「吾彦の乱」を初めてまとめたのは「喚起泉達録」(野崎伝助著)だと云われています。
  富山藩の御前物書役だった野崎伝助は、享保年間(1716~1736年)、越中各地の伝承を採録したと云います。
 一方、孫の野崎雅明は「肯構泉達録」を記しますが、「吾彦の乱」の記述部分は祖父の記述とは異なるようです。
  注 野崎雅明(1757-1816):越中富山藩士。藩校広徳館の助教から学正に進む。父雅伯の業を継いで越中の歴史

    研究に努め、文化12年、「肯構泉達録」を記し、翌文化13年死去。享年60歳。

  二書は同じ「泉達録」とはいいながら、冒頭の二語「喚起」・「肯構」はどう違うのか、と問い「ネット検索」しますと、「喚起は精神的な<気づき>を促す表現である」(語彙Lab)とあります。

 ところが、「肯構」を検索すると「喚起」が出て来ます。
 「肯構」は「書経」由来の古語なので現代用語では解説がない由です。

 これの意味は「肯構」と「喚起」とは同義ではないが、ほぼ類似の表現なのでしょう。

 「喚起」は「見よ」と積極的に呼びかけるのに対して、「肯構」は「成る程、と肯く」やや物静かな姿勢を感じます。

  元々、二書は越中の古代からある時期までの「通史」を心がけたもので、「泉達録」とは「太古の源泉に達する史録」(通史)の意だろうと推定します。

  1892(明25)年、その子孫の野崎雅義が再度「肯構泉達録」を出版し、国会図書館デジタルアーカイブはそれを公開しています。
 「喚起泉達録」は、豊な文学的表現で「吾彦の乱」を書き上げたようですが、乱鎮定後の収集策やその後の成り行きが殆ど記載されていない、と云われています。
 だが、孫・野崎雅明の「肯構泉達録」には阿彦の乱鎮定後の後始末や登場人物の後裔記があります。

 そこで、ネット上に得た「肯構泉達録」を読み「阿彦の乱鎮定後の後始末と後裔記」を中心に小考を展開します。


目次1 大若子命の戦勝と戦後処理
         (1)  阿彦軍の敗戦
         (2) 大若子命の戦後処理
       <1>  布瀬一族(吾彦親族)の千七百年の顛末
       <2> 大若子命の戦勝後の神社政策
       <3> 美麻奈彦は越国造に任命される。
  2 「阿彦の乱」の拠点比定
     (1) 「阿彦の乱」の両軍の拠点を検す
              <1>  大若子命の本拠
              <2> 中地山城
              <3> 辰城
              <4> 辻城
              <5> 枯山城
              <6>  岩峅城
  3 越中上古史の謎

1 大若子命の戦勝と戦後処理

 ・大若子命の越中への路:若狭の小浜(緒濱)にいた笥富貴・飯富貴の夫婦から北地風俗を学び、

       我浜子10人が命の北行を助けてくれたので、大若子命は越中に到ることができた、
 ・越中の拠点:伊豆部山の下杉野に玉址を留め、大田郷中地山に保を築いた。

(1) 阿彦軍の敗戦:
 

 阿彦軍は大若子命軍の総攻撃により敗れ、阿彦は戦死したと云います。その他、大天狗が捉えられ、阿彦姉の志那夜叉が行方不明になった以外は阿彦軍の将は討ち取られます。

(2) 大若子命の戦後処理

 注目すべき点は大若子命の戦後処理(幾つかの抜粋を図表4に示す)と神社政策です。

<1>  布瀬一族(吾彦親族)の千七百年の顛末

 「吾彦の乱」を鎮定後、大若子命の吾彦一族への始末は注目されます。
 「肯構泉達録」の伝えは、次の様です。
  ・阿彦が父を神として岩峅の南山に大社「越の一の宮」を建てていたが、これを壊させた。
  ・新川郡布瀬山中に東条比古(阿彦の父)の善政を訴える声あり。
   ・伝1:新たに小祠を水口(富山市草島)に設けて、ここに祭神を遷座したと伝わる。
     ・伝2:水口に小祠を設けることを許す。
   ・大若子命は、東条彦を阿彦一族が東条照荒神と称して尊崇し、之を神として祭る事に                ついて異議を唱えず、東条照荒神社の神職として上条家を永く仕えさせた。
   ・命はこの神の神階を昇格させ、同時にその高い階位に相応しい社有地を与えた。
  ・新川郡布勢山中(布勢川流域の山~丘陵地)には阿彦に近い縁者の上条・中条・下条の三家が

         あって、代々支配して居たが、改めて彼等を布勢の地に封ずると定めて、中条・下条              両家は夫々現有地支配を許す。

 図表1    大若子命の戦後処理(1):布勢一族の処遇
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   ・阿彦は岩峅之南山に石壇を築き、大社を建て越の一宮と称す。
   命、邪神に何の徳あるか、社保頃を壊し、流すべしと命じると、水口に流す。
 ・新川郡布勢山中に上条・中条・下条の三家あり。皆阿彦の一族、先祖・東条彦を東条照荒神と称し、一号の氏神と

      尊崇せしが、岩峅一宮と同様に「東条彦の宮」も超すかと懼れていると、椎摺彦はこれを大若子命に告げて曰く、
  「我聞く、東条彦は生きて善徳あり。人、その教えに化して淳厚となりよく稼を努め、一郷富饒なり。これ東条彦

     の徳譚によりとて遺魂を神とし永く尊敬せり。必ず東条の宮を毀す事なかれ。」と。
   ・命、聞き給い、功績を賞し、特に報ずるは王者の急務。東条彦は霊神なれば何ぞ毀す事をせん、とて却って、椎摺

     に命じて神階を進め、布勢の地に封じ上条を神職として永く神に仕えしめ、中条・下条は長オサとして一号を司らし

     めた。                                     (出所) 肯構泉達録
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  それでは、現在はどうなっているのか。図表2に阿彦一族の後裔を探ります。

  先ず、関連する神社(氷見・布勢神社、及び、魚津・布勢神社)を図表に紫の鳥居⛩で示します。

 次に、「名字由来ネット」で上条(東条)・中条・下条の三姓を富山県下に求めます。
  すると、「吾彦の乱」は新川郡域の事変だったと思われるのに、亦、「肯構泉達録」によれば

上条・中条・下条の布瀬三家は新川郡布勢山中にその所領を安堵されたのですが、現代の中条・下条二姓は新川郡には見出されず、高岡市・射水市に見出されるのです。

 高条姓のみは新川郡入善町に確認されます。
 だが、魚津市東城の地(片貝川右岸)には「東条照荒神」と云う神社は見出せず、その近くにあるのは春日社・神明社・日吉社です。

  結局、富山県東部の新川郡域には布瀬神の子孫の影を見ないと云う有様です。

  「肯構泉達録」は次の様に後裔の動向を伝えます。
     (引用) 布勢神の後裔:東条の宮あるところを東条村と云う。今、東城と改め、上条家は神職となり、

              継いで今に到る。
                          ・中条家は桃井尚津根の旗下となり、中条下野守と称す。
                          ・下条は六郎右衛門と云う者大力の聞こえあり。後、中条下条と唱える。
                         下条七郎二良と云う者、婦負郡へ出て耕作し、一村を成し、氏を以て村名・下條村とす。


  その婦負郡下條村は明治22年(1889)の町村制施行時に合併で消えた村名の一つです。
 下条村は分割されて、朝日村と速星村に編入され、更に、その後の合併で、現在、速星村も朝日村も富山市婦中町速星、又は、婦中町朝日地区となっています。
  富山市の下条姓(概数)は、冨居栄町10・星井町10・晴海台10に認められ、そこは合併で消えた旧下條村の周辺だと推定されます。そこには下条川が流れています。

  地図を精査して「字アザ」地名を検すると、庄川と和田川の間に、上条、下条の字地名を見出し、下条神社(射水市下条138)も鎮座しています。

  他方、中条姓は高岡市に多く見られます。そこは庄川と小矢部川の中間地で、中条神社は見出しません。

 

 

 限られた情報での推測ですが、これが千七百年後の布瀬神の神裔の姿(上条・中条・下条家の変転の姿)だと云えます。

<2> 大若子命の戦勝後の神社政策

  大若子命は、「阿彦の乱」に戦勝後、ある場合は神社を壊し、別には新興し、且つ、神恩に謝して改修する、と云う神社政策を打ちます。これを図表3に示します。

 上古より近世に到るまで、戦勝した将軍達は、戦勝祈願した社祠を拡大造営したり、新規造営します。神恩に感謝するお礼参りです。これまでも頼朝公や阿倍比羅夫の事例を見ました。
            参照・頼朝公  :東国の神裔考(4)  洲崎神社は海を渡った  2021年08月30日
              ・阿倍比羅夫:特論  ヤマト皇子たちの日本海沿岸域展開  2022年06月30日


 大若子命が大彦命を祀らなかったのは祖神崇拝する立場になかったからでしょう。

 図表3の5・6・7は関係者についての後日譚的な野崎雅明の追記であって、大若子命の直接的な差配ではない、と見ます。

  図表3   大若子命の戦勝後の神社政策
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  1 大若子命は「東城照荒神」(祭神:東条彦)の祭祀を認めます。だが、現在の地図上には見当たりません。
  2 姉倉比賣神社:「吾彦の乱」で姉倉比賣神に授かった八構布で作った白旗八流を用いて戦勝する事が出来たので、

                          その神恩を謝し、その祭祀社を修補します。
         姉倉姫神社(舟倉旧社)と小竹新社がありますが、この場合は、新社を繕修したようです。
  3 気多大明神   :大己貴命の国開きを謝し、射水郡一の宮村に八千戈神を気多大明神と称し、越の一宮とします。
  4 護国八幡神社:「八幡社を保郷の諸将の神社とす。42の末社あり」(肯構泉達録)はこの護国八幡神社であろう、

                          と推定します。社伝は当地の人民が大若子命を祀ったとなっています。
      ・護国八幡神社(富山市八幡718)

       祭神:大幡主命大若子命)誉田別命・息長足比売命・玉依姫命、天照大御神・豊受大神
       社伝:垂仁天皇84年、大若子命が越の国の凶賊・阿彦討伐の後、この地に「八幡の宮」を御造営された。

          当地の住民が大幡主命を慕ってこの宮に奉斎したのを創祀とする。
                        ・文武天皇(在位697~707年)が「忠孝」の二字を自書され、その意義を教えられた時、甲良人麿が

                           これを奉じて越路に下って教諭した。 越の民は、高梨野の丑寅/内山に高々と石壇を築いて迎え、

                           二字の札が磨滅するのを恐れて当宮に祠を作って安置したと伝わる。

  5佐留太爺の鉾:「婦負郡高日付村の神社にサルタジの鉾を納めた」(肯構泉達録)とありますが、現・富山市婦中町

         高日附の地に神社を見ません。
  6加志波良比古神社(珠洲市宝立町)祭神:加志波良比古神、
  7滓上神社     :「近藤は、伊加志穂比古神の神胤なり。近藤滓上が死すとその子・近藤帯刀は父の遺魂を神として

                        「滓上神社」を創建す」(肯構泉達録)とある滓上神社は小松市に鎮座  します。 
      ・滓上神社(小松市中海町)式内社 加賀國能美郡 滓上神社
         祭神:五十日足彦命、應神天皇 神功皇后 比咩大神、伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理媛命
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 (出所)  「肯構泉達録」国立図書館デジタルコレクション


<3> 美麻奈彦は越国造に任命される。

  「肯構泉達録」は、美麻奈彦は大若子命の推挙により越国造に封ぜられた、と伝えます。
     引用:美麻奈彦、越の国造となる。
       ・美麻奈彦はその才徳が衆に超えたれば、大若子命の推挙により越の国造に封ぜられしとなり。
      美麻奈、人民を撫育し徳義を教えければ、庶民次第に善化せり。    (出所) 肯構泉達録


  その子孫が算学に優れ、遂に、算学博士となった話も記されています。
     引用:美麻奈、又、数学に善し。今に伝うその胤射水郡草岡にありて久しく続いて後、草岡の康守と云う者あり。

               その子・康成は幼稚より才知優れ、18才の春、京都に赴く。実に、冷泉院御宇・治歴2年なり。

               算学の博士・善為長を師とし算術を学べり。
    ・康成、みまなより伝えし算書を為長に披露し、精を研き、思いを尽くして算学大成し、進士明経の二科まで

               も学び得たり。
        ・堀川院御宇、寛治2年、為長に代わり算学の博士となる。同5年、朝議太夫に到り、姓名を改め、善為康と

               号す。 (以下一部略す)                  (出所) 肯構泉達録

 美麻奈彦は、「越中史要」によれば、大彦命の裔とされており、これまでもそれに従ってこのブログ話をまとめてきたのです。
    引用:(前略) 命、功臣・美麻那彦を留め国中を治めしむ。美麻那彦は大彦命の裔なり。克く人民を治め、

                   礼儀を教えしかば、衆庶皆悦服す。美麻那彦の後胤 射水郡草岡に土着せりと云う。
                                                  (出所)「越中史要」(石場建夫編)第一篇 第三 大若子命、阿彦の乱を平ぐ  


   美麻奈彦は「肯構泉達録」では速川姫命の子となっています。
 「越中史要」と「肯構泉達録」との両方が真実を伝えているならば、その意味は美麻奈彦は大彦命裔と速川姫命との間に生まれたと見られます。
                  速川神社(高岡市波岡)式内 中國射水郡 速川神社、 祭神:国常立尊 天照皇大神 建御名方命

  一方、「国造本紀」によれば、高志国造に任じられたのは大彦命後裔・市入命です。
      国造本紀:成務朝、阿閉臣の祖・屋主田心命の三世孫・市入命を国造に定賜す。

 大彦命(三世紀末~四世紀初頭)と市入命(四世紀後半)は約50~60年の時間差があり、世代差は5世代と思われますので、「美麻奈彦=市入命」説は一応は成立し得ますが、やや窮屈な時間差と見ます。

  美麻奈彦は越国造だとされますが、美麻奈比古神社は越中ではなく能登に鎮座しています。
            美麻奈比古神社(鳳珠郡穴水町川島ホ-23-1、2)
      祭神:美麻奈比古神 美麻奈比咩神 
           菊理媛神(白山社)、宇迦之御魂神(稲荷社)、猿田毘古神(幸神塚神社)
               由緒:往古は、美麻奈比古神社と美麻奈比咩神社がそれぞれ別に鎮座していたが、天正年中、上杉謙信

          の侵攻により美麻奈比咩神社が焼失し、美麻奈比古神社に合祀されたもの。

                          別鎮座の白山神社も相殿に祀り、現在の様に三柱を主神とする神社となった。
         ・1910・大正元年、稲荷神社・幸神塚神社を合祀し、祭神は六柱となった。
         ・美麻奈とは「穴水」の訓だったらしく、穴水の男女の神を祀ったもの。(出所)玄松子の神社記憶
         注  明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』
        明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 796-797コマ)                                       

 「越中史要」は美麻奈彦は射水郡草岡に鎮座していると指摘します。
 そこには確かに草岡神社が鎮座していますが、美麻奈彦はその祭神にはなっていません。
    ・草岡神社(射水市古明神372)式内社 越中國射水郡 草岡神社
       祭神:大己貴命 合祀 事代主命
          異説:文化八年棟札・・玉依姫命 大己貴命、神名帳考證・・・彦坐命
              玄松子:この周囲は、古代には富山湾と干潟に挟まれた場所で、湿地であったと考えられているが、

           一説には、弥生時代の水位はもっと低かったようで、現在よりも広い平野だったとも云われ

                              ている。富山湾の海底には、多くの海底林があり、当時の平野部の広大さを示していると云う。
           創建年代は不詳。地名の古明神も、当社の存在によるものだろうか。
           ・式内・草岡神社の論社で、江戸時代までは加茂明神と称していた。

                              文化八年棟札にある、祭神・玉依姫命は、加茂社だった頃の名残り。
                           「神名帳考證」の彦坐命は、草岡の社名から日下部氏祖神と考えたもの。
                           合祀の事代主命は、境外末社・恵比須社祭神だったが、大正時代に本殿に合祀した。


  このように色々なズレがあるので疑問点はあるのですが、美麻奈彦は「吾彦の乱」の実在を示唆する注目すべき高志人と云えましょう。

2 「阿彦の乱」(肯構泉達録)の拠点比定

   ここで「肯構泉達録」の示唆する大若子命軍と阿彦軍の拠点を確かめますと、大まかですが、両軍の戦闘推移をたどれると見ます。

   両軍の対峙し戦闘が繰り広げられた地域は越中富山の中央部から東の地域のようです。

 「肯構泉達録」の伝える地名の中には不明であったり、その位置からは戦闘が読み取れないケースもあります。ここでは拠点の城に絞り、砦や宿泊地については省きます。

<1>  大若子命の本拠:

  大若子命が「石瀬の浜」に着くと、保郷の将が迎えて「小竹野」に供奉す、と「肯構泉達録」にあります。
 これにより、本拠地は小竹野で、そこは今の地名「富山市呉羽町小竹」だと思われます。 

  尚、これに先立つ大彦命の越中駐地(玉址)は「伊豆部山の下杉野」(肯構泉達録)だとされています。

  この「伊豆部山の下杉野」と「荒地山」の記述は問題含みです。
   注・大彦命は、越中に到った時、伊豆部山の下杉野に玉址を留め、大田郷中地山に保を築き、椎摺彦を置き、荒地山

           に荘園を定め、手刀摺彦を福とし置き給う。                                   (出所) 「肯構泉達録」四頁
     ・伊豆部山は婦負郡小井波夫婦山のことにて、命居り給う処は内裏村なり。荒地山は今野八尾辺なり。                    「保」は堡なり。小城と云う。保庄の地を本郷と云う。即ち、太田本郷館本郷にて是郷の始めなりと云えり。                                                                  (出所) 「肯構泉達録」五頁


 その位置は越中富山平定の全体図の中で不可思議な場所なのです。
 今は、大若子命の話とは無縁なので、その問題点の指摘のみで、先に行きます。

<2> 中地山城

   大彦命の時、ヤマト朝廷側は「中地山城」を築き、椎摺彦を長とする拠点としたと云います。
 その後、阿彦が不満を持ち、乱を起こして中地山城を攻めたので、椎摺彦は早稲日子に頼み、ヤマトの珠城宮(垂仁帝の宮居)に救援を求めてもらいます。

  中地山城の位置については、人により比定地が異なりますが、「肯構泉達録」では「大田郷中地山に保を築き」とあり、「刀尾神社境内を中心にした処」ともあるので、現在の「刀尾神社」と比定します。
    A「太田郷中地山(卯辰山)に小城を築く。刀尾神社境内を中心にした処に堡(土や石で築いた小城)を築    き、椎摺彦を置き、伊豆部山の麓・荒地山には手刀椎摺彦を置いた。」(出所)  越中古代史を探る
 
  これをGoogleで調べると、
   A1 刀尾神社は富山市太田南町にあり、近くに太田本郷城跡を見ます。これが古代の中地山城跡       

    かも知れません。川を挟んだ対岸には速星神社(婦中町速星)あり。
    ・刀尾神社(富山市太田南町321)不二越上滝線・上堀駅の北東1.5km。
       祭神:手力男命・刀尾天神(剣岳の地主神)
                 位置:立山七社の一、江戸時代、西国方面からの立山参詣者が立寄る立山参道の西玄関口。
                      ・真言宗・刀尾寺が隣接する。


  従って、中地山城は、刀尾神社を含む太田本郷城址と比定します。

  一方、中地山城の位置は岩峅より奥の、現・中地山発電所辺りと推定する向きもあります。
  そこは中世築城の山城ですが、古代とつながるかどうかは判りません。
   B 「中地山城(富山市大山町中地山)
     ・中地山城跡:飛騨武将(岐阜県飛騨市神岡町)・江馬輝盛が築城、永禄年間(1558~1570)、
           中地山城は、北を常願寺川、西を小口川、東方を和田川に挟まれた台地上に築かれ

           た山城で、常願寺川との比高約150m、標高は約380mの高所にあります。
          ・台地西麓に中地山集落があり、往時は城下町だったと考えられます。
          ・和田川をはさんだ東方約1.5kmには、小見城があり、中地山城の出城か詰城らしい。

          ・城の麓、西側には水須・有峰・大多和峠を経由し飛騨への道「うれ往来」は冬季の

           通行は不自由だが、それ以外はよく利用されていた。
          ・中地山城を築城した江馬氏は、「うれ往来」を支配下に置き、越中へ進出した。
                                                                                           (出所) とやま城郭カード 城郭一覧、


 これをGoogleで調べると、次の通りです。

  B1  中地山神社(富山市中地山78)あり。中地山発電所あり。周辺は常願寺川を挟む山岳地帯。

 「喚起泉達録」と「肯構泉達録」との記述を混同して理解している事例もあります。
 「喚起泉達録」を引用する「阿彦の乱(富山県の古代史)」は明らかにA説なのに、「此の城は

中地山城と云ひ全軍の中核となる城である。」の次に、「立山線千垣駅附近にあって星城とも云は

れた。」と書き添えたことにより、B説を採り入れたことになり、A説・B説を併記する矛盾となっています。

  立山線千垣駅は常願寺川上流にあり、対岸には中世の中地山城跡や中地山発電所があるので、古代の中地山城だと見間違えるのです。
   注 この城は中地山城と云う。立山線千垣駅附近にあって星城とも云はれた。(出所) 富山県の古代史

  B説は中世の中地山城跡が飛騨ー越中富山を結ぶ要衝の地にあるので、引き込まれた誤謬だと思われます。

   亦、「伊豆部山の麓の荒地山」は富山市八尾町小井波だと云います。
 だが、「富山市:旧八尾町⑤小井波集落」https://akiranngo.hateblo.jp>entry>2020/02/29によると、今は無住地となっており、ここは「富山市呉羽町小竹」や「中地山城」からは余りにもかけ離れて

おり、戦略的な兵力展開法としてはこの地には疑問符が付き、「肯構泉達録」の記述自身が疑われ

ます。理解不能です。

 こういうケースが幾つもあり、遺地名の比定には難渋します。
  先述の「伊豆部山の下杉野」と「荒地山」の不思議はこの難渋事例なのです。

 「肯構泉達録」の著者自身が、伝承を収録中に疑問を感じていたが、そのまま収載したのかも知れません。

<3> 辰城

 「辰城」は、現在の新庄小学校(富山市新庄町1丁目)の地で、250m離れた地に新川神社が鎮座します。大若子命の本拠地(呉羽町小竹)までは神通川を隔てて7.5kmの距離です。
             ・新川神社(富山市新庄町2丁目)祭神:新川大神・新川姫神

 ここは美麻奈彦が守り、富山・呉羽山方面の大若子命本拠地や、摺彦兄弟(椎摺彦・手刀摺彦)が守備する中地山城との連絡もし易い地だと云います。

<4> 辻城

  甲良彦は、能登の兜彦(加夫刀比古)の末孫だと「肯構泉達録」は云い、その子孫と思われる「甲良人麿」が文徳朝に登場しますので甲良彦の実在性を確信させます。
 亦、甲良彦は能登の加夫登日子神社の出だとされてています。(上記、図表3参照)
     ・近藤:能登珠洲郡の加志波良比古の神社あり。近藤はその神胤なり。後に、近藤滓上と云う人、加賀にあり、

       帯刀父死して遺魂を神とす。滓上神社と称す。能美郡にあり。
         ・滓上神社:越中藤仁人、守護たる時、仁人の三男・井口太郎實茂の麾下に近藤右衛門あり。皆、その後裔なり。
     ・久麻加夫都阿良加志比古神社(石川県七尾市中島町宮前)能登国 羽咋郡鎮座
          祭神:阿良加志比古神 (配祀)都努加阿羅斯止神
           祭神異説:都努我阿良斯等(能登国式内等旧社記)、加夫刀比古、荒石比古(大日本史神祇志)


 甲良彦が守る辻城は高岡・二上山方面からの援助を受け易い地だと云われています。

 「辻城」は黒河郷念仏谷にある城だと「肯構泉達録」は云いますので、辻城から大若子命の本拠地(呉羽町小竹)までは8.5kmの距離と見ます。

 今の地名・射水市黒河(旧射水郡小杉町)付近が黒河郷念仏谷と見て探しますと、下条川(下条姓が多く見出された地域を流れる)は庄川の東5kmに北流し、その東岸に後代の日宮城(射水市日宮130)、日宮社(射水市橋下条326)を見出します。

 この中世の日宮城を古代の辻城の位置と見ても大凡は間違いではないと思われます。
 図表3の黄色印は左が日宮城跡、右が地図上の地名・黒河を指します。
    注 日宮城と地図上の黒河(現地名)とは約2km離れていますが、「この辺」を辻城と見当を付けます。

 ここは神通川西岸の、住所も富山市(婦負郡)ではなく射水市(射水郡)です。
  次述の阿彦側の「枯山城」との戦いに、甲良彦軍はこの「辻城」から出陣し、大若子命軍は枯山で一戦した後、辻城に戻り一泊したと伝わります。
       注 「肯構泉達録(野崎雅義(明治25年)」(国会図書館デジタルコレクション)は活字印刷です。そこには枯山城攻

     めに成功した後、大若子命勢は辻城に宿すとした後に「里郷にあり」と注記していますが、これは「黒河郷」

     =黒郷の筈で、黒を里と取り違えています。明治期の校正間違いと推測します。

<5> 枯山城

  「枯山城」は「砺波郡浅野谷」に阿彦勢が築いたとされています。
     参考:阿彦大若子命の下り給うと聞き、枯山に塞を築き、(中略)、枯山は砺波郡浅野谷なり。
                                    (出所) 「肯構泉達録」八~九頁


 探すと、浅谷神社(砺波市浅谷)が「浅野谷」の名残を留めています。
  浅谷神社の北東1.4kmに天狗山(砺波市芹谷)、北3~4kmの地域は射水市・富山市・砺波市の三市の境が一点に集まる処です。古代もこの辺は射水郡・砺波郡・婦負郡の郡境だった地です。

  亦、浅谷神社の南500mに安川城跡(砺波市安川)があり、この中世城は上古の枯山城に擬す向きもあり、周囲の地勢からも、ここは有力候補地だと云えます。

 枯山城の第二候補地は「嘉礼谷」説です。
 残念ながら「この嘉礼谷が現在の何処か」を探り当てることは出来ませんでしたが、「東砺波郡・婦負郡の郡境」とあることから、「浅野谷」と余り遠くない処、と考えます。
   引用:「此の枯山は肯構泉達録にも砺波郡浅野谷となっているが、故土田古香翁は現地の地勢や口伝から     

      東砺波郡・婦負郡の郡境、嘉礼谷であるとされた。」
    (出所)  http://pc-qqbox.com/kodaishi/uekodai.html「富山県の古代史」の中の「阿彦の乱」


<6> 岩峅城
  枯山城で敗れた阿彦勢は本城・岩峅城に逃げ込みます。そこは、枯山城から東25kmの立山ヘ登る入り口に当たり、雄山神社・岩峅寺などのある、古来の要衝の地です。

  岩峅城の場所を厳密には比定できないので、雄山神社 前立社壇を岩峅城の想定地とします。
        ・雄山神社 前立社壇(富山県中新川郡立山町岩峅寺1番地)

  結局、この地で、阿彦とその一党は敗れ、大若子命勢が勝利して戦いは終わります。

 

 

  以上で「肯構泉達録」に登場する主要な城柵をリストしました。
 「喚起泉達録」は更に12将8城を挙げて、乱の推移を論じますが、ここでは詳論しません。

3 越中上古史の謎

  ここでの結論は至って単純です。
 大若子命の戦後処理を総覧し、「阿彦の乱」の起こった地域を越中富山の中央部から東部地域だと捉えたことです。

 だが、この結論が、それならば「越中西部の上古史」はどうだったのか、と云う更なる謎を生みます。

  「富山県・県史」には「越中西部の上古史」に関わる一節がある筈ですが、今はそれを閲覧する機会がないまま、「謎」として、擱筆します。