目次 伊福部考の総括
       1)「伊香色雄命」から「武牟口命」への血統接続は見出せず
       2)「伊福部考12 武牟口命」の要約
       3)「因幡伊福氏系図」の評価1
               (1)  第一総括:「因幡伊福氏系図」を否定する
               (2) 因幡・伊福部氏は別史料・出土物で確認できる。
               (3) 第67代・伊福部 昭を偲ぶ
   4)「因幡伊福氏系図」の評価2
              (1) 第二総括:「因幡伊福氏系図」を肯定的に受入れる
                       <1> 因幡伊福氏系図の主張:火明命(天火明命)は大国主命(大汝命)の子
         <2> 火明命は天道日女を妃に迎え、天香山命(尾張氏の祖)を生む。
                       <3> 「天神と地祇とを峻別する記紀の論理」
                       <4> 記紀は「天神地祇を分類する考え方」を優先し、

                                                                      これを基軸とする編集姿勢を執った
              (2)  「天神と地祇とを峻別する記紀の論理」を排す
                       <1> 記紀・旧事記の系譜伝承とは異なる別伝承の再評価問題が浮上する
                      <2> 「因幡国伊福部臣古志」の示す別な「天神地祇」の親子関係
     次報  天津彦根命論

1伊福部考の総括
 尾張古論の中で「伊福部の祖神・若都保命」をまとめた上げたところ、別に「因幡伊福氏系図*」が浮上したので、「因幡伊福氏系図に関する考察」を進めることにしました。

                                                                                     *正式名は「因幡国伊福部臣古志」

 それが「伊福部考(2)~(13)」です。だが、この内「伊福部考(3)~(11)」は実質的に物部氏の宇摩志麻遅命2~6世孫の動静調べです。               
 

1)「伊香色雄命」から「武牟口命」への血統接続は見出せず

 物部調べの最後に「伊香色雄命」を精査した積もりです。これは、「因幡伊福氏系図」がその子だとする「武牟口命」につなげられるか、を検するのが目的でした。

 残念ながら、「天孫本紀」を基本とする物部氏系譜や「新撰姓氏録」の中には「武牟口命」は見出せず、「伊香色雄命」から「武牟口命」への血統の接続は出来ませんでした。
  この 一連の「伊福部考」を経て、前報「伊福部考(12) 武牟口命」に至ったのです。
            参照 □ 伊福部論                伊福部考 1 伊福部の祖神・若都保命           2020年01月09日
                                             伊福部考 2 因幡伊福氏系図に関する考察     2020年01月22日
                   □ 初期物部氏の展開      伊福部考 3 彦湯支命の三人の妻たち           2020年01月29日
                                                 伊福部考 4  河枯と真鳥姫の謎                    2020年02月10日
                                                 伊福部考 5  出雲色雄命とその末裔              2020年02月17日
                                                   伊福部考 6  磯城県主の謎                          2020年02月24日
                                                   伊福部考 7  伊香色雄命をめぐる系譜             2020年03月10日
                                                     伊福部考 8  物部大売布大連の祭祀              2020年03月17日
                                                 伊福部考 9  伊香色謎命の生涯                    2020年03月17日
                                                 伊福部考10  伊香色雄命への褒賞                2020年03月22日
                                                 伊福部考11  伊香色雄命の歴史上の位置       2020年03月26日
                   □ 因幡伊福氏系図     伊福部考12  武牟口命                                 2020年04月05日
                         に関する考察2    伊福部考13  因幡伊福氏系図に関する考察2       本ブログ


2)「伊福部考12 武牟口命」の要約
 「伊福部考12 武牟口命」では、武牟口命の因幡征行の伝承を取上げ、次の様に判断しました。

                   参考 尾張古論10 伊福部考(12) 武牟口命 2020年04月05日

  1 この「因幡伝承」は景行朝の出来事だと見られます。
       ・日本武尊・武牟口命・武内宿禰は景行朝(四世紀中葉)に生きた人々だと判定します。
    2 武牟口命は日本武尊の征西初期に播磨から因幡に渡来したと認めます。
       ・播磨の国人が因幡での出来事を通報したのが伝承解読の鍵となります。
           ・西播磨に先住の伊福部連一族が因幡問題を日本武尊に通報したと思われます。
         ・武牟口命の播磨から因幡へ行った道は「因幡道」だと推定します。
    3 「因幡国伊福部臣古志」は「武牟口命=武内宿禰」説を示唆するが、これは直感的には否定

        されます。しかし、その真偽論は将来へ持ち越します。
    4 この事件伝承では氏神・荒海が賊扱いされているが、戦乱の記述はなく恭順を推測させます。
    5 武牟口命は尾張・伊福部の祖・若都保命の一族の可能性があります。
        ・武牟口命は多加牟久命(多加牟久神社祭神)と同一人の可能性が大きい。
  6 武内宿禰と日本武尊との二伝承が重なっていると見ます。
          ・この地域には武内宿禰に関する祭祀・伝承は宇倍神社以外にも複数あり、武内宿禰

                     伝承の影響は大きいと見られます。
        ・「日本武尊ではなく武内宿禰が指令した」説(多加牟久神社伝承)はその顕れでしょう。
          ・「武牟口命の賊退治伝承」と「武内宿禰の因幡渡来伝承」との混同があったのだろ

                     う、とする疑惑は消せません。
             ・敢えて云えば、武牟口命は「武牟口命」のままでもよかったのですが、「元伝承」が

                    伝承されていく過程で、武牟口命を「武内宿禰」と同一とすることで「話」に彩りを

                    添えたのではないか、との疑惑が生まれます。
    7総括して得たシナリオ仮説:
           ・武牟口命は伊福部の祖・若都保命の縁者の一人で、その兄・弟彦公と共に日本武尊の

                    征西に従い、通報を受けて、西播磨から因幡に入り、因幡・伊福部氏の祖となった。

   こうして、武牟口命は尾張・伊福部の祖・若都保命の一族の可能性が浮上し、「物部・伊福部氏」はなく、「尾張・伊福部氏」が源流となり「因幡・伊福部氏」が生まれた、との当ブログの見解が形作られたのです。

3)「因幡伊福氏系図」の評価
 

   総括して、これまでの調べを元に、「因幡伊福氏系図」を総合評価したいと思います。

(1)  第一総括:「因幡伊福氏系図」を否定する。
 

 「因幡伊福氏系図」を否定する場合、古史料を正しいと見る大前提があります。
  大前提1:古史料(記紀・先代旧事本紀・新撰姓氏録)に合致する場合のみ正当な伝承と見る
 

 この大前提の下には、武牟口命以降の系譜は信用できるとしても、それ以前の系譜は信頼性が著しく劣ると云えます。

  信用できないとする最大の理由は、「因幡伊福氏系図」の前半は「記紀伝承・先代旧事本記」の記述と一致しない、また、「新撰姓氏録」が示す「天神地祇の分類視点」にも合致しない故です。

              (これ以外にもありますが、それらは「伊福部考(3)~(11)」をご参照下さい。)

  「因幡伊福氏系図」の前半部分で否定される事項として、次の五点をリストします。
     1  始祖・大己貴命の八世孫に物部氏祖・櫛玉饒速日命をつなげているのはあり得ない。
   大己貴命は地祇であり、饒速日命は天神だから、この二者をつなげる事は出来ない。
   2  古代社会は母系中心だから、意図的な場合は兎も角、母の名を欠くことはない筈です。

   「第八 櫛玉饒速日命  已上の六つ神は、母の名を闕く。」とする記述は大いに怪しい。
    饒速日命の母は栲幡千千姫(萬幡豊秋津師比売)だとの定説を否定しているのです。 
     3 「因幡伊福氏系図」の第八・櫛玉饒速日命から第十三・伊香色雄命に至る物部系譜を

    「先代旧事本記(天孫本紀)」と比較すると、異なる点が多い。  参照  伊福部考 3~12
     4 「武牟口命が伊香色雄命の子」(因幡伊福氏系図)だとする見解は、「記紀・旧事本紀・

   新撰姓氏録」などの古資料には見出せない。
     5  一書曰くとして「出雲色雄命~武牟口命の四代」を「彦太忍信命~武内宿禰の四代」

   と代置しようとしているが、意表を突くものであり、在来の常識を超える。

(2) 因幡・伊福部氏の存在は別史料・出土物で確認できる。

   ところが、因幡・伊福部氏そのものの存在は別史料・出土物で確認できるのです。
 その最も代表的な一例は「伊福吉部徳足比売の骨蔵器」でしょう。

 伊福吉部臣徳足比売は、伊其和斯彦宿祢以後で、歴史に残る女人です。

 この人の遺骨を収めた銅製骨蔵器が、1774年(安永3年)、伊福部氏の根拠地と推定される、鳥取県岩美郡国府町で石櫃の中から発見されたのです。
 その蓋表面に刻まれ放射状の16行の108文字が奈良朝以前の金石文として現存する事となり、因幡・伊福部氏が実在した明確な証拠として認められるのです。

 この人は、文武朝の采女で、位階は従七位下と高い位を授けられ、和銅元年(708)に病歿後、3年の殯を経て、火葬され、その遺骨は故郷・因幡国に送られて、和銅3年11月13日に鳥取平野を見下ろす稲葉山の中腹に葬られた。   ・・これは「墓誌銘(骨蔵器蓋表面の刻字)」から明らかとなったのです。

 この人の出自は次の様なものだと伝わります。(ウイキペディア)
  1 因幡国豪族の稲葉国造・伊福部氏の娘として生まれる。
  2 父母は明らかでないが、伊福部都牟自の子・伊福部国足の娘とする説が有力です。
    3 養老・後宮職員令の規定から「采女に貢進される」女性は郡領以上の家格の姉妹か娘と定め

   られており、伊福部氏はそのような身分だったと推定されています。
  4 伊福吉部氏は因幡国法美郡を本拠地とする地方豪族で、一族から法美郡と邑美郡の郡司を出

   しており、徳足比売は法美郡貢上の采女であったと考えられる。

  第二の代表例は、「因幡国伊福部臣古志」を伝えた宇倍神社・神主家の伊福部氏の存在そのものでしょう。その子孫が武牟口命を因幡・伊福部氏の祖として語るのです。

(3) 第67代・伊福部 昭を偲ぶ
 

 明治の神道改革で神主家の世襲は禁止され、伊福部氏は宇倍神社を離れます。

 そして、人々は偉大なる現代作曲家・伊福部昭(第67代)を知ることになるのです。
 「伊福部 昭」をネット検索すれば、この北海道育ちの因幡・伊福部氏末裔の生涯を、その作曲内容までも、知ることになるでしょう。

 

   ここでは、伊福部昭の生涯を偲びながら、その略歴のみを記す事で、詳細は、ネット記事に委ねて、お読みの皆さんの選択に任せましょう。
  ・伊福部 昭 略歴:
   1935年、20才の北海道・厚岸の青年作曲家はパリで行われたチェレプニン賞コンクールに応募した所その「日本狂

       詩曲」が満場一致で第一位を獲得します。
    注 アレクサンドル・チェレプニンAlexander Tcherepnin (1899-1977)はロシア革命をパリに逃れた作曲家&

                  ピアニスト。その後、第二次世界大戦ではアメリカに渡り、終生、米仏を往復して作曲活動を続けました。
  1946年、32歳。東京音楽学校(現東京藝術大学)新任学長・小宮豊隆が伊福部を作曲科講師に招聘
  1947年、33歳。東宝映画「銀嶺の果て」で初めて映画音楽を担当、その後、映画音楽分野で多数の実績を挙げ、作曲

                 活動は広範囲に及ぶ。次の4作の歌曲は、終生の課題の一が北海道であり、その作風は民族性・ローカルな

                 音楽性の普遍化だったと云う事を示しています。
                     「オホーツクの海」(1958年)、
                     「知床半島の漁夫の歌」(1960年)、
                     「摩周湖」(1993年)、
                     「蒼鷺あおさぎ」(2000年)
    1974年、60歳。東京音楽大学教授、
  1987年、73才。東京音楽大学学長・東京音楽大学民俗音楽研究所所長を退く。
    2006年、91歳没、生涯に、勲三等瑞宝章、日本文化デザイン賞大賞。文化功労者顕彰を受け、従四位
                          (出所) 伊福部 昭 | History of music、history-of-music.com/akira-ifukube-


 伊福部 昭が80歳のときに作曲した独唱曲「因幡万葉の歌五首」には「伊福部の遙かな古代故郷・因幡」が登場します。

 現代人「伊福部 昭」の音楽の故郷は北海道であり、アイヌ音楽に強い影響を受けたようですが、この人が独唱曲「因幡万葉の歌五首」を作曲したのは、古代因幡に淵源ありと「伊福部氏の出自」を実感してのことでしょう。

4)「因幡伊福氏系図」の評価2

(1) 第二総括:「因幡伊福氏系図」を肯定的に受入れる

 第二総括は「記紀その他の史料」の記述を疑い、「因幡伊福氏系図」を肯定的に受入れる姿勢です。その評価の大前提は次の様に第一前提から一変します。

   大前提2:記紀伝承は作意が先在し、記事全てを信頼できる訳ではない
 大前提3:天神・地祇の分類そのものにも疑義がある。

 「記紀伝承や天神地祇の分類基準」を否定する視点からは、逆に、この「因幡国伊福部臣古志」の記述は注目に値します。

  その時浮上する注目点の一は「因幡伊福部氏系図」の冒頭に登場する「第一 大己貴命」と「第八 櫛玉饒速日命」が系図上で結ばれていることです。

 大己貴命は地祇、饒速日命は天神です。相容れぬ筈の両系統が縦に結ばれている姿は「天神地祇」思想への挑戦的な姿です。
                    参照1        「因幡国伊福部臣古志」の抜粋
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      第一 大己貴命:此れを於保奈无知命と云ふ。][地神五代の内、第二の天忍穂耳尊と申すは、国造の始なり。
                            ・・中略・・  今、国の是之に祭る所の国主神・稲葉の杖社等の類は、是れ大己貴の霊魂なり。
      第二 五十研丹穂命:父は大穴牟遅命と曰ふ。母は天照大神尊の弟、忍小媛命と曰ふ。
      第三 建耳丹穂命  :父は伊伎志尓冨命と曰ふ。
                              ・・中略・・
      第八 櫛玉饒速日命

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   しかも、大己貴命(地祇)は天照大神尊の弟(妹)・忍小媛命(天神)と結婚します。(因幡国伊福部臣古志)

   こんなことは記紀にも他の古史料にもなく、忍小媛命と云う名前も他で見ないです。
   
   然し、「他で見ない」からと云って、否定して良いのでしょうか。
  「今、国の是之に祭る所の国主神・稲葉の杖社等の類は、是れ大己貴の霊魂なり。」と云う 「稲葉の杖社」を探しても、因幡国の式内社にはそれらしき神社を見出せません。
 
 注「他の史料にまったく所見がなく傍証がないこと。従って正史に埋もれた古代地方豪族の史 料だと主張しても、系図

  史料の信頼性の裏付けにはならない」とか「のような記述は他にない」「他には見出せないから、この記述は違う」

  と判定する人もいます。
    だが、そう云う権威者の論考も余り論理的ではなく、文章構成は羅列に終わり、論旨は曖昧なこともあるのです。

  ある意味で、系譜研究の権威者たちも、自らの不十分さに苦悩しつつ、健闘しておられます。

  難しいのは弥生神代期の情報不足です。
    2000年の歴史の中で薄れ消えてしまった記録は膨大です。

  記録さえされなかった事実は、更に、その億倍もある筈です。
  有力な考古学的アプローチを史料ベースの史学と接続する試みはは中々難しい様です。

    
<1> 因幡伊福氏系図の主張:火明命(天火明命、天津神)は大国主命(大汝命、国津神)の裔

  「因幡伊福氏系図」では大己貴命の第八世孫に饒速日命(ニギハヤヒ=天火明命)をリストします。

  第八世孫と云うのは間違いだと、根拠も示さないまま、思ってしまいます。だが、二者間には何かつながりがあるのではないか、と問われれば、否定できません。答えはイエスです。
 類似の伝承が「播磨風土記」にあるのです。

  「播磨風土記」(餝磨郡伊和里条)によると、大汝命は自分の子・火明命が乱暴者なのを憂えていました。二人が乗る船が因達神山まで来た時、大汝命は、火明命に水汲みに行かせ、その間に船を出して逃げると、火明命は怒り狂って波風を立たせ、大汝命の船を転覆させた。と云う逸話伝承が記されているのます。

 ここでも火明命は大汝命(大国主)の子とされています。その世代間隔は「因幡伊福氏系図」が記す7世代ほどには離れていません。

 これは記紀から見れば異伝承ですが、「風土記」なるが故に、これまでの歴史の中では軽く視られたためか、古代にこれを咎めて削除されることはなかったのでしょう。

 火明命は、大己貴命(大汝命)の女・天道日女を妻として、天香山命を生みます。
 今風に云えば、大己貴命は火明命の「岳父」なのです。古代では、この婿・火明命は大汝命の「子」だと理解すれば「播磨風土記」の大汝命と火明命の親子関係は理解できます。

<2> 火明命は天道日女を妃に迎え、天香山命(尾張氏の祖)を生む。

 火明命(天津神)は天道日女を妃に迎え、天香山命(尾張氏の祖)を生んでいます。
 ところが、尾張氏の祖・天香山命の母・天道日女の父は大国主命(国津神)、母は神屋楯姫命(高皇産霊命女、天津神*)なのです。         *但し、宗像女神、宗像族は通念として地祇だとされています。
                    
  これを解き明かしましょう。
 古事記の大国主命の神統譜では「事代主命(国津神)が神屋楯姫命を母に大国主命の子」だとは書いていますが、神屋楯姫命とは何者かは明記していません。

  他の史料(先代旧事本紀・勘注系図・海部氏系図)には天道日女は、別名*ですが、正しく系譜上の位置に記されていて、古事記の記述を補って全体像を見せてくれます。
  * 地祇本紀   : 辺都宮の高津姫神を娶り、二子(都味歯八重事代主神と妹・高照光姫大神命)を生む。
      海部氏系図: 大己貴神は、多岐津姫命(亦名・神屋多底姫命)を娶り、屋乎止女命(亦名・高光日女命を生む。


  資料を総合すると、神屋楯姫命は高皇産霊命(天津神)の女ムスメなのです。
 大己貴命(国津神)は高皇産霊命(天津神)の女を妻に迎え、事代主命を産んでいるばかりか、火明命妃となる天道日女をも生んでいるのです。(参照、図表1)

 これは「火明命は大国主命と縁戚関係にある」事を意味するのですが、古事記はこの関係を示していません。

 

  この図表1の示す系譜図は、「記紀の論理」とも云うべき「天孫と地祇を分割する考え方」を否定しますので、古事記は示したくなかったのでしょう。

<3> 「天神と地祇とを峻別する記紀の論理」

  ウイキペディア「天津神・国津神」は、通念化して用いられてきた「天津神・国津神」を解説していますので、次にその要約を示します。
  
    図表2                                  天津神・国津神の要約  
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 ・天津神(天つ神・天神):高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称
          ・天津神はニニギが筆頭で、ヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になった。
    (内訳) 別天津神 
       造化三神:天之御中主神、高皇産霊神、神産巣日神、+宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神
       神世七代:国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神・須比智邇神、角杙神・活杙神、意富斗能地神・大斗乃弁神、
                淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神・伊邪那美神
         主宰神  :天照大御神                                      
               その他  :天忍穂耳命、邇邇芸命、思金神、建御雷神、天手力男神、天児屋命、天宇受売命、玉屋命、

                             布刀玉命、天若日子、天之菩卑能命など

──────────────────────────────────────────────────────
 ・国津神(国つ神・地祇):地に現れた神々の総称。
          ・国津神は国譲り(葦原中国を移譲)した(日本神話)。
             ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神。但し、高天原から

           天降ったスサノオや、その子孫・大国主などは国津神とされている。 
                       ・国津神は、記紀に取入れの際に変容し、元伝承が残っていないものも多い。
                         ・地祇:天神(アマツカミ)に対して日本国土土着の国神(クニツカミ)を云う。
   (内訳) 主宰神:大国主神
       大国主の御子神:阿遅鉏高日子根神、下照比売、事代主、建御名方神、木俣神、鳥鳴海神
         大国主の配偶神:須勢理毘売命、八上比売、沼河比売、多紀理毘売命、神屋楯比売命、鳥取神
                      その他:椎根津彦、須佐之男命、櫛名田比売、少名毘古那神、大物主神、久延毘古、多邇具久、

                                      大綿津見神、大山津見神、宇迦之御魂、大年神、木花之佐久夜毘売、玉依比売、豊玉毘売、

                                      八束水臣津野命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命、伊勢津彦など     
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 (出所) ウイキペディア「天津神・国津神」      注 赤字の神々は図表1に記載、乃至、記載の神の親子関係にある。

  この「天津神・国津神」に二分する「神々」の分類は、いかにも尤もらしく受け止められますが、実は問題含みなのです。

 図表1の中で、黒字が天神(天津神)、赤字が地祇(国津神)です。だが、天神(天津神)と地祇(国津神)の間の通婚により、その区分は判らなくなります。

 例1:大己貴命(国津神)は高皇産霊命(天津神)の女・神屋楯比売との間に一男一女を産みます。
        すると、その子ら(天道日女・事代主命)は天津神か国津神か、が問われます。
 例2:火明命(天津神)は天道日女との間に天香山命を産みます。
      すると、その子・天香山命は天津神か国津神か、が再び問われます。

 これまでの通念では上の二問は答えないことになっているのです。
 それは図表2に引用のウイキペディアの解説に天火明命(饒速日命)・天道日女・天香山命の記載がないことでも判るのです。この欄の著者は優れた少壮の学者に違いないのですが、天孫降臨の指導神を「その他欄」にすら挙げる事を差し控えたのです。

  だが、男系中心の発想をする人たちの立場で考えてみますと、答え明らかです。
   ・男系国津神と女系天津神との子は国津神だとすれば、天道日女・事代主命は国津神です。
   ・男系天津神と女系国津神との子は天津神だとすれば、天香山命は天津神です。

  どうも、「天神・地祇」の区別論は、アメリカの黒人差別期、白人と黒人の間に生まれた子を「白人か、黒人か」と判定するのに似ています。

<4> 記紀は「天神地祇を分類する考え方」を優先し、これを基軸とする編集姿勢を執った

 記紀は、「天神地祇を分類する考え方」を優先し、「この考え方」に不都合な記事は削除、乃至、一部秘匿する事によって、繕っているようです。

  「天神地祇を分類する考え方」は天孫降臨に端を発します。単純に云えば、降臨神が天津神、先住神が国津神なのです。

   記紀神話は、「国生み神話」に続いて、「天孫降臨神話」を創作して古天皇家の統治権の正当性を主張したのです。そして、記紀神話のストーリーにそぐわない・不適切だと判断すると、編集上、二つの事象間の関係の説明をカットしたり、極端な場合は、関係する人物名を削除します。

 そういう風に思わざるを得ない事案が記紀の神代期には多いのです。

 例えば、「古事記」の大国主命神裔の段です。大国主命の妃・神屋楯比売が事代主神の母だとは記しますが、神屋楯比売の出自が高皇産霊命にあることも、事代主神の妹(又は姉)・天道日女(高照光姫大神命)の存在も記さないのです。
             参照  神屋楯比売は宗像三女神の一柱、多岐津姫命(別名:神屋多底姫命)=高津姫神である(宗像3) 

                                                                                                                                      2017年08月19日

 このことを明示すれば、それは「天神地祇を分類する考え方」に矛盾を来す、と、「古事記」の編者・太安万侶は考えたのでしょう。その上で、不都合な情報を記すのを控えたのです。

  更に、「日本書紀」はこの関係には一切言及しません。系譜関係はなるべくカットするのが書紀の編集方針だと思われます。

 今は、「天神地祇を分類する考え方」が含み持つ問題点を指摘しているのです。
  これ以上の記紀神話の創作編集意図については言及しませんが、当ブログのこの部分の考察を深読みして頂く場合は、次のブログもご参照下さい。  

                                                     結論1「宗像女神の系譜分析」での基本解明四点2017年08月31日

   ハッキリしていることは「因幡国伊福部臣古志」がこの「天神地祇を分類する考え方」に断固として反対していることです。

  「因幡国伊福部臣古志」の編纂の784年は、「古事記」編纂の72年後、「日本書紀」編纂の64年後です。

 他にも価値ある記事を含み持っているかも知れませんが、この「天神地祇を分類する考え方」に断固反対する一点で「因幡国伊福部臣古志」の資料価値は高いと云えます。

(2)「天神と地祇とを峻別する記紀の論理」を排す

 記紀・旧事記の系譜伝承は極めて重要ですが、それとは異なる別伝承を簡単に否定できないことを認める必要があります。

 「古事記序文」の次の記述は、裏返せば、編纂の時に豪族から提出の諸系譜や伝承には大いに手が加えられた事を示唆します。

 古事記序文(抜粋)引用:
 ・(天武)天皇詔り給ひしく、「朕聞く、諸家の持てる帝紀と本辞は既に正実に違ひ、多に虚偽を加

      ふ」と云えり。今の時に当たりて、その失を改めずは未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむと        す。これすなわち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し旧辞を討覈して偽り

      を削り実を定めて後葉に流へむと欲ふ」と詔り給ひき。
  
   「日本書紀」も例外ではありません。この記紀の影響はその後の史料にも及んでいるのですが、「播磨風土記」の大汝命と火明命とのもつれ記事も「因幡国伊福部臣古志」もその影響を免れた一例と見ます。

  記紀を読むには慎重さが要ります。
 

 事代主命に絡んだ諸例をお示しして、今回のブログを閉じましょう。

<1> 「新撰姓氏録」の伝える「天神と地祇とを峻別する記紀の論理」への反論

事例1  455右京神別天神 伊与部 高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也
 「新撰姓氏録」には様々な重大情報がさりげなく秘匿されています。「伊与部」の場合のそのケースと云えます。
                 
  引用:「新撰姓氏録」右京神別天神 伊与部 高媚牟須比命三世孫天辞代主命之後也
       現代語訳:伊与部は高皇産霊命三世孫の天事代主命の後裔なり。
                      注  高媚牟須比命=高御産巣日神(高皇産霊尊)、天辞代主命=天事代主命

  この「右京神別天神」の項に、高皇産霊命は天神(天津神)、天事代主命は地祇(国津神)、この二者は同類として括られています。

   地祇(国津神)が天神の中に含まれているのですから、これは記紀から見たら異端の登記です。

 だが、そのことに「新撰姓氏録」の登記受付側は気付かなかったのでしょうか、登記申請のまま黙認されています。見掛けは秘匿されている情報も、読み解かなければ、判りません。

 この解釈に対する反論はあります。記紀体系(天神は地祇とは別神族だとする)を信じる人々は、この天辞代主命は天事代主命(地祇)を指すのではなく、別人を指す筈だと苦し紛れの主張をなし、それ故に、これはこれで良いと認めているのです。

 だが、系譜分析の結果、二人は(外)祖父とその孫の関係です。
 弥生神代の古代にあっては、女系(母方)の祖父も男系(父方)の祖父も同じ扱いですので、高媚牟須比命三世孫天辞代主命と、単に「孫」と書かれている事に気付かねばならないでしょう。

類例: 386左京天神 畝尾連 天辞代命子国辞代命之後也

事例2  548大和国神別天神 飛鳥直 天事代主命之後也

  飛鳥直は飛鳥坐神社の神主、その飛鳥坐神社は事代主命を祀ります。地祇でなければならない筈の事代主命は「天」を冠にして、「新撰姓氏録」では、天神に列しているのです。
         飛鳥坐神社(奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708)
          祭神:事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)、大物主神
            祭神異説:「大神分身類社鈔」 - 事代主命・高照光姫命・木俣命・建御名方命
                   「五郡神社記」   - 大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神
                                 「社家縁起」      - 事代主命・高照光姫命・建御名方命・下照姫命
                                 「出雲國造神賀詞」  - 「賀夜奈流美の御魂の飛鳥の神奈備に坐て」とあり。


事例3 宮中八神に事代主神が祀られている理由ワケ
 

 天皇家は天神系です。その宮中に、地祇系の事代主神が「宮中八神」の一柱として祀られている事実は否定できません。
     注 「延喜式神名帳」宮中神の条:御巫祭神八座として、次の八神を掲げている。
       神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神


 これについては先に次のブログで論考しています。出雲神(国津神)と高皇産靈神一族の神々(天津神)が葛城の神社群に一緒に奉斎されている点は学会でも訝られていましたが、その謎も「宗像女神は高皇産霊命の女」説で解けました。次のブログをご参照下さい。
      参考 「宗像女神は高皇産霊命の女」説は神代・神道の謎を解く
            (その2)「宮中八神殿」に事代主命が祀られている理由            2017年11月25日
            (その3) 葛城に出雲神が高皇産霊神と共祀されている理由          2017年11月26日
            (その3・続き)葛城に出雲神族が高皇産霊神と共祀の理由             2017年11月26日


<2>「因幡国伊福部臣古志」の示す、別な「天神地祇」の親子関係

  結びは、やはり、「天神と地祇とを峻別する記紀の論理」に雄々しくも立ち向かっている「因幡国伊福部臣古志」に戻ります。

 そこでは、始祖・大己貴命(国津神)の子が五十研丹穂命(一云、伊伎志爾富命)だとしています。
 その五十研丹穂命(一云伊伎志爾富命=伊岐志迩保命)は天孫降臨の随従神の一柱ですから、定義に従えば、明らかに天津神なのです。ここでは、国津神の子が天津神になっているではありませんか。

「天神本紀」はこの伊岐志迩保命を山代国造の祖だと記します。ここに「山代国造の祖」を出発点とする「山代」論(*)が広がります。    *伊福部考 2 因幡伊福氏系図に関する考察     2020年01月22日

  ここに「天神と地祇とを峻別する記紀の論理」に対する新たな挑戦が在るのです。

  次回は、それを「天津彦根命は山代国造の祖なり」として手探りします。