目次   前報 (1) 伊香色雄命の妻子(その1) 山代県主の祖・長溝の娘・三姉妹
     本報 (2) 伊香色雄命の妻子(その2) 志紀県主の女・真鳥姫
            <1>  伊香色雄命の末裔に「志紀県主」を継ぐ者あり
            <2>  シナリオ仮説;真鳥姫が伊香色雄命妃となる経緯イキサツ
                   <3> 建新川命
            <4> 大咩布命・・「多遅麻物部氏の祖」としての側面
                  <4-1> 大咩布命(天孫本紀)ー胆杵磯丹杵穂命・志貴県主の血統との交差(通婚)                       <4-2>  大咩布命(但馬故事記)ー三県の大縣主にして、多遅麻物部氏の祖
                  <5> 売布神社(射楯丘)と気多神社の後日譚
                  <6> 物部多遅麻売布大連の葬儀に関わった人々が祀った神社
                  <7> 伊香色男命の子としての吟味
        (3)  伊香色雄命の子(総括)
 

承前
(2) 伊香色雄命の妻子(その2) 磯城県主の女・真鳥姫

<1>  伊香色雄命の末裔に「志紀県主」を継ぐ者あり
 伊香色雄命は、倭志紀彦の娘の真鳥姫を妾として、一男を生ませます。(天孫本紀)
 その一男とは、建新川命[倭志紀県主らの祖]を指すと判断できます。この点は先に述べています。

                             参考 尾張古論7 伊福部考(4)  河枯と真鳥姫の謎 2020年02月10日
                            参考  尾張古論9 伊福部考(6) 磯城県主の謎    2020年02月24日

  物部氏から「倭志紀県主の祖」となった、とする記録が次の様にあります。
  ① 建新川命(倭志紀県主らの祖・・天孫本紀)、
  ② その弟・大咩布命(和泉国・志貴県主・・新撰姓氏録、若湯坐連らの祖・・天孫本紀)、
                          参照 698和泉国神別天神 志貴県主 饒速日命七世孫大売布之後也
  ③ 甥・物部印岐美(物部十市根連の子。志紀縣主、遠江国造、久努直、佐夜直等祖・・天孫本紀)

 しかし、この磯城郡に来ると、杳としてその残影は見つかりません。

<2>  シナリオ仮説;真鳥姫が伊香色雄命妃となる経緯イキサツ
 崇神天皇が天下を治められた宮居・磯城瑞籬宮は磯城御県坐神社の境内にあった、と伝わります。或いは、磯城瑞籬宮の宮域に磯城族の斎祀る磯城御県坐神社を鎮座さす経緯があったのかも知れません。

 磯城族と崇神天皇とのこれ程の地域的密接さを考えると、(磯城県主と推定される)倭志紀彦の娘・真鳥媛は崇神天皇に近い女性でしょう。その乳母か、或いは、後の時代の云い方では「采女の立場」に近かったのではないか、とも推測します。

 一方、伊香色雄命は、開化天皇皇后・伊香色謎命の弟ということもあって、当時、宮中で急速に力を付けていたと思われ、実際、開化朝でも崇神朝でも、伊香色雄命は大臣として仕えた、と伝わります。(天孫本紀)

 未だ即位はしていなかった頃、崇神天皇は、母・伊香色謎命の弟に当たる伊香色雄命(開化天皇大臣)の身近にあって、敬意と親愛の気持ちをもって接していた、と云っても良いでしょう。

 伊香色雄命の姉・伊香色謎命は、孝元天皇皇妃となり彦太忍信命を生み、孝元天皇崩御後、開化天皇の即位6年、開化天皇皇后となり、崇神天皇を生みます。
 ですから、崇神天皇にとっては、伊香色雄命は叔父に当たる人でもあります。

 伊香色雄命と真鳥姫との通婚は開化・崇神両天皇の意向を受けていた可能性も否定できません。
 いや、皇后・伊香色謎命の密かな、或いはかなり具体的な、根回しがあった、と考える方が楽しい空想となりましょう。             千七百年前の往古を空想する「歴史遊び」は、歴史学者には許されない、素人の特権です。

 周りの人たちは、容姿端麗で高い教養のある采女・真鳥媛を伊香色雄命に見合わせて縁を結ばせたのではないでしょうか。或いは、磯城瑞垣宮(朝廷)に大臣として仕える伊香色雄命は磯城御県坐神社の真鳥媛をいつも近くに見知って居たので、二人の間に愛が育まれたのかも知れません。
  注 「采女は地方豪族の出身者が多く、容姿端麗で高い教養力を持っていた、と云われており、天皇のみ手が触れる事が許される

    存在でもあり、古来、男性の憧れの対象となっていた。」(ウイキペディア)

  伊香色雄命は、先に「山代県主の祖」・長溝の三女を娶っていますが、それに加えて、志紀県主家の真鳥姫を娶るに至った経緯として、宮廷内の動きを推測すると、古代史も次第に肉付きが出るというものです。

  「采女」は後世の大宝律令(701年)に成文化された制度です。
 しかし、その先駆となる仕組みはこの崇神朝にもあった筈ですので、図表4に「真鳥姫(磯城県主の女)の采女」説とその背景を一括しますので、ご参照下さい。

 

<3>  建新川命
  建新川命は、伊香賀色雄命がこの真鳥媛(倭志紀彦*の娘)を娶り、生ませた子です。
                                    *磯城=志記=志貴の故に、磯城県主家と推定します。
  「天孫本紀」は、その建新川命は「倭の志紀県主の祖」だと記しますので、本人、又は、その子が志紀県主家を継いだと思われます。
       ・だが、この記述を裏付ける伝承は志貴御県坐神社とその周辺(大和国磯城郡)に見出せません。

 伊香色雄命は崇神朝の人(記紀・天孫本紀)ですから、その子・建新川命が母方を継いで「倭志紀県主の祖」(天孫本紀)となったのは崇神朝~垂仁朝、又は、それ以降でしょう。

 この伊香色雄命の時、志紀県主家は物部家から外孫の建新川命を継嗣として受け入れて、名目は志紀県主家ながら、実質は物部家に吸収されたのでしょう。

 これで、かねてから迷宮入りしていた「磯城県主の謎」は、更なる物証は必要ですが、ここにその解決の糸口を見出すことができるように思われます。

 

<4> 大咩布命

<4-1> 大咩布命(天孫本紀)ー胆杵磯丹杵穂命・志貴県主の血統との交差(通婚) 
 大咩布命(若湯坐連の祖)は、伊香色雄命の男で、建新川命の弟で、垂仁朝の侍臣だったと記されています。

                                                           (天孫本紀)
 「新撰姓氏録」では、大咩布命は、若湯坐連 胆杵磯丹杵穂命之後也」(河内国神別天神)、「志貴県主の祖」(和泉国神別天神)と二様にあるので、胆杵磯丹杵穂命の血統との交差(通婚)があり、更には、志貴県主の血統とも交差(通婚)があると理解します。

<4-2>  大咩布命(但馬故事記)ー三県の大縣主にして、多遅麻物部氏の祖

 ところが、史料を「但馬故事記」に切り替えると、そこには様変わりの局面が展開しているのでした。即ち、「但馬故事記」には、多遅麻物部氏の祖・物部大売布大連が登場し、「天孫本紀」が触れていない、大咩布命の別な新側面を知らされます。

 

  物部大売布大連は、「但馬故事記」(気多郡記)では、初め日本武尊の東征に従い、その十数年後、景行天皇の東国巡視の行幸にも、孝元天皇皇子・大彦命の孫・磐鹿六獦命イワカムツカリと共に随行した事が記されています。                   
       注 「新撰姓氏録」(高橋朝臣本系)逸文によれば、景行朝に磐鹿六獦命が「膳臣」を賜姓の後、天武朝に六獦命十世孫の

         膳国益が「高橋朝臣」に改めたと云うウイキペディアの記事と照合出来ます。

 その日本武尊東征への貢献により、景行天皇32年夏6月、物部大売布大連は、「摂津の川奈辺(川辺郡)・多遅麻の気多・黄沼前の三県を与えられ、多遅麻に入り、気多の射楯宮に在した。多遅麻物部氏の祖である」(気多郡記)と伝わるのです。
     ・気多神社(豊岡市日高町上郷大門、但馬国気多郡日置郷)式内社 但馬国気多郡、但馬総社 気多大明神
            祭神:国作大己貴命・物部多遅麻連命・大入杵命    「国司文書 但馬郷名記抄」
            由緒1:人皇一代神武天皇九年冬十月、佐久津彦命の子、佐久田彦命を以って、佐々前県主と為す。
             佐久田彦命は、国作大巳貴命を気立丘に斎き祀る。これを気立神社と称し祀る。また佐久津彦命は佐久宮に

             斎き祀る。
           2 御由来:創立年月不詳なり。大己貴命(葦原志許男命)と天日槍命と国占の争ありし時、命の黒葛此地に落ちた

                 る神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し、中世以降総社 気多大明神

                 と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有したりき 明治三年社名を現在の通

                 りに改め、同六年十月郷社に列す。
            3 仁徳天皇元年4月、多遅麻連公武の子・物部多遅麻毘古は、多遅麻連公武を射楯丘に葬ります。
    引用:「気多郡故事記」及び「城崎郡故事記」
                    *引用先は「但馬国ネットで風土記」(山根浩二氏)にある「但馬故事記」です。

                         ここに山根氏のご尽力になる達成に心からなる感謝の念と敬意を表します。
          ◇ 「気多郡故事記」
           景行天皇32年夏6月、伊香色男命の子・物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷を征伐したことを賞し、その功により、

                                               摂津の川奈辺(川辺郡)・多遅麻の気多・黄沼前の三県を与えられる。大売布命は、多遅麻に入り、

                                               気多の射楯宮に在し、「気多の大県主」となる。 「多遅麻物部氏の祖」である。
          ◇ 「城崎郡故事記」も同趣旨の記述があります。
            景行天皇32年秋7月、伊香色男命の子・大売布命を黄沼前県主(気多県主兼務)とす。大売布命は気多の射楯宮にあり                                                   て、この地を領知する。

 

    物部大売布大連は、寿79歳で亡くなり、その子・物部多遅麻連公武が父を射楯丘に葬ります。その時の多くの葬礼協力者が記録に残っています。(気多郡故事記)

         ◇ 「気多郡故事記」
               神功皇后立朝2年5月21日、気多大県主・物部連大売布命が亡くなった。寿79歳。射楯丘に葬る。大売布命の子・物部

                                               多遅麻連公武を多遅麻国造とし、府を気立県(気多)高田邑(久斗)に置く。物部多遅麻連公武は
                                ・天目一箇命の裔・葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、

                                ・彦狭知命の 裔・楯縫首を召し 、矛・盾を作らせ、
                                ・石凝姥命の 裔・伊多首を召し、鏡を作らせ、
                                ・天櫛玉命の 裔・日置部首を召し、曲玉(勾玉とも)を作らせ、
                                ・天明命六世孫・武碗根命の裔・石作部連を召し、石棺を作らせ、
                                 ・野見宿祢命の裔・土師臣陶人を召し、埴輪・甕・秀罇
ホダリ・陶壺スエツボを作らせた。
                              また、大売布命の御遺骸におもむき、 御統玉を以って、髻
モトドリを結い、御統五十連の珠を御首

                                                 に掛け、御霊の鏡を御胸に掲げ、御統玉を、手まとい・足まとい首に結び、 御剣を御腰に履かせ、

                                                 御楯を左手に捧げ、御矛を右手に携え、磐石の上に立て、これを石棺に納めて、射楯の丘に葬                                                     る。 そして、埴輪を立てて、御 酒を秀樽に盛った。御食を陶壺に盛りて、これを供え、草花を立て

                                                 て、祀った。

  その後の「但馬故事記」に遺る記録では、物部多遅麻毘古は父の霊を気多神社に遷します。だが、祖父・物部多遅麻売布大連の霊を合祀した記録は気多神社にありません。
 

  ここに詳述されている、古代の首長墳墓の埋葬準備状況も引用し、参加している職能人グループについてご覧頂きます。後に「古代の葬礼と弥生墳墓・古墳・神社」をまとめる機会が来た時、役立つ情報です。

<5> 売布神社(射楯丘)と気多神社の後日譚
   「売布神社」(射楯丘)は物部大売布大連の「気多の射楯宮」の地であろうか、と思われます。
  その地は日高町弥布と日高町国分寺の境目になり、下を「国分寺トンネル」が通っていますが、今は荒廃著しく、往古の面影を残しません。
   売布神社(気多郡高田郷射盾(石立)村鎮座、豊岡市日高町国分寺字山脇)延喜式神名帳 但馬国 気多郡鎮座
        祭神:大売布命 配祀:毘沙門天 稻荷大明神
        由緒:朱鳥3年(688)の創祀、或いは、持統天皇三年(689)、少穀・忍海部広足が祀る。
              往古は禰布ケ森(但馬国分寺跡あり)に鎭座、中世に天神と呼ばれる山腹に遷座、文久2年(1862) 現在地に遷る。
            ・日高村郷土誌:石立村は国分寺村と合し国保村と改称せしにより、今の所属村名往古と異なれり。「神名帳考証」に 

                    は、当社祭神を埴安姫、又は「但馬式社鎮座考」には売布神社、埴安姫命 禰布森大明神 高田庄石立坐とせり。
              ・ゼンリン地図に「売布神社」二社の鳥居マークがありますが、マピオン地図もグーグルも「売布神社」を示していません。

 

 

<6> 物部多遅麻売布大連の葬儀に関わった人々が祀った神社
 古代の首長墳墓の埋葬準備状況も引用し、且つ、参加している「葬礼具・副葬品の製作者たち」(職能人グループ)についての記録もここに詳述されています。引用しご覧頂きます。後に「古代の葬礼と弥生墳墓・古墳・神社」を考察する機会が来た時、役立つ情報です。

  注目すべきは、これら「葬礼具・副葬品の製作者たち」(職能人グループ)はこの時、自らの祖神を合わせ祀っていることです。

 即ち、仁徳天皇2年春3月、物部多遅麻毘古は、父・公武の霊を気多神社に合祀した時、これに倣い、関係者たちは次のような祖神祭祀を執り行います。

 

<7> 物部大売布命
  物部大売布命は伊香色男命の子(気多郡故事記)とされ、「多遅麻(但馬)物部氏の祖」とされていますが、果たしてこの人物は天孫本紀で云う「大咩布命」と同一人物でしょうか。

 「但馬故事記」(気多郡故事記、景行天皇32年夏6月)では、物部大売布命は伊香色男命の子とされ、物部連大売布命が寿79歳で亡くなると、その子・物部多遅麻連公武が多遅麻国造となり、父を射楯丘に葬った由を伝えます。(神功皇后立朝2年5月)

  「但馬故事記」に従うと、伊香色男命の子・大売布命は、次のような系譜の中に位置すると判断できます。
 



 

   これに対して、「天孫本紀」は、「多遅麻」を名前に含む物部多遅麻連公(九世孫)は、武諸隅大連(新河大連の

子で、八世孫)の子で、景行朝に大連となり、石上神宮をお祀りし、安媛(胆咋宿祢の子・物部五十琴彦連公の娘)を妻

として、五子をお生みになった、と伝えます。

 その五子の長男は物部印葉連公(十世孫)で、応神朝に大連として仕えたとされます。 「印葉」は因幡国に通じ、因幡は物部多遅麻連公の「多遅麻(但馬)」の隣国です。

   「天孫本紀」の記す大咩布命(七世孫)は垂仁朝の侍臣とされ、「気多郡故事記」の記す物部大売布大連(伊香色雄命の子)は景行朝の人とされ、世代も一致しますので、二代にわたる同一人物である可能性は否定できません。 

  しかし、「天孫本紀」で、武諸隅大連(八世孫)の子として、物部多遅麻連公(景行朝)が登場するので、この「物部多遅麻」を大咩布命につなげるのが困難なのです。

  止むを得ず、ここでは伝承上の誤謬としてこの「謎」(差異)に目をつむります。

<8> まとめ:伊香色男命直系の主要物部人

  図表8に「伊香色男命直系の主要物部人」をリストしてこの報を終えて次に行きます。

  1大新河命(垂仁朝):この人は物部連公を賜姓。大臣・大連となり、大連の称号はこの人が初出です。
  2十市根命(垂仁朝):この人は大新河命と同等に扱われ、物部連公を賜姓。大連となり、しかも、五大夫

               の一人とな理ます。「出雲の神宝の検校」は特記されてその功績とされています。 

  3大咩布命(垂仁景行朝):景行朝に日本武尊の東征、その後の景行天皇の東国行幸に随従して、功績多く、

             三郡の大縣主に任じられ、但馬・気多に国府を置いて、多遅麻物部氏の祖となる。
 4建新川命(垂仁朝):母・志紀県主家を継ぎ、大和・志貴御県主神社に入る。(これは推定です)



 

付言:「因幡伊福氏系図」が伊香色男命の子だとする武牟口命は「天孫本紀」にも「但馬故事記」にも登場

    しません。今しばらくの辛抱が必要です。