、投げ捨てた御冠から成った神。


  ここでは、丹波道主命タニハノミチノウシ(別名:谿波道主命・丹波比古多々須美知能宇斯王・旦波比古多々須美智能宇斯王・美知能宇斯王・彦多都彦命)を事例に取り上げます。

 丹波道主命は「日本書記」の表記です。「古事記」では「丹波比古多々須美知能宇斯王・旦波比古多々須美智能宇斯王・美知能宇斯王」と表記され、日本書記の「主」は「宇斯」に対応しています。

 ですから、表記ウシ=宇斯=主=大人、が結論となります。

<3>  本居宣長大人の「古事記伝」

 本居宣長大人の「古事記伝」にも次の様にあります。飛ばし読みして下さい。
   引用:主ヌシは大人ウシと同言にて、能宇斯ノウシの切ツヅマれるなり。宇斯ウシを主人と書ることも

      見えたり。書紀に、継体天皇の大御父・彦主人王ヒコウシノミコ、又續紀に、阿部ノ朝臣御主人

               ミウシなど是なり。これら今は訓をあやまれり。
      ・故レ古ヘに宇斯ウシは、必某之宇斯ナニノウシと之ノを加へたるに云ヒ、奴斯ヌシは某主ナニヌ
     シと直タゞに連て、之ノを加クハへぬに云り。
      ・飽咋之宇斯能アキグヒノウシノ神、大背飯之三熊大人オホセヒノミクマノウシ、大国主ヌシノ神、

               大物主モノヌシノ神、事代主コトシロヌシノ神、経津主フツヌシノ神などの如し。
          ・亦、書紀に、齋主イハヒヌシノ神ヲ號フ二齋之大人イハヒノウシト(一)(齋主の神を齋之大人

      といふ)と見え、【此レは齋主ノ神と云は、其ノ神ノ號ナ、齋之大人と云は、其時祭リにつきての
              職號ツカサノナの如くものなるを、その職ノ號を即ヤガテ其神ノ名として、齋主ノ神と云なり。
         ・然れば職ノ號は前にて、神ノ號となれるは後なるを、此ノ文はなほ後より云る故に、本末まぎら

      はしく聞ゆめり。
         ・又、丹波美知能宇斯王タニハノミチノウシノミコを、書紀には道主王ミチヌシノミコとある、是

      らを以知ルべし。
          ・奴斯ヌシにも之ノを添ヘて某之主ナニノヌシといひ、又たゞ主ヌシとばかり首ハジメに云フなどは、

             みな後のことなり。萬葉十八天平勝寶元年の歌に、たゞ奴之ヌシとあり。そのころよりぞさる言も

             ありけむ。又主ノ字を宇斯ウシにあてずして、奴斯ヌシにあてたるは、能宇斯ノウシと云よりも、

            約めて奴斯ヌシと云し言の、古ヘより多かりし故なるべし。されど本を正して云はゞ、主ノ字ばかり

            は宇斯ウシと訓ムべきことわりなり。

<4> 三熊大人の「大人(宇斯)」はウシを介して牛となる。

 その祭祀は「社祠」で行われたが、文中に「牛堂」と呼ばれるものが顕れます。
  金沢の「武三熊神社」がその例で、元の名は「牛堂」だそうです。
 牛堂は武三熊大人命の大人ウシの名から付けられたと云います。

 当て字「牛」は独走を始めます。推測ですが、越中富山の「牛岳」は加賀金沢の「牛堂」より後

に生まれたのでしょう。

  こうして、「三熊」は祭神名・三熊大人に縁があり、「大人」は宇斯→牛となって、牛岳信仰の「遠い源」を示唆する、と穿ち読むのです。

(3) 日本海沿岸の上古史の断面

<1> 天熊人命の東行

 天熊人命は、「日本書紀」や「先代旧事本紀」では、天熊人、天熊人命と表記され、「備後神楽」では。天熊大人アマノクマウシとなっています。
 神社祭神としては「大背飯之三熊大人オホセヒノミクマノウシ(大飯彦命神社・田原神社の場合)が見られます。天熊人命の別名を先に図表2に示していますので、この神の姿が見えてきます。

<2> 天熊人命=武三熊大人命を祀る神社の日本海沿岸での展開

 

   武三熊大人の後裔は、石見から出雲・因幡・近淡海へと展開し、夫々の地に祖神・武三熊大人命を祀りつつ、地歩を固めてきたのです。

  その証左は、三熊大人を祀る神社の日本海沿岸地域での存在です。次の如くです。

 

 

 

<3>  美井姫命(大国主命女)・長饒穂命(天熊人命孫)は越国に行く

 この天熊人命の神裔譜を作製するに当たり、「但馬故事記」(美含郡記)を検すると、天熊人命の孫・長饒穂命は、妻・美伊比売を連れて、越に移住しています。

 

<4>  越国上古史の一断面

  ここは詳述します。
 「但馬故事記」(美含郡記)によれば、天熊人命の孫・長(武)饒穂命は北陸に移住したのです。

 長饒穂命に同行した妻は大国主命と稲葉八上姫命の女ムスメ・美井比咩命です。

  引用:<但馬故事記>第六巻・美含郡故事記:(出所) 但馬国ネットで風土記
    ・第1代神武天皇3年秋8月 小田井県主、胆杵磯饒穂命の子・武饒穂命を美伊県主とする。
    ・武饒穂命は大国主命の娘・美伊比咩命を妻に、武志摩命を生む。武饒穂命に従って越の国に帰る。
      ・郷名は美含郷と云う。美含は水汲みの意である。井の水は浅く汲むべし。御井神社が鎮座する所。

     御井神は、大己貴命が稲葉八上姫に通い生まれた所。木俣神と申しまつり、加賀国白山に鎮座する。
     故にまた、白山比咩神と称えまつる。
     ・第2代綏靖天皇25年夏5月 武饒穂命の子、武志摩命を美伊県主とする。
        武志摩命は、小田井県主、胆杵磯饒穂命の娘、香恵姫命を妻にし、武波爾命を生む。
       ・第4代懿徳天皇30年秋7月 武志摩命の子、武波爾命を美伊県主とする。
        武波爾命は、小田井県主、味饒田命の娘・川口姫命を妻にし、石津来命を生む。
                                                         

 この記述は驚くべき日本海上古史を伝えます。
      ・第一は、天火明命の孫・武饒穂命は越国へ移住した事です。
  ・第二は、大国主命の女・美伊比咩命はその妻として共に移住した事です。
  ・第三に、この美井比咩命は越では白山咩命と呼ばれたことです。
  ・第四に、武饒穂命・美井比咩命の世嗣・武志摩命は但馬で美伊県主家を守ります。

       だが、越(現白山市・金沢市)での武饒穂命・美井比咩命の後裔は伝わりません。

 当然、長饒穂命とその裔は、越に到来後、一段落すると、祖神崇拝の原理に則り、天熊人命の祭祀を行った筈で、それが、天熊人命を越前(敦賀・白山・金沢)の次の三社だと推定します。

    ・金前神社(敦賀市金ケ崎町)       祭神:火産靈大神 配祀:伊弉諾命 天熊大人命
        ・武三熊神社(金沢市畝田中二丁目)  祭神:武三熊大人
        ・御熊神社(金沢市、大野湊神社境内) 祭神:武三熊大人


  当ブログは、その延長線上に富山市三熊の地名があり、三熊牛岳神社とつながる、と読むのです。
     尚、「三熊」は阿太賀都健御熊命神社(図表3)の鎮座地名・鳥取市御熊にも通じる点をご案内します。

<5>  白山信仰の大元

  亦、美井比咩命は越国では「白山姫命」を名乗り、白山信仰の大元を築いたと推定します。
   ・白山比咩神社(石川県白山市三宮町)式内社、加賀国一宮
       祭神:白山比咩大神(菊理媛神と同一神)・伊邪那岐尊・伊弉冉尊
         ・石川県・岐阜県の県境の白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る。
         ・全国に2,000社以上ある白山神社の総本社で、神紋は「三子持亀甲瓜花」
         ・通称:白山シラヤマさん・白山権現・加賀一の宮・白山本宮、白山は日本三霊山の一
             ・元は、手取川の畔にある現在の古宮公園の場所に鎮座していた。


   白山信仰については別に書く機会を探します。ここでは平安~中世に白山信仰が仏教と習合して変身したことだけに触れておきます。
 そして、但馬から移住してきた大国主命の女・美井比咩命が白山比咩命となり、白山信仰の大元となったことを、再度、確認します。

<6> 再論:四隅突出型墳丘墓の不存在地域

  先に、白山・金沢市地域を四隅突出型墳丘墓の不存在地域だと指摘しました。
 それは、「天孫・天火明命集団は四隅突出墳丘墓の墓制文化を持たなかったからです。」と先に

記しました。厳密には白山市域に一基あるのですが、・・。
                                    参照:特論   四隅突出墳分布の空白部の意味 2022年05月31日

  その時、次の様な経緯を記したのです。
  引用:大己貴命が天火明命に下した詔「汝、この地(志楽国)を治めよ」により、葬送文化の裁量権は天火
             明命に委ねられます。この時、大己貴命系の「四隅突出墳丘墓」形式は採用されず、天火明命系の

             墳墓文化が採用されたものと推測させられる傍証だと、この経緯を読みます。
                                 参照:第2編 天道姫命ゆかりの神々 1 天火明命の丹波降臨 2019年06月30日


  「美井姫命・長饒穂命」の越国(白山・金沢市)移住伝承は、長饒穂命が天火明命系がなので、四隅突出墳丘墓・方形墳系を取らなかったと見るのです。

(4) 三熊・牛岳神社の謎

 越前(加賀)には武三熊神社が鎮座し、その由緒が示唆深いのです。
      越前・武三熊神社(金沢市畝田中2丁目233)
               祭神:武三熊大人 大山祗神 応神天皇 神功皇后
                 引用:宝永誌に「畝田村領内に牛堂という社あり御神躰は、大威徳明王のよし云々」とあり、

            この牛堂は、御祭神である武三熊大人から名付けられた。「加賀史徴」にこの文を引用し

          「この牛堂といえる社は、宮腰往還台所橋の脇なる田中にありしが、文政5年地替して村中

          (現在地)に社地を移しこの跡は今は田地と成りたり」とある。(武三熊神社・石川県神社庁)
               由緒:当社の元の名は「牛堂」である。牛堂は武三熊大人命の名から付けられたと云う。
          当社は、元々、大威徳明王を祀っていた。大威徳明王は密教の明王で阿弥陀如来の化身とされる。

          当社も、元々は神仏習合だったのかもしれない。大威徳明王については、水牛に乗った姿がよく

          イメージされるようだ。牛ウシ繋がりで結びつけて考えられたのであろう。

   大野湊神社の境内社にも御熊神社が鎮座しています。(但し、現在はHPには記載なし)

 更に、三熊大人の後裔は、越前から越中へと渡来したと見ます。
   今、焦点の越中・富山に参りますと、そこには「三熊の地」があリ、三熊の中心地に牛嶽神社が鎮座しているのみです。                    参考 ・地名:富山市三熊

 三熊牛岳神社と武三熊大人命とを安易に結びつけるのは危険ではあります。
 しかし、一連の状況証拠は、逆に、その推測を容易には否定出来ないもの、だと云えましょう。

 

追:大国主命が平定した「越の八口」を思わせる地名「高岡市八口」を見つけました。

  その先鋒を受けて、色々な部族が「越」を目指したと思われます。越前・越中が当面の進出地

  だったでしょう。

  その関連で、「美井姫命・長饒穂命」の越国(白山・金沢市)移住伝承を位置づけたいと思います。