目次 1 応神天皇の詔
            (1) 応神天皇の尾綱根連へ詔
            (2)  古代皇室の皇子養育費と養育の方法
                  <1> 壬生部・部民の制度
                  <2> 部民制度(推定例を含む)の具体的諸例:
       2 尾治部(備前国)の木簡の示唆
     3 尾張部郷と伊福部郷の展開
            (1) 尾張部郷と伊福部郷の展開
            (2)   備前国に尾張族の神社あり・・尾針神社・尾治針名真若比女神社
        (3) 信濃国に尾張族の神社あり・・尾張神社
              (4)   尾張国に尾張族の神社あり・・尾張戸オワリベ神社
     4 結論・・尾張部は応神朝の尾張族の栄光の残影

1  応神天皇の詔

(1) 応神天皇の尾綱根連への詔

 「応神天皇の尾綱根連への詔」は「天孫本紀」(先代旧事本紀) に次の様にあります。

 引用:応神天皇が尾綱根連に「お前の一族から生まれた十三皇子達はお前が養い仕えなさい」と詔する    

            と、尾綱根連は子・稚彦連と従兄妹・毛良の二人を「壬生部の管理者」に定めて仕えさせた。


  これについて、次の様な経緯イキサツを 「天孫本紀」は伝えます。

  図表1     尾張后妃の13皇子・皇女の壬生部(養育料)をめぐる逸話
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 1 尾綱根命(天火明命十三世孫)は、応神天皇の御世に大臣となってお仕えした。
 2 妹の尾綱真若刀婢命は、五百城入彦命に嫁いで品陀真若王をお生みになった。
 3 次妹の金田屋野姫命は、甥の品陀真若王に嫁いで三王女(高城入姫命、仲姫命、弟姫命)をお生みにな       った。
   この三王女は、応神天皇のもとへ共に后妃になり、合わせて十三人の皇子女をお生みになった。
   ・姉の高城入姫命(皇妃)は三皇子(額田部大中彦皇子、大山守皇子、去来真稚皇子)をお生みになった。
   ・妹の仲姫命(皇后)は二男一女(荒田皇女、仁徳天皇、根鳥皇子)の御子をお生みになった。
   ・妹の弟姫命(皇妃)は五皇女(阿倍皇女、淡路三原皇女、菟野皇女、大原皇女、滋原皇女)をお生みになっ            た。
 4 応神天皇の御世に、尾治連の姓を賜り、大臣大連となった尾綱根連に、天皇は詔していわれた。
   「お前の一族から生まれた十三人の皇子達は、お前が愛情を持って養い仕えなさい」
 5 尾綱根連は、とても喜んで、自分の子の稚彦連と従姉妹の毛良姫の二人を壬生部の管理者に定         めてお仕えさせることにした。そして、直ちに皇子達のお世話をする人を三人奉った。
 6 連の名は請。もう一人の連の名は談である。二人の字の辰技中から、今この民部の三人の子孫を

     考えるとと、現在は伊与国にいる云々と云う。
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 母系社会では妻はその父母の元に居ましたから、その子等は祖父母や妻の兄弟の支援により養育されたものと思われます。天皇家の古代も、例外ではなかったでしょう。

(2) 古代皇室の皇子養育費と養育の方法

 やがて、天皇の権威が高まるにつれ、この妻方での養育はそのままとしても、養育料については朝廷は皇子・皇女の養育費捻出の仕組みを編み出したのでしょう。

 この「応神天皇の勅」の背後には、古代の「母系社会の実態」があったと思われます。

  応神天皇が尾綱根連に与えた詔勅を分解すると、母系社会での皇室の子弟の養育費捻出方法と養育の実際が見えてきます。

 先ず、母(妃)方の当主がその養育費を負担するに当たり、天皇がお墨付け(ある地域を管理して養育費を得る事を許す)を与えます。

 すると、お墨付けを得た母(妃)方の当主は、担当する管理者を選び、養育費の調達と実際に養育(皇子達のお世話)をするのです。皇子達は母方で養育されている様子がこの字句で判ります。

  また、養育費の調達は、ある指定地域からの「税収」を当てたものと思われます。

<1> 壬生部・部民の制度

  近世、江戸幕府の天領(直轄地)には代官を置き、徴税しました。
  中世、荘園制度維持のため、神社は寄進を受けた荘園に神霊を分祀した神社を設け、管理所とします。
         例えば、賀茂神社は葵祭の競馬キソイウマ料として各地に荘園を与えられると、その地に賀茂

     社の分霊を祀り、荘園の管理を行いました。

  古代の大和朝廷は、同じように、屯倉又はそれ相当の領地を指定して、「屯倉(部)」の長(管理担当)にその経営を委ねたものと思われます。次に、簡単ながら、壬生部・私部の解説をネット辞書・ウイキペディアからの引用抄を示します。

 図表2 壬生部・私部の制度
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 ・古代・大和朝廷や豪族は朝廷や特定皇族の生計・活動費を得る為に「壬生部・名代」を設けたよ               うです。

    ・皇后や大王の一族の生活は、各々、名代の民が設けられ、そこからの収入で賄われてき                 た。 例:仁徳天皇皇后、磐之媛命の葛城部、
                      允恭天皇后妃、忍坂大中姫の忍坂部(刑部)、衣通郎姫の藤原部
                      雄略天皇皇后、草香幡梭姫皇女の太草香部(日下部)などが見られた。 
          ・「部民制度」は皇室・豪族に奉仕・貢納する人々を部民として編成した。
          ・壬生部(ミブベ):大王(天皇)の皇子・皇女のために置かれた部で、皇子の養育料を負担した。
                                                名代ナシロ・子代コシロの一種です。
        ・私部(キサキベ):大王の后妃のために置かれた部で、6世紀後半*、「私部」は設置された。
               *敏達天皇6年(577)2月朔条に私部を置く(日本書紀)とあるのが文献初見と云います。
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<2> 部民制度の具体的諸例(推定を含む)

  部民制度の具体的諸例(推定を含む)を、天皇歴代順に、次に列挙し、ご紹介します。

ⅰ 竹野屯倉=竹野郡の新設(開化朝)
 「勘注系図」によると、開化朝に、丹波國の丹波郡と余社郡とを割いて、竹野姫のための屯倉ミヤケを置き、竹野姫の父・建諸隅命がそれ管理したので、建諸隅命の亦名を「竹野別」と云い、後に、この地域は「竹野郡」と呼ばれるようになった、と云います。

  開化天皇妃の竹野媛(建諸隅命の女)が生んだ第一皇子は日子由牟須美命(紀:彦湯産隅命)と名付けられます。開化天皇は初めての我が子(第一皇子)の誕生を喜び、竹野姫の貢献を認めたのでしょう。新たに「竹野郡」を作り、屯倉を設けて竹野姫の賄い料を保障したのです。
 父・建諸隅命がそれを管理し、亦名を「竹野別」と名乗ったのです。
           参考:「丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須 2019年10月20日」の「竹野郡」論

  私部の文献上の初見は「敏達天皇6年紀」だとして引用されていますが、その祖形は既に開化天皇期の「竹野屯倉」の記事に見ることができると思われます。

ⅱ 若倭部の部民を吉備津彦命が領す(仲哀朝)
 引用1:「美含郡記」(但馬故事記)の仲哀天皇元年夏4月の記事
     先帝の皇子、稚渟気命のために若倭部を定め、吉備津彦命にその部民を領させる。

               吉備津彦命は多遅麻若倭部を領し、舟生(今の香美町香住区浦上)に居る。吉備津彦命は、

               竹野彦命の娘、高野姫命を妻にし、若倭部命を生む。その後裔を若倭部という。


ⅲ 海人部・山守部(応神朝)
 引用2:「日本書紀」応神天皇5年8月13日、諸国に令して、海人部・山守部を定めた。
   引用3:「城崎郡記」(但馬故事記)応神天皇3年夏4月、大山守命に山海の政を統治させる。

               大山守命は、多遅麻国黄沼前県主、水主命の子、海部直命を、当国の海政を行わせ、

               当国の海部を司る。
  ・仁徳天皇10年秋8月、水先主命の子、海部直命を(黄沼前県主改め)城崎郡司、兼海部直とする。
 

ⅳ 尾綱根連への勅(応神朝)
 引用4:「天孫本紀」(先代旧事本紀)
     応神天皇は、尾綱根連に「お前の一族から生まれた十三皇子達はお前が養い仕えなさい」

     と詔すると、尾綱根連は子・稚彦連と従兄妹・毛良の二人を「壬生部の管理者」に定めて

     仕えさせた由です。(本ケースです)
 

ⅴ 葛城部(仁徳朝)
 引用5:「古事記」仁徳天皇の御世に、
      1  大后・石之日売命の御名代として、葛城部を定め、
      2  太子・伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、
      3  水歯別命の御名代として、蝮部を定め、
      4  大日下王の御名代として、大日下部を定め、
      5  若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。 
         また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、丸邇池、依網池を作り、難波

       の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また、墨江の津を定め給

       ひき。
  引用6:「日本書紀」仁徳天皇7年8月9日、大兄去来穂別皇子(履中天皇)の為に壬生部を、皇后の

      ために葛城部を定む。・・・引用5の簡略形となっています。
 

ⅵ 壬生部(推古朝):
  引用7:「日本書紀」推古天皇15年2月条:壬生部を定む、とのみあり。

                                    原文:十五年春二月庚辰朔、定壬生部。

2 尾治部(備前国)の木簡の示唆

<1>  尾治部(備前国)の木簡
  さて、平城京跡・飛鳥京跡出土の木簡に「尾治部(備前国)」があり、これを検索すると、次の様に説明が付いています。

     尾治部加之居:邑久郡尾張郷大村里の人で、黒米六斗を貢進した。
                         (出所)奈良文化財研究所 木簡人名データベース

 これは「尾張部」の民が行った貢進の一例として、大きなヒントを与えてくれます。
 即ち、
  1 応神天皇が尾綱根連に皇子たちの養育運営を依頼した「壬生部」の一は「尾張部」だった、

     と推定出来ます。
    2   それには各地に「尾張郷」を設ける事が朝廷から許されます。
  3 そこからの様々な産品を朝廷に貢進する仕組みが講じられます。
  4 それは屯倉に相当します。
  5 屯倉は一箇所の「郷」だけでは十分ではなかった、と思われるので、何ヵ所もの「郷」が

          「壬生部」に指定されたでしょう。

  「人名木簡データベース」は膨大なようです。「木簡学会」も活躍中とのことで、古史料に新たな有力情報源が加わって、学者諸先生のご研究が進んでいるようです。

 その中から「備前国の木簡七例」を検索し、ご参考に供します。
  1 若倭部五百足:備前国上道郡沙石郷御立里の人で、若倭部百足と同じ五戸一保(隣保単位)に属す

                          秦部得丸と合わせて21俵を貢進した。

                                                             ・・奈良時代前半(神亀2年天平11年)728739年頃 
  2 葛木部小墨  :須恵郷の人で、調として塩3斗を貢進した。
  3 倭文部東人   :御野郡出石郷の人で、天平勝宝8年(756)、白米5斗を貢進した。
  4 矢田部未呂   :備前国邑久郡香止里の人で、米5斗8升を貢進した。

                                                                                         和銅6・7年頃 713・714年頃
  5 和仁部太都万呂:備前国上道郡居都郷の人で、何かの物品を5斗貢進した。
  6 鴨直君麻呂 :備前国児嶋郡賀茂郷の人で、調として塩3斗を貢進した。

                        天平19年頃 747年頃 (木簡:養老2年~天平19年) (木簡:718~747年)
  7 三家連乙公 :備前国児嶋郡賀茂郷の人で、調として塩1斗を貢進した。
                      天平19年頃 747年頃 (木簡:養老2年~天平19年) (木簡:718~747年)

   この内、若倭部については、建筒草命(五世孫)の裔孫が「若倭部連」だと「天孫本紀」が伝え、「美含郡記」(但馬故事記)は次の如く「若倭部」の誕生を伝えています。
・仲哀天皇元年夏4月 先帝の皇子・稚渟気命のために若倭部を定め、吉備津彦命にその部民を領させる。

  吉備津彦命は多遅麻若倭部を領し、舟生に居る。(今の香美町香住区浦上)

  吉備津彦命は、竹野彦命の娘、高野姫命を妻にし、若倭部命を生む。その後裔を若倭部という。

・開化天皇40年秋9月 丹比宿祢の遠祖、天忍男命の子、若倭部連の祖、武額明命を美伊県主と

     する。武額明命は、小田井県主、小口宿祢命の娘、吉江姫命を妻にし、武波麻命を生む。
・陽成天皇の元慶2年(878)9月22日 但馬国美含郡の従七位上・若倭部氏世・貞氏・貞通ら三人に       楓朝臣の姓を賜い、氏世を大領に任ずる。
      3年4月3日 楓朝臣氏世はその祖、武額明命・吉備津彦命・高野姫命を舟生山に祀り、                                            [舟丹]生神社(*19)と称えまつる。神浦川はその傍らを流れる。       
                                                  ・式内丹生神社:美方郡香美町香住区浦上1185-2

                       参照:丹波古史3  尾張氏の源流・本流・分流を探る1        

 

<2> 備前国の式内社に尾張ゆかりあり

  備前国邑久郡は現在の瀬戸内市邑久町に該当しますので、邑久郡の属する備前国の式内社を調べてみますと、邑久郡にはそのものズバリの尾張氏系の神社は見出せず、しかし、御野郡に、「尾針神社」「尾治針名真若比咩神社」の二社を見出します。

  尾針神社は伊福郷(現在は伊福町1~4丁目に名を遺す)、尾治針名真若比咩神社は津島郷(現在は津島1~4丁目に名を遺す)に属しています。

  これで、関心対象が広がります。今までは「尾張郷」を考えてきましたが、「伊福郷」も「津島郷」も対象域に含める必要があると判断します。「伊福部」については次報で後論します。

3 尾張部郷と伊福部郷の展開

(1) 尾張部郷の展開

 尾張郷と書いても「乎波利倍オハリベ」と万葉仮名振りが付くケースがあるので、尾張郷は「尾張部郷」と読んで良いのかも知れません。

「倭名類従抄」にはこの備前国以外にも信濃国・尾張国に「尾張部」関連を示唆する「尾張郷」や「屯倉」が出てきます。それらを列挙して、その地にある尾張族の祭祀社も合わせて記します。

<尾張郷>
1備前国邑久郡尾張郷・・・・・・・尾治部加之居(上記木簡情報の人)はこの尾張郷の人でした。
2信濃国(長野市)に尾張族の神社あり

 信濃国水内郡に尾張郷(乎波利倍)があります。 
   1) 「倭名類従抄」は「信濃国水内郡尾張郷」を記載し、態々、万葉仮名「乎波利倍オワ リベ」と

       その読み方を示しています。
   2)この尾張郷の旧地は、現在も「尾張」地名を遺しています。
       長野県長野市の東部郊外にある地域に大字西尾張部・大字北尾張部があるのです。
       ・現在の桜新町は大字西尾張部と大字北尾張部の中間に位置していますが、元々、この両尾張部から分れた、

              とされます。この桜新町には今も「尾張部郵便局」があります。
     ・同じく、現在の若宮一・二丁目は大字西尾張部と大字高田から分れた、とされます。

  3)尾張神社もこの長野市北尾張部に鎮座しています。
       ・尾張神社(長野市北尾張部383)
    残念ながら、その祭神・由緒は不詳ですが、社名から尾張氏の祖神を祀ると推定されます。

  4)西尾張部には八幡神社しかありません。北尾張の尾張神社が西尾張を包括していたのか、

         歴史が祭神を変えたのか、消してしまったのか、判りません。近くの池生神社は同名社が数

         社鎮座しています。
      ・八幡神社(長野市西尾張部村西)
        ・池生神社(長野市北長池、諏訪郡富士見町境池袋、塩尻市宗賀、上田市小島)
            祭神:池生命
            由緒:祖父神・大国主命、父神・健御名方富命・母神・八坂刀賣命(諏訪大社)を戴く、当地開拓神と

                                  見られています。

            池生神社は、他にも、塩尻市宗賀、上田市小島、長野市北長池など県内各所に散在している。                                   祭神はそれぞれ異なり、池生命を祀るのは北長池社と境池袋社のみです。

3上野国緑野郡尾張郷(オワリノゴウ)上野国緑野郡は現・多野郡西武と藤岡市あたり
 1) 「地名辞書」では「ヲハリ」と訓み、「日本地理志料」では信濃国尾張郷に倣い「乎波利倍」

       と訓む。
 2) 郷域は「地名辞書」は「三波川村、鬼石町の辺に当たるかと疑はる」とし、「日本地理志料」

       は「八塩、鬼石、永源寺、八木沢」一帯に比定するが、詳細は不明。(出所:角川日本地名大辞典)

 3) 多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉や佐野屯倉などの大

       和朝廷の直轄地だった領域と重なり、そのため、当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯

       業、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地域になっていた。
   4) 緑野屯倉:現在の藤岡市は元・緑野郡の地域を代表していると考えます。緑野CCあり。
   ・美国神社(藤岡市緑野264番)祭神は不詳、裏山は古墳
  注 藤岡市は、鬼石町の編入により拡大し、合併後は、旧緑野郡(後に多胡郡と合併し多野郡)の大半に及ぶ広大な

            領域となっている。但し、旧南甘楽郡美原村を除く。
     ・伊賀神社(藤岡市篠塚)祭神は不詳ですが、伊賀神社・若伊賀保神社は伊賀国・若都保命を連想させるので、付記              します。
    ・若伊香保神社(渋川市有馬1549)国史見在社、上野国五宮
       祭神:大名牟遅神・少彦名神
       由緒:国史では、「若伊賀保神」の神階が貞観5年(863)に従五位下、元慶3年(879)に従五位上、元慶4年

                          (880)に正五位上に昇叙されている。延喜式神名帳には記載がないので国史見在社にあたる。
           参考:伊香保神社(渋川市伊香保町伊香保、上野国三宮)

 5) 佐野屯倉:
   「山ノ上碑」(高崎市山名町にある古碑)には「佐野三家(屯倉)」の存在を示す一方、「金井沢碑」           には「三家(屯倉)」とのみある別な屯倉の存在が確実視されてきた、と云う。

                                                                                                          (出所)ウイキペディア・「山ノ上碑」
         どうも、「上野三碑」は「屯倉からみ」のように思われます。
       ・山上碑(高崎市山名町)681年(天武10年)建立。  高さ約1.1mの墓標。
       ・多胡碑(高崎市吉井町池字御門)711年(和銅4年)建立。   高さ約1.2m。多胡郡の建郡に関しては略。
       ・金井沢碑(高崎市山名町)726年(神亀3年)建立。高さ約1.1m。上野国群馬郡下賛(下佐野)郷高田里の三家

     (屯倉)の子孫・三家氏が血縁者のために建立。
4 尾張の屯倉
  1) 間敷屯倉(尾張国中島郡三宅郷、現・稲沢市平和町上三宅)
         ・ 熱田社(稲沢市平和町上三宅上屋敷)は「間敷屯倉」の管理所であった、と推定されます。
 2) 入鹿屯倉(犬山市入鹿)は安閑天皇2年(535)に設置され、大化2年(646)に廃止されています。
    1) 入鹿村の歴史は古く、縄文時代後期の入鹿池遺跡がある。
    2) 虫鹿神社(犬山市前原向屋敷 、延喜式、丹羽郡・虫鹿神社)
       祭神:国常立尊 国狹槌尊 豊斗渟尊 大日靈貴命 菊理姫尊、     虫鹿明神
        ・現在の祭神は三明神の祭神であろう、延喜式当時の祭神は不明(阜嵐健氏)
        ・初めは入鹿村真神山にあつたが、寛永年間、入鹿池造成の際、虫鹿神社は白雲寺と

        共に前原新田へ移築された。
              ・天道宮白雲寺(山号・入鹿山)は、尾張北部の人々の信仰を集め、白雲寺は神宮寺。
        ・天道宮神明社(犬山市前原天道新田)
           祭神:高皇産靈神 豐受大神 須佐之男神
           由緒:安閑天皇(532536)の勅願により入鹿村に建立、寛永12年(1635)現在

             地へ遷す。
  3) 入鹿池:寛永5年(1628)、後に「入鹿六人衆」と称される6人が付家老・犬山成瀬家を経由し      

        て尾張藩に入鹿池の開発届を認可され、丹羽郡入鹿村の住民を移住させた。
        ・寛永9年(1632)着工、翌寛永10年(1633)に完成させた。

(2)  備前国に尾張族の神社あり

 尾治部(備前国)の木簡は、備前国に「尾治部」と云う部民が居たことを示唆します。

  すると、その人たちは祖神を祀ったでしょう。尾張ゆかりの式内社を探すと、備前国御野郡の延喜式式内社は8社あり、その内、「尾針神社」、「尾治針名真若比女神社」は明らかに尾張ゆかりと思われます。

  尾針神社は古代の御野郡伊福郷に、尾治針名真若比咩神社は御野郡津島郷に、夫々、鎮座しています。

  これで、備前の式内社・尾針神社は伊福部連の祀るところだろう、と推定出来るのです。
 「倭名類従抄」には備前国の御野郡には、牧石郷、広西郷、出石郷、御野郷、伊福郷、津島郷の六郷が記され、この内、出石郷以下の四郷が丹後・尾張・美濃ゆかりの名だと思われます。

  「新撰姓氏録」では、明らかに、伊福部連は尾張連と同祖で、天火明命を祖神としていますので、ここは、伊福部=尾張部と考えて良いとします。 尚、「伊福部」考は後論します。
<新撰姓氏録>
  ・伊福部連は(山城・大和)に登記があり、伊福部宿祢(左京・大和)と同祖とされています。
  ・また、伊福部宿祢(左京神別・大和国神別)は「伊福部宿禰、尾張連と同祖、火明命の後也」尾張連と同祖とされて

   いますので、尾張宿禰・伊福部連は全て、同祖関係です。
  ・尾張連は(左京・右京・山城・大和・河内)に登記があり、尾張宿禰(左京)と同祖とされています。
  ・伊福部連は(山城・大和)に登記があり、伊福部宿祢(左京・大和)と同祖とされています。
  ・河内国の尾張連が「火明命十四世孫小豊命之後也」とあることも留意します。


  図表3         備前国の尾張にも式内社2社(尾針神社・尾治針名真若比咩神社)
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 尾針神社(岡山市北区京山2-2-2)延喜式神名帳式内社「備前国御野郡 尾針神社」
      祭神:天火明命
(尾張氏の祖神)、配祀神:大気都比売命、若宮の祭神:天香山命
      由緒:創建は不詳。ご鎮座地一帯は、往古「吉備国御野郡伊福郷」と云われ、伊福部連
(尾張連の一族)の居住地で、

       その祖神「天火明命」を奉斎したと云う。明治三年まで「神社明細帳」では栗岡宮と称し、相殿に尾針神

                   社を祀るが、後に、尾針神社と改称した、とも云う。
      ・社殿背後の台地にある長大な巨石群(高さ1~2m)は天津磐境と云う古代祭祀遺跡です。
      ・旧社地として①酒折宮(現岡山神社)②半田山③上伊福村の別所栗岡宮(現在地)の3説がある。
      ・近くには、やはり同じく尾張氏ゆかりの、式内社・尾治針名真若比咩神社が鎮座する。
    境内社5祠(摂末社):稲荷神社
(宇加之魂神)、若宮(天香山命)、木切宮(句々廼馳命)、荒神社(素盞鳴命)、注連宮(天細女

                                             神)、天満宮(菅原道真公)、前御前宮(猿田毘古命)
  氏子地域:岡山市北区・・いずみ町、伊島町1・2・3丁目、伊福町1・2・3・4丁目、絵図町、京山1・2丁目、国体

                              町、三門東町、清心町、津倉町1・2丁目、奉還町1・2・3・4丁目(いずれも奉還町通りより北側)
      ・氏子地域内の伊福町1・2・3・4丁目は、中世の伊福村、古代の伊福郷
  尾治針名真若比咩神社(岡山市北区津島本町20-8)式内社
       祭神:尾治針名真若比咩命
       由緒:明治7年(1874)の「延喜式内杜取調帳」には現社地に天津神社が記され、その翌年書かれた 「御野郡神社

                  境内図」には北方・御崎宮の社地内にこの宮が摂社として記されている由。明治7~8年より後のある時期

                  に、天津神社があった現在地に移されたと推定されている。元の天津神社の本殿をそのまま使用したが、そ

                  の後、昭和16年に本殿の建て替えが行われ、昭和20年6月、岡山空襲の際に焼夷弾の直撃を受けて炎上

                  した。

  氏子地域:岡山市北区・・津島、津島京町1・2・3丁目、津島桑の木町、津島笹が瀬、津島新野1・2丁目、津島西坂                                          1・2・3丁目、津島中1・3丁目、津島南1・2丁目、津島本町・・古代の津島郷
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 他方、「尾治部加之居は邑久郡尾張郷大村里の人」だとされているので、邑久郡の式内社を調べてみました。だが、そこには「尾張神」からみの神社はありませんでした。

(3) & (4)  信濃国(長野市)に尾張族の神社あり

 「信濃国(長野市)に尾張族の神社あり」は先に「尾張部郷の展開」に記しましたので、ここでは略しますが、尾張→美濃→信濃と考えると、信濃は移動順路上にあります。

              尾張神社(長野市北尾張部383)

              また、「上野国緑野郡に尾張郷(おわりのごう)あり」と云えます。現在の多野郡西武と藤岡市辺りです。

                これも「(1) 尾張部郷の展開」に記しましたので、略します。


(5)  尾張国に尾張戸神社あり

  更に、勿論ですが、「尾張国に尾張戸神社あり」です。この尾張戸神社はオワリベと読むのだそうです。それならば、これも「尾張部」です。
   ・尾張戸神社オワリベ(瀬戸市十軒町845、名古屋市守山区大字志段味字東谷209)
        祭神:天火明命
(尾張氏祖神)、天香語山命(別名・高倉下命・天火明命の長子)、建稲種命(天火明命十二世孫)
      由緒:天香語山命(高倉下命)は、庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、後に白鹿に乗って川を渡り、東谷山に

                           移ったと云う。その地に架かる「鹿乗橋」に伝承の名残あり、と云う。
         創建:「東谷大明神草創本紀」(社伝)によると、第13代成務天皇5年、宮簀媛命の勧請によって創建された。
         ・東谷山西麓に古墳多数のあり、尾張戸神社本殿も円墳「尾張戸神社古墳」の墳丘上に鎮座する。
         ・「尾張戸」の社名を「おわりべ」とするのは「尾張部」を意味すると云われ、この場合、尾張氏に

                          従属した部民を意味する。これらの古墳は尾張氏の墓だ、と伝わる。 

  尾張国の屯倉・名代(壬生部)は、尾張部の朝廷への貢ぎのために必要であり、且つ、「応神天皇の詔」にも関わる「皇子・皇女13人の養育」のために、多く必要だっただろう、と思われます。

 先に、挙げた「間敷屯倉」(尾張国中島郡三宅郷、現・愛知県中島郡平和町三宅)・「入鹿屯倉」(愛知県犬山市入鹿)は、安閑天皇紀にその記載があるため、よく知られていますが、実際は、屯倉・名代(壬生部)はもっと多かったと思われます。尾張国の各郡に一つの屯倉、乃至、それに相当する部民が活動する地域(壬生部地)があったのではないでしょうか。図表4にその推定根拠を示します。

  図表4では尾張国八郡69郷の中で屯倉(三宅)を示唆する地域を推定します。

 

<5> 山田郡の式内社祭神の特徴

  山田郡式内社の祭神は中々に興味深いです。列挙します。(他郡は時に応じても取上げます)
   1 石作神社の祭神・建麻利尼命(天火明命六世孫、石作連、桑内連、山辺県主らの祖)は丹波宰・建田背命の                        弟で、建手和爾命とは兄弟です。山田郡には丹波から渡来の原尾張氏系がこのよう

                      に祀られているのです。
   2 阿太賀田須命・建手和爾命を祀る神社が四社(和爾良神社2社・朝宮神社・両社宮神社)鎮座していま

                      す。・阿太賀田須命は事代主命の子で各地の石(磯)部神社に祀られています。

             この山田郡では建手和爾命と阿太賀田須命とが上記四社に共祀されているのです。
                     ・建手和爾命(天火明命六世孫)は丹波宰・建田世命の弟で、建麻利尼命戸は兄弟です。

            この命は尾張国では山田郡にのみ、しかも、四社に祀られているのです。
   3  尾張神社・尾張戸神社は尾張神の典型的な祭祀社です。
   4 安閑天皇を配祀神とする神社が二社(片山神社・金神社)鎮座しています。安閑天皇の父は継体天

                      皇、母は尾張目子媛ですから、この辺りは安閑天皇の生育地かも知れません。
   5  羊神社(祭神:火雷命)が鎮座していますが、同名の羊神社(群馬県安中市中野谷、祭神:天児屋根命、多胡

                          羊太夫)があの「多胡碑」で有名な群馬に鎮座し、その近くに、上野国緑野郡尾張郷

                           (現・多野郡西武と藤岡市)があることを前に述べました。

                     今はそれ以上の事を云えないのですが、つながりを感じます。

 


 

結論:尾張部は応神朝の尾張族の栄光の残影

  「応神天皇の尾綱根連へ詔」の読み解きから始まり、話は「壬生部の制度」(古代皇室の皇子養育費と養育の方法)に及び、更に、出土した「尾治部(備前国)の木簡」から「尾治部(尾張の壬生部)」を推定しました。

 その尾張部の居住地は「尾張部郷」であり、且つ、「伊福部郷」だったのです。

 これらの「郷」の展開はかなり広範囲に及んだと推定され、その郷民は尾張族(必ずしも血統はつながらない人々も含む)ですから、尾張系の神社も祀るだろうと推論します。

 すると、「備前国に尾張族の神社あり」(尾針神社・尾治針名真若比女神社)に辿り着き、更に、「信濃国(長野市)に尾張族の神社あり」(尾張神社)、及び、「尾張国に尾張戸オワリベ神社あり」を確認しました。

  消し去られ、或は、後世に間違って設定された祭神のため、真実の姿が判らなくなってしまった地域もあるでしょう。
 だが、こうして見出した証アカシを元に、「応神天皇の詔」のその後の波紋(実施状況)を次の様に推定します。

  尾張部(壬生部)の仕組みにより、各地に尾張部郷・伊福部郷などの屯倉郷又はそれに類する地域が設定されると、そこには尾張系の神社が祀られ、郷民は部民として様々な貢ぎを、皇子達の養育費として朝廷に貢進したのです。

  「応神朝の尾張族の栄光の残影」をこのような尾張部の形で捉えて、尾張古論3を終えます。

 次は、この尾張古論3の延長戦上に、「伊福部」論を取上げます。