目次 1 海部直・原尾張氏の系譜
1) 天忍人命・天忍男命(三世孫)の取扱いには系譜編者は苦労したか
2) 天砺目命(三世孫)
3) 武額明命(四世孫)から分かれた武波麻命(五世孫)の家系
4) 武砺目命(建斗米命、五世孫)の三子(武田折命・武碗根命・武田背命)
<1> 武田折命(建多乎利命、六世孫)は面沼神社に鎮座す
<2> 武碗根命(建麻利尼命、六世孫)は石作連の祖となった。
<3> 武田背命・・・参照 丹波古史4 海部直の丹波展開 2019年11月19日
5) 建手和邇命
6) 「宇那ウナ」は海に通ず。 例:海上ウナカミ郡海上ウナカミ町、海原ウナバラ
2 原尾張氏直系の宗家は丹波国造の地位を得たか
1) 「原尾張氏直系の宗家」から分かれた家系
<1> 七美(志都美)郡の多他毘古命と大山毘売命(武田背命の女)との婚姻
<2> 朝来郡の表米別命と武田媛命(武田背命の女)の婚姻
2) 武身主命(七世孫)の活躍
<1> 建諸隅命
<2> 武身主命
3 「丹波国造・海部直」の地位を得た人々
1) 怪:建田背命(六世孫)の親は四人居る
2) 本宗家の流れは「丹波國造・海部直」を掲げて継承する
1 海部直・原尾張氏の系譜
系譜は、何時も「仮冒(カボウ、他人の名をかたること。偽称、関係がないのに他人の名前を騙っている)」との疑いをかけられています。
系譜だけではありません。後に別論するように、暦法導入以前の古代の「年代記・時期表示」はいつもその「時代指定」が疑われています。
「系譜」と「年代記」が絡み合って「一族の年譜」を作成したとしても、使う「史料」によって、史料間誤差があるために、全く異なる様相を呈する場合もあるのです。
ここでも、「但馬故事記」(原尾張氏系譜)、を中心に、「天孫本紀」(尾張・物部氏系譜)、「勘注系図」(海部直家系譜)、「日本書紀・古事記」(天皇家系譜)などの史料を活用して、「海部直・原尾張氏の系譜」を作成します。
だが、そこには、ある場合には軽微な、別な場合には著しい、「史料間誤差」が見受けられます。
ここでは、それらの「史料間誤差」は棚上げにして、敢えて、一系譜に纏めます。
1)海部直・原尾張氏の系譜
「但馬故事記・城崎郡記」の伝える系譜(図表1下に引用)を元に作成した系譜図を示します。
この城崎郡記による原尾張氏系譜についての説明・考察の前に注意事項を若干。
・人名の前に付く数字は天火明命の子・天香山命を1とする系譜順位です。
・黒字の人名が「城崎郡記」によるもの、赤字の人名は「天孫本紀」によるもので、対応する
と見ます。
・「勘注系図」の異説の採用は最小限に留めます。
図表1をご説明しましょう。但し、前報で既に説明済み部分は簡略化乃至省略します。
1) 天忍人命・天忍男命(三世孫)の取扱いには系譜編者は苦労したか
「天孫本紀」と「城崎郡記」(但馬故事記)との最大の差異は、天村雲命の子は前者は二子(天忍人命・天忍男命)あるのに、後者は天忍男命一子しかいないことです。
このため、「城崎郡記」では天戸目命は天忍男命の子とされています。
「天孫本紀」では、天戸目命は天忍人命の子であり、その系譜は建斗米命から建田背命につながり、全六男一女をリストしています。建田背命は建斗米命の子だと認定できます。
その建斗米命が武砺目命と同一人としますと「天孫本紀」と「美含郡記」とは一致します。
これと「城崎郡記」(但馬故事記)を対照しますと、「美含郡記」(但馬故事記)では、天忍人命の替りに天忍男命を持ってきて、その子・天砺目命 → 武砺目命の実子として武田背命を位置付けて、その継承性は略々同じですが、「城崎郡記」では武田背命の位置付けが全然異なり、武田背命は、武砺目命の子ではなく、武筒草命の子だとします。
このため、二つの史料記述の間には矛盾が表面化しています。
注 「城崎郡記」は「武筒草命は武田背命を生み」と明記する。
「美含郡記」は「丹波六人部連の祖・武砺目命の子、多遅麻海部直の祖、武田背命を黄沼前県主とする」
古伝承であるが故に、編者は系譜作成に苦慮したことでしょう。同じ「但馬故事記」を編纂しているのに、夫々の「郡記」編纂担当者の間には情報交換がなかったのでしょうか。
参考までに、各史料の編纂時期を下記します。9~10世紀と見て良い様です。
参考 「但馬故事記」の編纂時期:陽成天皇の御代(869- 949年)に一度焼失したが、弘仁五年(814)に起稿し、
天延2年(974)冬12月に至る、と「但馬国ねっとで風土記」に紹介あり。
城崎郡記:城崎大領 正八位上 佐伯直弘麿 951: 天暦5年辛亥3月21日
朝来郡記:朝来小領 従八位下 和田山守部 954: 天暦八年甲寅3月22日
養父郡記:養父大領 従八位上 荒島宿祢利実 935: 承平五年8月15日
出石郡記:出石大領 正八位上 小野朝臣吉麿
美含郡記:美含大領 正八位下 佐自努公近道 969: 安和2年3月24日
七美郡記:七美大領 従八位上 兎束臣百足 959: 天徳3年8月15日
二方郡記:二方大領 正八位上 岸田臣公助 962: 応和2年3月7日
「天神本紀」(先代旧事本紀)の編纂時期は、大同年間(806~810年)以後、延喜書紀講筵(904~907年)
以前の平安初期に成立と云う。(出所) ウイキペディア
「勘注系図」:仁和年中(885~889年)に、「本系図」が神代のことや上祖の歴名を載せておらず、
本記の体をなしていなかったため、第33世の稲雄等が往古の所伝を追補して「丹波国造
海部直等氏之本記」を撰述した由(現存品は江戸初期の写本)。(出所) ウイキペディア
2) 天砺目命(三世孫)
天砺目命(三世孫)については、その活動地域は判りませんでしたが、「気多郡記」(但馬故事記)に次の記事を見出します。これは、この地に赴任した裔孫が祖・天砺目命を祀った、と読みますが、実は、この地は天砺目命ゆかりの地である故の赴任かも知れないのです。
・孝謙天皇の天平勝宝元年(749)6月、大炊山代直都賀麿を但馬介とす。都賀麿は八代邑を開き、墾田を行う。
・天平勝宝5年秋9月 その祖・天砺目命を八代の丘に祀り、これを大炊山代神社という。 また八代神社という。
地元の人が訛って、思往神社と云う。
式内・思往神社(豊岡市日高町中326)<現祭神>思兼命、<古祭神>天砺目命
・天平勝宝7年春正月 国学頭・文部息道は気多郡神社神名帳を編纂、総社(気多神社)に納める。
また、「朝来郡記」(但馬故事記)には次の記事を見出します。
これは「新撰姓氏録」への登記に、天礪目命の末裔が「大炊刑部造」として左京・右京に住み、
「朝来直」として右京に住んだ事と対応します。
・朝来郡記: 安閑天皇2年(532)春正月 尾張連の祖・天砺目命の末裔、朝来直命を朝来郡司とす。
・新撰姓氏録: 410左京神別天孫 大炊刑部造 火明命四世孫阿麻刀祢命之後也
・465右京神別天孫 大炊刑部造 同神三世孫天礪目命之後也
・466右京神別天孫 朝来直 同上
3) 武額明命(四世孫)から分かれた武波麻命(五世孫)の家系
「美含郡記」(但馬故事記)によれば、武額明命(四世孫)から分かれた武波麻命の家系は美伊県主(美含郡司)となり、「若倭部」を管理」する立場を得ています。
・武額明命(四世孫)から分かれた武筒草命(五世孫、建筒草命)の裔孫については既述しました。
参照 丹波古史3 尾張氏の源流・本流・分流を探る1 2019年11月10日
4) 武砺目命(建斗米命、五世孫)の三男子(武田折命・武碗根命・武田背命、六世孫)
「城崎郡記」は武砺目命には三子(武田折命・武碗根命・武田背命)あり、とします。
しかし、「天孫本紀」は建斗米命(武砺目命)は天戸目命の子で「紀伊国造の智名曽の妹の中名草姫を妻として、六男一女をお生みになった」と記し、その次に六男一女の名前(図表2Bに示す)を挙げます。
「但馬故事記」の武田折命・武碗根命は「天孫本紀」の建多乎利命・建麻利尼命とその発音が対応するので、同一人物と思われます。
1武田背命=建田背命、 2武田折命=建多乎利命、 3武碗根命=建麻利尼命
この内の二人についての情報は次の如くです。
<1> 武田折命(建多乎利命、六世孫)は面沼神社に鎮座す
「新撰姓氏録」に、火明命五世孫・建刀米命の裔として湯母竹田連(左京神別)の登記があります。
原文:左京神別天孫 湯母竹田連 火明命五世孫・建刀米命之後也
その付記には「竹田折命は、景行天皇の御世、擬殖して田を賜わる。夜宿之間。菌がその田に生えた。天皇はこれを聞こし召して<菌田連>の姓を賜わったが、後に改めて<湯母竹田連>とした。」(一部訳せず)と由来が説明されています。
「二方国故事記」(但馬故事記)にも湯母竹田連が登場し、この「新撰姓氏録」と対応します。
武田折命(建多乎利命、六世孫)は面沼神社(二方郡竹田村)に祀られており、二方国(二方郡)竹田村に居した如くに思われます。次の如くです。竹田村だから「竹田折命」なのでしょうか。
・孝徳天皇2年5月 二方国造・真弓射早彦命に勅して、当国の甲冑および弓矢を広い場所に収め、兵庫を作り、
軍団を設けさせる。
・物部連・武田折命の末裔、湯母竹田連面沼を大穀とし、天道根命の孫・彦真、また、その祖・
武田折命を兵頭丘に祀り、面沼神社と称えまつる。
・式内社・面沼神社(二方郡竹田村鎮座、美方郡新温泉町竹田字米持前1)祭神:武田折命
<2> 武碗根命(建麻利尼命、六世孫)は石作連の祖となった。
建麻利尼命(武碗根命)は「石作連の祖」(天孫本紀)とされ、「新撰姓氏録」も「左京神別・天孫・石作連 火明命六世孫・建真利根命之後也」とあり、それを裏付けています。
「新撰姓氏録」はその理由を「垂仁天皇の御世、皇后・日葉酢媛命の為に石棺を作り献上したので石作大連公を賜姓した。」と説明しています。
原文:405左京神別天孫 石作連 火明命六世孫建真利根命之後也
垂仁天皇御世。奉為皇后日葉酢媛命。作石棺献之。仍賜姓石作大連公也
摂津国でも「石作連」は火明命六世孫・武椀根命の裔として、また、和泉国では火明命男・天香山命の裔として、夫々、登記されています。
原文:摂津国神別天孫 石作連 火明命六世孫・武椀根命之後也、
和泉国神別天孫 石作連 火明命男・天香山命之後也
従って、「石作連」を通じて「建真利根命=武椀根命」が明らかになります。
<3> 武田背命
武田背命は前報に別立てで詳論していますので、ここでは略し、その目次を掲載します。
参照 ・ 丹波古史4 尾張氏の源流・本流・分流を探る2 海部直の丹波展開 2019年11月19日
<目次>1) 武田背命一族の但馬での活躍
<1> 父・武砺目命は「陸耳御笠の乱」鎮圧の功で美伊県主となる
<2> 武砺目命の子・武田背命は美伊県主・朝来県主となる+神功皇后期の祭祀への武田背命の貢献
<3> 武田背命の子・武身主命(水先主命)は神功皇后の新羅遠征に従う
<4> 孫・海部直命は、大山守命の命により、「多遅麻の海政」を執る ◆その後の「海部直」の動静
<5> 武田背命が「海部直の祖」と云われた理由
2) 海部直が籠神社の祭祀を司る
<1> 「仲原文書」の明かし
<2> 海部直の中心地は但馬・城崎から・丹波・熊野へ、更に丹波・与謝へ移動
結 海部直の大丹波での展開の姿
5) 建手和邇命
建手和邇命は「天孫本紀」が「身人部連らの祖」だと紹介していますが、身人部連=六人部連ですから、この人も「六人部連の祖」なのです。だが、「和邇命」となっている点に和邇つながりを連想させますので、後に、「和邇氏つながりの伝承」を考察します。
6)「宇那ウナ」は「海」に通ず。例:海上ウナカミ郡海上ウナカミ町、海原ウナバラ
「宇那ウナ」は海に通じ、建田背命は「海部直の祖」とされ、「宇那ウナ・海」に近しい人ですから、「勘注系図」が建田背命の亦名を「大宇那比命」とし、「天孫本紀」がその弟妹に建宇那比命(建田背命の次弟)や宇那比姫(同妹)あり、とするのも「海」つながりで頷けます。
宇那比姫は天足彦国押人命妃となり、その女・押媛命は叔父・孝安天皇妃となり、孝霊天皇を生みます。
「日本書紀」によれば、天足彦国押人命は「和珥臣の祖」と呼ばれていますので、押媛の他に男子が生まれていた筈ですが不詳です。
しかし、天足彦国押人命三世孫が彦国葺命(記:日子国夫玖命)だとされ、ここに「和珥臣の祖」の流れを確認します。なにやら、上記の「建手和邇命」とも繋がりそうです。
建諸偶命(七世孫)の妹・大海姫命(先代旧事本紀、亦名・葛木高名姫命)は、尾張大海媛(日本書紀)、亦は、意富阿麻比賣(古事記)と同人と思われ、海部直の祖・建田背命の女ムスメなのです。この女人は崇神天皇妃となります。
「宇那ウナ」は、「宇那比」の「比」が未解明のため、十分に究明できていません。
だが、少なくとも、「海部直」の「海」に通じる点を明記したいと思います。
いずれ、再論を要します。
2 原尾張氏直系の宗家は丹波国造の地位を得たか
「天孫本紀」だけを読むと、図表1の赤字で示した系譜しか辿ることができません。
即ち、「原尾張氏直系の宗家」(図表1の赤字で示した人名)は丹波国造の系統を維持しつつ、やがて、この系統から尾張氏及び海部直氏の流れを生み出して行きますが、それは但馬国の範囲外なので「但馬故事記」には記載がないのです。これは、後に、明らかに致します。
だが、「但馬故事記」を読むと、図表1の黒字で示した系譜を辿りつつ、あやふやな部分もそれなりに配慮していくと、その人々の但馬国を中心とした活躍の様子が読み取れるのです。
1) 「原尾張氏直系の宗家」から分かれた家系
「原尾張氏直系の宗家」から分かれた家系は、七美(志都美)郡・美含(美伊)郡・朝来郡・城崎(黄沼前)郡の首長家に縁ユカリを得ています。勿論、これまでに既に指摘した分流は、当然、あるわけです。
この内、七美(志都美)郡・朝来郡の二郡は武田背命の二女(武田姫命・大山毘売命)が嫁いだことにより縁ゆかりが出来たものです。
<1> 七美(志都美)郡の多他毘古命と大山毘売命(武田背命の女)との婚姻
多他毘古命は、崇神天皇皇子・豊城入彦命の6世孫で、気多県主・多他別命の御子と伝わり、黄沼前県主・賀津日方建田脊命の女・大山毘売命を妻に志都美毘古命を生み、神功皇后32年7月には伊曾布県主となります。 ・伊曾布神社 (兵庫県美方郡香美町村岡区味取字神町)式内社 但馬國七美郡
祭神:<現祭神>保食神
<古祭神>伊佐布魂命(来庫大明神)
「七美郡記」・神功皇后32年7月 崇神天皇の皇子、豊城入彦命6世孫、多他毘古命を伊曾布県主とする。
・仁徳天皇10年7月 多遅麻国伊曾布県を改め、志都美郡とし、多他毘古命の子、志都美毘古命を志都美郡
司とする。
志都美毘古命は、府を板石野原に置く。志都美毘古命は、美含郡司・竹野別・河原命
の娘、花香姫命を妻にし、志都美若彦命を生む。
・仁徳天皇15年4月 志都美毘古命は、多他毘古命を小代の丘に祀り、多他神社と申し祀る。
(式内・多他神社:美方郡香美町小代区忠宮136)
・反正天皇2年正月 志都美毘古命の子、志都美稚彦命を志都美郡司とする。志都美稚彦命は志都美毘古命を
板石野原に祀る。 (村社・郡主神社:美方郡香美町村岡区板仕野1)
志都美稚彦命は、二方国造 陽口開別命の娘、乳原毘売命を妻にし、神阪中津彦命を生む。
<2> 朝来郡の表米別命と武田媛命(武田背命の女)の婚姻
表米別命は、<彦坐王ー山代大筒城太真若命ー迦邇米雷命ー息長宿祢命ー大多牟坂命ー当勝足泥命>と続いた朝来県主の家系に、当勝足泥命の子として生まれます。
応神天皇40年3月、県主・武田背命は、この表米別命に娘の武田姫命を嫁がせ、表米別命を朝来県主とします。しかし、二人の間に子が出来なかったのか、「朝来郡記」は、態々、子・賀都米別命の母の出自を養父県主の女・茂志毘売命と記して、武田姫命の子には触れていません。
2) 武身主命(七世孫)の活躍
<1> 建諸隅命
武田背命(建田背命)の長子・建諸隅命(七世孫)は、「天孫本紀」だけではなく、「城崎郡記」(但馬故事記)の記す「尾張氏系譜」(以下、城崎系譜と略す)にも同名で記載されてはいますが、その事績は「但馬故事記」には伝わりません。
この人の活躍地域が但馬国外の丹波国だったので、「但馬故事記」はその活動を伝えないのでしょう。
「天孫本紀」では「孝昭朝に大臣、諸見己姫(葛木直祖・大諸見足尼女)を妻に一男・倭得玉彦命を得る」とありますが、「城崎系譜」には「倭得玉彦命(八世孫)」の名は最早なく、図表1の左下に記す「丹波国造」家の系譜は、当然のことながら、「但馬記」には記載がないのです。
<2> 武身主命
武身主命(水先主命、建日方命、七世孫)は、建諸隅命が丹波で活躍するのに対して、城崎郡で重要な立場を演じます。
武身主命は、亦名・建日方命とも云い、子・海部直命を生み、神功皇后の新羅征討には水軍を率い従軍し、且つ、戦勝・海上鎮護を祈願する斎事を催しています。
「出石郡記」・皇后の御船がまさに水門を出ようとする時、黄沼前県主の賀都日方武田背命は、子・武身主命を皇后
に従い、嚮導したので、武身主命の亦名を水先主命と云う。
・皇后はついに穴門国に達しられる。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、
海上鎮護の神とする。水先主命は水先宮に坐す。水先主命の子を海部直とするのはこれに依る。
「美含郡記」・皇后の御船がまさに水門を出ようとする時、黄沼前県主、勝日方命はその子、武日方命に教えて、
皇后に従い先導をさせる。
建日方命は海童神を御船に祀り、仕えまつる。故に御名を称え水先主命と云う。
武身主命は「水主直の祖」とも云われ、父・建田背命が山城国水主村に転じた後、その地を継いだかと思われます。その裔・水 主直家は水主神社の祝(神主)役を継ぎますが、水主神社の祭神(宗家直系神のみ祀る)には武身主命は祀られることなく、そこには長兄(直系)と覚しき建諸隅命が祀られている事に気付きます。
・水主神社(京都府城陽市水主宮馬場、山背国久世郡水主村)
祭神:天照御魂神・天香語山命・天村雲神・天忍男神・建額赤命・建筒草命・建多背命・建諸隅命・
倭得玉彦命・山背大國魂命
・新撰姓氏録:山城国神別 水主直 火明命之後也
尚、武身主命については、前報:丹波古史4 海部直の丹波展開 2019年11月19日、にも触れています。合わせて、ご照合下さい。
参照・丹波古史4 尾張氏の源流・本流・分流を探る2 海部直の丹波展開 2019年11月19日
3 「丹波国造・海部直」の地位を得た人々
1) 怪:建田背命(六世孫)の親は四人居る
各史料を比較して驚かされるのは、建田背命(六世孫)の親として、夫々、別の親を記している事です。即ち、 天孫本紀 :建斗米命の子として建田背命を記す
但馬故事記(美含郡記) :武砺目命の子として武田背命を記す
(城崎郡記) :武筒草命の子として武田背命を記す
勘注系図 :笠津彦命の子として建田背命を記す
この「四人の親を持つ建田背命」を考察するために系図を作成します。即ち、「天孫本紀」・「但馬故事記」(城崎郡記)・「勘注系図」の系譜を一覧して比較できるように作成したのが図表2Aです。 赤字表記の建田背命→建諸隅命→倭得玉彦命ご覧下さい。
これはどの系譜も「本宗家の血統は建田背命(六世孫)に統一されている」事を意味します。
こうなると、「天孫本紀」、「但馬故事記」、「勘注系図」の各史料の編者は、理由はともあれ、そして、意図の有無はともあれ、六世孫の建田背命に至って、天火明命に発する全ての血統分流を合流させる「系譜操作」を行っていると云えます。
2) 本宗家の流れは「丹波國造・海部直」を掲げて継承する
肩書きも、建田背命(六世孫)に至り、それまでの「県主」の地位から「丹波宰」と広域支配の立場を与えます。その子・建諸隅命(七世孫)も大丹波県主(古事記開化天皇段)、孫・倭得玉彦命(八世孫)も丹波国造(但馬故事記・城崎郡記)、として知られます。
「勘注系図」でその後を辿ると、大倉岐命(十六世孫)・建振熊宿禰(十八世孫)とその子・阿知も、いずれも丹波國造、兼、海部直をその名に冠して後世に伝わります。
「勘注系図」の系譜には疑問も呈する向きもあるのですが、総じて、この「建田背命(六世孫)」が大きな画期となり「丹波国造」の肩書きは常態化していきます。
取り分け、建振熊宿禰(十八世孫)は「丹波國造」、「海部直」、「丹波直」、「但馬直」を標榜していることが注目されます。そこには全ての大丹波領域をカバーする意思が見受けられます。
かくて、この本宗家の流れは「丹波國造・海部直」を掲げていくのです。真実の流れを表現しているのか、それとも栄光の歴史を飾り立てたいのか、それは判りません。
参考情報:図表2B 原尾張氏に関する史料別系譜比較ー但馬故事記・天孫本紀・勘注系図ー
を添付します。ご興味の向きは更に原資料をチェックして下さるようお願い致します。