目次Ⅰ 大彦命とその後裔の高志国展開
     1 大彦命の高志国行
     2 大彦命の高志後裔
        <1> 彦屋主田心命
        <2> 美麻奈比古・美麻奈比古神社
        <3> 市入命ー大彦命の孫・屋主田心命三世孫ー
        <4> 波多武日子命
     3 越中国での大彦命の記憶
  Ⅱ 「新撰姓氏録」に見る大彦命の後裔
       1 大彦命の伊賀後裔
     2 大彦命の後裔(阿倍臣その他)
          ・武渟河別(紀)・:大彦命の子、阿倍臣の祖。四道将軍の1人、垂仁朝の五大夫の1人
  Ⅲ 大彦命ゆかりの神社(日本海沿岸域)

1 大彦命とその後裔の高志国展開

 大彦命の後裔:
  ・孝元天皇7年2月丁卯条:
  大彦命は凡て七族(阿倍臣・膳臣・阿閇(閉)臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣)の始祖なり。
  ・布勢氏・布施朝臣:大彦命後裔
  ・589・崇峻天皇2年紀:阿倍臣を北陸道の使に遣わして、越等の諸国の境を観しむ
  ・新撰姓氏録(右京皇別):彦背立大稲輿命―彦屋主田心命の系統に、阿閇臣・伊賀臣・道公の三氏あり。
            ・阿閇臣、大彦命男 ・彦背立大稲輿命之後也
               ・伊賀臣、大稲輿命男・彦屋主田心命之後也
                        ・道公、 大彦命孫 ・彦屋主田心命之後也
  ・国造本紀:高志(越)国造 ・・成務朝、市入命(阿閇臣祖・屋主田心命三世孫) 
             筑紫(筑志)国造・・成務朝、日道命(阿倍臣と同祖・大彦命の五世孫)


1 大彦命の高志国行
 大彦命・彦屋主田心命二人の祭祀社に見る展開状況としては、彦刺肩別命が進出した南砺市・砺波市・小矢部市には最早足跡を残さず、そこから一歩前進しています。

 富山県西部(氷見市・射水市・高岡市)から始まって、富山市・魚津市から、更には、能登の中能登町まで展開しています。それは二神の神社祭祀の展開で見るのです。
      ・布勢神社(氷見市布施) 式内社 越中國射水郡
       祭神:大彦命
      由緒:昔は、この辺りは「布勢の水海」と呼ばれた湖で、円山は湖に浮かぶ孤島だった。
   ・中川熊野神社(高岡市中川本町)
      祭神:伊弉冉命 事解男命 速玉男命 彦屋主田心命
      ・道  神社(高岡市五十里字沼田)式内社 越中國射水郡
       祭神:大彦命
      ・道  神社(射水市作道)        式内社 越中國射水郡
       祭神:大彦命 彦屋主田心命
     ・道  神社(射水市作道)
   ・布勢神社(魚津市布施爪)   式内社 越中國新川郡 布勢神社
      祭神:五十猛命 五十日足彦命 異説・天児屋命 五十猛命   「文政社号帳」
                       ・大彦命(布勢氏祖神 「度会延経 神名帳考證」

 

  その時期は3世紀後半から4世紀初めと見ますが、関連する古墳を前方後円墳・円墳に探すと、

その先端的な進出先は能登のようです。
  越中富山の中央。次の三社に大彦命が祀られ、この地域に勢力が及んだことを示しています。

  ・杉原神社(富山市八尾町黒田)
         祭神:辟田彦命と辟田姫命、木祖神、
     相殿:誉田別尊、建御名方神、菅原道真公 合祀:水分大神、天照大御神、豊受大御神
          社伝:崇神天皇即位十年に大彦命が勅命にてこの地に留まり、耕作の道を教え給うた時、この地に疫病が流行

                   し、民死するもの多かった。命大いにこれを憂い給ひ、巨大なる杉樹を神と崇め、種々供御を為し尊崇

                  されたところ悪疫止んだので、住民喜び、その後この樹下に祠を建て神像を刻んで祀り、「辟田の社」

                  と称した。聖武天皇730・天平2年3月、この社を越ノ国社と勅定し給ひ、神名を木祖神(久々能智神)

                  と下し給うたという。但し、これと異なる別伝二つあり。
  ・鵜坂神社(富山市婦中町鵜坂)  式内社 越中國婦負郡
    祭神:淤母陀琉神 訶志古泥神、配祀:鵜坂姉比咩神 鵜坂妻比咩神 大彦命
    由緒:配祀神の神名から、社名の通りの「鵜坂神」が本来の主祭神であり、配祀神は夫々主祭神の姉神・后神

                     であるとする説が有力である。
  ・多久比禮志神社(塩の宮、富山市塩)式内社 越中國婦負郡 
    祭神:彦火火出見命 豊玉姫命 鹽土老翁、 異説:(神名帳考證)大彦命 
    社伝:672・天武天皇白鳳元年4月、林宿禰弥鹿伎が、神通川を船で遡上の時、白髪老人が出現し、

       そばの泉が潮水であることを教え、塩の生産が可能になったので、その老人を神に祀ったと。
       ・亦、林宿禰弥鹿伎の夢告による尊き品を探している時、白髪老人がその所在を教えたとも。
  能登には、
   ・天日陰比咩神社(中能登町)  式内社 能登国 能登郡 伊須流支比古神社 能登國二ノ宮
       祭神:天日陰比咩大神、屋船久久能智命、
        相殿(二宮神社):伊須流支比古大神 大己貴命 応神天皇 大昆古命
     ・熊野神社(大毘古命の創建)と井田古墳群(中能登町井田)


2 大彦命の高志後裔

<1> 彦屋主田心命

 彦屋主田心命は、大彦命の孫、即ち、大彦命の子・大稲輿命の子です。
   ・新撰姓氏録:144右京皇別 伊賀臣 大稲輿命男彦屋主田心命之後也 日本紀合

  「新撰姓氏録」からこの彦屋主田心命の血統の拾い出すと、次の系譜が読み取れます。
   ・大彦命ー彦背立大稲輿命ー彦屋主田心命系:阿閇臣・伊賀臣・道公

  彦屋主田心命の祭祀は越中富山の西部で見出されます。
    ・中川熊野神社(高岡市中川本町)                 祭神:伊弉冉命 事解男命 速玉男命 彦屋主田心命
        ・道  神社(射水市作道)式内社 越中國射水郡  祭神:大彦命 彦屋主田心命


<2> 美麻奈比古・美麻奈比古神社

  美麻奈比古は「越中史要」で「大彦命の孫」として紹介されており、大若子命の阿彦鎮定に大いに貢献したのでその後の国政を任せられた、とある人です。

   引用:(前略) 命、功臣・美麻那彦を留め国中を治めしむ。美麻那彦は大彦命の裔なり。克く人民を 

      治め、礼儀を教えしかば、衆庶皆悦服す。美麻那彦の後胤 射水郡草岡に土着せりと云う。
                   (出所)「越中史要」(石場建夫編)第一篇 上古 神代より大化に至る 第三 大若子命、阿彦の乱を平ぐ


 美麻奈比古神社は三つの点で興味深いのです。
     美麻奈比古神社(鳳珠郡穴水町川島ホ-23-1、2)
       祭神:美麻奈比古神 美麻奈比咩神 菊理媛神 宇迦之御魂神 猿田毘古神


  第一点:それは美麻奈=任那だからです。
      そして、崇神天皇の諱は「御間城入彦五十瓊殖天皇」別称、御眞木入日子印恵命・

     所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇だからです。
  第二点:美麻奈比古は「阿彦の乱」に登場します。
     大若子命が国人副将・佐留太舅
サルタジと共に阿彦の乱を鎮定後、「功臣・美麻那彦

     を留め国中を治めしむ。美麻那彦は大彦命の裔なり」(越中史要)と伝わる人です。
  第三点:美麻奈比古神社の祭神の一とされている「宇迦之御魂神」は阿彦の祖神です。
              別に小節を設けて「阿彦祖神・宇迦之御魂神」を祀る神社を北陸に探していますが、

      今ここに一社を見出したのです。
           ・1910・大正元年、稲荷神社と幸神塚神社を合祀した時、夫々の祭神:宇迦之御魂神と猿田彦命が現祭神

                に加えられたと思われます。
               注  明治神社誌料編纂所編『府県郷社明治神社誌料 中巻』
              明治神社誌料編纂所, 1912(国会図書館デジタルコレクション 796-797コマ)


 だが、美麻奈比古を祭る美麻奈比古神社は、「越中史要」の云う射水郡草岡には見出せず、鳳珠郡穴水町川島に鎮座しています。

<3> 市入命ー大彦命の孫・屋主田心命三世孫ー

 4世紀後半~5世紀初頭と推測される市入命は、大彦命の6世孫孫ですので、高志国造に就任したのは大彦命の時代より約百年年後に想定できます。
   ・高志国造:成務朝、阿閉臣の祖・屋主田心命三世孫・市入命を高志国造に定められた。

  市入命は、高志国造になると、祖神・大彦命・彦屋主田心命を祀る神社を国造官衙の地に祀った筈ですが、この頃の高志国の範囲は判って居らず、国造官衙の地も不明のようです。
   ・高志国の範囲二説:越前(福井県)国内説・・
              ・越後大国造説   ・・


 狭義の高志国は一番古い時代の「高志・古志」で、それは越前でしょう。
 だが、高志国が包括する領域概念は、次第に東方に拡がり、越前・加賀・能登.越中を含むようになり、最後に、越後が加わると想定します。
 拡大し過ぎた結果、高志(越)は分割されて、越前・越中・越後三国が定められたと見ます。

 探すと、「市入命の祭祀社」を糸魚川市(越後國頸城郡) の式内社・奴奈川神社に見出します。
 市入命は、伝承ですが、奴奈川比売命の子・建沼川男命の裔・長比売命と結ばれ、妃の祖神奴奈川比売命を奉斎したと云うのです。
   ・奴奈川神社(糸魚川市田伏南村)式内社 越後國頸城郡 奴奈川神社
      祭神:奴奈川比賣命 大日孁命 八千矛命
      社伝:成務天皇の御宇、市入命が越後国の国造となって当地に来られ、
             奴奈川姫命の子・建沼河男命の裔・長比売命を娶り、当社を創祀したと云う。
     ・神社明細帳:社記ニ載ル趣ハ、上古、高皇産霊尊ノ子・意支都久辰爲命、高志國二天降給ヒ、其子

       ・稗都久辰爲命、其子・奴奈川比売命、高志國ヲ領シ給ヒシ時、八千矛神、豊葦原水穗國ヲ造

                   リ給ハント、奴奈川比売命ノ許二至リ共二議リテ國造リ意給ヒテ、営郡。
       ・沼川郷多市の布勢ノ神、沼山二岩隠給フ。故二、沼河郷ト號スト。
       ・又、成務天皇ノ御宇、市入命、越國ノ國造ト成テ當地二來リ、奴奈川比売命ノ子・建沼川男

            命ノ商・長比売命ヲ嬰リ、奴奈川比売命ノ社ヲ建テ、神田神戸ヲ寄附セリト。
       ・又、延暦22年、市入命ノ後胤・國造藤好、當社ヲ崇敬シテ怠ラス、或夜、滲籠申神語アリ

          吾世々守護スル事久シ汝吾が力爲二宮殿ノ破壊ヲ修造スヘシ
       ・又、祭祀怠テスンハ國家平安ナラント、依テ同年3月14日、修造シ、神田神戸ヲ増附スト                          ・又、貞観年中、國主、神地ヲ掠メシニ依り神怒アリ。同5年6月、當國大地震ニテ山崩レ谷

       埋ル然レトモ社殿鍛損ナシト
       ・又、弘安4年6月、蒙古襲來ノ時、異賊退治御祈願ノ爲、奉幣アリシ等ノ事ヲ載ルト云
       ・當村ノ産土神ニテ明治6年12月第九大区八小囁ノ村社二列ス


  尚、近くに別な奴奈川神社(糸魚川市一の宮)が天津神社境内社としてありますが、此方は上記のような社伝を伴いません。
   ・奴奈川神社(糸魚川市一の宮、天津神社境内社)
      祭神:奴奈川姫命 (配祀)八千矛神、「越後風土記節解」・・奴奈川彦命・奴奈川姫命・黒媛命


  高志国官衙の跡は判りませんが、高志国造・市入命が越後の入り口・糸魚川市に足跡を残していた事だけは確認出来たたのです。推測ですが、市入命はこの地を治めて高志国造を名乗ったかも知れません。未だにヤマト勢力は北上途上なのです。

<4> 波多武日子命

  大彦命系皇子の北陸道派遣は、彦屋主田心命と共に、波多武日子命がいます。
 「新撰姓氏録」は両論併記していて、この人が大彦命の子なのか孫なのかは判然としません。
   ・新撰姓氏録:236摂津国皇別     三宅人           大彦命男波多武日子命之後也
          262河内国皇別    難波     難波忌寸同祖    大彦命孫波多武彦命之後也


 越後の式内社に波多武彦命の祭祀を見出しますので、この人は越後に生涯を送った、と読みます。
  ・三宅神社(長岡市妙見町225-1)二座 越後国 古志郡鎮座、(奥宮)三宅神社
     祭神:大彦命、  「北越風土記節解」  大彦命・波多武日子命
              「越後国式内神社考証」波多武日子命・大彦命
  ・三宅神社(長岡市六日市町1775)
     祭神:波多武彦命
       由緒:三宅神社二座は、大彦命の御子波多武日子命が新羅の天日鉾命の姫天美明命と婚し、この

       国の三明山に鎮り、三殿を造つた。上の嶺が今の幡持山、中の嶺が幕山、北の峰が美明山。
         ・上嶺に座す大彦命を、後世、麓に移し、後に妙見と称す。
         ・中嶺の日鉾命を的場ケ崎平岡に遷し、後に中片(なかがた)と称す。
         ・下嶺に座す二神を大久保が岡に移し、宇都宮大明神と号した。
       ・市役所から見ると峰が3つ見える、南手前に見えるのが幡持山、中央一番高いのが幕山、

        北に美明山。竜昌寺横。テラス状の台地に鎮座している。付近には金魚の養殖池が多い。
          ・別に「三宅神社記」の詳述あり。
  ・小丹生神社(見附市名木野町1359番地、新潟県見附市熱田町 541)越後国 古志郡鎮座
     祭神:波多武日子命 (配祀)天美明命 建速須佐之男命 建南方命  (合祀)天照皇大神
         由緒:この地を治めた小丹生三官(ミキミ)の裔は古志連となり、蒲原の小栗山に居住したが、その

          後再び旧居に館を構えた。これを三官(ミキミ)の館と称し、古志一円を治め、先祖の波多武

          日子命、天美明命の霊を奉じ、須佐之男命と共に小丹生ケ岡に祀り、八束の御劔を神器とし

          て奉齋した。
  ・宇都宮神社(長岡市中潟町)  三宅神社二座 越後国 古志郡鎮座
     祭神:波多武彦命
     由緒:807・大同2年6月二座を祀る、 その後の由緒不詳
        三宅神社二座は、大彦命の御子・波多武日子命が新羅の天日鉾命の姫・天美明命と婚し、

        この国の三明山に鎮り、三殿を造つた。上の嶺が今の幡持山、中の嶺が幕山、北の峰が美

        明山後世上の嶺に座す大彦命を麓に移し、後に妙見と称す。中嶺の日鉾命を的場ケ崎平岡

        に遷し、後に中片と称す。下の嶺に座す二神を大久保が岡に移し、宇都宮大明神と号した。

3 越中国での大彦命の記憶

Ⅱ 「新撰姓氏録」に見る大彦命の後裔

   図表1      「新撰姓氏録」に見る大彦命の後裔
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55左京皇別 布勢朝臣   阿倍朝臣同祖    日本紀漏
56左京皇別 完人朝臣   阿倍朝臣同祖    大彦命男彦背立大稲腰命之後也    日本紀合
57左京皇別 高橋朝臣   阿倍朝臣同祖    大稲輿命之後也
                                 景行天皇巡狩東国供献大蛤。于時天皇喜其奇美。賜姓膳臣。                             天渟中原瀛真人天皇[謚天武]十二年改膳臣賜高橋朝臣
58左京皇別  許曽倍朝臣 阿倍朝臣同祖     大彦命之後也         日本紀漏    
59左京皇別 阿閉臣        阿倍朝臣同祖
60左京皇別 竹田臣        阿倍朝臣同祖     大彦命男武渟川別命之後也
61左京皇別 名張臣        阿倍朝臣同祖     大彦命之後也
62左京皇別           佐々貴山公 阿倍朝臣同祖
63左京皇別         膳大伴部  阿倍朝臣同祖     大彦命孫磐鹿六雁命之後也
                                           景行天皇巡狩東国。至上総国。従海路渡淡水門。出海中得白蛤。
                                           於是磐鹿六雁為膳進之。故美六雁賜膳大伴部
64左京皇別         阿倍志斐連  大彦命八世孫稚子臣之後也
                           孫自臣八世孫名代。謚天武御世献之楊花。勅曰何花哉。名代奏曰。辛夷花也。

                           群臣奏曰。是楊花也。名代猶強奏辛夷花。因賜阿倍志斐連姓也(日本紀漏)
65左京皇別         石川朝臣                     孝元天皇皇子彦太忍信命之後也
142右京皇別         若桜部朝臣  阿倍朝臣同氏  大彦命孫・伊波我牟都加利命之後也     日本紀合
143右京皇別         阿閉臣         大彦命男・彦背立大稲輿命之後也         日本紀合
144右京皇別         伊賀臣         大稲輿命男彦屋主田心命之後也         日本紀合
145右京皇別         阿閉間人臣     同氏
146右京皇別         他田広瀬朝臣   同氏    続日本紀。加広瀬二字不見
147右京皇別       道公    同氏          大彦命孫・彦屋主田心命之後也
148右京皇別       音太部     高橋朝臣同祖   彦屋主田心命之後也
149右京皇別       会加臣               孝元天皇皇子大彦命之後也
150右京皇別       杖部造    同氏
199山城国皇別    日下部宿祢  開化天皇皇子彦坐命之後也    日本紀合
201山城国皇別     堅井公     彦坐命之後也     日本紀合
202山城国皇別     別公         同上
236摂津国皇別     三宅人    大彦命男波多武日子命之後也
257河内国皇別    阿閇朝臣    朝臣    阿閇朝臣同祖    孝元天皇皇子・大彦命之後也
258河内国皇別     阿閇臣    臣    阿閇朝臣同祖    大彦命男・彦瀬立大稲起命之後也
259河内国皇別     日下連    連    阿閇朝臣同祖    大彦命男・紐結命之後也     日本紀漏
260河内国皇別     大戸首    首    阿閇朝臣同祖    大彦命男・比毛由比命之後也
                                  謚安閑御世。河内国日下大戸村造立御宅。為首仕奉行。仍賜大戸首姓
261河内国皇別     難波忌寸    忌寸     大彦命之後也    阿倍氏遠祖大彦命。
                              磯城瑞離宮御宇天皇御世。遣治蝦夷之時。至於兎田墨坂。忽聞嬰児啼泣。                               即認獲棄嬰児。大彦命見而大歓。即訪求乳母。得兎田弟原媛。便付嬰児曰。                           能養長安功。於是成人奉送之。大彦命為子愛育。号曰得彦宿祢者。異説並存
262河内国皇別     難波 難波忌寸同祖    大彦命孫波多武彦命之後也
263河内国皇別     道守朝臣     波多朝臣同祖    武内宿祢男八多八代宿祢之後也
280河内国皇別     日下部連     彦坐命子狭穂彦命之後也
281河内国皇別     川俣公     日下部連同祖    彦坐命之後也
282河内国皇別     豊階公     河俣公同祖    彦坐命男沢道彦命之後也
283河内国皇別     酒人造     日下部同祖    日本紀不見
284河内国皇別     日下部     日下部連同祖

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1 大彦命の伊賀後裔
2 大彦命の後裔(阿倍臣その他)
          ・武渟河別(紀)・:大彦命の子、阿倍臣の祖。四道将軍の1人、垂仁朝の五大夫の1人

 

 

 

Ⅲ 大彦命ゆかりの神社(日本海沿岸域)
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 舟津神社  (鯖江市舟津町)式内社 越前國今立郡  祭神:大彦命、配祀:孝元天皇 素佐嗚命
                        相殿:式内社 越前國丹生郡 大山御板神社 猿田彦命
 船江太神宮(新潟市中央区古町通一番町)式内社越後蒲原郡、祭神:天照大神 豊受大神 猿田彦大神 大彦命
 三宅神社 (長岡市妙見町) 式内社 越後國古志郡 三宅神社二座、祭神:大彦命
   社伝:孝元天皇の皇子・大彦命が崇神天皇の勅命を受けて北陸を平定し、越国に来られた。
      大彦命の御子・波多武日子命が新羅の天日桙命の姫・姫天美明命と結ばれ、当地の東にある三
      明山(金倉山)に鎮まり、金倉山三岳(幡持山、幕山、美明山)に三殿を作った。
     ・幡持山(上の嶺)には大彦命、幕山(中の嶺)には天日桙命、美明山(下の嶺、北の嶺)には波多武
      日子命と妃・天美明命が祀られた。
     ・後世、大彦命は山麓の妙見に、天日桙命は中潟に、波多武日子命と姫天美明命は大久保が岡(六
      日市)に遷座されたので゙、当地から北へ、妙見、中潟、六日市と3集落に三宅神社が鎮座する。
 小布勢神社(三条市大字上保内丙)式内社 越後國蒲原郡  祭神:大比古命 誉田別命
 大  神社  (糸魚川市大字平字森本)式内社  越後國頸城郡
                祭神:高皇靈尊 少彦名尊 大己貴尊 大彦命 美保古命(宮司佐藤家祖先)
 引田部神社(佐渡市金丸)式内社 佐渡國雑太郡  祭神:大彦命
 大津神社  (飛騨市神岡町船津)式内社 飛騨國荒城郡 祭神:大彦命、配祀 武渟河別命
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    道神社   (射水市作道)                      祭神:大彦命 彦屋主田心命
    櫛田神社  (射水市串田)        祭神:稲田姫命・武素盞嗚尊
 F 伊彌頭国造:
    ・射水神社(富山県高岡市古城)式内社(名神大または小)越中国一宮、
       祭神:瓊瓊杵尊、由緒:伊彌頭国造の祖神・二上神(二上山山麓の二上射水神社)
    ・二上射水神社(富山県高岡市二上1519)祭神:二上大神
 G 古四王神社は高志王神社とも云われ、大彦命を祭神とします。新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北 
    地方の各地にその分布は(新発田市五十公野丘陵
    二上射水神社(高岡市射水)                      祭神:二上大神
    有礒八幡宮(高岡市横田町)
      合祀:「有礒宮」祭神:有礒神・綏靖天皇
      由緒:有礒宮は大和より移住してきた有礒の民(綏靖天皇を奉斎する人々)が渋谷の浜(現高岡市雨晴岩
         崎の沖合い)に勧請奉斎したと伝えられ、「有礒の海」の守護神として有礒七浦(氷見七浦)の宗
        社と崇敬された古社。
         「横田正八幡宮」(祭神:応神天皇外三柱)
    中川熊野神社(高岡市中川本町)合祀 式内社 越中國射水郡 加久彌神社二座
                                      祭神:伊弉冉命 事解男命 速玉男命 彦屋主田心命
    道神社(高岡市五十里)式内社 越中國射水郡              祭神:大彦命
    八幡宮(砺波市高波)式内社    越中國礪波郡 長岡神社、祭神:誉田別尊、配祀:大若子命 姉倉比賣命
    林神社(砺波市林)式内社     越中國礪波郡            祭神:道臣命
    林神社(砺波市頼成)式内社    越中國礪波郡            祭神:日臣命
    速川神社(氷見市早借)式内社 越中國射水郡  祭神:瀬織津比賣命、合祀 稲倉魂命 菊理媛命 大山咋命
    布勢神社(氷見市布施)式内社 越中國射水郡              祭神:大彦命
 ・道  神社(富山県高岡市五十里字沼田)式内社越中國射水郡  祭神:大彦命
 ・道  神社(富山県射水市作道)    式内社 越中國射水郡    祭神:大彦命 彦屋主田心命
 ・鵜坂神社(富山県富山市婦中町鵜坂) 式内社越中國婦負郡  祭神:淤母陀琉神 訶志古泥神
                                   配祀:鵜坂姉比咩神 鵜坂妻比咩神 大彦命
     由緒:配祀神の神名から、社名の通りの「鵜坂神」が本来の主祭神であり、配祀神は夫々    
          主祭神の姉神・后神であるとする説が有力である。
    天日陰比咩神社(石川県中能登町)  式内社 能登国 能登郡 伊須流支比古神社 能登國二ノ宮
     祭神:天日陰比咩大神、屋船久久能智命、
      相殿(二宮神社):伊須流支比古大神 大己貴命 応神天皇 大昆古命
 ・布勢神社(富山県氷見市布施)    式内社 越中國射水郡  祭神:大彦命
     由緒:昔は、この辺りは「布勢の水海」と呼ばれた湖で、円山は湖に浮かぶ孤島だった。
 ・布勢神社(富山県魚津市布施爪)式内社 越中國新川郡 布勢神社
     祭神:五十猛命 五十日足彦命,  異説・天児屋命 五十猛命   「文政社号帳」
                                           ・大彦命(布勢氏祖神) 「度会延経 神名帳考證」
      由緒:継体朝の勧請、布施爪大明神と称していたが、延喜年中に布勢神社と改称。
         当初、布施爪の館(現在の朴谷)に鎮座していたが、寛文年中に遷座。
 杉原神社の伝承:
  1 社伝:崇神天皇即位10年に大彦命が勅命を受けてこの地にとどまり耕作の道を教え給うた時、この
      地に疫病が流行し、民死するもの多かった。命大いにこれを憂い給ひ、巨大なる杉樹を神と崇
      め、種々供御を為し尊崇されたところ悪疫止んだので、住民喜び、その後この樹下に祠を建て
      神像を刻んで祀り、「辟田の社」と称した。
      後、聖武天皇730・天平2年3月1日、この社を越ノ国社と勅定し給ひ、神名を「木祖神(久
      々能智神)」と下し給うた。
  2別の古伝書:文武天皇702・大宝2年6月創立と云う。
      杉原野の開祖である杉原彦命、及び木祖神を郷長小右衛門なる者が杉原野守護神として己が邸
      内に奉斎していたが、この地方に疫病が流行するようになった。このため郷民がこの小右衛門
      に願い出てひとつの祠を建立し、この神を移して皆で参拝した。これを名付けて郷の明神と称
      されたが、のちに清和天皇貞観5年(863年)8月15日、越中国正六位上、杉原神に従五
      位下が授けられたという。
  3杉原彦と咲田姫の伝承が風土記としてこの地方に伝わっている。
      黒田の杉原彦(辟田彦)が咲田姫(辟田姫)と共にこの地を開拓(治水工事)された際に、十日も雨
      が続き途中洪水が発生した。この時、杉原彦と咲田姫は三日三晩通して田畑を水から守ったが、
      ついに咲田姫は力尽きてその場にばったり倒れてしまった。杉原彦は疲れきった身体で咲田姫
      を背負い、一人で田屋の郷に運んで看病したと云う。
     ・これに因んで今でもこの地域一帯を「婦負の里」と呼ぶ。冒頭の住所でも判るように、現在二
      町一村を含む「婦負郡」として富山県のほぼ中央の平原を占めている。
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  ・越後(新潟県)以北には、大彦命を祀る古四王(高志王)神社を11社数えます。
             ・古四王神社:秋田県5社:大仙市大曲字古四王際・秋田市寺内児桜・にかほ市象潟町5丁目塩越・
                            横手市十文字町植田宮ノ前・由利本荘市中館堤台
                              山形県4社:飽海郡遊佐町直世七曲堰東・飽海郡遊佐町庄泉西谷地・
                            飽海郡遊佐町杉沢大樽川・鶴岡市五十川
                                  新潟県2社:村上市松沢573甲・新発田市五十公野丘陵の南端)
日置神・日置神社(富山県中新川郡立山町日中)式内社 越中國新川郡 日置神社
              祭神:天押日命(天忍日命)・・大伴氏祖
         由緒:807・大同2年、越中国守佐伯有若による創立。大伴氏・佐伯氏の祖神。
       ・日置神社(富山県中新川郡立山町利田日置)式内社 越中國新川郡 日置神社
         祭神:天太玉命 配祀 天照皇大神
         社記:元明天皇の和銅二年、近江国高島郡の日置部の裔・日置部廣人が当地に至って氏神                                   である忌部の祖を祀ったという。
  9后妃、13皇子、4皇女を係累に抱えました。
 その内、13皇子の内訳は次の通りです。
       ・天皇:大足彦忍代別尊(景行天皇)
       ・北陸行:五十瓊敷入彦命
         ・大中津日子命(記):山辺之別・三枝之別・稲木之別・阿太之別・尾張国の三野別・

                   吉備の石无別・許呂母之別・高巣鹿之別・飛鳥君・牟礼之別の祖
         ・磐衝別命    :三尾氏祖
         ・五十日足彦命     :石田君祖
                    ・鐸石別命      :和気氏祖
            ・祖別命       :伊賀国造・小槻氏祖
                古事記:小月山君・三川衣君、新撰姓氏録:小槻臣
                      ・小月山君(小槻山君):近江国栗太郡(現草津市・栗東市)を拠点とした豪族。
                     ・小槻神社(滋賀県草津市青地町)栗太郡八座の内、
                              由緒:垂仁天皇皇子・於知別命より出で栗太に連なる山脈を守った名 族小槻山君の氏人が

                                       祖神を祀る。
                                   旧記::860・貞観2年、正一位小槻大明神の宣旨を賜う。

                                             863・貞観5年(年)八幡社、神明宮、布九王子社、八幡宮(馬場 町、追分町)、
                                                                     小路井社(現小汐井神社)を勧請。
                960/天徳4年,志津池(香ノ池)の傍らに遷座の時、池宮と称える。
                    ・小槻大社(滋賀県栗東市下戸山)
          祭神:於知別命・大己貴命
          由緒:小槻氏が中央に移った後、付近に拠点を持つ青地氏の崇敬を受 けて社頭が整備された。
            ・873年に拠点を京に移して「阿保朝臣(阿保氏)」のち「小槻宿禰」と改姓し、

               官務家として活動した。
              ・三川衣君:三河国賀茂郡挙母郷(現豊田市)を拠点とした豪族。
                  ・児ノ口社が残り、伝承を伝える。
              ・古事記:く垂仁天皇皇子・大中津日子命の子孫・「許呂母之別」の記載あり。

              ・伊賀国造:伊賀郡(現・伊賀市)を治めた国造。
                     成務朝、意知別命三世孫/武伊賀都別命が初代国造に任じられた。

                   ・国造一族の氏姓は、伊賀臣(孝元天皇皇子/大彦命裔)、阿保君(垂

                    仁天皇皇子の息速別命後裔)などと推定されている。
                               ・誉津別命・・伝承はあるも、その活動は不明
                       ・稚城瓊入彦命・・その活動は不明
                           ・袁那弁王・・事績の記述なし
                                        ・息速別命*4
                          ・胆武別命
                                        ・円目王   *5
       大中姫命  倭姫命。初代斎宮、胆香足姫命、両道入姫命(石衝毘売命)、稚浅津姫命
       皇后(前):狭穂姫命(彦坐王の女)。
       皇后(後):日葉酢媛命(丹波道主王女)妃:渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛
              妃:迦具夜比売 
              妃:綺戸辺・妃:苅幡戸辺
*4「新撰姓氏録」
   息速別命が幼少の時、父垂仁天皇は伊賀国阿保村(現・伊賀市阿保)に宮室を築き、同村が封邑として

   息速別命に授けた「『三国地志」は、その宮の営地を阿保南部の字福森から字西ノ森にかけての緩らか

   な丘陵地帯に比定している。
 ・息速別命墓:西法花寺古墳(伊賀市阿保)方墳35m・築造は古墳中期末-後期初頭(5世紀末葉-6世紀初期)
 ・大村神社(伊賀市)祭神:息速別命、境内に宮山古墳群あり。
*5比自岐神社(三重県伊賀市比自岐)式内社 伊賀國伊賀郡 比自岐神社
      祭神:比自岐神,  配祀:天兒屋根命 天照大神
           合祀:劔根命 應神天皇 建速須佐之男命 火産靈神 大物主神 宇迦之御魂命
              木花佐久夜比賣命 大山祇神 伊邪那岐命 大綿津見神 菅原道眞
      由緒:垂仁天皇の庶子である圓目王の妻、伊賀比自岐和気氏の祖を祀る神社。
       比自岐氏は、昔、当地を支配していた氏族らしい。
            ・別称は、天王宮、あるいは大森神社という。当地は、比自岐森邑と云っていたらしい。
          ・「喪葬令集解古記」に遊部君の祖として記載あり。
  元々、伊賀の比自支和気は天皇の殯宮に奉仕していた。雄略天皇が崩御の時、一族が絶えていた為、比自支

      和気の娘を妻としていた円目王が奉仕させられたと云う。時の帝は『手足の毛が八束毛になるまで遊べ』と勅し、

      円目王の子孫が、課役を免ぜられ、代々遊部となったと云う。
 ・遊部君:越中国砺波郡や大和国高市郡に居住していたと云う。
      南砺市大字遊部や橿原市四分町が比定されている。また荒城郡にも遊部郷があり、遊部君に関連する。

                 越中の赤祖父の名も遊部を起源とする説がある。
              ・遊部は、天皇の喪に籠もる一番近い肉親以外で、殯宮に入り、崩御した天皇に2人1組で仕える役で、

                 刀と矛を持つのが禰義、刀と酒食を持つのが余比と云い、死者の魂(凶癘魂)が荒振らないように鎮魂の

                 儀式を行う。
     ・殯宮の外では諸臣が誄の儀礼を行う。一方、その居住地や氏族の性格から、「遊部」とは「阿蘇部」の

                ことと考えられ、鳴釜神事に仕える吉備の阿曽女や吉備の鬼神である温羅の妻の阿曽媛と同じ、「ア」

                (接頭語)、「ソ」(金属・鉄)の意味であったと見られる。
          ・この一族は『令集解』の記事に従えば皇別氏族となるが、越中遊部君の居住地が吉備氏同族と見られる

           伊彌頭国造の後裔の石黒氏の居住地の近隣にあり、吉備氏遠祖が動向した倭建命の別動隊が信濃国から

               飛騨国を経て、越中国に抜けたと見られる。伊彌頭国造の歴代と同名の人物が遊部君の系図にも登場して

               おり、国造の祖の大河音宿禰とその子の努美臣の間に三世代ほどの欠落が見られることからも、遊部君は

               伊彌頭国造と同族で、円目王の子の富久古王が大河音宿禰の別名であったとする説がある。この説によれば、

               飛騨国の遊部郷や越中国の遊部君は、吉備氏や伊彌頭国造に起源を持つものであったと見られる。