目次 (1) 国造たちの墳墓探し
<1> 首長墓の条件
<2> 都佐国造墓の所在はわからない
<2-1> 前方後円墳がないのが高知県の特徴
<2-2> 徳島三大古墳は古墳後期
<3> 阿波国造墓
<3-1> これまでの千波足尼の墳墓候補
A 「日本辞典」
B ウイキペディア「長国造」
<3-2> 徳島(阿波・長)の前後円墳の分布
<3-3> 地域別に見た前方後円墳(徳島県)の検討内容
A 鳴門市・板野町地区
B 東みよし町
C 石井町・国府町
D 徳島市渋野町:阿波国(名方郡)と長国(那賀郡)との境界域
<4> 阿南市:明らかに長国と思われる地
<4-1> 国高山古墳・・長国国造墓の筆頭候補
<4-2> 「長の国」の古墳群+
<5> 首長墓探しの要約
<5-1> 首長墓探しの検討
<5-2> 試案:統一的な首長墓シナリオ
(1) 国造たちの墳墓探し
阿波・長・都佐三国の国造たちの墳墓探しをしてみると、意外や、それに該当する墳墓は見当たらないのです。より正確に云えば、古史料「国造本紀」の伝える国造たちの時代は考古学的な墳墓の築造年代と一致さすことは中々難しいのです。
この論議を更に深めて行くと、「国造本紀」の時代観は真実とはかけ離れている可能性があると云えます。
ここでは、「国造たちの墳墓探し」が「地域古史を総合的に掴む」のに有効だと考えて、敢えて、探し損ねをご覧に入れます。
<1> 首長墓の条件
候補古墳について、「首長墓の条件」(通説:前方後円墳)への適合性を検討し、次にその「築造期の照合性」でフルイにかけます。
首長墓の条件1 前方後円墳であること。
・ヤマト王権が政治的同盟の証として地方の首長に下賜したものだと云う説に従えば、
三角縁神獣鏡の出土は有力条件ですが、必須ではありません。
・別な通説は前方後円墳の造営を許す立場がヤマト政権にあったと云います。
首長墓の条件2 築造時期が4世紀後半~5世紀前半のもの(崇神天皇宝年318年説に従う)
・「国造本紀」が示唆する「粟・都佐」の初代国造の任命時期は成務朝で、それは
4世紀中葉と見ます。
「長国」の初代国造の任命時期は応神朝で、それは4世紀後半~5世紀初頭と見ます。
「国造本紀」 ・粟国造・・・応神朝、高皇産霊尊九世孫・千波足尼
・長国造・・・成務朝、観松彦色止命九世孫・韓背足尼
・都佐国造・・成務朝、長阿比古と同祖・三嶋溝杭命九世孫・小立足尼
・讃岐国造・・応神朝、景行天皇の子・神櫛王三世孫・須売保礼命
<2> 都佐国造墓の所在はわからない
先に都佐から入ります。
「古墳マップ」で調べた高知県の総古墳数は27と少なく、前方後円墳はゼロだとする高知県立埋蔵物文化センターの記述は衝撃的です。
<2-1> 前方後円墳がないのが高知県の特徴
「前方後円墳がないのが高知県の特徴」(高知県立埋蔵物文化センター)だと云います。
引用:(前略)連合したクニは同じ価値観をもとに各地で首長墓として前方後円墳を作りました。四国では香川で
78基、愛媛で19基、徳島で11基が確認されています。
しかし、高知県においては宿毛市の平田曽我山古墳でその可能性が考えられているのみで現在まで確実な
ものは確認できておらず、[前方後円墳ゼロが]高知県の特徴となっています。
小立宿祢は「長阿比古(長我孫)と同祖の三島溝杭命9世孫」と云う錚錚たる出自も紹介されており、成務朝に初代・都佐国造に任命されたと云います。 (出所)「国造本紀」
だが、都佐には前方後円墳がないのです。
こうなると、「首長墓は前方後円墳でなければならないとする前提条件」は、少なくとも、都佐国(高知県)では成り立たないのです。
古墳時代の成務朝に任命された「小立宿禰の墳墓」は不明です。
<2-2> 土佐三大古墳は古墳後期
土佐の三大古墳として次の三古墳が挙げられていますが、いずれも古墳後期の築造ですし、しかも、これらは前方後円墳ではありません。
・朝倉古墳(高知市朝倉)古墳終末期(7世紀前半) 墳形不明。主体部の埋葬施設は両袖式の横穴式石室、全長10m強
・小蓮古墳(南国市岡豊町小蓮)6世紀後半、両袖式横穴式石室、副葬品(金銅製中空玉・金環・鉄刀子・鉄鏃・鉇・馬
貝・須恵器等)・須恵器
・明見彦山1号墳(南国市明見)「彦山」の麓に3基の古墳1号墳・2号墳・3号墳)で構成される古墳時代後期の古墳群
3号墳か:人骨、須恵器・直刀・刀子・馬具・鉄鎌・鉄製鋤先・勾玉・管玉が出土
築造時期は古墳時代後期(6世紀後半)と推定
このことの示唆は、土佐高知には前方後円墳文化は到来しなかったと云う事でしょう。
別な見方では、首長のために前方後円墳を造成すると云う慣習は受け入れられず、土佐高知の葬送文化は、地元で大和・河内の葬送文化を受け入れる素地が薄かった、と見るべきです。
<3> 阿波国造墓
阿波徳島の場合は、土佐高知よりも大和・河内に近く、讃岐、或いは、紀伊淡路を通して、文化交流は容易だったでしょう。
それにしても、四国全体での前方後円墳の造営は少ないと云うべきです。
東国で知った古墳文化は四国ではかなり異なるようです。
香川県は、古代に景行天皇裔の勢力が強く、国造もその系統から出ていますから、讃岐香川では、前方後円墳も比較的多く、四国最大の富田茶臼山古墳(香川県さぬき市大川町富田中)は5世紀前半の築造が推定される前方後円墳(墳丘長139m)で、それまでの地域分散的な中小古墳群を統合した姿となっています。
史料:「日本書紀」(景行天皇条)神櫛皇子は讃岐国造の祖、武卵王(日本武尊の子)は讃岐綾君の祖
・「国造本紀」:讃岐国造、応神朝、景行天皇の子・神櫛王の三世孫・須売保礼命を国造に定賜
資料:さぬき市歴史民俗資料館 考古室ガイド・さぬきの古墳時代編
この富田茶臼山古墳の築造時期(5世紀前半)は応神朝に初代讃岐国造の任命があったとする「国造本紀」の記述と照応しそうです。
<3-1> これまでの初代粟国造・千波足尼の墳墓候補
さて、粟(阿波)では、初代粟国造の墳墓を推定したこれまでの動きとして次のAB二資料を採り上げます。
A 「粟国造:日本辞典」の推測:
粟(阿波)国造には、「国造本紀」は応神朝、高皇産霊尊9世孫・千波足尼が初代国造に定められ
ました。「日本辞典」はこの千波足尼の墳墓を次の様に推測しています。
日本辞典:鳴門市にある萩原墳丘・池谷宝幢寺古墳、天河別神社3・4号墳、愛宕山古墳(板野町)などの
被葬者は粟凡直一族だと考えられている。
この記述に先立って、「日本辞典」には次の記述があることも申し添えます。
・「新編姓氏家系辞書」で、粟国造・粟凡直は粟忌部宗家と書かれている。
・阿波一宮神社(徳島市一宮町)の大宮司家・一宮氏は名方別(名方宿祢姓)、粟国造(粟宿祢姓)の後裔と見られ
ている。
・「粟国造墓碑」は、中王子神社(名西郡石井町)に貴重な史料として伝わり、粟凡直一族の阿波統治の証とな っている。
先ず、萩原墳丘墓については、弥生墓ではないかとする見解があり、それ故に疑われています。
何よりも、その築造時期が3世紀前葉だとされるので、時期が早すぎると云います。
池谷宝幢寺古墳も、前方後円墳である点は首長墓条件を満たしていますが、その築造時期は4世紀中葉ですので、応神朝(4世紀後半~5世紀初頭)の千波足尼にはやや合致していません。
しかし、天河別神社3・4号墳や愛宕山古墳は築造時期が丁度当て嵌まりますので、候補墓として残ります。 ・天河別神社3・4号墳(鳴門市大麻町池谷) 4世紀前半~5世紀前半
・愛宕山古墳(板野郡板野町川端字芦谷山) 4後半~5世紀初頭
注目すべきは「日本辞典」は「初代粟国造」ではなく「粟凡直一族」について記している点です。
「粟凡直一族」を緩く解釈して「祖神・八倉比賣まで遡る原粟凡直一族を含む」のも良しとするならば、 これはこれで、検討の余地ありです。
B ウイキペディア「長国造」
ウイキペディア「長国造」は韓背宿祢の墓を巽山古墳だと推定しています。
だが、その築造時期は4世紀前半とされ、崇神~垂仁~景行朝に相当しますので、成務朝(4世紀中葉)の韓背宿祢とは時間差があり、しかも、巽山古墳は、前方後円墳ではなく、円墳です。
従って、支持的な要素が乏しいので、この説は一寸信じ難いです。
・巽山古墳(徳島市上八万町星河内)円墳、川の対岸からは7口分の銅鐸片(星河内銅鐸)が発見された。
古墳の遺物概要:(歴博報56)、変形方格規矩鏡(銘文なし、完形9.5cm、1919年出土、東博蔵)、
獣帯鏡(欠損13.8cm)、変形神獣鏡(完形14.4cm)、伴出、直刀、+石釧、+車輪石、+鍬形石
<3-2> 徳島(阿波・長国)の前方後円墳の分布
そこで、徳島(阿波・長国)の前方後円墳をまとめたリストを図表1に示します。
この場合、前方後円墳を11古墳に限定するについては問題もあり、二古墳を追加します。
・萩原墳丘墓とされる萩原2号墓(墳長26.5m)は3世紀前葉の積石塚式の築造と推定されていて、それは前方後円
墳期に先走るため、積石塚弥生墳墓とすべしとの意見があり、当初は11古墳の枠外にすべしとの考えに従いま
したが、次の古墳の存在を知るに及び、萩原2号糞も前方後円墳に加えます。
東原遺跡の前方後円墳(墳長16.5m)の築造は4世紀前半と推測されているのも関わらず、これまで徳島の前方後円墳に含められていないようです。
だが、調べると、讃岐香川の鶴尾神社4号墳は萩原2号墳との類似を強く感じさせます。
この鶴尾神社4号墳(墳長40m、高松市西春日町)が前方後円墳と認められているのでしたら、萩原2号墳も前方後円墳と認めてもよい、と思われます。
・石清尾山古墳群:香川県高松市峰山町、室町、宮脇町、西春日町、鶴市町、西宝町にわたる石清尾山塊上に所在
する積石塚を特色とする古墳群。
・鶴尾神社4号墳(高松市西春日町)当古墳からの出土土器は畿内の3世紀様式の庄内式土器と併行期(3世紀前半)
で、讃岐国最古の全長40mの前方後円墳(積石塚)
そこで図表2にはこれらの古墳(図中A1・A2・B)も含めて記載し、ご参考に供します。
<3-3> 地域別に見た前方後円墳(徳島県)の検討内容
これら11+の前方後円墳(首長墓条件1をクリア)について、地域別に築造時期(第二の首長墓条件)を中心に検討した内容を図表3として示します。
図表3 地域別に見る前方後円墳造営の様子
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A 鳴門市・板野町地区:
3世紀前半(弥生晩期=古墳初期とされる頃)に鳴門市萩原にA1積石塚形前方後円墳が出現します。
板野町の阿波大宮から大坂越で香川県さぬき市に至る「古道」があります。そのさぬき市津田川・鴨部川流域にも
前期古墳が多く、積石塚が多数あり、鳴門市萩原はこのさぬき市と積石文化を共有しており、阿讃つながりを確認
します。 資料:さぬき市歴史民俗資料館 考古室ガイド・さぬきの古墳時代編
・4世紀中葉になると、この地区には、大代古墳・池谷宝幢寺古墳・天河別神社3号墳の三古墳が築かれ、この鳴門
市地域の先進性を示します。
・この内、天河別神社3号墳はその築造時期推定が 4世紀前半~5世紀前半と幅がありますので、初代阿波国造の任
命時期に重なります。
・しかしこれ以降、前方後円墳はこの地域に造営されていません。
B 東みよし町
東みよしの町の東原・積石塚形前方後円墳の讃岐積石塚とのつながりは東山峠又は猪の鼻峠越えの古道での交流を
推定します。
・東みよし町東原遺跡:
A積石墓:東側の積石墓は36基発見された。
積石墓の上面や積石の間に多数の土器が壊された状態で供えられていた。
・土器類は外面は平木片叩き・刷毛仕上げ・内面はヘラ削り、弥生時代後期末(250年頃)
・積石墓は土で盛った前方後円墳に先がけて造られ、古墳発生の鍵を握ると云う。
B前方後円墳:全長16.5m、後円部は11m。
・後円の主体部は盛土があり未発掘。出土品から古墳初期(320年頃)造営と推定。
・現時点では積石塚古墳として最古と判定。
・ 丹田古墳(西庄)は4世紀の築造が推定され、三角縁神獣鏡が出土しています。
だが、この1基だけで前方後円墳(東みよし町のHPでは積石前方後方墳とする)は途絶えています。
・丹田古墳:丘尾切断法による積石前方後方墳(全長38m)、古墳前期初期に属し、実年代は4世紀代と
推定され、合掌式竪穴石堂、石室の副葬品に三角緑鏡一面、鉄剣一片、鉄斧一個が出土した。
・対岸に東原遺跡あり。
C 石井町・国府町
3世紀末~4世紀初頭になると、阿波国の中心地と思われる石井町に前山1号・2号墳、国府町に宮谷古墳が造営
されます。遅れて4世紀後半、山の神古墳が造営されています。
・前山古墳群:気延山から西に約6km離れた名西郡石井町の標高160mの尾根上に位置し、全長が18mに満たない
東四国で最小の前方後円墳と云います。
・北に延びる尾根の先端には曽我氏神社古墳群、清成古墳が存在する。
・前山1号墳:讃岐型前方後円墳の例としてよく知られ、後円部はほぼ積石で築かれており、前方部は盛り土で整
えられ、その端及び側縁には石が葺かれています。全長17.7m(前方部長9m、後円部径9.7m)。
墳丘形:前方部と後円部の長さの比が略1:1で、前方部が短く未発達。
・前方部端の幅は推定で5.5mほどあります。後円部のほぼ中央に1基の竪穴式石槨があり主軸に直交して
南北を向いています。内法は長さ約3.1 m、幅1m(北側)と0.8m(南側)
・前山1号墳の前方部中程まですぼまり、再び開くという平面形は、鶴尾神社4号墳、養久山2号墳、野田院
古墳などに似ています。副葬品は出土していない。
・だが、前方部中程が一番低く、前方部端が高く盛り上がるという側面観は、爺ヶ松古墳や石清尾山古墳群の
双方中円墳である猫塚などに似ています。
・墳丘上で出土した土師器片から3世紀末~4世紀初頭頃に築かれたと考えられる。
・前山2号墳:全長約18 m(前方部長約7m、後円部径約11m)で、くびれ部幅4.5 m、前方部の幅6 m。
・後円部の中央に2基の埋葬施設があり、それらは主軸にほぼ平行で、長さは共に4~5m。
測量調査のみ。後円部中央に竪穴式石槨2基あり。1号墳に続いて築かれたと考えられる。
墳丘は前方部と後円部の長さの比が1:2になり、宮谷古墳と類似する形態。
・宮谷古墳(徳島市国府町):
全長37.5mの前方後円墳。後円部径25m・前方部長12.5m、後円部は2段築成で葺石を備える。
後円部中央の竪穴式石室から重圏文鏡や玉類、鉄製武器などが出土したほか、前方部から三角縁神獣鏡が出
土し、畿内との密接な交流を示している。3世紀末~4世紀初頭の築造。
・宮谷古墳から出土の三角縁神獣鏡3面の内2面に同范鏡が存在する。
・同范鏡1: 内里古墳(京都)と黒塚古墳(奈良)との同范鏡、
・同范鏡2: 鶴山丸山古墳(岡山)、赤塚古墳(大分)との同范鏡
・宮谷古墳は、前山2号墳のほぼ2倍の大きさで、後円部に対する前方部の比率が少し小さい。前方部は
平面的に若干の湾曲を持って開いているが、上面は平坦で後円部とは段を持って区画されている。
前山2号墳ではこの段の部分には階段状に緑色片岩が積まれている。
・宮谷古墳では、纒向型前方後円墳に近い平面形で、その竪穴式石槨は東西を向いていて、畿内の古墳と同
様に主軸に平行につくられています。
・前山1号墳の墳形は讃岐型前方後円墳だが埋葬施設は主軸に直交して南北を向く畿内的である。
・宮谷古墳と前山2号墳は、共に葺き石を石垣状に積み上げていますが、前方部は尾根の下側に位置し、
平野の方を向く。徳島は東四国で香川と一体というわけでなく、香川、畿内両方からの影響を受けて
前方後円墳を造営していたのだろうと考えられます。
・山の神古墳:墳丘長56m、県内3番目の大きさの全長の前方後円墳、気延山の麓。築造時期4世紀後半
埋葬施設・粘土槨2基、 出土品・形象埴輪片・鉄鎌・鉄斧
山ノ神古墳群を含む気延山古墳群では最後の前方後円墳に位置づけられる。
・ 1号墳の側には円墳径14mが位置し、築造時期は4世紀末頃。
・ この円墳の周辺部では徳島県内2例目(全国では約70例)となる「筒形銅器」が出土。
D 徳島市渋野町:阿波国(名方郡中心)と長国(那賀郡中心)との境界域
<D1> 渋野丸山古墳・・粟国造・長国造の候補となり得るもその立地に難あり
古墳前期後半になると、勝浦川下流域にマンジョ塚2号墳が築造されて以降、この一帯に古墳が築かれ、
5世紀前半(古墳中期前半)になって、畿内色の強く大形な渋野丸山古墳が築造されます。
これを含むのが渋野古墳群です。 参照:阿波古史試論(2) 忌部氏の阿波渡来と定住 2021年09月23日
その図表1~6は徳島の古墳(前期古墳・編年表・全域の古墳)
次の様な渋野丸山古墳の特徴は倭国の大王墓(大仙陵古墳や誉田御廟山古墳)と共通しているとされています。
・渋野丸山古墳(徳島市渋野町三ッ岩):5世紀の前半の築造が推定されています。
・前方後円墳(全長118m)で、徳島県最大で、かつ100mをこえる唯一の古墳です。
・墳丘は3段に形成され、斜面には葺石が貼られ、周濠(幅5~10m)が巡っていました。
・出土した埴輪は円筒埴輪、朝顔形埴輪、儀式や祭りの時に貴人に翳す傘を模した蓋形埴輪、盾形埴輪の可能性がある
破片があった由です。
・土器は土師器と呼ぶ野焼きの土器で壺や食べ物を盛り付ける高杯です。
渋野丸山古墳は古墳時代中期、5世紀前半築造の前方後円墳と云われますから、その時代は応神朝~仁徳朝だろうと思われます。
初代の粟国造・長国造は、夫々、応神朝(4世紀後半~5世紀初頭)・成務朝(4世紀中葉~4世紀後半)に任じられていますから、渋野丸山古墳は国造墓候補になり得ます。
しかも、本古墳を最後に前方後円墳の築造が終るという様相を示し、継続性がないのです。
渋野丸山古墳の被葬者は畿内勢力と関係をもち、勝浦川下流域一帯の有力首長だったと考えられています。問題はこの地域が粟国域か長国域かですが、そこには疑義があるのです。
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<4> 阿南市:明らかに長国と思われる地
<4-1> 国高山古墳・・長国国造墓の筆頭候補
国高山古墳は「長国」領域(阿南市)内の唯一の前方後円墳で、「長国国造墓」の可能性があり、この古墳だけは、図表2Eとせずに、分離してここに記します。
・国高山古墳(阿南市内原町山下)前方後円墳(墳長50m)、
葺石・埴輪を備え、後円部中央で竪穴式石室の発掘で、内行花文鏡や玉類、鉄鏃(鳥舌鏃)、長方板皮綴
短甲、鉄剣、鉄槍、石製鞘入刀子、滑石製勾玉、鋤先、鉄製釣針が出土した。
・石製鞘入り刀子は、本来は鉄製ですが、滑石や碧玉などの石で模造したもので、埋葬前の殯で使用された祭祀
具と見られています。それが国高山古墳からは徳島県下唯一の出土例として8点も出土した由です。
墳丘には埴輪列が巡っていたと考えられ、推定築造期は4世紀後半と見られており、これは応神~仁徳・景行朝に相当する時期です。
「長国国造」の初代・韓背宿祢は成務朝(4世紀中葉~後半か)の定賜と云いますから、この人がこの墳墓の被葬者である可能性は高いと思われます。
しかし、渋野丸山古墳と同じように、ここでも前方後円墳の継続はない事は付記しなければなりません。
<4-2> 「長の国」の古墳群+
参考までに、「長の国」の主要古墳群を図表3に示します。
「長の国」の開発に貢献した開拓祖神を祀るとされる御間都比古神社も、当ブログの検討結果では、阿波国名方郡に属しています。
渋野丸山古墳の所在する徳島市渋野町が阿波国に属するか、長国に属するか、の判断は微妙なところです。当ブログはこれも一応阿波国に含めて議論して来たところです。
ここでは、一歩譲って、これらが長国に属するとして長国の古墳群をD群として参考までにリストします。
D群では、14国高山古墳、15渋野丸山古墳は前方後円墳ですが、16~21は全て円墳です。
22~25も阿波国の古墳で、全て円墳です。
注 Aは図表1、Bは図表2&図表4、Cは図表3、として夫々次のブログで示しています。
参考:阿波古史試論(2) 忌部氏の阿波渡来と定住2021年09月23日
図表1 阿波・徳島の忌部系神社の分布 <1>吉野川下流域:板野郡・鳴門市
図表2 徳島・阿波の前期古墳 注 前方後円墳◎、円墳○、
図表3 阿波・徳島の忌部系神社の分布2吉野川中~上流域:美馬郡・三好郡・美馬市・吉野川市
図表4 徳島の前期古墳編年(簡略版)
<5> 首長墓探しの要約
「国造本紀」が記す国造任命時期については疑問があり、信頼度が低いようです。
だが、本ブログでは、他の資料の記述と齟齬を来している場合を除き、原則的にそのまま採用・利用して来ました。
その上での、首長墓探しなので、やや無理があるかも知れません。
このような、信頼性の低さは系譜・系図についても云え、絶えず、論考は遮断されます。
その信頼性の低さを承知した上で、「首長墓探しの検討」結果を図表4に要約し、次に説明します。
<5-1> 首長墓探しの検討
1 粟国造墓の第一候補は「山の神古墳」(石井町)と「大代古墳」(鳴門市)です。
その時代は、4世紀後半~末と推定されています。
・それに次ぐ候補は、「池谷宝幢寺古墳」(鳴門市)、「天河別神社3号墳」(鳴門市)です。
・「宮谷古墳」(徳島市国府町西矢野)はその所在地(気延山域の阿波史跡公園内)からも、三角縁神獣鏡が
出土したと云い、候補として魅力的ですが、その造営時期が早すぎています。
・宮谷古墳はその有力な候補墓としての地位を失わないと思われます。
・だが、今は、単純な基準で候補墓を絞っていますが、基準を変えると、全く別なシナリオ仮説があり得ます。
当古墳は、気延山古墳群の筆頭古墳で、三角縁神獣鏡の出土もありましたので、八倉比賣一族のヤマト政権との
つながりを示唆します。
・しかも、この宮谷古墳と近くに出土した「矢野 & 源田の銅鐸」を総合すると、この地域に全く別なシナリオ古
史が生まれます。近く「銅鐸と八倉比賣」でこれを考えます。
・丹田古墳についても東みよし町を中心に、讃岐とのつながりを考慮しつつ、新シナリオ古史を
描くべきでしょう。
2長国造墓の候補は「国高山古墳」(阿南市)に絞られます。
3「渋野丸山古墳」(徳島市渋野町)は徳島阿波最大の古墳で、阿波亦は長国首長墓の有力候補です。
だが、ここには問題があります。
この場所が古代粟国だったのか、長国だったのかは俄には云えないのです。
当ブログは、この徳島市渋野町も佐那河内村(*)も粟国と長国の境界域にあるが、粟国に属する
地域だと判断して来ました。
だが、長国の国造祖・観松彦色止命を祀る御間都比古神社は佐那河内村に鎮座しているのです。
これが不審です。
仮に「渋野丸山古墳」が長国国造墓だとしても、大きく粟国の方に偏っています。
また、粟国造墓だとしても、大きく長国の方へ偏っています。
<5-2> 試案:統一的な首長墓シナリオ
一つの統一的な解釈はありえます。
4世紀後半は粟国域では山の神古墳・大代古墳・池谷宝幢寺古墳・天河別神社3号墳が夫々の小地域で築かれ、長国域では国高山古墳が築かれます。
だが、その後、粟国と長国を一つに統合した首長がいて、その人が5世紀初頭の「渋野丸山古墳」の被葬者となった、とする見方(シナリオ仮説)がありそうです。
これだと、図表3の候補墓を統一的に解釈できそうです。一試案としてご案内しますが、これは「国造本紀」の情報をないがしろにして、統合前に多数の小部族国家が存在していた事を想定しています。