目次 1「因幡伊福氏系図」に見る武牟口命
     1)因幡における賊退治伝承の比較考
       (1) 「武牟口命は日本武尊の征西初期に因幡に渡来」説
       (2) 「日本武尊ではなく武内宿禰の指令」説
       (3) 景行天皇の御代に生きた人々・・武内宿禰・日本武尊・武牟口命
       (4)  「因幡国伊福部臣古志」の示唆する「武牟口命=武内宿禰」説
       (5)  因幡における賊退治伝承の比較考
     2)武牟口命は尾張・伊福部に起源した可能性
       (1) 武牟口命は尾張・伊福部の祖・若都保命の一族の可能性あり
       (2) 因幡街道に武牟口命の足跡を辿る
      次報3)結論:武牟口命は尾張・伊福部に起源する

1「因幡伊福氏系図」に見る武牟口命

 奈良時代末期(伝785ー延暦3ー年頃)に成立した因幡・伊福部氏の系図「因幡国伊福部臣古志」によると、因幡・伊福部氏は武牟口命を祖としています。

  この武牟口命は物部氏祖・伊香色雄の子だと「因幡伊福氏系図」は云います。
 その真偽を確かめるために、前報まで9報にわたり物部氏(二世孫・彦湯支命から六世孫・伊香色雄命まで)の動静を調べ、その最後に「伊香色雄命」を精査して、「因幡伊福氏系図」がその子だとする「武牟口命」につなげられるか、を検討しました。

 残念ながら、「天孫本紀」や「新撰姓氏録」を基とする物部氏系譜の中には「武牟口命」は見出せず、「伊香色雄命」から「武牟口命」への血統の接続は他の史料から裏打ち出来ず、「因幡伊福氏系図」の主張は立証できませんでした。

 本報では、「因幡国伊福部臣古志」を元に出発して、武牟口命の周辺情報を探り、その伝承像を考察します。

1) 因幡における賊退治伝承の比較考

(1)「武牟口命は日本武尊の征西初期に因幡に渡来」説

 先ず、武牟口命は日本武尊の征西初期に因幡に渡来したとの伝承を確認します。
 日本武尊の征西の途中、稲葉・夷住山の荒海なる賊を征伐するために、武牟口命は播磨国で日本武尊の軍勢から離れて因幡国へ向かった、と云います。(因幡国伊福部臣古志)

 引用:「因幡国伊福部臣古志」武牟口命の段抜粋
     第十四 武牟口命[今、武内と用ふ。]伊香色雄命の子。母は布斗姫と曰ふ。
             [一は山代竹姫と云ふ。一は山下姫、菟道彦の女影媛と云ふ。]
    此れ武牟口命は、纏向日代宮に御宇大足彦忍代別天皇の皇子日本武尊に陪り従ひて、吉備彦命・橘入来宿祢等

    と与に、相ひ共に征西の勅を奉りて、去り行きぬ。時に或る人、針磨国より言して曰はく。稲葉の夷住山[智

    頭郡の西に在る高き山の名なり。]に住める荒海、朝命に乖き違いて、当に征討すべしと。

    時に日本武尊、詔して曰はく、汝、武牟口宿祢は、退き行きて伏せ平ぐのみ。吾は筑紫を平げて、背の方より

    将に廻り会はんとす。時に詔を奉りて行くに、荒海が里の人、郡々良麻、参り迎へて槻弓八つ枝を献る。
           ・この「夷住山」は大呂山を指す、とブログ「ご近所の神社訪問記」(千足の里)が指摘されています。


   「因幡国伊福部臣古志」を読むと、「時に詔を奉りて行くに、荒海が里の人、郡々良麻、参り迎へて槻弓八つ枝を献る」とあり、乱の制圧ではないのです。

 虫井神社の伝承でも、この神社に祀られる氏神三兄弟(荒海、都々良麻、里人)は、「皇化ニ浴シ、因幡国を統治し、善政し、・・」とあるのみで、武牟口命への降伏・帰順の記述はありません。
   ・虫井神社(鳥取県八頭郡智頭町大呂967)
       祭神:瀬織津姫命、須佐之男命、速秋津姫命。天之御中主命・大山祇命を合祀
       氏神:三瀧大明神(蔵王権現)・荒海大明神・妙見大菩薩(妙見社)
         補足:虫井神社ハ其昔遠ク人皇第十二代景行天皇ノ御宇、人文未ダ聞ケズ、皇威八荒二輝キ初ムルヤ此地

                            ニ在リテ因幡国ヲ統治セル当神社三人ノ御兄弟(荒海、都々良麻、里人)ハ率先シテ皇化ニ浴シ、部

                            下住民ヲシテ皇室ニ忠良ナル臣民タラシメ、皇其ノ振起ニ效シ、爾来千八百年地方ノ氏神トシテ遠

                            近ノ崇拝厚ク、古クハ三代実録所載元慶七年因 幡国正六位上虫井ノ神ニ従五位下を授クトアリ・・

                                        (神社御由緒より)
   ・『因幡誌』によりますと、三神が最初に降臨したのは近くの夷住山だそうです。

   ・因幡一宮宮司・伊福部系図には「大己貴命より14代の孫・武牟口命が、景行天皇の時、日本武尊に従って征伐

    した。稲葉の夷住山にいる荒海が朝命に従わないので征討すると、荒海・里人・都々良麻の三人が榊の弓八枝を

    献じて降伏した」と。 (出所) ブログ「ご近所の神社訪問記」
         ・この時、武牟口命に槻の弓と八枝を献じたと伝わる、荒海・里人・都々良麻は、荒海大明神、里人大明神(妙見

    社)、都々良麻大明神(三滝さん・蔵王権現社)の三神三社を虫井神社に祀る、と云う。

                                   (出所) HP米子(西伯耆)・山陰の古代史

 それどころか、元慶七年(883)には「因幡国正六位上虫井神ニ従五位下ヲ授ク」(三代実録)とする記録が伝えられています。 事態は、比較的安穏に、収束したように思われます。

(2) 「日本武尊ではなく武内宿禰の指令」説
  一方、武牟口命は、日本武尊ではなく、武内宿禰の指令に従ったとする説があります。

 「武内宿禰が指揮して武牟口命を因幡に派遣した話」は多加牟久神社(式内社)の社頭掲示板にあります。
  引用:多加牟久神社社頭掲示板
   由緒:創建は不明。景行天皇の御世に武内宿禰が熊襲征伐の途中、播州まで来た時、「因幡の金屋の洗足山に山賊

     (鬼)がでて近郷の住民を苦しめるので退治してほしい」との訴えを聞き入れ部下の多加牟久命を差し向けた。
     ・洗足山に対峙する高尾山に仮陣屋を置き、みごと鬼退治した。
     ・住民は大変喜び、仮陣屋の場所のいわれを教えた。その昔、大国主命と八上姫が八十神達に追われて逃げ込

      んだ場所であること。更には大国主命が自分から16世前の先祖にあたることなどから深い縁(えにし)を思

      い、九州には下らず神官としてこの地にとどまり大国主命を祀った。その子孫もこの社に多加牟久命も合わ

                せて祀り、代々神主として奉仕した。これが神社の名の謂れです。 (出所)  「延喜式神社の調査」阜嵐健
  参考:この他、「ブログ・ご近所の神社訪問記」、玄松子の神社記憶、「ブログ神奈木流体バランス法」神社拾遺、

               はいずれも実際の参詣を基にこの「社頭掲示板」(多加牟久神社)を報じています。

   記紀伝承では「武内宿禰の熊襲征伐」の話はなく、ここでは日本武尊が武内宿禰に差し替えられているのです。

 これは、この地域での武内宿禰が日本武尊を上回る影響力の故でしょう。
 最も大きい影響力は宇倍神社(名神大社で因幡国一宮)でしょう。
 宇倍神社はその祭神に武内宿禰を祀り、社家・伊福部氏の「因幡国伊福部臣古志」では、武牟口命は日本武尊に随従したと伝えていますが、ここでは、武内宿禰と日本武尊の伝承は融合しています。
     ・宇倍神社(鳥取県鳥取市国府町宮下)名神大社、因幡國一宮
              祭神:武内宿禰
      ・「因幡国風土記」逸文(「風土記」吉野祐訳 平凡社、原典は「万葉緯」所引の「武内伝」と云う)
       仁徳天皇55年3月、武内宿禰は360余歳にして当因幡国に下向し、亀金に双履を残して行方知らずとなった。

             因幡国法美郡の宇倍山の麓に神の社があり、これは武内宿禰の御霊を祀る宇倍社と云う。武内宿禰は、東夷を

             討った後、この宇倍山に入った後、行方知らずになった、と云う。
    ・延喜式神名帳頭註「因幡國法美郡宇陪一宮、風土記曰、武内宿禰垂跡也、仁徳帝治55年春3月御歳360余歳當國

                                       御下向於亀岡雙履残、御陰所不知、六代帝後見也、當国宇陪・大和葛城境。美濃不破関、

                                       是三ヶ國同日同時顕座、」と有るを以て明かなり。
    ・双履石:即ち、当社本殿の後阜を亀金と云ひ、古來祭神御昇天の霊蹟なりと伝へ、古色蒼然たる標石を存す、

                         武内大臣雙履跡之れなり。
      ・諸社根元記また二十二社註式に、孝徳天皇の大化4年、社壇を造ると載せたり、蓋し当社社殿建立の初めなる

             べし、次で、嘉祥元年甲申、無位・宇倍神に、從五位下を授けられ官社に預る旨「続日本後紀」に見え、爾來

             神階を授けられしこと七回の多きに及び、元慶2年11月13日正三位に昇授せられたり、
      ・社家・伊福部氏に伝わる「因幡国伊福部臣古志」が広く知られ、当ブログの検討対象。
                                     参考 物部論2  物部氏の神祇祭祀2 物部の祖神崇拝 2019年05月31日


   宇倍神社の境内社・国府神社は全七社の合併社ですが、そこに、日本武尊を祀る坂折神社、武内宿禰命を祀る下山神社が含まれていた点は注目します。
       ・国府神社(宇倍神社境内社)
               合祀:國府神社は始め無格社・宮下神社(祭神:建御雷神、宇迦之御魂命)と称せしが、
                大正6年9月、境内末社に指定せられ、同7年4月18日、次の六社を合祀して國府神社と改称せ

                            り、共に起原沿革詳かならず。(鳥取県神社誌)
            境内鎮座の無格社・坂折神社(祭神:日本武尊)、
            同村大字奥谷鎮座の無格社・下山神社(祭神:武内宿禰命)、
            同村大字奥谷鎮座の無格社・小早神社(祭神:速佐須良比咩神)、
            同村大字中郷鎮座の  村社・白山神社(祭神:伊弉諾尊、菊理姫命)、
            同村大字中郷鎮座の  村社・上神社   (祭神:武甕槌命)、
                        同村大字安田学屋敷通り鎮座の村社・安田神社(祭神:土御祖命、奥津彦命、奥津姫命)


   また、若桜街道沿いに鎮座する意非神社は原尾張氏系の天礪目命の末裔が祀った神社ですが、ここにも武内宿禰伝承が遺っています。
        ・意非神社(鳥取県八頭郡若桜町屋堂羅 1、因幡国 八上郡鎮座)
               祭神:天饒日尊
               社伝:天礪目命(天饒日尊四世孫)が大炊形部と称し、その子孫が祖神を祀った神社。
                       武内宿禰が因幡国守護となって下向の節、一宮谷(不香田)にあった当社境内で、白羽の矢を持ち

                           「この矢の落ちる処に大炊の神を遷す」と矢を放ち、落ちた谷を矢落谷と名づけ、ここに社屋を

                           たてて祀った。

   都波只知上神社の伝承は、「帝は皇子日本武尊に武内宿弥を添え」(下記)とあり、再び、武内宿禰と日本武尊の伝承は融合しています。
          ・都波只知上神社(鳥取市河原町佐貫511、二座 因幡国 八上郡鎮座)
             祭神:大帶日古淤斯呂和気命(景行天皇) 日本武尊、天穗日命
             合祀:大己貴尊 三穗津姫命 素盞嗚尊 櫛名田比売命、八上比売命 天太玉命 鹽土老翁命 彦火火出見命

                            景行天皇、猿田彦尊 事代主尊 意富伊我都命 伊弉册命 十握劍  保食神、罔象女命 倉稻魂命 

                            級長戸邊命  帶中津彦命 誉田別命 気長足姫尊 
                         ・合祀社-明治元年、 岩瀬神社(字西山鎮座)、稲荷神社(境内鎮座)、高良神社(字国本鎮座)、
                            明治42年、 石坪神社(字宮の前鎮座)、白鬚神社(字廣鎮座)

                                       大正4年、  八日市神社(大字八日市字蜘蛛谷鎮座)    
                    由緒:伝説によれば、昔、景行朝に蜘蛛谷と云う処(大皿谷)に土蜘蛛が住み、悪行甚しく人々を苦しめた

                             ので、帝は皇子日本武尊に武内宿弥を添え、海石榴樹製の椎で山を穿ち退治された(日本書紀)。

                         其時の功を推崇して祭り「都波只知上神社」と稱して氏神とした。

          神号「都波只知」は「海石榴市」の假名書である。

   どうも、この地域は日本武尊に武内宿弥の祭祀は重なっているようです。それが伝承の中で日本武尊を武内宿弥に差し替える事態を生じたのだと思われます。

(3) 景行天皇の御代に生きた人々・・武内宿禰・日本武尊・武牟口命
   記紀伝承に従う限り、武内宿禰と日本武尊は景行天皇の御代に生きた同世代の人です。そして、日本武尊の征西に従った武牟口命もこの景行朝の人だと云えます。

  この因幡伝承は、武内宿禰と日本武尊とに分断されていても、融合されていても、景行朝の出来事を伝えようとしていることだけは確かです。

 これを「参考図表  武内宿禰に関する基礎情報」で確かめて下さい。

 意非神社の社伝(創立譚)は「 武内宿禰が因幡国守護となって下向の節」とあるのみで、時期を示しません。だが、武内宿禰に関する因幡伝承の時期は景行朝ではありません。

 宇倍神社の創立由緒に「仁徳天皇55年3月、武内宿禰は360余歳にして当因幡国に下向し」とあるように、その創立は仁徳朝であり、景行朝より約50年後のことです。

 

 

 

 伝承の一字一句に拘ると、矛盾の罠に陥ります。
 更には、次の「一書曰、武牟口命=武内宿禰」説は大胆であるだけに矛盾含みです。

(4)  「因幡国伊福部臣古志」の示唆する「武牟口命=武内宿禰」説

  「因幡国伊福部臣古志」の系譜には「武牟口命は武内宿禰」説が登場します。
                    参考 尾張古論5 伊福部考(2) 因幡伊福氏系図に関する考察 2020年01月22日

  一書曰として「第十一 出雲色雄命が彦太忍信命。第十二 内色雄命が屋主忍命。第十三 伊香色雄命が屋主忍男武雄心命。第十四 武牟口命が、今、武内と用ふ。」(原文の中味のみを伝える略形式です)とあるのです。

 これを読み解けば、先ず、出雲色雄命は、記紀が云う、孝元天皇・伊香色謎命の皇子・彦太忍信命に他ならない、と云うのです。

  更に、「因幡伊福氏系図」と記紀伝承との「武内宿禰系譜」の対照は次の様になり、伝承に抜ける人名を見出します。曖昧さを遺したまま先に進みます。

 

  これまで、「天孫本紀」を元に、物部氏各世代の血縁関係と地域展開を調べたのですが、そこでは、武牟口命が伊香色雄命の子であるとの情報は得られていません。

 これが「因幡伊福氏系図」を疑う理由となります。
 

 「武牟口命=武内宿禰」説の真偽論は、将来、武内宿禰を本格的に取り上げる時まで、持ち越します。二者の地位格差から見て、直感的には否定的なのですが、何か肯定的な資料はないか探っていますと、都波只知上神社の社伝が浮上してきましたので付論とします。

 

   都波只知上神社の社地は、元々、天穗日命を祀っていたのでしょう。そこへ、 祭神:大帶日古淤斯呂和気命(景行天皇)・日本武尊、を祀る事態が生じ、この二神の祭祀事情が社伝として遺り、更に、後世、周辺神社の統合により合祀神が加えられたものと思われます。
 

  都波只知上神社の合祀神の中に景行天皇が含まれていることは、この地域での、景行天皇の祭祀強度を確かめさせます。

  話のポイントは「景行帝が皇子・日本武尊に武内宿弥を添え、海石榴樹で作った椎で」土蜘蛛を退治した点です。

 

   この武内宿禰が武牟口命と同一人物ならばこれは「因幡国伊福部臣古志」の伝承とほぼ同一と見なせます。 「因幡国伊福部臣古志」は中々よく考えられた系図だと云うことになります。

(5)  因幡における賊退治伝承の比較考
  ここで、図表2に「因幡における賊退治伝承の比較」を示し、簡単にコメントします。

  先ず、この因幡伝承は、基本的に、武内宿禰と日本武尊との二つの伝承が重なっているように思われます。また、各伝承は、共通して、この事件を景行朝の出来事としています。

 面白いと感じたのは、播磨の国人が因幡での出来事を通報している点です。

 この点は、後に「因幡街道」の項で再度取り上げます。

 

 

   因幡における賊退治の主役・武牟口命(伊福氏系図)は、武内宿禰と同一人で、且つ、多加牟久命(多加牟久神社祭神)と同神である可能性はあると思われます。

 だが、一方で、「武牟口命の賊退治伝承」と「武内宿禰の因幡渡来伝承」との混同疑惑が消せません。

  敢えて云えば、武牟口命は「武牟口命」のままでもよかったのですが、「元伝承」が伝承されていく過程で、武牟口命を「武内宿禰」と同一とすることで「話」に彩りを添えたのではないか、との疑惑が生まれます。

2)武牟口命は尾張・伊福部に起源した可能性

(1) 武牟口命は尾張・伊福部の祖・若都保命の一族の可能性あり

 日本武尊の時代は景行朝(四世紀半ばと推定)ですが、日本書紀の景行天皇段には武牟口命の記事はありません。だが、そこには、日本武尊に随従した美濃&尾張人が記されています。

 景行天皇27年10月、16才の日本武尊は熊襲征伐に出ます。
 この時、美濃国の弓の名手・弟彦公とその部下が随従します。弟彦公は、石占横立、尾張の田子稲置・乳近稲置を率いてやってきた、と記録(日本書紀)に残っています。
      参考・景行天皇二十七年十月己酉条:
       弓の名手を探していた日本武尊の招喚に応じ、弟彦公は、石占横立、及び、尾張の田子の稲置・乳近の稲置を

       率いて、日本武尊の熊襲討伐に随行し、同年十二月、熊襲魁帥の仲間を悉く斬る。

    武牟口命も、尾張・美濃から日本武尊の西征に従った、かとも読めます。
  敢えて牽強付会すれば、武牟口命は弟彦公に繋がる人だった可能性があります。

    ここで思い出すのは、弟彦公の弟・若都保命が「伊福部の祖」と呼ばれ、愛知県一宮市の「伊富利部神社」に祀られている事です。

 若都保命は、倭得玉彦命(天火明命八世孫)を父とし、弟彦命(九世孫)の異母弟に当たり、丹波の原尾張氏からつながる家系の人です。
 「若都保命は伊福部の祖なり」と伊富利部神社の社伝にある事は既に記しました。
                                   参照  尾張古論4 伊福部考(1) 伊福部の祖神・若都保命 2020年01月09日

  武牟口命は、その若都保命の縁者の一人だったかも知れないのです。
  もしそうであれば、伊福部の祖・若都保命一族は、兄・弟彦公の要請を受けて、田子稲置・乳近稲置の二人を派遣した、と更なる憶測が出来るのです。

   この読みは、「因幡国伊福部臣古志」に残された「汝、武牟口宿祢は退き行きて伏せ平ぐのみ」との伝承を読みこなす上で役立ち、また、多加牟久命は、「九州には下らず神官としてこの地(因幡)に留まり大国主命を(多加牟久神社に)祀った。その子孫もこの社に多加牟久命も合わせて祀り、代々神主として奉仕した。」(多加牟久神社) との伝承に繋がります。

  すると、 武牟口命は尾張・伊福部の祖・若都保命の一族だった可能性が浮上するのです。やや大胆ですが、ここに一仮説を得ます。

 仮説:武牟口命は伊福部の祖・若都保命の縁者の一人で、その兄・弟彦公に従って征西した。

(2) 因幡街道に武牟口命の足跡を辿る

  日本武尊の征西軍は山陽道を下って播磨まで来た来た時、日本武尊(または武内宿禰)は「因幡の金屋の洗足山の山賊を退治して欲しい」(*)との請を受けるのです。
 *多加牟久神社伝承。日本武尊系では宇倍神社伝として、針磨国より言上あり。「稲葉の夷住山の荒海を征討すべし」とあり。

 



 

 武牟口命は因幡道を北上したと推測されます。

  そこで山陽道から因幡街道が分岐する地域を拡大してレビユーすると、伊福部連が斎祀った「粒坐天照神社」(図表3のA)に出会うのです。

   粒坐天照神社の創立譚では、第32代崇峻天皇~第33代推古天皇の御代(587--628)、播磨国に伊福部連・駁田彦なる人物が神啓に基づき、この社を創建し、祖神・天照国照彦火明命を祀った由です。

 ここに因幡・伊福部氏に繋がる可能性を持つ「西播磨・伊福部連」が登場する点に注目したいと思います。
      ・粒坐天照神社(兵庫県たつの市龍野町日山)
           祭神:天照国照彦火明命
                     [論社]・伊勢神社(姫路市林田町上伊勢)
                         ・梛神社(姫路市林田町下伊勢)
                         ・梛八幡神社(たつの市神岡町沢田)
                                           ・井関三神社(たつの市揖西町中垣内)*
        神社縁起:第32代崇峻天皇、第33代推古天皇の御代(587--628)、播磨国現たつの市に伊福部連駁田彦なる

                            人物が神啓に基づき、創建した。
                 ・容貌端麗な童子が云った。『我は天照国照火明命の使いである。天火明命の幸御魂はこの地に鎮

                            まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を超ゆ。今、汝の正直・誠実なるに感じ給い天降り

                            まして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営し奉祀せよ。今ここに稲穂

                            を授け給う。これを耕作すれば、汝の田のみならず此の里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄

                            えゆくであろう』と。
           *井関三神社社伝:崇神天皇2年、内待所の上に玉光あり、播磨国にも玉光照す所あり、之に天照国

                                                   照彦火明奇魂饒早日命を祀れとの神教の随々に時の四道将軍道主命に勅して其の

                                                   境*に社を立て給う。

                         *播磨国揖保郡亀山

 粒坐天照神社の縁起は6世紀末の創立を伝えますので、それは、武牟口命の因幡行の景行朝(4世紀中葉と推定)より後の時代です。だが、因幡道は、貧弱ながら、既にその頃にはあり、且つ、伊福部連の一支族が既にこの地を拠点としていたと考えます。

  因幡街道は、実際は、古代の「草上駅」(図表3の①、姫路市)から分岐が始まっています。
    注  古代の駅家制度は、718年(養老2)制定の養老令の「厩牧令」にありますが、それ以前には原始的な仕組み

             (プロトタイプ)があっただろうとして、この駅家制度を代用します。

   粒坐天照神社はその「草上駅」から「越部駅」(図表3の②)へ向かう道筋にあります。
 播磨の人が「因幡に変事あり」と告げたのはこの西播磨の地で、この時既に伊福部氏縁故の人々

が先住していた可能性は大きいので、この人たちが因幡の変事を告げたと推測します。

  粒坐天照神社は千種川沿岸にあり、そこを現29号線を北上すると伊和神社を通り若桜街道として

因幡に行けます。

 だが、因幡街道は北西に向かい、天一神社二社D1・D2近くを経由して、下徳久④・大願寺⑤の二つの駅家を通り、釜坂峠を超えます。

 その先は図表3のX地点です。ここは虫井神社・大呂神社・夷住(大呂)山付近を流れる北股川が千代川上流と合流する地です。虫井神社は賊徒扱いを受けた荒海を祀り、近くに伝承の中に出てくる「夷住山」があります。

 武牟口命は、このX近傍で、荒海らと、合戦・帰順儀礼などのカタチはともあれ、出逢った可能性があります。

 千代川を下ると、道俣駅⑦を経由して、都波只知上神社E1・多加牟久神社E2に至ります。
             E1 都波只知上神社(祭神:大帶日古淤斯呂和気命ー景行天皇ー、日本武尊、天穗日命)
           E2 多加牟久神社(祭神:武牟口命)


  E1・E2の鎮座を左手の丘陵に認めつつ、因幡街道を北上すると⑧莫男駅に至ります。

   ここは因幡国の中心地で、千代川を渡ると因幡一宮・宇倍神社(祭神:武内宿禰)が鎮座します。
 その神主家・伊福部氏が武牟口命を祖神とし、「因幡国伊福部臣古志」を掲げて伊福部氏の遠祖は大己貴命だとしているのです。

 こうして、武牟口命が、播磨人の知らせを受けた日本武尊の命を受け、因幡に向った道がこの「因幡街道」だと推測します。