引き続き「因幡伊福氏系図考2」を書きますが、タイトルが堅い感じなので、改めて「彦湯支命の三人の妻たち」としました。

目次 前報 <因幡伊福氏系図考1>
      1宇倍神社
          2「因幡伊福氏系図」の五大特徴の考察
               (1)「因幡伊福氏系譜」は「物部氏系譜」(天孫本記)を組込んでいる
               (2)「因幡伊福氏に組入れの物部氏系譜」と「物部系譜」(天孫本紀)との比較
                        第一特徴:始祖・大己貴命の子が五十研丹穂命(一云、伊伎志爾富命)だとする。
                          第二特徴:「山代」論
    本報  <彦湯支命の三人の妻たち> 
                第三特徴:大己貴命の八世孫に物部氏祖・櫛玉饒速日命を位置づけし、その後、                                   第十三世孫・伊香色雄命まで繋げている
            (1) 因幡伊福部氏系譜」は「物部氏系譜」(天孫本記)を組込んでいる
           <1>「因幡伊福部氏系譜」の大己貴命ー饒速日命接続は記紀伝承等と合わない
                     <2>  古代には「地祇男系に天孫男系をつなげる」発想はあり得ない
                         <3>「因幡国伊福部臣古志」は延暦3(784)年に成立し、その後の加筆あり。
          (2)「因幡伊福氏に組入れの物部氏系譜」と「物部系譜」(天孫本紀)とを比較する
                         <1> 因幡伊福氏系図」は第七代から第八代への接続性を暈ボかしている
                         <2>「彦湯支命」論
      次報 <出雲色雄命・伊香色雄命> 

   第三特徴:大己貴命の八世孫に物部氏祖・櫛玉饒速日命を位置づけし、その後、第十三世孫・

                  伊香色雄命*までつなげている。   *「物部系譜」(天孫本紀)では天火明命六世孫

(1) 「因幡伊福部氏系譜」は「物部氏系譜」(天孫本記)を組込んでいる


   第二の特徴は、「因幡伊福部氏系譜」が「物部氏系譜」(天孫本記)を組込んでいる点です。
 しかも、その組込みは色々と問題含みなのです。

<1>「因幡伊福部氏系譜」の「大己貴命ー饒速日命接続」は記紀伝承等と合わない

 大己貴命の八世孫に物部氏祖・櫛玉饒速日命をつなげる「因幡伊福部系図」の系譜編成方針は、

記紀伝承にも、物部氏の「先代旧事本紀(天孫本紀)」にもこれを容認する論理は見いだせません。

上古史料(*)に基づき解明した上古の諸族間の婚姻関係図からもこの「つなぎ」は無理があります。

   古代人は「古代諸氏族の系譜」に関する理解を「新撰姓氏録」に示しています。
 「新撰姓氏録」は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑です。


 記紀神話に基づき神々を天孫・天神・地祇と分類・編集した「新撰姓氏録」で、

        ・瓊瓊杵尊の天孫降臨に随従した神々の子孫は「天神」、

    ・瓊瓊杵尊から三代の間に分かれた子孫は「天孫」、

        ・天孫降臨以前からの先住神・大己貴命とその子孫は「地祇」、

 として峻別し、三分類しているのです。

  従って、古代においては、地祇男系に天孫男系をつなげる発想はあり得ないとされていた筈です。

  あり得るのは一方の男系と他方の女系の通婚による結びつきです。

  だが、「因幡伊福氏系図」は地祇神・大己貴命の子孫に天神・天孫神・饒速日尊を接続しているのです。

  これは古代人の、少なくとも大和朝廷側に立つ古代人の、系譜常識を完全に拒絶していると見なければなりません。

<2>  古代には「地祇男系に天孫男系をつなげる」発想はあり得ない

 系統が違う神々を系譜上で接続するにはかなりの論理と勇気が必要ですが、それをこの「因幡伊福氏系図」は平気でやってのけて、地祇神・大己貴命の子孫に天神・天孫神・饒速日尊を接続しているのです。

 古代には「地祇男系に天孫男系をつなげる」発想はあり得ない筈です。あり得るのは、これまでも諸例をご紹介してきたように、一方の男系と他方の女系の通婚による結びつきです。

 「因幡国伊福部臣古志」(延暦3年=784年頃成立)は、「古事記」(712年)・「日本書紀」(720年)よりは後の成立ですが、「天孫本紀」を含む「先代旧事本紀」(大同年間ー806~810年ー以後の平安時代初期に成立)や「新撰姓氏録」(815年)よりもやや早い時期に成立したとされているようです。

  この編纂時期の時間差、場合によっては地域格差、が「因幡伊福氏系図」の系譜構成をもたらしたか、とも疑ってもみましたが、奈良~平安初期になると、当時の地方知識人(地方官僚・神主階級)は、結構、中央の動きに敏感に感応していたものとも思われ、系譜伝承は最重要情報としてその保持に注意して力を入れていたものと思われます。

 それだけに、「朝廷側に立つ」ならば、天神と地祇とを区別しない姿勢は取れない筈です。

 「何故このような系譜を遺したのか」に対する一つの答としては次説が考えられます。

◆ 地方残存の古伝承が不完全に纏められたもの
 「天安河の誓約~天孫降臨」などの日本神話は大和朝廷が全国から収集した神話伝承を元にまとめ上げたものです。大和朝廷の存立を正当化するために、その収集伝承は、部分を切り捨てたり、継ぎ合わせたり、して都合のよいように編集されたのでしょう。
     ・断片的に知り得た系譜をつなぎ合わせるだけだった。
     ・天神と地祇との区別を十分認識していなかった。

  だが、中央で統合的な神話大系が完成していない頃、地方では過渡期の地方伝承は様々だった、と思われます。類似する神話伝承もあれば、大きく異なる神話伝承もあったでしょう。

 地方で編纂された「風土記」の内容は、今は具体的に列挙するスペースがありませんが、明らかにこのことを示唆しています。

 地方豪族の系譜伝承の一典型たる「因幡伊福部系図」は、密かに遺されたものの一例です。

 先に「舟木氏系譜」や「津守氏系譜」などを見てきましたが、他にも多くの系譜伝承が記紀異伝を伝えて、系譜学者達を悩ませている筈です。

 今は、力不足を理由に、確定的な答えを差し控えて先に進みます。

(2)「因幡伊福氏系図に組入れの物部氏系譜」と「物部系譜」(天孫本紀)とを比較する

 前述の如く、様々な問題点を含むにも関わらず、ここでは「因幡伊福氏に組入れの物部氏系譜」の個別世代毎に素直に吟味していきます。

<1>「因幡伊福氏系図」は第七代から第八代への接続性を暈かしている

  基本的に「母系社会では母、又は、妻を語らずしては系譜は完成しない」と思われます。

 ところが、「因幡伊福氏系図」は第三代建耳丹穂命から第七代荒木臣命までは母の記述が欠けています。「因幡伊福氏系図」自身も、この五代に亘る「母名欠如」に言及してはいます。二十七代大乙上・伊福部国足臣までは少なくとも母の記述があるのに、です。
              図表1参照:第八 櫛玉饒速日命  已上の六つ神は、母の名を闕く。

  真否はともかく、「天神本紀」は次のように記して、母方の名は遺しているのです。
 「太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の娘の万幡豊秋津師姫命、亦の名を栲幡千々姫命を妃として、二柱の男児をお生みになった。兄は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。弟は、天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊。」

  だが、「因幡伊福氏系図」は第七代荒木命の妃を記さず、それに対応する「第八代櫛玉饒速日尊の母」というカタチでも言及しません。
 ここでの血統接続性を「因幡伊福氏系図」は暈かしているとしか思えません。

 やはり、古代に遡る程、系譜作成に母方の名は欠かせませんので、因幡伊福氏系図のこの部分での「母名欠如」は怪しまれるところです。
  大荒木命と櫛玉饒速日命との血統接続性は最も不審を買い、学者諸先生はこれを以てこの系譜を偽作と決めつけておられるに違いありません。
 
 地祇神から天神への系譜接続は、記紀・物部伝承からすれば革命的、破天荒な主張です。

 「因幡伊福氏系図」がこのような主張をする以上、この第七代(地祇神)から第八代(天孫神)への接続部分は、接続が正しいと主張する為には「母子の具体的な親子関係を示す」と云う、慎重な配慮が必要なのに、それを怠っているのですから、先学の厳しい批判が推定されるのです。

 その後、儒教思想の普及の中で、「母名明記」の習慣は次第に捨てられて行ったと思われます。

 直系竪系図として有名な「海部氏系図」(9世紀後半編纂)は既に「母名欠如」を見て取れます。

<2> 「彦湯支命」論
 二世孫・彦湯支命は、綏靖朝に足尼、次いで食国政事大夫となり、大神をお祀りした由です。
  綏靖天皇と云えば神武天皇に次ぐ第二代天皇であり、その欠史時代に活躍した物部人です。
  
<2-1> 彦湯支命の母
 「因幡伊福部系図」では、彦湯支命の(父は可美真手命として)「母は伊古麻村の五十里見命の女、河長媛と曰ふ」とあり、「天孫本紀」では、彦湯支命の父・宇摩志麻治命の妃は師長姫と云い、活目邑の五十呉桃の娘だとします。ここはちゃんと母方の紹介をしています。

 伊古麻いこま村=活目いくめ邑、五十里見いかりみ命=五十呉桃いくるみ、河長かわなが媛=師長しなが姫と比較します。微妙な相違を含みながら、ここに同一性を見ます。

<2-2>  彦湯支命の三妃

 「天孫本紀」(物部系譜)  は彦湯支命の妻達を次の様に伝えます。
  彦湯支命は、日下部の馬津・名は久流久美の娘の阿野姫を妻として一男を生み、出雲色多利姫を妾として一男を生み、淡海川枯姫を妾として一男をお生みになった。
   彦湯支命には次の三人の妻妾がいたようです。
     第一妃(妻)・阿野姫(日下部馬津・名は久流久美の娘)  →男子・大祢命
              第二妃(妾)・出雲色多利姫(出雲臣の祖・真鳥姫*)   →男子・出雲醜大臣命
              第三妃(妾)・淡海川枯姫                                 →男子・出石心大臣命

  本報の主眼はこの三人の妻たちの出自を検討し、結果として「彦湯支命の行動」を推定しようとするものです。

  第一妃の阿野姫は妻です。他の二人は妾だとされていますが、こちらは歴とした正妻です。

  阿野姫は「日下部馬津・名は久流久美」の娘とされています。

 日下部氏の起源は、ここでは深入りしませんが、諸説の内、三説を付記します。
   参考 第1説:開化天皇皇子・彦坐王の子・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔・・「古事記」
     第2説:孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。
     第3説:雄略天皇皇后・草香幡梭姫(仁徳天皇皇女)の料地管理の部民が名代部だとする説あり。


  彦坐王は、陸耳御笠の乱の鎮将として、論功行賞の結果、但馬を中心に三国(丹波・多遅麻・二方の三国)の大国主となり、その裔は日下部氏として日本海沿岸地域に広く展開したのです。

  彦坐命の末裔・日下部宿禰とその同祖の人々は「新撰姓氏録」に登記されていますが、日本海沿岸地域での日下部氏の展開は顕著です。
 1 先ず、但馬国造族の日下部氏は中心的な役割を果たしたと思われます。一族は、但馬日下部として、彦坐王を  

       祀る式内・粟賀神社(兵庫県朝来市)の神主家・日下部氏にその痕跡を残します。
 2 また、因幡日下部氏は、大国主・彦坐王の子・彦多都彦命が因幡国造となり、以後、因幡氏は高草郡と八上郡に

       本拠を置いたようです。その痕跡の一例は「鳥取県八頭郡八頭町日下部」(地名)に見出せます。
 3「姓氏家系大辞典」*には、丹後日下部首・但馬日下部・因幡日下部・出雲日下部(臣・首)・山城日下部宿禰、

   河内・和泉・摂津の三国の日下部、尾張日下部等が記載されています。

               *「姓氏家系大辞典」第2巻太田亮編著(昭和9-11年)国立国会図書館オンライン

 
そこで、阿野姫は、日本海沿岸部の、特には豊岡市竹野町(但馬国美含郡)の、日下部の出身だったのではないか、とするのが第一推定です。それを示唆するのが阿古谷神社です。
   ・阿古谷神社(豊岡市竹野町轟) 祭神:彦湯支命・土師連祖・吾笥命
      由来記:神社名の由来は土師部(阿古氏)の居住地たりしにより起これるものにして、地名も阿古谷となる。                              創建時代は不詳なるも律令期以前より氏族信仰が行れる。祭神は土師連祖・吾笥命といわれ、

                            延喜式の制小社に列し、特選神名帳、神祇志にも書き上げらる。
                 ・創建時は湯の森(轟)阿小谷(阿故谷)の丘に鎮座。その地古木鬱蒼として荘厳を極めしかば、

          村人は森の宮と尊称、いつしか森神社、森大明神と敬い祀る。後、大山祇命、春日大明神を合祀。                                昭和63年10月建之 氏子中 「社頭掲示板」(抜粋)

  「但馬故事記」(第六巻・美含郡故事記)は「雄略天皇17年(473)春4月 出雲国土師連の祖・吾笥の部属ミヤツコ、阿故氏人等部属を率いて、阿故谷に来たり、清器スエキを作る。(後略)」と記しています。この土師連は日下部氏同祖なのです。     注 土師連(摂津国神別天孫)は「天穂日命十二世孫飯入根命之後也」

  「国司文書 但馬神社系譜伝」に「文徳天皇の仁寿二年(852)七月、美含郡権大領・外従八位上・日下部良氏これを祀る。彦湯支命は神饒速日命の孫なり。」とあるように、日下部氏がこの「阿古谷神社」を祀っているのです。往古、竹野町阿古谷は美含郡に属していました。

  こうしたことから、第一推定として、日下部馬津・名は久流久美の娘と伝わる阿野姫は豊岡市竹野町の出だと推定し、彦湯支命の子・大禰命はこの地で成人して、安寧天皇の侍臣となった(天孫本紀)、と読みます。


  第二推定。因幡日下部氏は、今回の主テーマ「因幡伊福氏系図」の出た「宇倍神社」とも繋がりますので、因幡日下部氏が彦湯支命の縁ユカリだとします。これも否定できません。

 第三推定は、日下部姓は「河内国神別天神として神饒速日命の孫・比古由支命之後也」(新撰姓氏録)とあり、この「比古由支命」は彦湯支命のことですから、第一妃・阿野姫が生んだ男系後裔の内、日下部氏を継いだ後世人が河内国に居たことを知ります。

  「姓氏家系大辞典」は、例えば、「日下部氏は当国(摂津)にはなはだ多し。事に難波・武庫地方に勢力ありしものと考えられる」とあります。

  河内については、次の「好々彦の中臣氏考:日下部馬津」がそのものズバリを示唆するシナリオ仮説を提出されています。これが「どこまで具体的な史料に基づく文章構成なのか」は今は判りませんが、中々興味深い描写なので、抜粋引用します。

 引用1好々彦の中臣氏考:日下部馬津 http://sukisukihiko161.blog.fc2.com/?tag日下部馬津
   2馬を扱う部族「活目五十呉桃」を統率した「中臣氏」族
                                           http://sukisukihiko161.blog.fc2.com/blog-category-12.html

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   「神武東征」以前に倭国に入植した額田部馬族の祖神「大来目命」を祖とする活目五十呉桃(いこまいくるみのみこと)が平群谷に降臨し、さらに北進して生駒山に牧場を開設した。
 生駒山西麓の額田の地に入植した「額田部馬飼部」は生駒山で馬の畜産、供給を始め、日下部馬津久流久美命が開設した馬津に馬を供給した。「久流久美命」は河内湖の東岸の日下郷に「日下津」(馬津)を開設し、「舟運」から馬で取り次いて「陸運」する運輸形態を開拓した。
 「中臣氏」族が支配する「額田部馬族」の「活目五十呉桃命」を祖とする「額田部馬飼部」及び「日下部馬津久流久美命」は、更に「大県」から生駒山地に沿い北上して生駒山西麓にある「額田」の地に進出し、この地一帯を拠点とした。
 
  「来目族」は新羅から渡来したツングース系の騎馬民族で「活目五十呉桃」
(いくめいくるみ)と云う馬族集団である。

この馬族は「倭朝廷」が発足するや徴用されて、「来目部」(祖神は大来目命又は天津久米命)と称する「倭朝廷」の従属民となった。そして宮殿の警護や屯倉の警備を担った。
 
  初代「神武大王」の代に、「活目五十呉桃」を祖とする「額田部馬飼」
(ぬかたべうまかい)族と「日下部馬津」族の「久流久美命」が新羅の「工人集団」と共に「宇佐津臣命」(中臣氏の太祖)に舟運帯同し、紀の国「木之本」邑に渡来した。
 
  平群谷や級長谷を拠点とした「額田部馬飼」族は牧場を拓き、馬の畜産、飼育、供給及び駐屯基地(馬場や馬借)の開設などを始めた。後には生駒山西麓の讃良県(さららのあがた)や大和川右岸の広瀬(現・上牧・下牧町)に牧場を展開し、馬渡し(馬による河川の渡渉)として、馬津の馬搬として、「来目部」が担う「朝廷」の要人警護や祭事飾馬や屯倉の警備として、馬耕として、重量物馬搬としての用途に馬を「朝廷」支配下の阿刀部や日下部や来目部や土師部や当地の豪族などに供給した。
 
  「日下部馬津」族は河内湖の生駒山西麓の日下を拠点とし、水運(舟運)と陸運(馬運)の取次港として馬津を開設した。「額田部馬飼」族や「日下部馬津」族は生駒谷を本貫地とするが河内国の日下津の近く額田の地に馬の駐屯基地を設け、さらに大和国の大和川と佐保川の川合地点に馬の駐屯基地額田部を設け、大和川水系や石川水系の交通の要衝に馬渡しを置いた。
 
 「磯城黒速命」
(出雲土師族)を祖とする磯城族(初瀬、桜井一帯を拠点とした)が河内国へ進出し、大和川と石川が合流する地一帯(藤井寺一帯)を拠点にしたのが志貴族で、その一枝が級長谷に住み着き、二上山の恵(サヌカイト、鋳物砂、金剛砂など)の採取を生業として、鋳物師文化を発展させ、「倭朝廷」を支えた級長の豪族が「級長津彦命」である。
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  第二妃の出雲色多利姫(「因幡伊福氏系図」では彦湯支命の妻は出雲臣の祖・真鳥姫)

 「天孫本紀」では彦湯支命の第二妃に出雲色多利しこたり姫を娶ったとするが故に、その子の名が出雲醜(色雄)大臣命となるのだろう、と理解します。
 注 この「大臣」は出雲色雄命が懿徳朝、初めは食国政事大夫、次いで大臣になったので、その名に付けられるようになったもの             で、出雲醜(色雄)命が素の名前です。

 それが、この「因幡伊福氏系図」では「母は出雲臣の祖、髪長姫と曰ふ。」とされているのと対応します。

   当然、この女系の出雲臣の祖の末裔は出雲国にその名前を遺しています。

 

     

  「出雲臣」は天穂日命の末裔です。

  出雲臣の祖・天穂日命は能義神社(安木市、出雲國意宇郡 野城神社)に鎮座しています。
    ・能義神社(島根県安来市能義町)式内社(出雲國意宇郡 野城神社、出雲國能義郡 天穗日命神社)、県社
         祭神:天穗日命


  反正天皇4年(409)、乃至、允恭天皇元年(412)に、第17代出雲宮向が初めて国造となり「出雲」の姓を賜った、と「出雲国造伝統略」(千家家伝承)にあると云います。(記紀に記載なし)
   その時、宮向は、出雲東部の意宇郡に居を構え、出雲国造と意宇郡郡司を兼務し、出雲大社と熊野大社との祭祀も行っていた由です。

 出雲臣(天穂日命家)は、当初、東出雲にあり、その後、西出雲へと展開したとの説がありますが、八世紀の「出雲風土記」の編纂者リストを見る限り、出雲各郡に展開しています。
 その中心地は出雲の意宇郡で、国衙跡地(松江市大草町の六所神社周辺)、国分寺跡地(松江市竹矢町)などが発掘されています。

   また、「出雲風土記・出雲郡」の編纂主幹は、当時、郡司・主帳であった若桜部臣です。
  この若桜部造は「神饒速日命三世孫・出雲色男命之後也」と「新撰姓氏録」(右京神別天神)にありますから、ここに出雲色雄命の末裔であり、且つ、母方の出雲臣の末裔を見出します。

   出雲色雄命の母は「出雲臣の祖」です。それは恰も彦湯支命の第一妃・阿野姫が日下部氏の出身であるのと同じように、地域豪族の女ムスメなのです。

  「出雲臣の祖」と云われる位ですから、真鳥姫は出雲の中心地に住んだ可能性があります。それは意宇郡であり、更にその中心地の「山代郷・出雲郷・安來郷」だったのではないでしょうか。

 この母系の出自は「天孫本紀」と「因幡伊福氏系図」とで厳密には一致しないのですが、出雲出身の女性を娶る点は両系譜とも同じで一致している点に注目したいと思います。

 かくて、出雲色雄命の母が「出雲臣の祖・髪長姫(天孫本紀では出雲色多利姫)」なので、物部氏は出雲臣と密接な関係となります。

  第三妃・淡海の川枯姫

 「因幡伊福部系図」では、出雲色雄命の子・内色雄命の「母は近江国の河枯の伊波比長彦の女、白媛と曰ふ」とありますので、白媛は出雲色雄命の妃(妻)です。

 この白媛は、「天孫本紀」では彦湯支命妃の一人「淡海の川枯姫」を指しているのと照合しているが如くに思われます。
   ・天孫本紀:彦湯支命は、淡海川枯姫を妾として、出石心大臣命を生み、出石心大臣命は、孝昭朝、大臣となり大神

        を祀り、新河小楯姫を妻として、二子(大水口宿祢命<穂積臣、采女臣らの祖>と弟・大矢口宿祢命)を

        生んだ、とされます。

 しかし、「天孫本紀」では彦湯支命妃の一人が「淡海の川枯姫」なのに、「因幡伊福部系図」では、近江国の河枯の白媛は彦湯支命の子・出雲色雄命の妃(妻)となっており、川枯女性を巡る伝承は二史料間に「世代のズレ」があることを確認します。
       天孫本紀    :淡海の川枯姫は彦湯支命の妃、 出雲醜(色雄)大臣命は倭志紀彦の妹・真鳥姫を妃とす。
       因幡伊福部系図:近江国の河枯の白媛は彦湯支命の子・出雲色雄命の妃


  世代のズレを含みながらも、両系統の「川枯姫」は微妙に近しく、微妙に相違していますが、

上記の出雲女人の場合と同じ程度の違いと云えますので、川枯の類同性を認めます。

  近江国は淡海国であり、河枯=川枯とすると、これは式内・川枯神社を示唆します。

 琵琶湖の東岸の野洲市を流れる野洲川を守山市から遡ると湖南市から甲賀市水口町に入り、
この水口町に、水口神社(宮ノ前)と八坂神社(嶬峨)があり、後者は古代の「式内・川枯神社」だとされ、川枯氏がここに祖神を斎祭していた、と推定されています。
  ・新撰姓氏禄:和泉神別に川枯首が見え、「阿目加伎表命の四世孫、阿目夷沙比止命の後なり」とあり。
  ・川枯神社(滋賀県甲賀市水口町嶬峨、近江国甲賀郡)現・八坂神社、式内社 近江国甲賀郡(論社)
     祭神:素盞鳴命 聖武天皇 神武天皇
        ・川枯神社(論社):八坂神社・油日神社・岳神社(油日神社摂社、油日岳山頂)
     由緒:天平21年に、左大臣橘諸兄が千光寺伽藍創立の際、仏法擁護のため社殿を造営し、素盞鳴命を主神と

        したと云う。境内社に、川枯社があり、これは「延喜式神名帳」の近江国甲賀郡「川枯神社」に当たる

        らしい。その社号からは、川枯氏の奉斎を推定させます。

           境内摂末社:天神社 熊野社 川枯社  (境外社) 八幡社 八坂社

 他方、野洲川下流の琵琶湖岸に展開する守山市には新川神社、及び、上・下新川神社が鎮座しており、共に新川小楯姫を祭神としています。

  「天孫本紀」によれば、出石心命は、出雲醜大臣命の弟で、孝昭朝に大臣となり、大神をお祀りし、新河小楯姫を妻に二子(大水口宿祢命・大矢口宿祢命)をお生みになった由です。
 


 

  図表2の系譜と神社配置図をご覧下さい。
 新河小楯姫を祀る「新川神社D・下新川神社E」は野洲川下流域に、川枯姫を祀る「川枯神社A」とその孫・大水口宿祢命(新河小楯姫の子)を祀る水口神社Bは野洲川中流域に、夫々、鎮座しているのです。また、下新川神社Eはその境外摂社・大水口神社Fを抱えています。

  「三上祝家系図」では、川枯姫も坂戸由良都姫も新河小楯姫も三上祝一族の女性ですから、物部氏族が野洲川沿岸域の三上祝一族の女人に「妻問い」した姿が見えてきます。

                   

   守山市(野洲川左岸)には、天津彦根命を祀る「己爾乃神社」(守山市洲本町)、祭神:天児屋根命 伊香津臣命を祀る「己爾乃神社」(滋賀県守山市洲本町1607)の延喜式神名帳・己尓乃神社二座(近江国 野洲郡鎮座) があります。

  野洲川の右岸にある三上山(神名備山432m)に天御影神の降臨伝承があり、それ故に、山頂には「奥宮」、麓には「御上神社」が鎮座しています。(図表2参照)

   天御影神は天津彦根命の御子だとする伝承に従えば、この辺に天津彦根命一族の裔・御上祝の三上氏が展開し、近江国野洲郡三上郷はその遺地名でしょう。

  結論:「彦湯支命の三人の妻たち」(天孫本紀)の出自を検討して、
          1第一妃・阿野姫は日下部氏の出だが、丹波・因幡・河内のいずれの出身であるかは確定

                                   出来ませんでしたが、日本海沿岸部と河内はいつも候補地として挙がっ

                                   てくることは注目です。
    2第二妃・出雲色多利姫は天穂日命の裔・出雲臣の出です。
          3第三妃・淡海の川枯姫は天津彦根命の裔・三上祝の出であることを知ります。
 

   ◇「因幡伊福氏系図」では彦湯支命の妻を「出雲臣の祖・真鳥姫」とし、天孫本紀の三妃の内、  

       出雲を挙げます。これは「天孫本紀」とは対照的です。

   ・第二妃は天穂日命裔であり、第三妃は天津彦根命につながっているのには驚かされます。
         ・先にも記しましたが、その重要性に鑑み、天津彦根命は別論します。        (続く)