目次  (2) 群馬の土師郷・土師神社・埴輪窯跡
                     <1> 上野国緑野郡土師郷
         <2> 本郷埴輪窯・土師神社・広野大神社
         <3> 猿田埴輪窯跡・
         <4> 駒形神社埴輪窯跡
                     <5> 金井口埴輪窯址ほか
                     <6>  釜ノ口遺跡
                     <7> 総括 

(2) 群馬の土師郷・土師神社・埴輪窯跡
  さて、愈々、本番です。前報で見てきた上野国(群馬県)の古墳分布の中に、土師氏の指導したとみられる埴輪窯の分布を確認します。

  「土師郷」の遺名は、関東地方では、上野国(群馬県)の緑野郡土師郷、下野国(栃木県)の足利郡土師郷の二郷に認められます。この二国は、流石に「古墳・埴輪王国」と云われるだけのことはあります。
  この他に、「土師部」や地名・土師、土師姓の残存を伝えるのは、常陸国(茨城県)・下総国(千葉県)・上総国(千葉県)・武蔵国(埼玉県)です。これらの地方については後報します。

<1>  上野国緑野郡土師郷
  藤岡市は古代の上野国緑野郡を代表しています。
 その緑野郡には土師郷だけではなく、尾張郷もありますので、古代に畿内・東海から当地への様々な文化の渡来を推測させます。

<尾張郷>
   この緑野郡尾張郷は應神朝に設けられたと推定します。
  次の様な経緯があるからです。
   ・應神天皇は三姉妹の皇后・皇妃を尾張氏系統から迎えると、十三人の皇子女が生まれます。
   ・時の尾綱根命(天火明命十三世孫)は、応神朝に「尾治連」を賜姓し、大臣大連となります。
   ・この尾綱根連に應神天皇は詔して云われました。
     「お前の一族から生まれた十三人の皇子達は、お前が愛情を持って養い仕えなさい」と。
     尾綱根連は、とても喜んで、自分の子の稚彦連と従姉妹の毛良姫の二人を壬生部の管理者に

           定めてお仕えさせることにし、直ちに皇子達のお世話をする人を三人奉った。

   そこで、十三人の皇子女の養育費を捻出する尾張部・伊福部と云う壬生部が各地に設けられ、その一郷が緑野郡尾張郷だと推定されるのです。
                          詳しくは参照: 尾張古論3  尾張部・・応神朝の尾張族の栄光の残影 2019年12月28日

  従って、4世紀末から5世紀初頭にかけての頃には、「緑野郡尾張郷」の活動は始まっていたと思われます。尾張郷は万葉仮名で「乎波利倍オワリベ(近隣の類例:信濃国水内郡尾張郷)とその読み方を示しています。
       、                                       
   尾張郷は、壬生部(皇室御料地)を主目的としていたが、石作部の職能を併せ持ったかも知れません。石上部もこれに関係するか、とも思いましたが、つながりを示すものは出て来ません。

 石作連・石上部との関連を疑う理由は、上野国の古墳の埋葬施設の石組みが中々優れていると報じられているからです。
・お冨士山古墳(伊勢崎市):長持形石棺は古墳の後円部に置かれる。砂岩製で、全長285cm、幅121cm、重さ6.8トン。

             長持形石棺は5世紀に畿内の大型前方後円墳に見られ、県内ではお富士山古墳と太田市の天

                                      神山古墳で確認されているだけだと云います。形態や制作技法が畿内の石棺と共通し、畿内

                                      の工人が東国へ派遣されて製作したと考えられている。
                                   ・両袖式載石切組積石室の技法は多くの古墳で見出されています。
                         例: 中塚古墳(桐生市)、堀越古墳(大胡地区)、正円寺古墳(前橋市田口町千手堂)
・観音山古墳(高崎市):全長97m、横穴式石室全長約12mと大型であり、6世紀後半の技術の粋を集め た構造物と見ら

                                      れている。天井石には最大22トンの巨大な牛伏砂岩を使用して、この高度な石室構築・巨石

                                      運搬技術は、最先端の技術を持つ畿内地域からもたらされたと考えられます。

・終末期の横穴式墓の石組例:総社古墳群の終末期の三方墳<愛宕山(7世紀前半、56m)、宝塔山(7世紀中葉、54m)、

                                     蛇穴山(7世紀後半、40m)>の横穴式石室は、一見して、その見事な石工技術に魅了される

                                     でしょう。


 一方、4世紀中葉と思われる頃、石作連は日葉酢媛(垂仁天皇皇后)の石棺を制作して、大いに褒められて、「石作大連」を賜姓した実績があるからです。
 注 1 丹波古史5 尾張氏の源流・本流・分流を探る3 「丹波国造・海部直」の地位を得た人々 2019年11月30日         2 丹波古史6 尾張氏の源流・本流・分流を探る4 尾張氏への接続               2019年12月11日 

   通常、石作連の活躍する地域には石作神社や石作郷があるものです。残念ながら、上野国には見出しません。 それが、石作連の関連を疑いながらも、確定できない理由です。

<土師神社>
 その尾張郷に近い「緑野郡土師郷」は現・群馬県藤岡市本郷付近だとされ、それ故か、そこには野見宿禰を祀る「土師ドシ神社」が鎮座し、上野神名帳は「土師明神」と記載しています。
 この土師神社は「本郷埴輪窯址」の所有者だと「本郷埴輪窯址の案内板」(出所・玄松子の神社記憶・土師神社)にあるそうです。

       ・土師神社(群馬県藤岡市本郷164、上野国神名帳、正五位上、土師大明神) 祭神:野見宿禰

<広野大神社>
   広野大神社(祭神:天穂日命)は、古代は上野國緑野郡波爾(土師)郷に属していました。だが、江戸時代に神流川の流れが変わり、近世は武蔵国に属するようになります。

  それでも、今なお、宮司家は土師氏を名乗る由です。
     ・広野大神社(埼玉県児玉郡神川町肥土380)上野国神名帳 緑野郡「従三位廣野明神」
            祭神: 天穂日命・倉稲魂命・誉田別命 
                  由緒: 本社社地は上野国に属していた時は、上野國粶野郡村波爾(土師)郷の内でしたが、武蔵・上野の

                                国境の神流川の流れが変り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属し、賀美郡肥土村に改称した。

                                創建には諸説あり。天平宝字三年(759)上野国司による創立とも正暦五年(994)創立とも云う。
                             ・当社の社號は「上野国神名帳」にあるように「廣野明神」と記され、神流川の自然堤防上の当地 

                           と、周囲に広がる氾濫原の風景から付けられた社号である。
                しかし、当社は化政期(1804-30)には「風土記稿」に見られる「八幡天神駒形明神合社」と号

                                し、更に「郡村誌」には「神流川神社」と記載されている。
               ・社殿の背後に「奥宮」と呼ばれる神流川神社(祭神:天穂日命)を祀ることを考え合わせると、三

                                間社の本殿は八幡天神駒形明神合社として造営し、廣野明神を奥宮とした経緯が考えられる。

                                それが、明治三十九年の郷社昇格に際し、神名帳に載る社号に戻したものと思われる。

                                                                                                  「境内案内板」より

 このように、緑野郡土師郷には土師神社も広野大神社も祀られていますので、ここがこの地域の土師氏の拠点だったと推測できます。

   何時の時代に土師氏がこの地に移住したかは明確ではありません。
 尾張郷の成立が應神朝(4世紀後半から5世紀初頭と推定)だとすると、土師郷の成立もその頃かと憶測することはできますが、確定的ではありません。

  5世紀初頭から中葉にかけての、應神・仁徳両天皇の時代は、河内に壮大な古墳群が築かれ、土師氏はその築造事業の運営者だったのです。緑野郡尾張郷の設置はそれに先立っているのではないでしょうか。          参照:土師氏小史2ー土師氏の行方:大和菅原から河内・志紀土師へー2020年05月25日

<土師氏の渡来移住論>
 河内の百舌鳥土師郷(土師遺跡:堺市中区土師町~深井北町)は、5世紀中葉、突如その地に出現し、6世紀前半には消滅した、と「堺市遺跡紹介」は伝えます。

 その消滅時期が百舌鳥古墳群の築造が終わる時期とほぼ一致し、農耕集落とは異なった生産集落の特徴があるので、この土師遺跡は百舌鳥古墳群の築造に関わった人々の集落だと考えられています。

                                                                                                                            (堺市遺跡紹介より)

 百舌鳥土師の「突然の消滅」と「緑野土師の活動開始」とを結びつけて考えるならば、次の様な仮説を提出出来るかも知れません。
 即ち、百舌鳥土師の一部が上野国の緑野土師へと移動した、と。

 だが、この緑野土師の本郷窯の操業開始時期は5世紀後半と見られており、6世紀前半の百舌鳥土師の消滅よりも約50年早く始まっていますから、ややズレがあります。
 それを覚悟での、強引な「河内百舌鳥土師の緑野土師への移転」仮説ですので、やや無理があるか。

 この「河内土師郷の6世紀前半の突然の消滅」話は、河内百舌鳥土師の移転先として、この「上野国の緑野土師への移転」仮説でも、次の「下野国の飯塚埴輪窯&足利土師郷への移転」仮説(次報)でも、ついて回る謎(時間ズレの説明不可能性)です。
 厳密な時間論議をすると、これは解けませんが、大凡論では思い当たるのです。

  いや、根拠を明確に出来ない強硬な主張はいずれ破綻します。

 「百舌鳥土師の一部が上野国の緑野土師へと移動した」とする仮説は破綻するかも知れません。

 考古学的な「百舌鳥土師の突然の消滅」と「東国(上野土師・下野土師・常陸土師・埼玉土師など)の土師の活動開始」を結びつけるよりも、別な土師移動があった、と考えるのが妥当でしょう。

  それは垂仁朝の「野見宿禰の埴輪による殉死代替提案」説のあやふさ(根拠不明・論理矛盾)にそもそもの根源がある事を認めなければ成りません。

 いずれ、考古学者が埴輪制作技術の解明により、4~5世紀の埴輪と6世紀中葉以降の埴輪とで違う面があって、古墳にも墳形の相違があるように、埴輪にも列島東西の時期別の相違があると、明かしてくれる時が来るでしょう。その時には、「土師氏移転先の正解」を出してくれるでしょう。

<2> 本郷埴輪窯
  「本郷埴輪窯跡」は土師神社の北100mに発見され、そこに流れる神流川対岸には天穂日命を祀る広野大神社が鎮座し、土師神社と共に、祖神崇拝の氏神であり、且つ、本郷埴輪窯の守り神だったのでしょう。

 本郷埴輪窯は、5世紀後半から6世紀末(上記の時代区分ではⅣ~Ⅶ)までの操業が確認されている「登り窯」です。これは重要な知見です。
   ・本郷埴輪窯址(藤岡市本郷塚原、神流川西岸流域)
    本郷小林古墳群は、6世紀頃と築造が推定され、神流川河岸段丘にあり、その本郷小林古墳群の南端に埴輪窯跡 

             (埴輪・窖窯 全長10m)が見出されています。

  不思議なことに、この近傍に大形古墳は見出しません。ここは製造拠点であり、神流川利用による舟運による域内古墳築造地点へ積み出していたのかも知れません。

  情報を探り続けると、次の様な情報に接しました。内容が良く、考察に賛同する点が多く、文章は一部改変、編集しましたが、敬意を表しつつ、引用します。

  図表1          本郷埴輪窯についての基本情報
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◇ 本郷埴輪窯址(藤岡市本郷304ー1) 所有者は土師神社であるとされる点が注目です。 
    ・明治39年、東京帝国大学教授柴 田常恵氏により発見された。
    ・昭和18年3月、19年3月、群馬大学教授尾崎 喜左雄氏により発掘調査された。 
    ・埴輪窯は長さ5.5m、幅1.8mの登窯。 中から人物、馬、家、太刀、矛、盾などの埴輪が出土している。
◇ 本郷埴輪窯の20数基の窯で大量生産された埴輪は、円筒埴輪だけでなく、人物、馬、家、武具等、各種の形象埴輪も 

    あったと云いますから、ここは一大本拠地で、生産された埴輪は、藤岡市中心部の小林古墳群を中心に広範囲に供給

    しています。
     ・群馬県南西部の古墳の埴輪はここで焼かれたものが多い。
       ・尾崎喜左雄博士によると、埴輪の提供範囲は半径10Km圏内だったとします。
       ・中二子古墳(前橋市大室)の埴輪の内、30%は藤岡市本郷で生産されたとする報告あり。

       ・保渡田古墳群(5世紀代築造)の井手二子山古墳や八幡塚古墳の膨大な埴輪も本郷・猿田埴輪窯で生産された

    可能性あり。

     ・本郷埴輪窯から中二子古墳や保渡田古墳群までは直線距離でも20Km以上あり。(後注) 
◇ 藤岡市街地のある藤岡台地一帯には良質な粘土層あり.この粘土は藤岡市の特産品の瓦生産に現在も利用されている。

      ・藤岡市の埴輪には、海綿骨針化石と埴輪製作時に割れるのを防ぐために混入する結晶片岩 砂粒が含まれている。

    この特徴は藤岡地域で生産される埴輪に限られそうです。
◇ 窯一基の焼成部は長さ4m、幅1.2mに過ぎず、現在の陶芸用の長いものではなく、一度に大量焼成することは出来な

    かったか。窯の 大きさによる不利は数で補っていたと思われます。例えば、前方後円墳を囲む円筒埴輪は千~六千本

    にも達しますから、大型古墳では発注から納品までには相当時間を要したと推定されます。
        ・中二子古墳や保渡田八幡塚古墳の場合も複数生産地に発注していたのでしょう。

    ・おそらく地域首長は生前から準備を始めていなければ埋葬には間に合わなかったと思われる。
◇ 群馬県の埴輪生産地は藤岡市と太田市の2地域は確定しているが、実際にはもっと埴輪窯 はあったと思います。

  古墳時代でも埴輪の設置が盛んな時代と少ない時代があるが、最盛期 にはとても2箇所では生産が追いつかなかった

    と思えるからです。
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      (出所) 土師神社(玄松子)、「本郷埴輪窯と土師神社、諏訪神社古墳(藤岡市)」(東国の古代史)

 舟運ならば、本郷埴輪窯から神流川を下り、玉村で烏川に出てから、烏川を遡上し、岩鼻で井野川に入り遡上すると、多くの古墳の側を通り、保渡田古墳群に到達します。
 グーグル地図上で計測すると、本郷から保渡田まで、次の通り約30kmの舟行です。
   ◇<本郷埴輪窯>→神流川を下る8km→玉村合流点(烏川が利根川に流入)→3.8km烏川を遡上→<下郷天神塚古墳跡>

            →2.7km井野川を遡上→<綿貫観音塚古墳>→1.8km井野川を遡上→<元島名将軍塚古墳>

            →9.8km井野川を遡上→<保渡田古墳群>
       ・・・大雑把な個別計測の合計26kmですが、全体では約30kmと見ます。

 
 後に武蔵国(埼玉県)の東日本一とも全国一とも云われる「生出塚埴輪窯遺跡」を取り上げますが、この生出塚埴輪窯は、舟運により、東国の広範囲に埴輪を移出しています。
 本郷埴輪窯はこの「生出塚埴輪窯」と似た役割を演じて「上野国の埴輪供給基地」だったのでしょう。
 

  いずれ埼玉の窯址も総覧しますが、ここで留意すべきは「宥勝寺裏埴輪窯跡(本庄市早稲田の杜1丁目12-1)」の存在です。この窯址は本郷窯址から9km、広野大神社からは7kmしかありません。

 行政区画の壁がある(あった)のかどうかは判りません。国境を超えるが、意外に近い処に土師氏の関係する埴輪窯は配置しているのです。この解釈は埼玉編までお預けです。
 

<3> 猿田埴輪窯跡(藤岡市白石猿田地区)
 藤岡市域では、「本郷埴輪窯址」(神流川流域)の他に、「猿田埴輪窯跡」(鮎川流域)の存在も指摘されています。だが、その窯の形式は未確認のようです。

  猿田埴輪窯跡から鮎川を下るとすぐに白石古墳群に至るので、猿田窯の埴輪は白石古墳群に供給されたと推定します。そして、余力があれば、本郷埴輪窯でやっていたように舟運で各地古墳造成の際に届けられたことでしょう。

 鮎川は鏑川に流入後、烏川を遡上すれば倉賀野古墳群へ、井野川を遡上すれば、綿貫観音古墳、元島名町将軍塚古墳、保渡田古墳群へと到達出来ます。
    ・猿田埴輪窯遺跡はJR八高線群馬藤岡駅の西方約3.8kmの平井地区と美土里地区の境にあたり,遺跡の西側を

             県道金井・倉賀野線停車場線が南北に走行しています。遺跡は鮎川に形成された河岸段丘の下位段丘面に占地

             し,東側は鮎川との比高が約10mあり急峻な崖だ、と云います。
                      参照  「第2部 猿田Ⅱ遺跡の調査」国立歴史民俗博物館研究報告第120集2004年3月

 

<4> 駒形神社埴輪窯跡
  太田市では駒形神社境内に埴輪窯跡が見つかっています。この八王子丘陵一帯は埴輪窯跡が多数存在するようです。

 昭和40年に駒形神社社殿の敷地を造った際、見つかった窯跡2基のうち1基を調べたところ、窯は斜面を細長く縦に掘り窪めて造った「窖窯」だったそうです。この他の埴輪窯についても「窖窯」を伴う登り窯様式を推定されています。
   ・駒形神社埴輪窯跡 (太田市北金井町字川西) 駒形神社境内域 古墳時代 6世紀後半
       太田市の北部から北西に伸びる八王子山丘陵南麓の一支丘先端部にある駒形神社を中心に、丘陵の南

                ~南東斜面に造られた。
           ・埴輪の集積場が発見されており、南北4m×東西8mの狭い範囲に約150個の円筒埴輪と形象埴輪が種類

       毎に区域を分けて立て並べたものが将棋倒し状に倒れた状態で見つかった。
     ・製作された埴輪は、円筒埴輪のほか、家・楯・靫(ゆぎ)・馬・人物などの形象埴輪があり、集積場で見つ

                  かった埴輪は写実性が乏しいの。
     ・出土埴輪の特徴から、6世紀末頃の制作と推定されているそうです。


<5> 金井口埴輪窯址ほか
   太田市立新田荘歴史資料館によれば「金山丘陵や八王子丘陵の山麓では、須恵器や埴輪窯跡が多数存在し、この地域が大窯業地帯であったことが知られています」とあります。
      ・金井口埴輪窯址(太田市東金井町字金井口)

  太田市新田莊歴史資料館の須永光一氏は、問合わせに対して、ご丁寧にも様々な資料を送って下さいましたので、それを基に、この金井丘陵・八王子丘陵の埴輪窯址遺跡を次にまとめます。

 

  そこで、前報・図表3(総括)「上野国(群馬県)の主要古墳の位置と築造時期」を改訂して、 次の図表2(総括)「上野国(群馬県)の埴輪窯址」を作成しました。

 

   埴輪窯址として、駒形神社埴輪窯跡(八王子丘陵・北金井)に加えて、「 金井口(入宿)埴輪窯」(金山丘陵・東金井)を「太田市史」(平成八1996年刊)が明確に指摘しています。
 パンフレット「太田市の古墳」(ネットにもあり)では「金井口埴輪窯」と示しています。
 だが、「太田市史」では同じ「金井口埴輪窯」を「金井口埴輪窯」(746頁)とする記述と「入宿埴輪窯」(309頁)とする記述があり、要注意です。

 また、やや弱い表現ながら、「山名埴輪窯址(仮称*)(高崎市山名町、観音山丘陵東縁)の存在を推定し、「成塚埴輪窯址(仮称*)(太田市成塚町、駒形神社埴輪窯址から1km南)にも三基の窖窯址を発見されているようです。     *仮称とするのは、明確に命名されておらず、当ブログで勝手に命名したものです。

  この「金井口埴輪窯・山名埴輪窯址・成塚埴輪窯址」の三窯址を加えて、「 図表3(総括) 上野国(群馬県)の埴輪窯址」を作成し、「須恵器焼成窯址」を参考情報として併記してあります。

  「窖窯」は「穴窯」と呼ばれ、焼成技術の発展過程では、「野焼き」に次ぐ第二段階のもので、第三段階の「登り窯」よりも量産性・薪使用効率・排煙性・操作性等の点で劣るようです。
        ・陶磁器お役立ち情報https://touroji.com/elementary_knowledge/anagama.html

 6世紀後半の古墳時代後期のものと推定されるこの窯遺跡は、その頃、この地方の「焼成技術には様々なタイプ」があったことを示唆します。

  この駒形神社埴輪窯は、太田市の別所古墳や天神山古墳と云う最盛期の大型古墳にも、足利古墳群にも、近いので、果たしてこの窯がそれらの古墳の埴輪群の供給に充分に対応できたかどうか、は判りません。

   なお、埴輪窯跡ではないが、須恵器窯跡は「金山丘陵窯跡群」(菅ノ沢須恵器窯跡群、辻小屋窯跡群、八幡窯跡群、入宿窯跡群など)として東国最大の窯跡として認められているようです。

 その活躍時期は「太田市史」によれば69世紀です。

  金山丘陵窯跡群は、群馬県内全域の古墳に須恵器を供給したと見られる窯跡で、中央の陶邑窯の影響を受けつつも「北関東型須恵器」と呼ばれる特色ある須恵器の生産が行われた、と云います。

                 (出所) 企画展「東日本の須恵器ー駒澤大学の考古学ー」(2019.5.13~8.4)

    参考表        太田市の須恵器窯址(図表3の八王子・金井丘陵埴輪・須恵器窯ベルト参照)
───────────────────────────────────────────  
  1 東金井窯跡群      (太田市東金井町亀山):6~9世紀の須恵器窯跡群(748~頁) 
        A 狸ヶ入須恵器窯跡   (金井口)                ー
        B 辻小屋須恵器窯跡  (金井口)               6世紀前半
        C 入宿須恵器窯跡   (金井口)                ー
        D 亀山須恵器窯跡   (亀山)                   6世紀中葉~後半
        E 内並木須恵器窯跡  (内並木)                ー
        F 焼山須恵器窯跡   (焼山・金井口)        9世紀
  2 東今泉窯跡群            (太田市東大泉矢田堀、太田金山丘陵の枝丘陵)
  3 菅の沢須恵器窯跡群      (太田市太田今泉口、 金山窯跡群の中核)
  4 吉沢窯跡群              (太田市吉沢・丸山、  茶臼山丘陵の南東部からの派生枝丘陵の谷沿い)
  5 丸山北須恵器窯跡群      (太田市吉沢落合、    通称丸山の東側の道を北上)
  6 萩原窯跡                      (太田市吉沢萩原,      須恵器・瓦窯址)

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 (出所)「太田市史」(通史編・原始古代の部)平成八年刊307~313、746~759,894~900、1053~1101各頁
     未読の参考書: 「群馬・金山丘陵窯跡群, 第 1 巻]                 (出版社)駒沢大学考古学研究室, 2007
                   「群馬・金山丘陵窯跡群 2」(駒沢大学文学部) (出版社)駒澤大学考古学研究室2009.5
                 菅ノ沢遺跡 (須恵器窯跡群・古墳群) ・巖穴山古墳の発掘調査報告


<6>  釜ノ口遺跡(伊勢崎市堀下町、埴輪工房跡)

  この地域では、この他にも多くの埴輪窯が未発見のままだ、と云うのが真実でしょう。

  特に大室古墳群・総社古墳群など図表3の上部の古墳群に埴輪を供給する窯址はその近辺に設けられて然るべきなのに公開資料には出てきません。

 唯一の示唆は「釜ノ口遺跡」にあります。
  釜ノ口遺跡は赤堀茶臼山古墳の家形埴輪を制作したと推定されている工房跡です。
              参照:伊勢崎市文化財調査報告書:第100集(伊勢崎市教育委員会文化財保護課)2011.3
            注記:住宅地造成に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書, 赤堀茶臼山古墳の埴輪工房跡の調査
                赤堀歴史民俗資料館(伊勢崎市西久保町2丁目9)


   埴輪工房があるならば、その近くに埴輪窯がある筈と見るのですが、この地域は住宅開発が進み、埴輪窯の痕跡を見ません。鏑川はすぐ側を流れています。

<古墳と豪族居館跡遺跡>
 赤堀茶臼山古墳(伊勢崎市赤堀今井町)は前方後円墳全長62.1mで、5世紀中頃の築造が推定されています。ここで出土した家形埴輪(8棟)は母屋や倉庫、囲いなどで構成され、古墳時代の豪族屋敷の姿を示唆するとして有名だそうです。
 ・後円部から木炭を砕いて敷き詰めた2基の木炭槨が検出され、神獣鏡、内行花文鏡、短甲をはじめとする副葬品が

   出土し、その墳丘上から円筒埴輪や家形埴輪(8棟)、椅子形埴輪などが出土。

1 梅木遺跡(前橋市西大室町2545)は古墳時代(5世紀後半~6世紀初頭まで)の豪族居館遺跡です。
        6世紀初頭の築造と推定されている前二子古墳と関係ありか、と云う人もいます。
        ・赤城山の南麓、大室公園内にある。館は堀と柵列で方形に区画されていたと思われるが、主要な施設は付近

                 を流れる桂川の度々の氾濫により削平され、ほとんど残っていない。西南側からは張出しと堀の広がりがあ

                 り、柱穴が検出されているので門があったと考えられる。
     ・堀の一辺は外側約85m、内側約65m、面積約6500平方m前後の正方形と推定される。 堀は古墳時代中期末

                の竪穴式住居を壊して作られ、また堀の底から6世紀初頭に榛名山から噴出した火山灰が堆積しているので、

                この館は5世紀後半に作られ、6世紀初頭まで使われたと考えられる。
    ・この遺跡から西南へ400m行くと6世紀初頭の築造と推定されている前二子古墳があり、この遺跡との関連が

               うかがわれる。


2 三ツ寺Ⅰ遺跡:古墳時代中期(五世紀後半)の保渡田の二子山古墳は、墳丘長108mの前方後円墳

  で、周りに内堀と外堀がめぐり、外堀まで含めた全長は213mとなる。内堀の中には円形の中島が

   4つ存在しているなど中々洒落ています。3段築成で葺石があり、数千本の円筒埴輪が、墳丘や内

  堤・外堤に並べられていたと見られ、器材・家・人物・動物等の形象埴輪は内堤の北側に並んでい

  た由です。
       ・墳丘頂部に大型の舟形石棺がある。5世紀後半の築造と推定されている。
       ・その南東1kmには三ツ寺Ⅰ遺跡があり、これは豪族の居館跡だと推定されています。この豪族は、ここを

                拠点として、榛名山麓の伊野川流域を統治して、死後、双児山古墳に葬られたのでしょう。
 

3 北谷遺跡(高崎市引間町)
   ・ 北谷遺跡、三ツ寺Ⅰ遺跡ともに、居館跡の中には、井戸や石敷き施設が発見されており、

             水に関わる祭祀を行ったことが想定されている。
   ・ 5世紀後半に形成され始め、6世紀初頭の榛名山噴火後に廃絶しており、規模や形態だけで

             なく、三ツ寺Ⅰ遺跡と同じ成立動機で形成された同時代首長の遺跡と考えられている。

 <7> 総括

  こうして、上野国での土師氏の拠点とその関連する古墳造築の大要を掴んだ積りです。
    1 緑野郡土師郷が第一の拠点です。
      ・ 人々は土師神社・広野大神社に祖神を祀り、埴輪製作の守護神としたと思われます。
          ・ その拠点窯は「本郷窯」です。
              ・ その活動時期は5世紀後半から6世紀末だと推定されています。
              ・ 人々はここから舟運により各地の古墳造成地に埴輪を移送したと思われます。
            ・ 必要から、2つの分工場が設けられたと推定します。
               ・猿田埴輪窯跡(藤岡市)
               ・宥勝寺裏埴輪窯跡(本庄市早稲田の杜1丁目12-1) 
      2 足利郡土師郷は第二の拠点です。(後世の区分ではここは下野国に属しますが、・・)
              ・ 現在、ここには土師神社はありません。
          ・ 現在の足利市域には埴輪窯址が未発見です。
          ・ 駒形神社埴輪窯址(太田市北金井町)は、現在の行政区画では足利ではありませんが、足利

                  郡土師郷に隣接し、距離的には近いので、足利郡土師郷の埴輪窯はここにあったと推

                  定します。
           ・ ここは6世紀末の活動が報じられていて、本郷埴輪窯とは時期がズレています。
     ・駒形神社埴輪窯址の南1kmには成塚埴輪窯址(太田市成塚町)、南3.5kmの金井丘陵には金

                井口埴輪製作址(太田市東金井町金井口)がありますが、いずれも駒形神社埴輪窯のグループ

                だろうと考えます。
             ・この一連の窯址群を「八王子・金井丘陵埴輪・須恵器窯ベルト」と名付けます。
     ・多くの太田市の須恵器窯跡群(参考表:太田市の須恵器窯址)もこのベルトに属し、埴輪

                窯よりも後の時代にその盛期を迎えた、と読みます。

 古墳造築集団は一つではなく、5世紀初めから数えても7世紀初頭まで二百年の推移の中で、複数の独立した集団が切磋琢磨し合ったかも知れません。

 その技術伝播は、古墳造成の諸技術、石棺製作技術、埋葬施設の構造(竪穴から横穴)、石材の調達、を巡って、地域性を醸し出しつつ、東国の古代史に彩りを添えたと思われます。

 埴輪の製作技術も、古墳別・時代別・埴輪種類別の分析を進める考古学者達のご努力で大いなる成果を上げていると思われます.。


  付記:ネットに拾い上げた学者先生の論文タイトル抄を未読のまま載せます。

           今のブログを今後10年続けた後、神様が時間を下さったら、埴輪研究などは実物ベースで

           本格研究したい気持ちを込めて。


◇埴輪研究
  ・「古墳時代の考古学 1」一瀬和夫/編 福永伸哉/編 価格:6,480円(税込、送料別)
  ・論文概要書 「下毛野の首長と埴輪―古墳時代地域形成過程の研究―」米澤 雅美(栃木県域・・下野国)
  ・製作技術からみた埴輪製作集団の考察一北部九州の事例を中心に一花熊祐基
  ・「古代王権の形成と埴輪生産」廣瀬覚 著(同成社)2015/05
  ・「埴輪生産と地域社会」城倉正祥著(学生社)2009/03
  ・「古墳時代史の枠組み」古墳時代の考古学1 一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆 編(同成社)2011/12
  ・独立行政法人国立博物館東京国立博物館 
    研究代表者:古谷 毅  国立文化財機構東京国立博物館文化財部保存修復課, 保存修復室長 
    研究分担者:犬木 努  大阪大谷大学, 文学部, 准教授
  ・土師の里追跡ー土師氏の墓域と集落の調査ー1999年 3月、大阪府埋蔵文化財調査報告1998-2
                                        大阪府教育委員会
◇川西宏幸論文
    ・「円筒埴輪総論」:「考古学雑誌」第64巻第2号、日本考古学会、1978年9月30日、95-164頁
    ・「円筒埴輪総論 地籍文献総覧」・「考古学雑誌」第64巻第4号、
                            日本考古学会、1979年3月31日、372-387頁
    ・円筒埴輪の編年・・円筒埴輪編年表(川西宏幸「円筒埴輪総論」『考古学雑誌』64-2 1978 一部改変)
    ・円筒埴輪編年表・・(川西宏幸「円筒埴輪総論」『考古学雑誌』64-2:1978:一部改変)
          川西教授の円筒埴輪研究の成果は、昭和53年『考古学雑誌』第64巻2号に「円筒埴輪総論」

         として発表された。この論文の「古墳編年表」は、全国の古墳研究者を驚かした。
      ・それまでの古墳研究では、応神天皇陵、仁徳天皇陵は、古墳名と被葬者が確実に一致する古

       墳として、それぞれ4世紀末と5世紀初頭の基準古墳とされてきた。
      ・川西教授は、両古墳に使われている円筒埴輪は第IV期に属し、その年代は5世紀中葉を遡る

       ことはないとした。
      ・川西論文に接した古墳研究者の反応は様々で、無視しようとする者、学問的な手続きに誤り

       があると主張するもの、諸手を挙げて賛同する者、その内容をより精緻に深化させようと試

       みる者。
      ・結論:川西教授提唱の円筒埴輪編年は、全国各地の円筒埴輪研究で検討され、その大綱は正

           しいと立証された。
                        ・円筒埴輪が古墳の築造年代を計る物差しに利用することができる。
              ・円筒埴輪編年という新しい年代決定法を手に入れた考古学は、古墳時代の社会構造や                                                 政治形態、文化の態様など様々な課題に挑戦する下地ができた。
                                                                    教育広報『萌芽』第6号:平成5年2月号より
◇木村理氏 論文 
  ・埴輪生産の変遷と諸段階―中期後葉の再検討を中心として―  
                        待兼山論叢 第53号(史学篇) 61 - 87 2019年12月  査読有り
   ・埴輪生産からみた馬見古墳群と畿内大型古墳群の特質      埴輪論叢 第9号 1-15 2019年6月 
   ・埴輪にみられる技術系統と労働力動員に関する予察―古墳時代中期後葉を対象に―  
              大学・関西大学・京都府立大学・明治大学4大学合同考古学・古代史大学院生研究交流

                                プログラム成果報告書 15 - 22 2019年3月 
   ・百舌鳥古墳群における埴輪生産の展開―窖窯焼成導入以降を中心として―  
                             古代学研究 第220巻 13 - 29 2019年3月  査読有り 
   ・古墳時代後期大和における蓋形埴輪の生産体制  埴輪論叢 第8号 173 - 183         2018年6月
   ・摂関期の瓦陶兼業窯をめぐる多面的研究ー丹波・篠窯跡群を主な対象にー57-77  2020年3月
   ・大阪府の古代・中世の鏡と瓦ー百舌鳥・古市古墳群周辺出土品を中心にー 6-7         2019年9月 
   ・古代日本の手工業生産をめぐる諸問題 112 - 129                                            2019年9月 
   ・日本古墳研究リソースを活かした墳丘墓築造と社会関係の国際研究展開               2019年3月 
   ・地域報告 播磨  中久保辰夫、木村理 
           中期古墳研究の現状と課題Ⅱ~古墳時代中期の交流 35 - 54   2018年10月
   ・埴輪の生産と土師部の成立--埴輪生産に因んだ地名をめぐって (特集 埴輪が語る古墳の世界)
                    -- (埴輪の生産)日高 慎  季刊考古学 (79), 46-50, 2002-05 雄山閣
    ・弥生式土器と土師式土器との境界(Adobe PDF) m-epo.lib.meiji.ac.jp/dspace/.../sundaishigaku_34_1.pd...
◇米澤 雅美論文
    ・下毛野の首長と埴輪 -古墳時代地域形成過程の研究-
                    1-159 (2013) , 博士(文学) , 早稲田大学 , 32689甲第3981号 
    ・下毛野の中期大型古墳と古式群集墳  早大学大学院文学研究科紀要. 第4分冊, 
    ・下野の古墳時代中期における埴輪の変遷(考古学部会)(平成15年度早稲田大学史学会大会)
                                             史觀,(150),136-138 (2004-03-25)
◇「東国古墳時代の研究」    右島 和夫(関西大学)博士論文34416乙第189号
        「古墳構築の復元的研究」                         群馬県県立歴史博物館長
        「古墳時代毛野の実像」(季刊考古学別冊17号)編著者:右島 和夫・若狭 徹・内山 敏行