目次(5) 額田氏繁栄の跡:
    (1) 古墳築造順序は北伊勢額田部が大和・額田部氏より先
       <1> 船墓(額田部宿禰先祖)
       <2> 「桑名首の墓」説と「額田連の祖・意富伊我都命の墓」説
          <2-1> 高塚山古墳(桑名市)・「桑名首の墓」説
           <2-2>  志氐神社古墳(四日市市)・「額田連の祖・意富伊我都命の墓」説
       <3> 古墳築造順序は北伊勢額田部が大和・額田部氏より先
    (2) 「意富伊我都命」を共通の祖とする大和と北伊勢の額田部氏
              <1> 大和と北伊勢の額田部氏が「意富伊我都命」を祖として共有している
              <2> 推測:「意富伊我都命」を祖神と仰ぐ北伊勢の額田部氏の一部が大和平群に移動した
    (3) 北伊勢・桑名郡域の白鴎期寺院跡
       <1> 北伊勢の白鴎寺院建立の時代背景
              <1-1>  仏教興隆の詔
                     <1-2> 飛鳥自院建立の波
                     <1-3> 「出雲風土記」の新造の院
       <2>  大和と北伊勢の額田二廃寺
       <3> 桑名・有明郡域のその余の白鴎期寺院跡
          <3-1> 北伊勢の白鴎寺院と式内神社の距離関係の意味
          <3-2>  大福田寺
    (4) 総括:天津彦根命祭祀社と額田神社・額田寺
       <1> 天津彦根命祭祀社と額田神社・額田寺
       <2>  拠点間の祭祀差異

(1) 古墳築造順序は北伊勢額田部が大和・額田部氏より先
 

  河内古史(弥生期~古墳前期)もこの議論の視野に容れるべきですが、ここでは省略します。河内を含めた平群・北伊勢の古墳前期の状況は続報の「注記及び付属資料」で一応の補いとします。

 先を急いで力を抜くと、それが視野狭窄をもたらして、間違った古代史を見るかも知れませんが、・・・。

<1> 船墓(額田部宿禰先祖)

  大和平群の国宝「額田寺伽藍並条里図」には「船墓 額田部宿祢先祖」と注記され、また、額田部狐塚古墳も描かれている由ですが、ネット上に見る図では細部を確認できません。
 だが、その紹介文からは、8世紀当時、額田寺を氏寺として信仰していた額田部氏が、同時に古墳を一族の「先祖」墓として祀っていたことを知ることが出来ます。

 大和国平群郡の額田郷は豪族・額田部氏の本拠地と推定され、額田寺は彼らの氏寺だったわけですから、一族の古墳・社寺を持つ相応の氏族と見られます。
                                注 河内の額田部氏も額田寺と額田神社を持っていました。(前報)

 船墓の築造が推定されている6世紀前半~中葉とは、継体朝とそれに続く三朝(履中・反正・允恭)頃だと云えるでしょう。
     ・船墓古墳(大和郡山市額田部北町937、融通寺本堂の裏手にあり)
        ・前方後円墳推定全長60m、築造期:6世紀前半~中頃
        ・「額田寺伽藍並条里図」に「額田部宿禰先祖」と記載され、瓢箪型に描かれている由。
         ・額安寺&推古神社古墳まで南南東560m


  額田部古墳群の考古学的知見としては、平群郡額田郷域では松山古墳が最古で、5世紀初めの築造が推定されています。
       ・松山古墳(大和郡山市額田部北町西シマ)大型円墳径52m(2段築成の墳丘)、幅約3mの周濠状の遺構
                                    ・築造時期は古墳時代中期初め(5世紀初め)、額田部地区で最古の古墳


  その100年後に、額田部狐塚古墳(前方後円墳50m)や船墓古墳(前方後円墳60m)が、額田部北町に築造され、額田部古墳郡の代表と云えるようです。

 額田部狐塚古墳は6世紀前半の築造が推定され、半円方形帯二神三神獣鏡、尾張系埴輪、蓋形埴輪が出土し、尾張系埴輪が注目です。
    ・額田部狐塚古墳(大和郡山市額田部北町小山1147、額田部丘陵の西側端部にあり)
                                                ・前方後円墳全長約50m、後期・6世紀前半頃の築造


<2> 「桑名首の墓」説と「額田連の祖・意富伊我都命の墓」説

 大和郡山市の額田部古墳群が5世紀初めを最古とし、6世紀代のものを主とするのに対して、
北伊勢の額田部氏ゆかりの古墳群は、4世紀末から5世紀初頭の築造が推定されているものを含みます。

<2-1> 高塚山古墳(桑名市)・「桑名首の墓」説

「桑名首の墓」説のある、古墳前期の高塚山古墳(桑名市)がその代表です。
     ・高塚山古墳(桑名市北別所字高塚山):前方後円墳(全長50m)築造時期:4世紀末から5世紀初頭、

        遺物:円筒埴輪、盾形埴輪、朝顔形埴輪、土師器、三角縁神獣鏡3面(伝桑名市桑名町出土、熱海のMOA美術館所蔵)
         ・桑名神社(桑名市桑名本町)=桑名宗社(春日神社と共に鎮座)
        祭神:天津彦根命・天久々斯比乃命・・(桑名首の祖神)
        社伝:当初、旧桑部村にあり、景行天皇40年から45年にかけて宮町、宝殿町と遷座し、現在の本町に鎮まったと云う。

            神名帳考証再考には旧地は桑部村糠田(桑名市額田付近)だったと記されている。

<2-2>  志氐神社古墳(四日市市)・「額田連の祖・意富伊我都命の墓」説

  「志氐神社古墳」は四日市市内に残る唯一の前方後円墳で、4世紀に築造されたとされます。 古墳は、海蔵川と米洗川に挟まれ、西から東に曲折しながら延びる低い丘陵部にあります。

 「伊勢名勝志」(宮内黙蔵著、明22年刊)は、この古墳は「額田連の祖・意富伊我都命の墓」だと里人が云う、と記しています。
   ・志氐神社古墳(四日市市大宮町) 伊賀留我神社二社(祭神は共に意富伊我都)の南方1.8~2kmにあり。
                 出土:内行花文鏡、車輪石、勾玉、管玉、小玉
   ・志氐神社(四日市市大宮町)延喜式内社
           祭神:気吹戸主神・伊邪那岐命・伊邪那美命
       由緒:垂仁朝に鎮座、古くは高野御前と称し、倭姫命が天照大神を奉斎して神宮御鎮座の地を求めて巡幸の際、桑名野代

                       の宮から鈴鹿忍山宮への途次に当る。皇大神宮の御鎮座である垂仁26年より前の鎮座と見られています。
           ・大海人皇子が吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮への途次、迹太川の岸で伊勢皇大神宮を遥拝の際、「シデ」(御幣)を

                       垂らして禊祓いをされたので、この地に「志氐」の名が起こり、社名となる。
           ・明治維新までは羽津村、吉沢村、別名村、八幡村、鵤村の総社。
      合祀(明治40年)白須賀の神明社と住吉社、八幡の八幡神社、別名の長谷神社と荒神社、各字の山之神、その他の祭神が

                       合祀された。

<3> 古墳築造順序は北伊勢額田部が大和・額田部氏より先

 北伊勢・額田部と大和・額田部の古墳築造時期を比較すると、北伊勢額田部の古墳は4世紀代、大和額田部古墳は5世紀~6世紀の築造が推定されています。

  現地視察旅行記*を読むと、「伊勢桑名・額田部氏は大和平群の額田郷から移住の一族だ」との通説があるように思われます。                
* 第7回北伊勢線の魅力を探る~古代から現代を歩く~2006年9月18日
 

 だが、この古墳築造期のズレから考えると、それとは逆に、桑名・額田部氏が大和平群の額田郷を形成したとの見方があるべきではないでしょうか。

   その理由は、上記の様に、北伊勢・額田部古墳の築造が大和・額田部古墳より早いことが挙げられます。ここから、「大和・額田部氏は北伊勢・額田部氏からの分れ」だとの示唆を得ます。
  この示唆・見解を支援する傍証が「意富伊我都命」の血を引く後裔の記述にある、と見ます。


(2) 「意富伊我都命」を共通の祖とする大和と北伊勢の額田部氏
 

<1> 大和と北伊勢の額田部氏が「意富伊我都命」を祖として共有している
 その傍証とは、大和と北伊勢の額田部氏が「意富伊我都命」を祖として共有している事です。

  先ず、「新撰姓氏録」で、大和・額田部河田連が天津彦根命三世孫・意富伊我都命の後裔だとされているのです。               
  ・新撰姓氏録:562大和神別天孫 額田部河田連 天津彦根命三世孫意富伊我都命之後也

 また、前報で指摘しているように、北伊勢での天津彦根命祭祀の第三特徴として「意富伊我都命の祭祀」を多く見る事を挙げました。
      前報:北伊勢での天津彦根命一族祭祀の祭神は、多くの場合(伊賀留我神社・深江神社・額田神社)、

                                                 天津彦根命の孫・意富伊我都命だとされています。
 

<2> 推測:「意富伊我都命」を祖神と仰ぐ北伊勢の額田部氏の一部が大和平群に移動した

  当ブログは次の様に推測します。
  何らかの事由により、「意富伊我都命」を祖神と仰ぐ北伊勢の額田部氏の一部が、山城国を経て、亦は、経ずに、大和添下郡(後の平群郡)の地に移動した、と見るのです。

 

 山城国を経たかどうかは厳密には云えませんが、山城国南部の綴喜郡等(現・田辺市とその近傍)には数社の天津彦根命を祀る神社(下記)を見るので、北伊勢の額田部氏の移動経路となったかも知れない、と推測するのです。
     ・許波多神社三座(京都府宇治市木幡東中1)式内社名神大社 月次/新甞 山城国 紀伊郡鎮座
         祭神:正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 天照大御神 天津日子根命
           由緒:大化年中(645~49)、孝徳天皇が中臣鎌足に詔し、神殿を大和田柳山(今、五ケ庄三番割東山柳山)に建つ(社伝)
           ・市内には許波多神社は木幡・五ヶ庄の2地区にあり、社伝が異なる。
            合祀:明治41年(1908)、田中神社(旧河原村)を合祀(祭神:天照大御神、天津日子根命)
     ・内 神社(現・薪神社;京都府京田辺市薪里ノ内1)二座 山城国 綴喜郡鎮座
           祭神:天津彦根命
           由緒:創建等の由緒不明。同地区にあった八幡宮を天神社に併合して薪神社となる
     ・天 神社(京田辺市三山木野神)
     ・天 神社(京都府京田辺市松井向山1) 山城国 綴喜郡鎮座
           祭神:天照大神 伊弉諾尊 伊弊諾命・天照大神・・ 『山城綴喜郡誌』
                天津彦根命(山代直祖) ・・ 『神名帳考証』  延喜式に祭神一座とあり、山代直一族がその祖神を祀ったか


 更に後の5世紀末~6世紀初頭に、平群氏の主流衰亡に際して、大和平群の額田部氏の一部は平群氏を案内して北伊勢に移し、新たな北伊勢・平群氏が「平群神社」を奉斎して「祖神・木菟宿根」を祀るのを助けた可能性があるのです。                              (参照) 東国の神裔考1 天津彦根命の裔5 額田氏繁栄の跡2 2021年05月05日

  桑名市志知の平群神社は9世紀の鎮座が伝えられているのです。
       ・志知・平群神社(三重県桑名市志知 3693)延喜式内社 伊勢国 員弁郡鎮座
            祭神:木菟宿根 天照大御神、
            配祀:建内宿根命 大己貴命 須佐之男命 大山津見命 倭建命
            由緒:仁明天皇(在位:833ー850)~清和天皇(在位:858 - 876)の間に創立、本社は大字志知の氏神(祭神は平群氏族   

             の祖神・木菟宿禰)であり、合祀神は木菟宿禰の父式内宿禰・大巳貴命・天照大神・素盞嗚命・大山津見命・倭

             建命である。                            (全国神社祭祀祭礼総合調査神社本庁 平成7年)

(3) 北伊勢・桑名郡域の白鴎期寺院跡
  額田氏の寺院建立については、今は、北伊勢と河内・大和の額田三寺を中心に見ます。

<1> 北伊勢の白鴎寺院建立の時代背景

<1-1>  仏教興隆の詔
  仏教公伝が6世紀前半(538年)で、推古朝594年に「仏教興隆の詔」が出され、仏法僧の三宝を興隆させようとし、法興寺がその拠点となったようです。
    ・推古天皇2年春2月1日、皇太子と大臣(蘇我馬子)に詔して、仏教の興隆を図られた。
                    この時、多くの臣・連たちは、君や親の恩に報いるため、競って仏舍を造った。これを寺という。
    ・推古天皇3年夏5月10日、高麗僧・慧慈が帰化、皇太子はそれを師とされた。 この年、百済僧・慧聡も来た。
                     二僧は仏教を広め、三宝の棟梁となった。
    ・推古天皇4年冬11月、「法興寺を造り竟りぬ」(法興寺落成)、馬子大臣の長子・善徳臣を寺司に任じ、この日から、 慧慈と慧聡

                    の二僧が法興寺に住した。

  推古天皇2年紀春2月1日条に  「この時、多くの臣・連たちは、君や親の恩に報いるため、競って仏舍を造った。これを寺という。」とあります。


 これにより氏寺の建立が盛んになり、当時の中央・奈良京は6世紀末から、やや大袈裟に云えば、寺院建築ラッシュが始まったのです。各氏族は祖神崇拝のための氏神に加えて、氏寺を持つようになったのです。

   図表14       奈良京における飛鳥寺院の建立時期(日本書紀)
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    四天王寺    :593年(推古天皇元年)に建て始められた。
     飛鳥寺(法興寺):588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4年)に完成。
                      593年(推古元年)塔の心礎に仏舎利を安置したという。
         法隆寺(斑鳩寺):607年(推古天皇15年)、用明天皇の発願遺志を継いだ聖徳太子と推古天皇が創建した。
         広隆寺(秦公寺):603年(推古天皇11年、又は、622年(推古天皇30年)の創建、秦氏の氏寺。
         額安寺(額田寺):伝・621年(推古天皇29年)、開基:聖徳太子
         百済大寺     :639年(舒明天皇11年)、舒明天皇が建立、その没後、妻の皇極天皇、子の天智天皇が継承された、最初の
                                    天皇家発願の仏教寺院である。高市大寺、大官大寺と改称・移転を繰返し、平城京に

                                                             移転して大安寺となった。
         善光寺(定額山):642年(皇極天皇元年)、三国渡来の一光三尊阿弥陀如来を現在の地に遷座、
                      644年(皇極天皇3年)皇極天皇勅願の本堂を創建。勅命により、聖徳太子妃(蘇我馬子の娘)・刀自古郎女
                                        が出家、尊光上人として、善光寺の開山上人に。

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   薄葬令(646ー大化2年)は色々と斬新な改革を打ち出した大化の改新の一環です。
  それは歴史の大きな流れを変えるものでしたから、舵は切られたものの、巨大な船の如く、直ぐに大転換すると云うよりは、その後の簡易葬儀礼への転換は徐々に進展したとも思われます。

 だが、それは「死に葬儀・祈りの形式」を変えさせ、死後の世界に対する仏教的理解を推進し、古墳埋葬から氏寺建設の方向へ舵を切らせたと云えるかも知れません。

<1-2> 飛鳥自院建立の波
 やがて、飛鳥時代の寺院建立は6~7世紀中葉、続いて、聖武天皇の国分寺・国文尼寺の建立の詔が741年に出て、最盛期を迎えます。

 それは財政負担を強いたと見ることも出来ますが、別な見方としては、寺院建立の財力を持つ豪族(地方行政官としての大領・少領レベルの人々と見ます)は既に存在していた、とも云えます。

<1-3> 「出雲風土記」の新造の院
 「出雲風土記」にも寺院建立の記事があり、「新造の院」と云う語で各郡毎の設立状況を記しています。

   図表15     「出雲風土記」(編纂713~733年)の記す寺院と建立寄与者
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   郡(寺院数)   郷(建立者名)
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   意宇(3)      山代郷(日置君目烈)、 山代郷(飯石少領・出雲臣弟山)、 山国郷(日置部根緒)
   大原(3)      斐伊郷(大領・勝臣虫麻呂)、 屋裏郷(前少領・額田部臣押島)、 斐伊郷(樋伊支知麻呂)
   神門(2)     朝山郷(神門臣ら)、 古志郷(刑部臣ら)
   楯縫(1)      沼田郷(大領・出雲臣大田)
   出雲(1)      河内郷(旧大領・置部臣布禰)
   島根(0)、秋鹿(0)、飯石(0)、仁多(0)

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 この図表についての気付き三項目を箇条書きします。
    1 寺院建立の時期は7世紀末~8世紀初頭と推定します
  2 出雲東部には、意宇郡・大原郡の二郡を中心に6寺院、出雲西部には、神門郡・出雲郡・楯縫郡には

   4寺院、合計10院が建立されているが、その規模は判らない。
  3 各郡の上級官人(大領・少領など)が寺院を建立している

 時流を追いかける豪族は、その経済基盤を活用して、早ければ7世紀初頭、遅くとも7世紀中葉には氏寺創建を果たしていたと見る事も出来るでしょう。

<2>  大和と北伊勢の額田二廃寺
 「多度大社」の真南に「額田廃寺」があり、その直ぐ傍に、式内社・額田神社が鎮座しています。将にこの地は額田部氏の本拠地なのです。

 「伊勢桑名・額田寺」は、発掘結果から、6世紀後半から7世紀頃だと伝わり、その壮大な寺院配置図(図表15の右図)に当時の人々は圧倒されたことでしょう。今は、廃寺のこの桑名・額田寺は、大化改新以前に、相当規模の寺院として既に建立され、往時の桑名・額田氏の隆盛を思わせます。 

 これに対して、大和平群の額安寺(額田寺)の建立は621年と伝わります。7世紀前半です。
 推古天皇のご幼少時からの近侍役故に、また、逸早く馬事役・馬牧の経営に携わったことによる経済基盤の確かな額田部・額田一族であったからこそ、早期の寺院建立が可能だったのだろう、と一応は理解します。

  この大和平群の「額田寺」の創建時期は7世紀前半と推定され、北伊勢桑名の額田寺は、その建立が6世紀後半から7世紀頃だとしますと、桑名の方が大和より先の建立なのです。

 それ故に、改めて、桑名での天津彦根命裔・額田一族の繁栄を確認するのです。
 だが、馬事役中心とした平群・額田部氏に比較した時、伊勢・額田部氏の経済基盤の強大さは、広大な農地をカバーする領地以外に、推測することが出来ません。

 

<3> 桑名・有明郡域のその余の白鴎期寺院跡

  勿論、今、このブログが念頭に置いているのは、3~4世紀の天津彦根命裔の動きです。
  その頃は、神社拝殿はなく、磐座祭祀・神名備信仰の段階だったでしょう。

 しかし、信仰の聖地は後継され、やがて、崇神・垂仁時代の神祇信仰の第二波が大きなうねりとなり、桑名・多度大社の原形が出来上がったのだろうと推測するのです。

 多度大社の社伝は雄略天皇の御代の創建と伝えますので、これを採るならば、5世紀後半の創建を推定しなければなりませんが、果たして、その頃に社殿建築があり得たでしょうか。

 桑名・有明の白鴎寺院が、時代の流れに遅れずに中央に追従して、これ程、相接近して建立されたのには、それなりの理由があってのことでしょう。

 当時の仏教は、その新規性と寺院建築の偉容の故に、この地域の豪族が吸収に熱心だったこと、寺院建立に要する財力を保持していたことが推定されます。
  額田部氏と云う天津彦根命裔一族こそ、この地方の豪族を代表していた筈です。

  北伊勢の白鴎寺院跡が示す7~8世紀の栄華の跡はそれに先立つ時代の蓄積の証拠だとは云えますが、その約5百年前の弥生期を反映しているとは云えません。
  それでも尚、この桑名拠点の繁栄の跡をしっかりと確認して置きたいと思います。

<3-1> 北伊勢の白鴎寺院と式内神社の距離関係の意味

  図表17では、桑名・白鴎飛鳥寺院の創建時期を頭に置きつつ、寺院間、及び、寺社間の距離が接近して所在している点に着目します。
 
 最も典型的なのは次の三ケースです。

        ・小山連  所縁: A 南小山廃寺と a2       式内・小山神社
          ・額田部氏所縁: B 額田廃寺と     b1&b2 式内・額田神社(額田・増田)の一寺二社
          ・桑名首  所縁: C 西方廃寺と    c1&c2 式内・桑名神社、式内・立坂神社

 

 

 

 多度大社が早くから神宮寺を抱え込み先進性を示したのと同様に、この北伊勢は仏教寺院の建立と神社信仰とを共持して見せます。
    引用:星宮の謎2 本地仏・虚空蔵菩薩は明星なり2020年11月23日
        ・多度大社:雄略朝の創建と伝わり、社殿背後の多度山を神名備山としていた。
        763年(天平宝字7年)、僧・満願が神宮寺(多度大菩薩像とそれを収める小堂)を建立創建。名神大社に列し、伊勢国二宮

                                               として崇敬され、神宮寺は伊勢国の准国分寺とされた。
           788年、法教が「多度神宮寺資財帳」(財産目録)を伊勢の国衙に提出し、経営安定を見せる。
             ・神宮寺の創建は、7世紀に始まり、8世紀に湧き上がった神仏宗教界の新風です。雑密系の経典を中心として発足した神

               宮寺は、やがて、空海の東密が呪術的要素を持ちながら、その深底に普遍性・抽象性を備えた教説をも保持する故か、多

               く建立されていきます。

  神社祭祀は、初めは磐座・神名備山・神籬信仰と祖神崇拝が続き、次に仏教建築に影響されたか、神祠・神殿建築を伴う神社祭祀の多様化に変貌を遂げて行き、更に、神仏習合が重なって行った、と定式化出来そうです。

 北伊勢の白鴎寺院と式内神社の距離関係の意味は祖神崇拝から引き続く仏法信仰を重ねて惹き容れる「心的姿勢」です。それは神仏習合に表徴的に顕れているのです。

<3-2>  大福田寺
 大福田寺のケースは、次の「縁起抜粋」でご覧のように、聖徳太子のご創建、累代天皇のご臨幸、聖武天皇の「神宮寺の勅」、或いは、「勅会」など300年に亘る皇室支援の下での隆盛の後、ピンチありですが、やがて、鎌倉初期、勅命により、神宮詞人大和守・額田部実澄公が領地を寄進して、大寺院に再建されます。

 ここに、後世の額田部氏の実力とその活躍の程度を知り、且つ、その数百年間に亘る北伊勢・額田部氏の重みを、人は想像・推測できるのです。
  大福田寺(三重県桑名市大字東方1426)  
    縁起抜粋:当山は神宝山・法皇院 大福田寺と称し、今より約千四百年前、用明天皇(在位585~587)の皇子・聖徳太子

         (574~622)が伊勢の山田に御創建されたお寺です。
        ・天武天皇(在位673~686)、持統天皇(在位686~697)、聖武天皇(在位724~749)、淳和天皇(在位823~833)各

          天皇の御臨幸あり、聖武天皇勅して大神宮寺と称され、淳和天皇時代に勅願寺に指定されました。
            ・天長年間(824~834)には、弘法大師がひと夏をお過ごしになり、三密の法を修行されました。
           ・延喜年間(901~923)、寛平法皇(宇多天皇)が境内にお住まいを移し過ごされました。
         明治時代のはじめまで御室御所と称され、菊のご紋の使用が許されておりました。
           ・永承七年(1052)正月には、後冷泉天皇(在位1045~1068)が御行幸になり、僧一千人による勅会(勅令で開かれる法

                    要)の読経が行われました。
          ・その後、後弘年間(1278~1288)中に天災・火災に遭い堂塔伽藍は荒廃し、寺運は衰えました。時の後宇多天皇(在位

                   1274~1287)は当山の荒廃をお嘆きになり、勅命により神宮詞人大和守額田部実澄公の領地、北勢四ヶ郡内(三重、朝

                    明、猪名郡、桑名)の時を寄進し、忍性上人(鎌倉・極楽寺を創建)と協力し桑名郡神戸郷(現・桑名市大福地内)に七堂

                   伽藍、塔頭三十七、末寺四百四十余ヶ寺を有する大寺院を再建するに至り、「福田寺」と名付けました。

   大福田寺の位置は図表17で確認できるように、額田部氏の勢力範囲の「ど真ん中」です。
  この桑名・四日市域での白鴎寺院の密集(?)はこの地域の文化中心地として高い地位を示しています。

(4) 総括:天津彦根命祭祀社と額田神社・額田寺・額田部氏

 

   長くなりそうなので、ここは省略形式で済ませます。

<1> 天津彦根命祭祀社と額田神社・額田寺

  ここでは、総括として、古代の国郡別に天津彦根命 & 裔孫神の祭祀社、別に、額田神社・額田寺を一覧表にしまします。ご覧下さい。



 

<2> 歴史に顕れた額田部氏

  まとめの時は過ぎ、今は、集めた情報の中から「歴史に顕れた額田部氏 (完全網羅ではない)」のリストをご覧の上、その行間をお楽しみ下さい。

  図表19              歴史に顕れた額田部氏 (完全な網羅には至らず)
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A 「新撰姓氏録」に見る天津彦根命裔 
B 中央(畿内)
・額田部比羅夫:外国使節の接待役                                                                (推古天皇16年&18年)
       ・608年:唐客(裴世清ら)の入京のに、飾騎七十五匹を遣して、唐客を海石榴市の術に迎ふ。
            額田部連比羅夫、以て礼の辞を告す。
        ・610年:新羅・任那の使者の都入に際して、額田部連比羅夫は新羅客を迎える荘馬長役となる。
・額田部連林:大宝令編纂に関与、位階「進大壱」大初位上
      ・684年:額田部連一族は、八色の姓制定の時、宿禰を賜姓                           (天武天皇13年)
      ・700年:大宝律令撰定の功で刑部親王以下19人が授禄                     (続日本紀:文武天皇4年)
・額田首人足:河内郡擬大領・額田八国の子、
           男子・額田首千足:明経第二博士
           男子・額田首島足: 
      ・703年:波多広足が遣新羅大使の時、人足も使節に任ず。                           (文武朝・大宝3年)
      ・712年:従五位下に叙爵、河内守。                                                          (元明朝・和銅5年)
・道慈禪師 :俗姓・額田氏(大和国添下郡の出身)、三論宗の僧、額田寺を建立、孝徳朝に法頭
      ・702年:第八次遣唐使船で渡唐(大宝2年)、
      ・715年:帰国、西明寺にて三論に通じて、仁王般若経を講ず。
      ・719年:有徳を賞され食封50戸を賜る。(養老3年)
      ・729年:律師(天平元年)
・額田国造今足:国造から宿禰に改姓
      ・822年:外従五位下、見明法博士                                                        (弘仁13年、日本後紀)
             ・829年、従五位下(天長6年)
C 地方
伊勢桑名・神宮詞人大和守・額田部実澄公                                                         (大福田寺由緒)
参河    ・額田部貞春、夏山郷を開く                                                            (夏山八幡宮社伝)
上野緑野・額田部君馬稲
出雲大原・大原郡前少領・額田部目押鳴                                                           (出雲国風土記・大原郡)
        ・大原郡少領・額田部臣伊宏美,新院の三重塔を造る。                        (出雲国風土記・大原郡) 
長門豊浦・豊浦郡少領・額田部直広麻呂(外正八位上)                       (続日本紀・天平12年、天平10年周防国正税帳)
         ・740年:藤原広嗣の乱に際して、額田部広麻呂は精兵40人を率いて、大野東人将軍側につ            

                            いて参戦す。                                                        (聖武天皇・天平12年、続日本紀)
         ・741年:藤原広嗣の乱鎮圧の功により外従五位下
        ・豊浦団毅・同郡大領・額田部直守                                                  (続日本紀・天平神護3年4月)
                 ・757年:長門国豊浦団毅外正七位上・額田部直塞守、 銭百万・稲一万束を献じて外従五位            

                               下を授かり、豊浦郡大領に任命された。
                         ・豊浦団:長門国豊浦郡に置かれた軍団、「毅」は定員500人以下の軍団長
肥後宇土・額田部君得万呂                                       (宇土郡,天平勝宝二年四月五目付仕丁送文)
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