目次 前報 1 道嶋嶋足
(1) 道嶋宿祢への誄
(2) 年表:道嶋嶋足の生涯
(3) 道嶋嶋足
本報 (4) 道嶋宿祢の同族の人々
<1> 丸子大国
<2> 道嶋宿祢三山・・陸奥開発に尽力す
<3> 道嶋猪手 & 道嶋大楯と御楯
<4> 道嶋赤龍・・京都に本貫す
2 丸子氏・牡鹿氏・道嶋氏の出自
(1) 丸子氏の陸奥国での出現
<1> 丸子大国一族
<2> 丸子氏渡来説
(2) 牡鹿郡の特徴
<1> 記録に遺る牡鹿郡人
<2> 神社(式内社を中心)祭祀・祭神からの示唆
<2-1> 海神の祭祀
<2-2> 征服神
<2-3> 国生み神・天地開闢神
<2-4> 地祇神の祭祀
(3) 丸子・牡鹿・道嶋氏の謎
次報 3 陸奥国の式内社
続報 4 上総(武射・伊甚・海上)での牡鹿・丸子氏伝承と遺跡ー牡鹿と上総との接続を探るー
<本文>
(4) 道嶋宿祢の同族の人々
道嶋宿祢嶋足は、元々、丸子嶋足と名乗っていましたが、753:天平勝宝5年に牡鹿連を賜姓し、更に、765:天平神護元年、道嶋宿祢を賜姓した経緯があります。
それ故、「道嶋宿祢の同族の人々」は、先ず、牡鹿郡における丸子氏を取り上げる要ありです。
<1> 丸子太国
丸子大国は、初めて陸奥国に関係して記録された「丸子」氏で、多賀城建造に貢献した人だと推定します。
725年正月、前年の多賀城(柵)の竣工に貢献した人々が昇叙・受勲しているのです。
・続日本紀・神亀二年(725)閏正月丁未:征夷大将軍以下1696人が勲位を叙され、この時は従五位上の大野東人
は従四位下に昇叙し、外従六位上丸子大国ら11人共に勲6等、田二町を賜っています。
「多賀城碑」は、762:天平宝字6年12月1日、多賀城の修築記念に建立されたものと考えられており、その内容は二つです。
前段は、多賀城から、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国までの行程。
後段は、724:神亀元年、大野東人が多賀城がを設け、762年、恵美朝狩が修築した。
これからすると、725年の昇叙・受勲はその前年の多賀城竣工のご褒美だと判るのです。
そこで、丸子大国も褒賞を受けたのです。
参考図表 多賀城碑
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西 多賀城去京一千五百里、去蝦夷國界一百廿里、去常陸國界四百十二里、去下野國界二百七十四里 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置也 天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也 天平寶字六年十二月一日
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計測:直線620km=1500里、折れ線660km=1500里ならば、1 里=410~440mとなる。
多賀城~奈良京 :1500里=620~660km、
~蝦夷国界:120×(410~440) = 約 50km
~常陸国界:412×(410~440) = 約170km、
~下野國界:274×(410~440) = 約115km
~靺鞨國界:3000 理 = 約1250=1300km
状況判断: 蝦夷国との国境は近い。僅か50km、 ・靺鞨國界は遠い。約1300km離れている。
・下野国までは<中通り>経由 約120km、・常陸国までは<浜通り>経由 約170km
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多賀城から51km北にある伊治城(767年竣工)は、多賀城碑建立の頃(762年)は蝦夷国との国界、即ち、最前線だった、と云えます。
この後も、桃生城(759年)、伊治城(767年)と城柵を造成されていきます。
その時は、丸子大国に代わって、道嶋宿禰三山が貢献しています。
三山は丸子氏ですが、賜姓により牡鹿連を経て道嶋宿禰を継いでいます。
丸子大国は、多賀城建造に貢献し、位階が外従六位上ですから、大領、又は、大掾だったと推定します。
だが、余程優れた人でも、8世紀初頭に渡来して、ゼロから牡鹿郡の上級官人となり、724年の多賀城築城に貢献するのはやや無理があります。
この丸子氏一族は、6世紀後半、少なくとも、7世紀後半には渡来していたのではないか、しかも、前地でも既に相当の官位を持つ地方官だったと思われます。
丸子氏が別地から渡来したとすれば、それなりの当地での活動実績が要るでしょう。
丸子氏は、少なくとも7世紀には当地に基盤を築き、小田郡・牡鹿郡などの「黒川以北10郡」に影響と及ぼしたと思われます。
ヤマト朝廷から当地に国司として来る人々は、在地の有力部族の協力を得る事なくしては、陸奥国経営を進める事は出来なかった筈です。
牡鹿郡人・丸子氏は牡鹿連賜姓前に既に高位官人となっています。次の通りです。
・725:神亀二年年閏正月丁未、外従六位上丸子大国ら11人共に勲6等、田二町を賜っています。
・749:天平感宝元年5月甲辰、私度沙弥小田郡人丸子連宮麻呂に、法名応宝を授け、師位を許す。
・753:天平勝宝5年6月丁丑、陸奥国牡鹿郡人外正六位下丸子牛麻呂、正七位上丸子豊嶋等24人に牡鹿連を賜姓す。
<2> 道嶋宿祢三山・・陸奥開発に尽力す
759(天平宝字3)年、道嶋氏の本拠地・牡鹿郡に桃生城(陸奥国桃生郡ー石巻市飯野中山)が築かれ、次いで、767:神護景雲元年に、伊治城(栗原市)が桃生柵より32km北北西の地に築造されます。
桃生城から伊治城までは32km、二城の築城間隔は短く、僅か8年です。
かなり速いピッチでヤマト朝廷側は北進しています。
伊治城の築造に貢献したのが陸奥少掾・従五位下の道嶋宿祢三山のようです。三山は、伊治城の
完工に際して、計画立案・修成築城に貢献したとして、従五位上を賜っています。
「続日本紀」 ・767:神護景雲元年冬10月辛卯、伊治城(栗原市)が築造さる。道嶋三山の貢献あり。
この伊治の拠点完成に伴い、新たに栗原郡が設けられます。
道嶋宿禰三山は、北上盆地の一大交易拠点である胆沢(奥州市)に通じる北上川と陸路の双方を抑え、北の蝦夷に対するヤマト朝廷の諸策の策定・執行を推進する現地官人のトップとなり、更に、陸奥国造、陸奥員外の介スケなどを勤め、蝦夷社会への律令導入に尽くした、と云われております。
「続日本紀」は明示していませんが、三山は陸奥大国造・従四位下道嶋宿祢嶋足の、父か、兄弟、亦は、子のような極めて近しい親族だったと思われます。
<3> 道嶋猪手、&、道嶋大楯と御楯
<道嶋猪手>
770:宝亀2年11月癸巳、陸奥国桃生郡人外従七位下牡鹿連猪手が「道嶋宿禰」を賜姓していますが、この人についてはこれ以外に記事はありません。
<道嶋大楯:その侮蔑的な態度が伊治公呰麻呂の怒りを買う>
この9年後、道嶋大楯が牡鹿郡大領として登場していますので、或いは、大楯の父かも知れません。
道嶋大楯も道嶋宿禰一族と思われます。この人はその傲慢な態度故に「宝亀の乱」の誘因を作ってしまい、伊治公呰麻呂に殺されます。
伊治公呰麻呂は蝦夷の頭領でしたが、帰順し、その実力が認められて、陸奥国上治郡大領外従五位下の位階と職位を与えられていました。
しかし、牡鹿郡大領の道嶋大楯は、何時も呰麻呂を淩侮し、「御前は夷俘じゃないか」と云う態度で遇していました。
呰麻呂はこれに深く銜(憾み)を抱いており、ある契機に、道嶋大楯と上司・按察使の参議紀広純を殺します。子細は次の囲み記事に譲りますが、結局、この乱の首謀者・呰麻呂は故地へ逃げ去り、その後も、捕らえる事は出来なかったのです。これは長い「対蝦夷の最終戦争」の始まりとなります。
律令朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍として北征させ、802年、胆沢城を築き、アテルイ(阿弖流為)が降伏するまでの22年間、武力であれ懐柔策であれ、蝦夷平定問題を解決出来なかったのです。
志波城の建設がこの戦争の最後の止めとなります。だが、皮肉にも志波城は雫石川の氾濫で不安定で約10年でその役割を徳丹城に譲ります。
・宝亀の乱(伊治公呰麻呂アザマロの乱)、「続日本紀」780:宝亀11年3月丁亥、
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陸奥国上治郡大領で外従五位下の伊治公呰麻呂が反乱し、徒衆を率いて按察使の参議広純を殺した。
・広純は、大納言兼中務卿の正三位麻呂の孫、左衛士督従四位下の紀朝臣広宇美の子なり。
宝亀中に陸奥守になり、更に按察使に転じた。在職中よく陸奥国事情を見聞す。
・伊治呰麻呂は、本夷俘の種也。初めは事によっては嫌う事があったが、呰麻呂は怨を匿し、偽って陽に媚びる姿勢
だった。広純はよくこれを信用し、特に意に介さなかった。
・牡鹿郡大領の道嶋大楯は、何時も呰麻呂を淩侮し、「御前は夷俘じゃないか」と云う態度で遇した。
呰麻呂はこれに深く銜(憾み)を抱いていた。
・時に広純が覚鱉柵の造成を建議すると、戍候(守備隊)を派遣することになった。因って俘軍を率いて、大楯・呰麻
呂は並び従った。是に至り、呰麻呂は自ら内応し、俘軍を誘い、反乱す。
・先ず、積怨の大楯を殺し、衆を率いて按察使広純を囲み、攻め害す。
・独り、介スケ大伴宿祢真綱を呼び、囲みの一角を開かせ、外へ出し、多賀城に護送さす。多賀城は久しく国司の治 所であり、兵器・粮蓄があるが、勝を計るべからず。城下の百姓は競って城中に入り保(安全)を欲す。
・介スケ真綱は城中に入り、掾ジョウ・石川浄足は潜ヒソカに後門より走出る。百姓、遂に拠る所無し。一時に撤去
す。
・その後数日、 賊徒が至り、争って府庫の物を取り尽して去った。残物には放火して焼き尽くした。
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780年、中納言の藤原継縄を征東大使、大伴益立、紀古佐美を征東副使、出羽鎮狄将軍として安倍家麻呂を任じ
781(天応元)年、参議・藤原小黒麻呂が正四位下の位を授けられ、持節征東大使に任命、陸奥守に紀古佐美を当てる
が、「続日本紀」は何らの成果も報じていない。
<道嶋御楯は穏当に>
789年、大楯が殺された「宝亀の乱」の9年後、道嶋御楯が「巣伏の戦い」に登場します。
この「巣伏の戦い」で、朝廷軍は阿弖流為軍に敗れ、将軍・丈部善理は戦死し、道嶋御楯は別将を務めた出雲諸上と共に、敗走兵を率いて帰還した、と云います。
・巣伏の戦い(阿弖流為に戦敗する):「続日本紀」延暦8年6月甲戌
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789:延暦8年6月、征東将軍が奏上します。
副将軍外従五位下入間宿禰広成、左中軍別将従五位下池田朝臣眞枚、前軍別将外従五位下阿倍猨嶋臣墨縄が議
します。三軍が力を併せて、渡河して賊を討てば約期に終わる、と。
・そこで、中・後軍各二千人を抽出し、同時に渡り、賊軍師・阿弖流為の居所に至る。賊軍は三百余人あり。迎え
て相戦う。官軍は勢いが強く、賊衆は引きます。官軍は戦いに勝ち、巣伏村を焼きました。
・将に、前軍と合流しようとした時、前軍は賊に渡河を阻まれます。賊衆は八百許人が更に来て防戦します。
その力は強く、官軍はやや退きます。すると、 賊徒は直ちに衝いてきます。更に賊衆四百許人が東山より現れ、
官軍の後ろを絶ちます。
・官軍は前後に敵を受け、賊衆は奮って攻撃してきて、官軍は排除され、別将丈部善理、進士高田道成、会津壮麻
呂、安宿戸吉足、大伴五百継守、は共に戦死しました。
・賊村14村、賊の住宅八百許りを焼き尽くし、器械雑物は別の如し。
・この時、官軍の戦死者25人。矢による死者245人。溺死者1036人、裸の渡河帰着者1257人です。
・別将出雲諸上、道嶋御楯らは敗走兵を引き連れ帰還す。
・ここに於いて、征東将軍に勅して曰く、之までの奏上を省みて云う。胆沢の賊は全て河東に集まる。先ずこの地
を攻め、その後、深入を謀ることにしよう。
しからば、軍監以上は兵を率い、その形成を見張り、その威容を厳かにし、前後相続いて攻めるべし。
・しかるに、軍少将卑しく還りて敗績を致す。これはその道・副将らが計策の失した理由である。
・善理らが戦死し、士卒が溺死した事に至っては惻怛の情に至る。
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その8年後、征夷大将軍坂上田村麻呂が登場し、御楯は副将軍になりますが、「徳政相論」により蝦夷対策は大転換します。
・徳政相論(戦うよりも徳政により蝦夷を帰順させよ)ー 桓武天皇は参議・藤原緒嗣の意見を容れた
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797:延暦16年、征夷大将軍として坂上田村麻呂が東北地方の蝦夷鎮圧に随行。
坂上田村麻呂:父は左京大夫・坂上苅田麻呂。大納言正三位兼右近衛大将兵部卿、勲二等、贈従二位。
蝦夷平定後、陸奥国に胆沢城造営、鎮守府設置。
801:延暦20年、蝦夷征討に際しても鎮守軍監を務め、
802:延暦21年、外従五位下で陸奥国大国造に任ぜられている。
804:延暦23年、桓武朝の第四次蝦夷征討計画に際して、征夷大将軍・坂上田村麻呂に次いで、百済王教雲や佐伯社屋
と共に道嶋御楯も征夷副将軍として名を連ねた。
805:延暦24年、徳政相論(戦うよりも徳政により蝦夷を帰順させよ)により遠征は中止となった。
808:大同3年、 道嶋御楯、陸奥鎮守副将軍に任ぜられる。(平城天皇の御代)
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<4> 道嶋赤龍・・京都に本貫す
御楯が坂上田村麻呂の副将として蝦夷鎮圧に従っている頃、陸奥国人従五位下道嶋宿禰赤龍 が本貫を右京に移した事が「日本後紀」に記されています。
・796・延暦15年11月辛卯:陸奥国人従五位下道嶋宿禰赤龍、右京に本貫す。(日本後紀)
この本籍地移動の意味は前報に考察した通りです。
この記事を最後に、その後の道嶋氏の動静は掴めていません。
2 丸子氏・牡鹿氏・道嶋氏の出自
(1) 丸子氏の陸奥国での出現状況
<1> 丸子大国一族
丸子大国は、多賀城建造に貢献し、位階は外従六位上ですから、大領だったと推定します。
律令朝廷から当地に国司として来る人々は、在地の有力部族の協力を得る事なくしては、陸奥国経営を進める事は出来なかった、と見ます。
牡鹿郡人・丸子氏は牡鹿連賜姓前に既に地元の高位官人となっており、前述しましたが、再掲します。
・725:神亀二年年閏正月丁未、外従六位上丸子大国ら11人共に勲6等、田二町を賜っています。
・749:天平感宝元年5月甲辰、私度沙弥小田郡人丸子連宮麻呂に、法名応宝を授け、師位を許す。
・753:天平勝宝5年6月丁丑、陸奥国牡鹿郡人外正六位下丸子牛麻呂、正七位上丸子豊嶋等24人に
牡鹿連の姓を賜る。
<2> 丸子氏渡来説
「丸子氏渡来説」は「赤井官衙遺跡&矢本横穴」(東松島市)に関する考古学的知見がもたらしたものです。
大要は、矢本横穴遺跡の横穴墓形態は千葉県東上総地域に特有の「高壇式横穴墓」(千葉県茂原市押日)に類似したものが多い、と云い、何事にも論拠主義を標榜する考古学者が可なりはっきりと「丸子氏は上総から渡来した」と云います。 之を容れます。
図表 赤井官衙遺跡&矢本横穴
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赤井官衙遺跡群(東松島市赤井字星場)
概要:牡鹿の郡家、あるいは『続日本紀』天平9年4月条にみえる「牡鹿柵」と考えられる赤井官衙遺跡と、その南
西に位置する役人などの墓域の矢本横穴墓群からなる。
・赤井官衙遺跡:7世紀中葉頃に関東地方からの移民によって溝と塀で囲まれた大規模な集落が営まれる。
・官衙整備は7世紀末頃で、官衙は倉庫院と居宅区の2区画から構成されている。
・移民を中心とした集落の形成と、官衙、乃至、城柵の造営という変遷をたどれる。
・矢本横穴 :丘陵東向き斜面の中腹に約1.5kmにわたって営まれた横穴墓群である。
・これまで113基の横穴墓が発見されており、赤井官衙遺跡に移民の集落ができたころから
官衙が廃絶したころまで墓域として使われたことが判明している。
・横穴墓形態は千葉県東上総地域に特有の「高壇式横穴墓」(千葉県茂原市押日)に類似したも
のが多い。
・出土遺物 :金銅装圭頭大刀、革帯、「大舎人」と墨書された須恵器などの遺物が出土しており、牡鹿郡
家ないしは牡鹿柵に勤めた役人などの墓域と考えられる。
東松島の赤井官衙遺跡群:
737:天平9年2月19日、藤原朝臣麻呂らが陸奥国多賀柵に到着し、山道と海道をつくり始めた。
東北の住民の「蝦夷」が動揺したため、459人を玉造等の五柵に分散させた。玉造柵とともに
名称が記されていたのが、牡鹿柵、新田柵、色麻柵など天平五柵だったのです。
役所を造営したのは、飛鳥時代に上総国から移住し、古代の東北で随一の豪族となった道嶋氏という一族だった。赤井遺跡から5キロほど離れた丘には、一族や役人らが葬られた墓だった「矢本横穴」がある。確認されているだけで113の横穴が分布し、人骨や勾玉などの装飾品も見つかっている。大化の改新のころには造営が始まっていたという。赤井遺跡以外にも、大崎市名生館遺跡(玉造柵)では、七世紀中葉から始まる官衙遺構と共に、上野から北武蔵と同じ土師器が出土する。 (出所)宮城県文化財課
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渡来元の原地が指摘される以上、そこを調べなければなりません。
成る程、上総(茂原市)の高壇式横穴墓は6世紀~8世紀に及ぶ横穴墓で、近隣の諸郡にも及んでいます。注 これは牡鹿郡の特徴を把握した後にまとめる事になります。
参考:「房総半島中央部の横穴墓制」 雨宮龍太郎 千葉県教育振興財団研究連絡誌第72号1-35
(2) 牡鹿郡の特徴
そこで、上総での丸子氏伝承と遺跡を探るための準備をします。
それは牡鹿郡人の背景を調べ、一帯に拡がる神社(式内社を主とする)の祭祀と伝承に手掛りを探すことです。
<1> 記録に遺る牡鹿郡人に上総の影あり
牡鹿郡の住人は、少なくとも記録上は、次の人々がいました。
・第一に首長クラスに丸子氏が居ります。
・第二に産金活動に携わった人々には、地元以外の人もいました。
・陸奥国介佐伯宿禰全成、鎮守判官従五位下大野朝臣横刀、 共に従五位上へ
・大掾正六位上余足人、 従五位下へ
・金採取人(金を獲りたる人)・上総国人丈部大麻呂、 従五位下へ
・左京人无位朱牟須売 外従五位下へ
・私度沙弥小田郡人丸子連宮麻呂に、法名応宝を授け、師位を許す。
・金産出の小田郡涌谷神社・神主日下部深淵 外少初位下へ
・冶金人左京人戸浄山 大初位上へ
・第三に道嶋宿禰嶋足の尽力により賜姓した武射臣一族の人々
<1-1> 丈部大麻呂
ここで注目されるのが、上総国人丈部大麻呂の登場です。
この人は「獲金人」と呼ばれており、これを「金採取人」と現代語訳して先述しましたが、何らかの事情で「砂金採法」を承知しており、実際に陸奥の現場で砂金の在処を探り、砂金を採取した人はこの人なのでしょう。
この丈部大麻呂は「獲金人・上総国人」として従五位下の位階を受けています。
<1-2> 左京人无位朱牟須売
左京人无位朱牟須売を上総国人・丈部大麻呂の妻*としたり、砂金発見者の一人**としたりしている人がいますが、そのような記述は「続日本紀」には無く、確定的ではありません。
*
** 参照:「天平の産金地,宮城県箟岳丘陵の砂金と地質の研究史」地質学会誌116(6)341-346 2010年6月
むしろ、注目すべきは、この无位の左京人の「朱牟須売」が如何にも女性であり、左京から態々陸奥まで来て何らかの貢献をした上、外従五位下を授かっていることです。
「外」付きではありますが、従五位下は上総国人・丈部大麻呂と同格なのです。
また、知識人として名指しされている、外従八位下他田舎人部常世・外従八位上小田臣根成が授かった位階と同じ「外従五位下」を受けているのです。情報不足ながら、注目します。
<1-3> 百済王敬福の砂金採取プロジェクトチーム
上総国人・丈部大麻呂については、百済王敬福の挙動と連動しているかのような不審があります。
743:天平15年6月30日、百済王敬福は、一度、陸奥守に任じられます。
この時、敬福は陸奥に砂金が出る話を耳にし、それを採る方策はないものか、と頭に止めて、思案していたのでしょう。
その三年後の746:天平18年4月1日、百済王敬福は上総守になりますが、在任僅か6ヶ月後の9月に、再度、国守として陸奥に赴くのです。
この短期在任後の再度の陸奥国赴任に不審な感じがするのです。
そこで、推理を含みつつ、以下にその経緯を述べてみましょう。
・百済王敬福は、陸奥守に赴任して、陸奥に砂金が出る事を何らかの契機に知ったのです。
・そこで、上総守に任じられた時、敬福は熱心に「人」を探します。
「砂金を知っとる者はおらんかね。その砂金探しのやり方が判り、採った砂金を黄金に変える
知識・技法を持つ人を探して居るんじゃが、・・。」
・すると、忽ちの内に、色々な知識を集めることに成功し、砂金採取プロジェクトチームの結成
準備が整います。出身地は様々です。
・敬福は陸奥守への再任を朝廷に働きかけます。
・こうして、上総守在任は僅か半年で、慶福は陸奥守に帰り咲きます。
公式には地方官人をリーダーに据え、実質的には上総国人・丈部大麻呂に委ね、左京人すら呼び寄せ、現地・牡鹿郡人も、勿論、現地コーディネーターとして容れています。
L プロジェクトチームリーダー 成功後の昇位
・公式リーダー:陸奥国介 ・従五位下佐伯宿禰全成、 従五位上へ
・鎮守判官 ・従五位下大野朝臣横刀、 従五位上へ
・大掾 ・正六位上余足人、 従五位下へ
・実質リーダー ・上総国人・丈部大麻呂、 従五位下へ
・現地コーディネーター ・私度沙弥・小田郡人丸子連宮麻呂、 法名応宝、師位を許す。
A 総合的な砂金知識人 ・外従八位下他田舎人部常世、 外従五位下へ
(コンサルタント) ・外従八位上小田臣根成 外従五位下へ
B 金採取人 ・上総国人丈部大麻呂、 従五位下へ
・左京人无位朱牟須売 外従五位下へ
C 冶金人 ・左京人戸浄山 大初位上
D 金産出地主 ・小田郡涌谷神社・神主、日下部深淵 外少初位下
敬福が69才で薨じた時の誄が遺されていますので、その人となりを表現している部分を抜粋引用します。
抜粋引用:頗好酒色。聖武帝殊加寵遇。性了辨、有政事之量。時有士庶来告清貧毎 借他物望外与之。
由是、頻外任、家无余財。天平年中仕至従五位上陸奥守。
(出所)「続日本紀」766:天平神護2年6月壬子
この敬福の人となりを次の様に読みます。
・頗好酒色:宴会では大いに飲み語ることができ、一興に歌も謳ったかも知れません。
そして、女性にモテたでしょう。 明るい陽の人柄こそリーダーの基本条件です。
・聖武帝殊加寵遇:聖武天皇はその人柄を認め、殊の外寵遇します。
・性了辨 :辨は雄弁であり、話術に長け、よく話をリードすることが出来るの意味に取ります。
・有政事之量 :政治の力量があり、よく根回しもするし、人を説得する術を心得ています。
・時有士庶来告清貧毎 借他物望外与之:士人や庶民が来て清貧で困っていると云えば、他人の物を借りてでも
思いもかけない物を与えて、その訴えに応える人でした。
・由是、頻外任、家无余財:このような性格の人でしたから、屡々、地方の国守に任ぜられても、家には余財が
なかった。
*地方国守に任ぜられると、国守が春先に苗稲を農民に貸して秋口に収穫稲で農民が利子払いをする
「出挙の制度」があり、国守はそれにより富んだと云います。 だが、敬福はゆとりの余財がなかった、
と云うのです。
こういう人の下で「砂金採掘プロジェクト」は運営されたのですから、広く人を集め、動かして、万事が上手くいったのでしょう。
第二回目の陸奥守の就任も百済王敬福の願い出によるものだったと思われます。
僅か6ヶ月の上総守の期間に、百済王敬福は、砂金の取り方を知る上総国人・丈部大麻呂の存在を知り、陸奥国に伴って行ったものと思われます。
陸奥守に再任されると、百済王敬福は直ちに「砂金探査チーム」の結成に取りかかり、砂金探しを始め、三年後に早くも成果を得ます。この達成は今の感覚でも早いと云うべきです。
749:天平21年2月、敬福は朝廷に「陸奥小田郡で産金あり」と速報を出し、追って、4月に金900両の実物を献上したのです。
その後の産金騒動は前報しましたが、陸奥の産金活動は、北上川を遡上するカタチで続き、その後、奥州・藤原氏三代の栄華を支えた話は有名です。
<1-4> 武射臣を賜姓した春日部黒麻呂
もう一つの注目点は「武射臣」の記述です。
牡鹿郡人外正八位下・春日部黒麻呂ら3人は、大国造・道嶋宿祢の推挙を得て、武射臣を賜姓します。
その名からして、武射臣は上総国武射郡を想起させ、武射国出身の部族が牡鹿郡に来住していた事を示唆しています。
武射郡は、広く云えば、上総国人です。
その「春日部」は春日皇后の「伊甚屯倉」経営に関わったことを推測させる姓です。
上総国の伊甚屯倉は、535:安閑天皇元年の「伊甚屯倉」事件により生まれた、曰く付きの屯倉です。
ここに春日皇后が、何故、登場するのか、を含めて、次報します。
こうして、記録に遺る牡鹿郡人に上総の影を見るのです。丸子氏や上総国人・丈部大麻呂は勿論のこと、春日部黒麻呂など多くの上総国人が牡鹿郡につながることが推測出来ます。
<2> 牡鹿郡・桃生郡(気仙沼市)の祭祀特徴
丸子氏が牡鹿連を賜姓するくらいですから、牡鹿郡は丸子氏の根拠地だと云えます。
現代の気仙沼市は牡鹿郡のみならず桃生郡も包括しています。古代の桃生郡は、牡鹿郡からの分割により生まれ、分割後も牡鹿郡の影響を強く受けていた、と見て、二郡の式内社を眺めてみます。
尚、神社情報は次報にまとめてご紹介します。
牡鹿・桃生二郡の式内社を合計すると、16社になります。
この二郡に祀られている式内社(論社を含む)を調べて、次のような事が判ります。
陸奥国100社の式内社は、牡鹿郡に最も多く10社、桃生郡を合わせると16社も鎮座しています。
この二郡は「黒川以北10郡」に含めて論じられることが多いのですが、そして、当ブログもそれを一応は尊重してきましたが、実はこの牡鹿・桃生二郡は可なり早い時期からヤマト朝廷色が強くなっており、「黒川以北郡」の持つ、ヤマト朝廷帰順の遅かった地域と云うイメージとは馴染まない、と云うべきです。
<2-1> 海神の祭祀
第一特徴の海神祭祀は海上から当地へ渡来した海人族がいたらしいことを示唆します。
上総国は海上王国と呼ばれるくらい「海」に関係深いです。そこからの人々の渡来は、当牡鹿郡に海神祭祀をもたらしたと読めます。一応、符丁が合っていると云うべきです。
・海神を祀る神社は次の如く多いのです。
・牡鹿郡:零羊埼神社(石巻市湊字牧山7)名神大社、祭神:豊玉彦命(大綿津見神)
・零羊崎神社(石巻市真野内山18) 祭神:豊玉姫命・秋津彦命・速秋津姫命
・大島神社(石巻市住吉町1-3-1) 祭神:住吉大神
・計仙麻大島神社(石巻市北村字朝日山) 祭神:倉稻魂命 豊玉彦命
(配祀)菅原道真 軻遇突智命 須佐之男命 家都御子命 白山比咩命 宇迦魂命
伊弉册神 大日靈命 市杵嶋姫命 大山祇命 天照大御神 塩土老翁神
・桃生郡・計仙麻大島神社(気仙沼市亀山、現・大島神社)名神大
・御崎神社(気仙沼市唐桑町崎浜) 祭神:大海津見神
参考:敷玉早御玉神社(大崎市三本木新沼字若宮) 式内社、祭神:豊玉姫命 玉依姫命
由緒:景行天皇12年、日本武尊東夷征討し、后弟橘媛慰霊の思召しにより海神二柱を祀る。
・780:寶亀11年、藤原小黒丸が戦勝を感謝し社殿を再建立したが天正兵乱により焼失し、以後社殿の
建立がなく「敷玉森」としてその名を止めた。
これらの海神は上総国から海路渡来の部族が海上の安全を祈願する守護神として祀ったものと見ます。
<2-2> 征服神
第二特徴は征服神(鹿嶋神・日本武尊)の祭祀です。
征服神祭祀は東北の奥地に意外に早期に進入したと見ます。
鹿嶋神(親子)・香取神の祭祀は、亘理の鹿嶋三社(式内社)から北上征行した鹿嶋神を崇拝する氏族が執り行ったもので、日本武尊の北征に先行していた、と見ます。
・伊去波夜和気命神社(石巻市渡波) 祭神:武甕槌神、経津主神
・鹿島御児神社(石巻市日和が丘) 祭神:武甕槌命、鹿島天足別命
・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜) 祭神:香取伊豆乃御子神・阿佐比古命
注 鹿島苗裔神:鹿島神宮は東国開拓の拠点で、その御子神も東北各地に祀られ, 「常陸国風土記」行方郡に
分祠を記し、「日本三代実録」(866:貞観8年)は陸奥国に苗裔神が38社あると記します。
・その内訳は次に示す通りですが、現存する鹿嶋神社との対応は確認していません。
浜通り :菊多郡 1、磐城郡 11、標葉郡 2、行方郡 1、宇多郡 7、伊具郡 1、
牡鹿近辺 :曰理郡 2、小田郡 4、牡鹿郡 1
黒川以北 :宮城郡 3、黒河郡 1、色麻郡 3、志太郡 1、
別説に「吉弥候部が祀る」とも云いますが、この説は採りません。
日本武尊の祭祀は、鹿嶋神祭祀を追って、配祀・合祀も含む次の諸社に認められます。
・野山神社 (石巻市飯野宮下北宮下北)
・日高見神社(石巻市桃生町太田字拾貫)
・二俣神社 (石巻市三輪田字尾崎前2)
・岩倉神社 (気仙沼市本吉町菖蒲沢)
・御崎神社 (気仙沼市唐桑町崎浜)
<2-3> 国生み神・天地開闢神
征服神は国生み神・天地開闢神を祀ります。拝幣志神社の高皇産靈命祭祀はその例でしょう。
・拝幣志神社 (石巻市八幡町)名神大社、祭神:高皇産靈命 配祀 應神天皇
参考:配志和神社(一関市山目字館)高皇産霊尊、瓊瓊杵尊(皇孫尊)、木花開耶姫命
また、猿田彦大神・彦火火出見命・迩迩藝命等を祀るのもその別カタチかも知れません。
・鳥屋神社 (石巻市羽黒町) 祭神:猿田彦大神
・久集比奈神社(石巻市高木上品山)式内社 陸奥國牡鹿郡 祭神:彦火火出見命 合祀 木花開耶姫命
・論・計仙麻大島神社(本吉郡南三陸町歌津樋の口) 祭神:迩迩藝命
・二俣神社(石巻市三輪田字尾崎前2)式内社 陸奥國桃生郡 祭神:八衢比古神 水戸神 八衢比買神 船戸神、
配祀:保食神 須佐之男命 誉田別尊
・小鋭神社(石巻市福地字加茂崎橘)式内社 陸奥國桃生郡 祭神:小田神、賀茂別雷神 玉依姫命 賀茂健角身命
<2-4> 地祇神の祭祀
陸奥では地祇神祭祀が少なく、歴史の混沌の中で多くの地祇神が消し去られた、と見ます。
ここでは地祇神の祭祀として「志波神」と「理訓許段(リクンコタン)神」を取り上げます。
陸奥の地祇神の中で「志波大神」は、そのインパクトが強かったのが幸いしたのか、現代までその祭祀は残りました。この「志波」の意味に興味を抱くのですが、判りません。
先ず、牡鹿郡では曽波神社に志波彦神が祀られています。郡外では、塩竈神社別宮(塩竈市)、冠川神社二社を見出します。
・曽波神社(石巻市蛇田字曽波神山、牡鹿郡) 祭神:志波彦神
・志波彦神社(塩竃市一森山)、塩竃神社別宮・名神大・陸奥一宮、宮城郡 祭神:志波彦大神、
由緒:孝昭天皇の御代勧請
・冠川神社(仙台市宮城野区岩切若宮前、及び、多賀城市新田南関合31-11) 祭神:志波彦大神
志波彦神社(名神大) 陸奥国 宮城郡鎮座(現在社)志波彦神社
「志波大神」と「志波」を共有する「志波姫神」も東北の各地に祀られています。
祭神を天鈿女命・木花開耶姫命などに置き換えられている事例もありますが、どう見ても、祭神は志波姫神でしょう。
・志波姫神社(大崎市古川桜ノ目高谷地、栗原郡)名神大、祭神:天鈿女命
・志波姫神社(栗原市高清水五輪)
・志波姫神社(栗原市志波姫八樟新田) 祭神:木花開耶姫命
(合祀)倉稻魂命 應神天皇 素盞嗚尊 菊理姫命 伊弉册命 大日靈命 軻遇突智命 倭姫命
・鼻節神社(宮城郡七ヶ浜町花渕浜誰道)名神大 宮城郡、 祭神:猿田彦神、配祀:大山祇神 保食神 菅原道真
由緒:孝安天皇の御宇はうが崎に鎭座、塩釜大神と御同神で、御舟に乗つて鼻節浜に上陸伝承
・浮島神社(多賀城市浮島赤坂) 祭神:奧塩老翁神 奧塩老女神 (配祀)源融
地名として最も有名なのは「志波城」(志波城古代公園:盛岡市上鹿妻五兵衛新田48-1)でしょう。
また、陸奥国の奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手郡)の一郡に斯波(紫波、志和)郡があり、現在地名としては、仙台市、紫波町(岩手県紫波郡)もあります。
・宮城県仙台市若林区志波町
・岩手県紫波郡紫波町紫波中央駅前・・・花巻市と岩手市との中間
志波神の由来・神格はどうすれば判るのでしょうか。今後に遺された「謎」です。
<2> 理訓許段(リクンコタン)神社
理訓許段(リクンコタン)神社は牡鹿郡北方の気仙郡に鎮座し、牡鹿郡外ですが、興味本位で記します。
ここでは、西宮・中宮・東宮の三社で一塊をなす神々の姿と見ます。
・理訓許段神社(大船渡市猪川町)(西の宮)気仙郡 理訓許多神 素盞嗚神
・登奈孝志神社(大船渡市猪川町)(中の宮)気仙郡 登奈孝志神 稲田姫命
・衣太手神社 (氷上山山頂の直)(東の宮)気仙郡 衣太手神
それをまとめたカタチが陸前高田市の「氷上神社」の祭神構成となっています。
・氷上神社(岩手県陸前高田市高田町西和野)祭神:衣太手神 登奈孝志神 理訓許段神
これら三神は、岩手県神社庁はアイヌ語を現代語訳だとして、次の通りだとします。
・衣太手神 :森の中に鎮座の神
・登奈孝志神:沼を越えた彼方の神
・理訓許段神:丘にある村の神
陸奥の神々の祭祀は、蝦夷及びアイヌの信仰内容を理解して、初めて解けるのでしょう。
蝦夷及びアイヌに関する考古学的な知見も学ばねば成りません。今は、ギブアップです。
(3) 丸子・牡鹿・道嶋氏の謎
こうして「牡鹿郡に上総国の影あり」と云えると共に、神社祭祀に先住民の遺影をも見る思いです。
「道嶋」の起源を、牡鹿郡内の地名に探しましたが、見つかりません。これも「謎」のままです。
次々報では、この謎を追って上総へ視点を転じて、「牡鹿と上総との接続を探る」ことにします。