承前

 

(3) 長国造(阿波南部を支配)・・主な根拠地:那賀国(後の阿波国那賀郡)・阿南市とその周辺

 徳島は阿波国と長国とに分かれていたのでしょうか。
 長国造の領域は、那賀川流域を中心とする、現在の徳島市、小松島市、阿南市、勝浦郡、那賀郡、海部郡にわたる地域とされ、国造氏族は長直氏とされます。
 一般に直姓の国造は凡直姓の国造より支配地域は狭かったとみられており、長直氏の姓が直であることから粟国造である粟凡直氏より下に置かれたともされる。このため、律令制直前には粟国造の領域に併合されていたとも考えられている、とウイキペディア「長国造」にあり。

<1> 長国の国造は事代主命系

 長国の国造は事代主命系と見られています。
     ・[国造本紀] 長 国造:成務朝、観松彦色止命の九世孫・韓背足尼を国造に定めた。
      神社:事代主神社(祭神:事代主神)はこの近辺に多し。
         ・事代主神社(鳴門市撫養町南浜)
         ・事代主神社(東みよし町)
         ・事代主神社(徳島市安宅1-2-33)
         ・事代主神社(阿波市市場町伊月字宮本)   勝浦郡鎮座の式内社
         ・多祁御奈刀弥神社(名西郡石井町浦庄字諏訪)名方郡鎮座の式内社, 

                                   祭神:建御名方神(事代主神の異母弟神)
         ・御間都比古神社 (名東郡佐那河内村)   名方郡鎮座の式内社、
            祭神:御間都比古命(天八現津彦命、事代主神の子神)国造祖、
            由緒:佐那河内の開拓神、成務朝、9世孫の韓背足尼が長国造となると、

                                            長峯の中腹(現・下中峰)に 祖神・御間都比古命を奉斎す。

<2> 事代主命系としてまとめる事への疑義

 だが、疑義もあります。ここではその疑義を充分究めておりません。

 疑義の一は、その枝流とする都佐国造、意岐国造を調べると浮上するのです。
     ・[国造本紀] 都佐国造:成務朝、長阿比古と同祖・三嶋溝杭命の九世孫・小立足尼を国造に定めた。
                      意岐国造:応神朝、観松彦伊呂止命の五世孫・十埃彦命を国造に定めた。


 三嶋溝杭命の娘・玉櫛媛は事代主命の妻問いを受けて、産んだ女子が神武天皇皇后となったとする伝承は古事記にも日本書紀にもあります。
  「日本書紀」:ある人が「事代主神が、三島溝橛耳神の娘・玉櫛媛を娶りて生める児を名付けて媛蹈鞴五十鈴媛命

                          と日ふ。こは国色秀ぐれたる者なり」(神武天皇前紀)と勧め、神武天皇はこの女婿を正后とした。
   「古事記」   :三島溝咋の娘・勢夜陀多良比売と呼ぶ大変美しい比売がいた。この比売を三輪の神(大物主神)が見染

                          めて結婚して生れた子神・富登多多良伊須須岐比売は神武天皇の皇后となった。

  長阿比古はこの三嶋溝杭命と同祖だと云いますが、事代主神とは血統はつながっていない筈です。

 だが、中田憲信の「長公系譜」(諸系譜第6冊106コマ)は次の様に「事代主神が長国造・都佐国造・長我孫の祖」だと主張しています。これがどの様な根拠から作成された系譜なのか、は何ら説明がないので判りません。
   ・ かねてから抱いている諸々の「系譜」への不信感とフラストレーションは高まるばかりです。
    ネット上に拝見する「系譜・系図」は「系譜・系図学」の未発達を示しています。

 

 


 

(4) 「安房忌部家系」から見る阿波忌部の家系

 阿波・徳島の方々の古代史に対する関心は中々のものと見られるのです。

 だが、「安房国忌部家系」は国会図書館デジタルアーカイブにあって利用できるのですが、「阿波国側の注記付きの忌部系譜」はネット上に見つけられません。

 ネット上にある [社家の姓氏-忌部氏]は「阿波忌部氏系図」の存在を示唆するものの、「阿波忌部氏系図」を明確には示していません。
  幸い、「妄想の阿波古代史」(ななさく)の中に「阿波忌部麻植大宮司家の系図」が「古代豪族系図集覧」(近藤敏喬著)に収載されているとして、その系図の冒頭部分を紹介しています。

  それは 「安房忌部家系」の上古の部と同一です。この一致に励まされて、[社家の姓氏-忌部氏]が示す参考系図も考慮して、「安房忌部家系」を基に図表7を得ます。

 これで、漠然とではありますが、阿波忌部古史を眺められそうです。


 

  図表7で、千波足尼の生きた時代を探っています。
         ① は千波足尼を高皇産霊神9代孫とする「国造本紀」により、孝安朝の6 夫由良別に相当。
   ② は大麻比古命10代孫とする「阿波忌部系図」により、開化朝の10 志麻名市に相当。
   ③ も「応神朝の千波足尼」を系譜上に求めたものです。

  本来は何れもが同じ時代を指さなければならない筈ですが、伝承誤差が輻輳して、これだけの時代のズレを生じているのです。系譜の不確かさは毎度のことなので、これは甘んじて受け入れます。

 例によって、崇神天皇宝年318年説に基づき、孝安朝は3世紀前半~中葉と見ます。
 かくすると、次の三点がこの図表7から読み取れるのです。

 1  初代粟国造の千波足尼の生きた時代を推定出来る。
     第一説:高皇産霊神9代孫ならば、孝安朝の6 夫由良別と同時代人亦は同一人[国造本紀]
       第二説:大麻比古命10代孫ならば、開化朝の10志麻名市と同時代人亦は同一人[阿波忌部系図]
     第三説:[社家の姓氏-忌部氏]の参考系図を重視し、「国造本紀」が千波足尼は粟国造と定めら

                  れたとする応神朝と合わせ考えると、千波足尼は大麻比古命15世孫に相当、と見る。
     この三説の示唆する、千波足尼の生きた時代は、3世紀中葉~4世紀後半です。
          参考:孝昭・孝安朝は3世紀前半~中葉、開化朝は3世紀後半、応神朝は4世紀後半~5世紀初頭

   2  四世紀後半~五世紀初頭の応神朝に、千波足尼が初めて阿波の統治者になった。
    ・これは古墳前期から中期に相当し、「鳴門板野古墳群」などが当て嵌まりそうです。
        古墳群との照合は後述します。

   3  この図表7とその根拠資料に依拠する限りでは次の様に云えるのです。
  ・応神朝に、忌部氏は二流に分れ、一は安房忌部となり、他の一流は阿波忌部となったと。
  ・伝承は天冨命の安房移住を伝えます。
   ・それを裏付けるように、天冨命の祭祀は安房にはあるが阿波にはないのです。
   ・応神朝で二流に分かれる系譜が正しいのか、それともこれとは別の系譜があるのか。
    これらは今後の検討を要しますが、一応、ここでは二流を記しておきます。
        ・その分化は、比較的遅く、仲哀朝~応神朝となっている点を注目します。
       ・このシナリオは初代阿波国造が応神朝に定められたとする「国造本紀」に信は置く場合のものです。

                 この前提が崩れると、シナリオは全く変わるでしょう。