目次   上野国(群馬県)の古墳分布と埴輪製作集団の動向
      (1)群馬の主要古墳
             <1> 上野国の時代別主要古墳の分布
             <2> 上野国の首長勢力の拠点ー4世紀後半から7世紀前半にかけてー
          <Ⅰ> 古墳時代前期 四世紀後半:<前方後方墳>と<前方後円墳>
          <Ⅱ> 古墳時代中期 五世紀前半
                    <Ⅲ>        五世紀中葉
                    <Ⅳ>        五世紀後半:<保渡田古墳郡と豪族居館遺跡>
                           <総社古墳群と国衙跡>
          <Ⅴ> 古墳時代後期 六世紀前半
          <Ⅵ>        六世紀中葉:
          <Ⅶ>        六世紀後半:
          <Ⅷ> 古墳時代終期 七世紀前半:
              <3> 総括ー上野国(群馬県)の主要古墳の位置と築造時期
                         <シナリオ仮説:上野国の古墳築造に見る豪族の地域展開>
 

◇ 上野国(群馬県)の古墳分布と埴輪製作集団の動向
(1)群馬の主要古墳
 毛野地域(群馬県・栃木県南西部)は、古墳時代に多くの古墳が築かれたことが知られています。
 特に上毛野地域(群馬県)においては、東日本最大の太田天神山古墳(太田市、210mは全国26位)を始めとして、全長が80mを越す大型古墳が45基、総数では約1万3000基もの古墳が築かれた、と云います。大~中形古墳を対象とするだけでも、可なりの数の埴輪が必要となり、埴輪窯も多く築かれたことでしょう。

  図表1            群馬の主要古墳の基礎的知識
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 ・群馬の古墳:墳丘長が80mを越す大形古墳が45基、総数では約1万3千基もの古墳が築かれた。古墳は4世紀 から7世紀までの  

                     400年間にわたって造られ、平野部の各地に100m超の大型古墳が作られ、東国(東海・甲信・関東地方)では圧倒的

                    な質と量を誇る。
  ・埴輪王国:群馬は「埴輪王国」とも呼ばれ、日本の埴輪研究の「メッカ」と云われています。唯一の国宝埴輪「武装男子立像」は

                    太田市飯塚町から出土し、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件の内、19件(45%)が群馬での出土です。
  ・古墳造成略史:
         ・4世紀初頭、東海地方由来の前方後方墳が築かれ、同地方由来の土器が使用されていた。
         ・4世紀中葉以降、畿内由来の前方後円墳に移行し、畿内の石工による石棺の築造も認められる。
         太田天神山古墳(太田市)やお富士山古墳(伊勢崎市)はヤマト王権王陵と同じ長持形石棺を使用。
         ・5世紀前半以降、畿内の豪族と同盟にあり、ヤマト政権内部で極めて重要な位置を占めた。
         ・5世紀中頃、東日本最大の太田天神山古墳が築かれ、一帯で最大規模を誇っていた。
         ・6世紀後半からは、地域内の各地に大型古墳の林立が顕著、各地に豪族が割拠していたと見る。
  ・考古資料による考察:上毛野・下毛野の呼び分け時期を5世紀末から6世紀初頭とする説を支持している。

        ・栃木県域で、新興勢力の摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳を始めとする大型古墳が思川流域に出現した。

        ・同一文化圏:古墳の様相からは、埼玉県北西部・栃木県南部は群馬県のものに類似しており、それら一帯が同一文

         化圏と見られている。
              ・筑波の西は毛野川(鬼怒川)と連なり下毛野とも近接している。
              ・毛野はある時期には那須地域の他にも常陸国の新治・白壁・筑波の一帯を含む地域だった可能性が指摘されている。

              ・4世紀後半から5世紀初め、この地域の前方後円墳は栃木県の小川・湯津上一帯と茨城県の筑波・柿岡一帯に分布し

                   ており、茨城県石岡市の丸山古墳と、栃木県那須郡那珂川町の那須八幡塚古墳は、墳丘の形や内部構造までが一

                   致している。
     ・榛名山の噴火:5世紀に活動を再開し、マグマ水蒸気噴火を起こす。(二ッ岳有馬火山灰噴火)
             ・489年 二ッ岳渋川噴火で大規模なマグマ水蒸気噴火と泥流。
             ・525年から550年 大規模マグマ噴火、マグマ水蒸気噴火、マグマ噴火泥流。
                 ・渋川市の金井東裏遺跡では、6世紀の火砕流に巻き込まれた甲を着装した成人男性人骨1体と、乳児の頭骨1点が

                   発掘され、人的被害が出ていたことが判明した。有史以降の記録は残っていない。
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 (出所)ウイキペディア「日本の大規模古墳一覧」、「毛野」&「榛名山の噴火」、 古墳 - Wikiwand、

<1> 上野国の時代別主要古墳の分布
  ここでは、土師氏の、出来れば石作連のも加えて、上野国でのその活動痕跡を求めて、先ずは、上野国

(群馬県)の古墳分布を調べます。

  次の図表2は河川別の「上野国の時代別主要古墳の分布」です。
 兎に角、この国は膨大な古墳があるので大形古墳に絞っても調べ漏れはあるかも知れません。

<消失した古墳>
 特に、開発に伴う消失古墳には大形古墳も多く含まれているようです。例えば、
    ・上武士天神山古墳(伊勢崎市)127mは前方後円墳で、犬、猪、鶏の埴輪も出土したが、市街地開発により消滅した由です。
   ・越後塚古墳(高崎市上中居町薬師)は墳丘130m以上の前方後円墳で、5世紀代の築造と伝わりますが、削平消失した由です。
   ・下郷天神塚古墳(後円部:佐波郡玉村町八幡原(旧下郷地区)、前方部:高崎市八幡原)は、4世紀後半~末の築造と推定され

    ていますが、現在は消滅しています。全長80~102mの周壕をもつ前方後円墳で、大正時代に発掘された時は、粘土槨から

    鏡や土器類、線刻のある器台埴輪も出土した由。

   ・削平消滅のために、情報が少なく掲載を取りやめた前方後方墳又は方墳の例は次の如くです。
        ・矢場鶴巻山古墳42m,(太田市矢場町1356-1)前方後方墳(消滅)矢場川古墳群の中でも最古級と思われた。
      ・阿曽岡権現堂古墳群(北山茶臼山西古墳、富岡市)
      ・華蔵寺裏山古墳40m(伊勢崎市) 
   
この他にも、多くの消失古墳があるのですが、大勢を掴めば良いとします。  


<図表2の古墳群を中心に考察する>
  この図表2では、河川別の古墳の大きさ順に並べ、横には築造時期を示しています。

 その大きさと築造時期の古さとの組み合わせの中での上野国(群馬県)の、大小あるかも知れない、首長クラスの古墳分布を見ようとするのです。

 それを埴輪製作集団・土師氏の動向と結びつけるのがここでの最終目的です。

 取り敢えずは、古墳を見ます。

 河川は、地域を人々の交通の便であり、且つ、古墳築造に際して埴輪などの運搬に使われたと思われるので、重要備考メモとして冒頭に付加してあります。

 

<2> 上野国の首長勢力の拠点ー4世紀前半から7世紀前半にかけてー

  以下の記述はいずれも図表2を参照しつつご覧頂ければ幸いです。
 煩雑ならば、飛ばして、「<3> 総括ー上野国(群馬県)の主要古墳の位置と築造時期」からお読み下さい。

<Ⅰ> 古墳時代前期 四世紀後半:<前方後方墳>と<前方後円墳>
 この上野国の一番古い古墳は4世紀前半~後半に築造されたと見られています。
 先ず、二つの前方後方墳(朝倉・広瀬古墳群の八幡山古墳、元島名将軍塚古墳)です。

<前方後方墳>
 朝倉の八幡山古墳はこの地域最古の前方後方墳で、4世紀後半の築造が推定され、全長は130mあり東日本最大の規模です。
  注 有名な下毛野の大形前方後方墳(次報で取り上げ)でも、藤本観音山古墳(足利市、4世紀中葉)118m、上侍塚古墳(大田原市、

    4世紀後半)114mですから、八幡山古墳の大きさが判ります。

  もう一つの前方後方墳・元島名将軍塚古墳96mは、そのサイズよりも、その築造時期が4世紀前半だとされ、東国最古と云う人もいます。
 また、前方部頂上には島名神社が鎮座している点が注目です。
   ・元島名将軍塚古墳(高崎市元島名町)前方後方墳、墳丘全長91~96m、4世紀前半の築造という。
         井野川東岸の段丘縁に立地し、前方部を東南東に向ける。周堀あり。河原石の葺石あり。粘土槨が掘り出され、

         仿製四獣文鏡・石釧・鉄刀・刀子・人骨などが出土したと伝わる。

  寺山古墳(太田市強戸町)は、金山丘陵の北西端に張り出した支丘陵の頂部にある前方後方墳60mで、群馬県域の代表的な出現期古墳、且つ、首長墓系とされています。「古墳マップ」は、発掘調査がなされていないのに、「4世紀の築造か」と記しますが、出現期とする表現に対応しています。

 この元島名の島名神社については、そのものズバリの情報を得られず、代わりに島野町の島名神社情報を得たので、それを転載します。多分、同類の神社だろうと考えてのことです。
 尚、島名は古代の「島名郷」の遺名でしょう。
   ・島名神社(高崎市元島名町) 祭神:彦狹嶋王、                               「須佐之男命 應神天皇
         合祀:倉稻魂命 瓊瓊杵命 健御名方命 木花佐久夜毘賣命 菅原道眞 大日靈命 市杵嶋姫命 大物主命 白菟命
   ・島名神社(高崎市島野町)  祭神:大山祇命 彦狭島王 大日靈命 伊邪那美命 木花開邪姫命 市寸島姫命 須佐之男命
                                               宇迦之御魂神 菅原道真公 迦具土神 因幡之白兎
       由緒(高崎市誌):由緒不詳なれど古老の伝によれば、当社境内外一円は往昔、三島の原と云い伝へ、此の原の中に鎮

                  座している島名神社の地域は現今尚三島と称す。景行天皇の御代、彦狭王、東山道十五ヶ国の都督と

                                       して未臨の途次、病を得て薨ぜらるるや、王子・御諸別、父王追慕の情止み難く遂に此地に王の威霊を

                                       祭祀し、三島大明神と尊崇せり。爾来、神霊灼然として一郷に輝き、人民の尊信頗る厚かりき。

                                       改題に七ツの奇石あり。時将師軍議せしとき腰掛石と世々伝えけり、上野国神名帳に従四位島名明神

                                      と見えたれば、是即ち当社なるべしと社号を島名神社と改称し、今日に及べり。

          (出所) 高崎の兎神信仰と疱瘡神(群馬県高崎市)神兎研究会、 「関東の神社めぐり プチ神楽殿」「東国の古代史」
                  「古墳探訪 大型古墳集成」、


<前方後方墳の前方後円墳へ>
  前方後方墳は、前方後円墳に先駆けて築かれた節があるが、前方後円墳時代の到来と共に、その築造は止められ、前方後円墳に切り換えられて行った、と思われています。

  元島名将軍塚古墳(高崎市)も、藤本観音山古墳(足利市)も、単独築造の大形墳墓で、周囲に同じような前方後方墳がないのです。しかも、やや時代が後になって大形前方後円墳が築かれ、その後もサイズは小さくなっても前方後円墳は築造され続けるのです。しかし、前方後方墳は最早築かれることはありませんでした。

 藤本観音山古墳118mは前方後方墳で、太田天神山古墳(前方後円墳)との距離は4kmしかありません。

 古墳築造は藤本が4世紀中葉、太田天神山古墳が5世紀中葉ですので、ここでも前方後方墳が前方後円墳に置き換えられたと見られます。

 前方後円墳(別所茶臼山古墳・太田天神山古墳)の勢力が到来すると、上野国では最早、前方後方墳は築かれなくなった、と見ます。
      ・藤本観音山古墳(足利市藤本町530)前方後方墳。墳長117.8m、4世紀中葉の築造。尚、藤本観音山古墳は今は足利市(下野・

    栃木)に属しますが、古代に毛野国が上下に分かれたのは仁徳朝とも、その更に後だとも云われておりますので、古墳築造の

    時は毛野国でした。
 

<彦狭島王伝承>
 その前方後方墳時代に関係して、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の孫で、御諸別王の父の「彦狭島王に関わる伝承」が遺るのは注目です。
   彦狭島王伝承:1島名神社(高崎市元島名町、島野町)、及び、元島名将軍塚古墳
                2三島神社(高崎市石原町葭田)、及び、三島塚古墳
                 ・三島塚古墳(高崎市石原町葭田)幅14mの堀をめぐらした直径58m、高さ5.5mの大円墳上には三島神社あり。

                             5世紀の始め頃に造られた古墳、「彦狭島王の墓」伝承あり。
                  古墳側面に葺石/埴輪も配列あり。 「上毛古墳綜覧」は石棺、鏡や刀、勾玉の出土を伝える。
   注1  「日本書紀」 景行天皇55年2月条:彦狭島王は東山道十五国都督に任じられ、赴任途上、春日の穴咋邑に至り病死。東国

                            の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったと云う。

                   景行天皇56年8月条:子の御諸別王が彦狭島王に代わり東国を治め、その子孫は東国にいる、と。
     「国造本紀」上毛野国造条:崇神天皇年間に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定し、国造に封ぜられた。


<前方後円墳>
 前方後円墳としては、倉賀野古墳群の二つの前方後円墳(浅間山古墳と大鶴巻古墳)、朝倉・広瀬古墳群の天神山古墳の三墳が前期古墳とされています。

 このⅠ期の古墳(図表2)は、前方後方墳2プラス前方後円墳3で、合計5墳です。

  浅間山古墳は4世紀後半の築造とされ、時期的には垂仁天皇の御陵(奈良の佐紀盾列古墳群の宝来山古墳)と同時期なのは興味深いです。

 垂仁天皇は豊城入彦命と異母弟です。垂仁天皇陵が浅間山古墳と同時期とされているので、浅間山古墳は豊城入彦命陵だろう、と推定したいところです。
 だが、それは単純過ぎるようです。いずれ総合的に検討しなければなりません。
      注、豊城入彦命は東国統治を命じられましたが、その上野国入国の証はないと云います。後に知ることになるのですが、
        「豊城入彦命とその末裔・上毛野氏・下毛野氏の東国史」については大論争が展開されているようです。  
 

  この系列と見られる大鶴巻古墳は4世紀末-5世紀初頭の築造とされ、その次の世代と見られる小鶴巻古墳は5世紀初頭と時期がズレ、三世代にわたる墳墓築造が倉賀野地区に認められます。
 参考:垂仁天皇陵=宝来山古墳(奈良県奈良市尼ヶ辻町西池) 4世紀後半の築造
           墳丘長227m(推定復原240m?)・高さ17.3m(後円部)竪穴式石室(内部に長持形石棺)
           出土品:円筒埴輪・形象埴輪
             ・倉賀野(佐野)古墳群:付近には大鶴巻古墳や大山古墳、佐野長山古墳(消滅)など、前期古墳13基のが集中しており、

                                                倉賀野 (佐野)古墳群を構成している由。
              ・浅間山古墳(高崎市倉賀野町)=垂仁天皇の兄・豊城入彦命(亦はこの人に替わる首長)の古墳か。
                                                全長171.5mの前方後円墳。後円部径105m・高さ14.1m、前方部幅66.3m・高さ5.5m、後円部3段・

                                                前方部2段築成で葺石・埴輪を備え、周囲には盾形の堀と堤がめぐる。

                                             ・4世紀末~5世紀初頭の築造。
                                    ・関東では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位規模の古墳。
                                    ・特に墳形は奈良県奈良市の佐紀陵山古墳の5分の4相似形の設計と見られ、佐紀が中心を成し

                                                た頃のヤマト王権と被葬者との密接なつながりが指摘*されています。
        ・大鶴巻古墳(高崎市倉賀野町) 4世紀末~5世紀初頭の築造123m、出土品:鰭付円筒埴輪
           ・小鶴巻古墳:87.5m、大鶴巻古墳に続く5世紀後半の築造
       両鶴巻古墳とも浅間山古墳の3分の2、及び、2分の1の相似形で築かれたと見られている。
      * 若狭徹「太田天神山古墳と毛野の政権」歴史読本 2015年1月号(KADOKAWA)、pp. 60-63。


  朝倉・広瀬古墳群を形成する古墳は、利根川と広瀬川との中間台地に、4世紀から6世紀にかけて造られました。その筆頭の前橋天神山古墳は4世紀頃に造られた前方後円墳で全長が129mあるとのことです。

三角縁四神四獣鏡2面を出土しています。

 5世紀代には全長82mの上両家二子山古墳、6世紀には全長104mの天川二子山古墳や長山古墳75m、大屋敷古墳81mがこの朝倉広瀬古墳群で築造されました。

 この広瀬川*沿岸には、この他にも前方後円墳や円墳など推定200基がひしめくように造られ、現在は史跡になった6基+α=10基が残るのみですが、群馬県最大の古墳群がここに形成されていたようです。
 *広瀬川:群馬県渋川市、前橋市及び伊勢崎市を流れる利根川水系の一級河川である。群馬県渋川市で利根川から分かれ、前橋

                市街を南東へ流れる。概ねJR両毛線に沿った形で流れ、伊勢崎市で利根川に合流する。合流点の至近には埼玉県深谷

                市との県境がある。戦国時代まで利根川の本流は広瀬川の辺りを流れていたと云う。

                古利根川は 江戸時代には比刀根川と呼ばれ、灌漑用水として整備された。 上流部は広瀬用水、途中で分流・合流する

                桃の木用水と併せて広桃用水、広瀬桃木用水とも呼ばれ、現在は疏水百選に選ばれている。

               古くは江戸から物資などを運ぶ舟運で栄えた。                                                        (出所) ウイキペディア 「広瀬川」

 後に総括図表に示しますが、集めた情報ベースで判断すると、倉賀野と朝倉広瀬古墳群は上野国の最古の古墳群だと思われます。

 古墳時代に先立つ縄文・弥生時代の遺跡を調べると、上古の人口動態(人々の居住分布の推移)を知ることができ、その時は、倉賀野地区や朝倉・広瀬古墳群の上野国での位置づけが拠点な場所としてより明確になるでしょう。
 今は、土師氏の動静に的を絞っているので、先に行きます。

<Ⅱ> 古墳時代中期 五世紀前半
 五世紀に入ると、この地域の大形古墳の築造地が倉賀野(高崎市)から太田市内と白石(藤岡市)・保渡田(高崎市)へと大型古墳は分かれて築かれます。
 3つの大形古墳が別所(太田市)・白石(藤岡市)・朝倉広瀬(前橋市)に築かれました。
         ・別所茶臼山古墳(太田別所)・白石稲荷山古墳(藤岡白石)・上両家二子古墳(朝倉広瀬)

  これは、常識的には、初期首長の御子達(亦は有力部下)が勢力を拡大し、3ヶ処に拠点を持った証と見ます。
  太田市の別所茶臼山古墳165mや朝子塚古墳123mは4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定されていますが、ここでは五世紀前半に分類しています。

  この太田市の中~大形古墳、亦は、4世紀末頃の前期古墳は既に消滅し、詳細が分からなくなっているものもあるようです。
 だが、この拠点は、七世紀まで、大小の古墳建設が続いた地域です。倉賀野から分派した後、この地(太田市新田地区)は一族の中心的な拠点として続いたのでしょう。

<Ⅲ> 古墳時代中期 五世紀中葉
 五世紀中葉には、太田市内ヶ島町の2古墳ができます。
 天神山古墳は東国最大規模の全長204mにの大古墳で、この地域での首長の強勢が五世紀前半から続いていたことを示しています。

 別所茶臼山古墳の後継古墳とする見方もあるほか、女体山古墳古墳が天神山古墳よりやや早い築造だとの見解があります。                              ・太田天神山古墳(太田市内ヶ島町)・女体山古墳古墳(太田市内ヶ島町)
  注 ・別所茶臼山古墳は、墳丘形態・出土品から古墳時代の4世紀末-5世紀初頭の築造と推定され、同時期の西毛の浅間山古墳             と並び東毛を代表する古墳とされる。
     ・本古墳の被葬者の後継首長が上毛野地方(現・群馬県域)全体を治める地位に就き、東日本最大の太田天神山古墳が生み出

          されたとの見解があり、その具体的な被葬者としては上毛野国造の荒田別命と見る説がある
    ・上毛野地域では、天神山古墳登場以前までは東毛首長(別所茶臼山古墳)と西毛首長(浅間山古墳・白石稲荷山古墳)とが

          個々に存在したと想定され、東毛首長が伸長し、ヤマト王権の後ろ盾の下で上毛野地域全体に及ぶ支配を確立して築造した

          古墳と位置づける説がある。被葬者を上毛野国造の荒田別とする説や、その子の竹葉瀬と見る説もある、とウイキペディアは             伝えるが、いずれも確かさが劣るようです。

<Ⅳ> 古墳時代中期 五世紀後半:
 五世紀後半、保渡田3・総社1・倉賀野1、合計 5つの比較的大形な古墳が築かれ、保渡田・総社の二地域が主勢力となったと見ます。

<保渡田古墳群と豪族居館遺跡>
 墳丘100m前後の古墳が近接して築かれた保渡田三古墳は特に注目されます。同等の立場の首長クラスの三人が相次いで亡くなっている事を推測させるからです。
                         ・二子山古墳(保渡田)・薬師塚古墳(保渡田)・八幡塚古墳(保渡田)・遠見山古墳(総社) ・小鶴巻古墳(倉賀野)
 

 保渡田古墳の被葬者の「豪族居館」と見られる「三ツ寺遺跡」が約1km南東に見つかり、更に、三ツ寺遺跡北東3kmには、同じく豪族居館跡の「北谷遺跡」が見つかっています。
          ・三ツ寺遺跡(高崎市三ツ寺町)5世紀第3四半期から6世紀初頭までの古墳期の豪族居館跡
          ・北谷遺跡(高崎市引間町)5世紀後半に形成され始め、6世紀初頭の榛名山噴火後に廃絶の由
                                                                                               (出所)ウイキペディア「三ツ寺遺跡」「北谷遺跡」


 これは雄略朝前後に相当する時期です。偶然か、政治的・軍事的理由があるのか、いずれ「豊城入彦命一族史」を取り上げる時に何か手掛かりをつかめると良いのですが、・・。

<総社古墳群と国衙跡>
 総社古墳群は古墳時代後期から終末期にかけての東国屈指の古墳群だと云われ、その中でも、総社・愛宕山古墳は終末期の中形方墳56mとして注目されます。

  何しろ、この地域は、後に国衙が設けられたと推定され、国分寺跡・国分尼寺跡・総社神社・御霊神社がありますから、古墳時代後期にかけても古墳築造は続くのです。
  宮鍋神社を国衙跡の候補地とする意見があり、それより東側の御霊神社と総社神社の中間地帯が国衙跡として有望だとする見解が別にネット上に見られます。
   ・宮鍋神社(前橋市元総社町) 祭神:経津主命・金山昆古神・金山昆賣神
      由緒:人崇神天皇の第一皇子豊城入命が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して

                     武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝わる。
     ・元総社明神遺跡・元総社寺田遺跡・鳥羽遺跡


  五世紀末から七世紀後半にかけての総社古墳群をリストし直し、総覧に供します。
    遠見山古墳     前方後円墳 全長80m 竪穴式石室  5世紀末
    王山古墳      前方後円墳 全長90m 横穴式石室  6世紀前半       積石塚
    総社二子山古墳  前方後円墳 全長90m 横穴式石室  6世紀後半~終末 石室2基
    愛宕山古墳    方墳    一辺56m 横穴式石室  7世紀前半
    宝塔山古墳    方墳       一辺54m 横穴式石室  7世紀中頃
    蛇穴山古墳    方墳       一辺40m 横穴式石室  7世紀後半


<Ⅴ> 古墳時代後期 六世紀前半
 白石古墳群に墳丘長145mの七輿山古墳が築かれ、白石稲荷山古墳(Ⅱ)の後継と見られます。
朝倉広瀬古墳群では天川二子山古墳が築かれます。また、大室地区に中二子古墳、総社地区に王山古墳が築かれます。

<Ⅵ> 古墳時代後半 六世紀中葉:
 この時期には藤岡・平井区1号墳(円墳)が白石古墳群に築かれます。この頃を最後に、古墳も小型化し、群集墓化が目立ち、墳形も円墳中心に方墳も交え、前方後円墳は次第に消えます。

<Ⅶ> 古墳時代後半 六世紀後半:
 総社地区に1と大室地区に2の古墳が築かれます。
                                                ・総社二子山古墳90m(総社)・後二子古墳85m(大室)・小二子古墳古墳38m(大室)
<Ⅷ> 古墳時代終期 七世紀前半:
 高崎・綿貫観音山古墳100m(*)・愛宕山古墳56m□(総社) 高崎・総社
 総社古墳群は、宝塔山古墳に次いで、陀穴山古墳が最後の築造となったとみられています。
 

<3> 総括ー上野国(群馬県)の主要古墳の位置と築造時期
  こうして、豊城入彦命一族はその子孫・配下の首長達の増加と共に、地域開発(亦は、勢力圏拡大)を進め、その拠点を拡大していく様子が、古墳築造の時代推移を通して、推定できます。
   ・このブログの現段階は上野国だけですが、下野国・常陸国・武蔵国・房総国と調べを広げていくと関東における豊城入彦命

          一族とその他の部族の展開の姿は次第に見えてくるでしょう。

  以上の情報を、図表3ー総括ーを用いて、シナリオ仮説として述べてみます。

<上野国の古墳築造に見る豪族の地域展開のシナリオ仮説>

1前方後方墳の時代が先ず在ったと思われます。
 4世紀中葉~後半の頃、前方後方墳は朝倉・八幡山古墳130mとが築かれています。

 朝倉広瀬古墳群は当初からこの地域の中心だったと思われます。
 朝倉とは別ですが、しかし、朝倉に近い処に古代の群馬郡島名郷があります。その「島名郷」の名は、「島名神社」・「元島名将軍塚古墳」・「地名・島名町」として現代に遺っています。
   ・元島名将軍塚古墳96m

2前方後円墳の時代(1)
 前方後方墳の時代が先行していた時、そこに新規勢力が渡来して拠点を築き、高崎市倉賀野町に拠点を築いたと思われます。
  第一が浅間山古墳174mと大鶴巻古墳123mです。いずれも4世紀後半の築造を推定されています。両古墳は烏川に近いです。

 朝倉広瀬古墳群にも大型の前方後円墳・天神山古墳129mが築かれます。
 前方後方墳の八幡山古墳130mと拮抗した大きさの天神山古墳が、ほぼ同時期に、築造されたとなると、それは前方後方墳文化が最盛期に達した直後に前方後円墳文化が到来し、取り入れられた事を意味します。

  朝倉広瀬古墳群は、図表3に見るように、他の古墳群とは違い4世紀から7世紀まで連綿と古墳築造は続いているので、この地域の最も先渡来的で継続性のある地域だったと思われます。
   ・朝倉は古代那波郡の郷名であり、朝倉君という豪族(豊城入彦命裔と見られている)が知られています。

        朝倉・広瀬古墳群を長く維持し続けたのはこの朝倉君一族だったと思われます。

3前方後円墳の時代(2)
 倉賀野に大形前方後円墳を築いた集団一族はやがて分派して行きます。
  ・第一は、太田市に更に大形の前方後円墳を築き、先渡来氏族を圧倒します。
    ・第二は、南5kmの近接地に白石古墳群を築きます。
    ・第三は、倉賀野北方11kmの保渡田へも分派し、井野川沿いに保渡田古墳群を築きます。

 

4前方後円墳の終焉期
  前方後円墳の終焉期は大室古墳群と総社古墳群で見られます。

 赤城山南麓の大室地区では、前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳の三基の大型前方後円墳を中心に、6世紀初頭から6世紀後半にかけて、前二子山古墳・中二子古墳・後二子古墳の順に造営されたと推定されています。小二子古墳も6世紀後半に後二子古墳とほぼ同時期に、後二子古墳と関わりの深い人物が埋葬されたとみられています。
 7世紀には、小形の円墳と方墳が主となり、終末期を閉じます。

  総社地区では、6世紀後半の総社二子山古墳を最後に前方後円墳は終わりを告げ、 愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳の三方墳が7世紀前半・中葉・後半と続いて終わります。

 太田市の太田天神山古墳の後継墳は、その後も続きましたが、7世紀に入ると、磐穴山古墳(方墳)で終わります。
   ・巖穴山古墳(太田市東今泉町752)金山丘陵北東麓の平坦部に造られた一辺36.5mの方墳。
                        墳丘四辺が東西南北に一致し、また、幅7mの堀が見つかっている。
                  葺石や埴輪などは確認されていません。墳丘の南側には横穴式石室が開口しています。
                  巌穴山古墳の西方にある菅ノ沢須恵器窯跡群を統括していたこの地域の首長墳と見られています。 

                   古墳は、7世紀中頃にの造られたと考えられていますが、それよりも早い時期に見る人もいます。

                        終末期古墳としては太田市内で現存する唯一の方墳だそうです。

(2) 群馬の土師郷・土師神社・埴輪窯跡

 「古墳」レビューが長くなりました。

愈々、本番です。以上で見てきた上野国(群馬県)の古墳分布の中に、土師氏の指導したとみられる埴輪窯の分布を確認します。

 「続・土師郷・土師氏・埴輪制作集団」をご覧下さい。