本報のタイトルは、前報に続いて「依網氏論7 建豊波豆羅和気王の謎」を予定していましたが、中身が大きく変わり、今や検討対象は「建諸隅命論」或は「物部・尾張の丹後国での古展開」と云っても良いほどです。

   予定タイトル「建豊波豆羅和気王の謎解けずも、一条の光」は「丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須」に変更します。ややボンヤリしたタイトルです。

  調べを進めていく内に、そこには建豊波豆羅和気王の姿は最早なく、竹野媛の父・建諸隅命を巡る丹後古代の一景色が見えてきたのです。

 建豊波豆羅和気王とその母・竹野姫の祭祀を疑い、検討対象を竹野姫の父・建諸隅命と更にその父・建田背命にまで拡げた時、新しい視野が開けた、と強がっていますが、どうも、進路変更した憾みありです。
目次  前報1) 仮説による論点整理
          2) 建豊葉豆羅和気の謎が解けない理由ワケ
      本報3) 熊野郡(久美浜町)に見出した建諸隅命・建田背命の祭祀社
             (1) 熊野郡式内社の祭神
               <1> 川上麻須
               <2>  矢田神社・矢田八幡神社
             (2) 「川上麻須・建諸隅命」考
               <1> 「麻須」論
               <2> 「竹野郡」論
               <3> 建諸隅命(大丹波県主・由碁理)
               <4>  建田背命(六世孫):海部直の祖
               <5> 建田背命・建諸隅命の国府
      

3)  熊野郡に見出した建諸隅命・建田背命の祭祀社

 

  竹野姫の父・建諸隅命、及び、祖父・建田背命が竹野神社に祀られていないのであれば、何処に祀られているのでしょうか。

 (1) 熊野郡式内社の祭神

   調べてみますと、建諸隅命と建田背命との二人は矢田神社(古代の熊野郡)と矢田八幡神社に祀られています。
   熊野郡の式内社11社の祭神の特長は、図表4(式内社を一括表示)から読み取れるでしょう。

      (1) 降臨神:豊受姫命・天熊人命・天太玉命 天兒屋根命などの神々、

      (2) 後世神:川上摩須・丹波道主命、建田背命・武諸隅命、出石心大臣命、

 が見られます。この内、 (1)は天孫の丹波降臨期の神々はここでは論評せず、(2)の後世神について検討します。

 

<1> 川上麻須

  川上摩須はこの地域一帯の支配者だったと思われます。

 摩須の身分の高さ故でしょう。崇神朝、陸耳御笠の乱平定に貢献し、四道将軍の一人でもある、丹波道主命はこの丹波川上麻須郎女を娶ります。その子女五人が長じて、皆、垂仁天皇の皇妃となると、川上麻須はそれを祝って熊野神を勧請し、熊野神社を造営した由です。                   (出所) 丹後旧事記

 川上摩須は、祖神祭祀に尽力してる姿が伝承から推定されます。
 この近在で、川上麻須が勧請したか何らかのカタチで関わったと伝わる式内社は、熊野神社(神崎)・矢田神社(海士)・衆良神社(須田)・伊豆志弥神社(出角)・三島田神社(金谷)・聞部神社(友重)・神谷神社など7社に及び、いずれも川上谷川の沿岸域にあります。

  往古、この川上麻須が居したと伝わる「熊野郡川上庄須郎の里」は現在の京丹後市久美浜町須田であり、川上麻須を祭神とする式内社・衆良神社が鎮座しています。従って、川上谷川の上流地の須田の地か、或は、この近在に川上麻須の墓所はあると見られます。


<2>  矢田神社・矢田八幡神社
  第二のは、今関心の、建田背命・建諸隅命です。

    第一の神社は矢田神社(海士)です。

  ここの祭神は建田背命、配祀神はその子・和田津見命と武諸隅命とされています。和田津見命は、下記の「熊野郡誌」では子神扱いです。元々は海神の名で、海人・海部直の居住地と云われるだけあっての「名」なのでしょう。
   図表4に示す様に、矢田神社にこの二神を勧請したのは川上麻須だと伝わります。

  と云うことは、建諸隅命の方が川上麻須より一世代古い人なのかも知れません。
     矢田神社(京丹後市久美浜町)

              祭神:建田背命、配祀:和田津見命 武諸隅命  
      由緒:垂仁朝、河上摩須が勧請
       熊野郡誌:式内社にして其の創立最も古し、按ずるに海士の地は往古、神服連・海部直の居住地にして、館跡を六

        宮廻といふ。

                     海部直は丹後の国造但馬国造等の祖にして、「扶桑略記」にも丹波国熊野郡川上庄海部里爰二国府一と

                     あり、されば、海部直の祖たる建田背命及び其御子・武諸隅命、和田津見命を斎き祀れるも、深き由緒の

                     存する処にして、また、其の子孫の祝として代々仕へ来れるも、縁由する処を知るに足る。

   もう一社・矢田八幡神社(佐野)は武諸隅命の他に応神天皇・神功皇后を祭神とします。
 それは、物部守屋の失脚(587年)の波紋を懼れて、元来の祭神・武諸隅命に加えて八幡神(応神天皇・神功皇后)を勧請した故だとの社伝があり、神社史に彩を添える記憶すべきケースです。
   歴史上、人々は生き残りのための「祭神変更」を辞さなかったのです。その最古級の一事例と云えます。

  しかも、この神社の配祀神は、開化天皇の両親、孝元天皇とその皇后・内色姫命となっています。今は論評しませんが、これは後論を要します。                

 更に、三嶋田神社(金谷)の創祀は建諸隅命による、と伝わるのも注目すべきです。
 建諸隅命は川上麻須と同じような立場でこの地域の奉祭に関わっていたのです。

(2) 「川上麻須・建諸隅命」考
  そこで、「川上麻須・建諸隅命」の論考を進めると、そこに当初は思いもしなかった意外な推測が生まれるのです。

<1>  「麻須」論
   第1に、次の「勘注系図」に記された「彦由麻須命」は「川上麻須」と通じる、と思われます。

   その意味は、「建諸隅命は川上麻須なのではないか」と推測させられるのです。

 川上麻須の川上は地名(地域指定語)で、熊野郡を北向きに縦流する川上谷川(2級河川)の、狭くは上流地域(伯耆谷川)、広くはその支流(芦原川と永留川)を含む全流域を指すと見て良いと思われます。

  加えて、もう一筋の佐濃谷川は川上谷川に併流して、佐濃谷の久美浜町を北流しています。

  要するに、この流域が現・久美浜町であり、古代の熊野郡なのです。

 彦由麻須命の「彦」は「男性首長」の尊称であり、川上麻須の「川上」は居住地または領有地を示すとすれば、麻須は両者に共通する「人名」なのです。
 その結果、「麻須」を名乗る人物は「建諸隅命」(彦由麻須命)に他ならない、と推測させられるのです。直裁に云えば、「建諸隅命は川上麻須その人なのではないか」との推測です。

   引用:1 建諸隅命(七世孫)は、建日潟命とも云い、亦名を彦由麻須命と云う。

     2 また、建日方命とも云い、丹波縣主の由碁理命であり 母は葛木高田姫である。
       3 開化(稚日本根子彦大日日)天皇の御代、丹波國の丹波郡と余社郡とを割いて、竹野姫の屯倉が置かれた。

      その時、建諸隅命が奉仕したので、亦名を「竹野別」と云い、后に「竹野」を郡名とした。
       4 此命は大諸見足尼女・諸見己姫を娶り、日本得魂命が生まれ、次に大倭姫命が生まれた。別に云う、

      その次に依網吾彦男垂見宿禰を生んだと。
 
 原文:建諸隅命(七世孫)亦云、建日潟命 亦名彦由麻須命亦云 建日方命 一云、丹波縣主由碁理命 母葛木高田姫 

      也、稚日本根子彦大日日天皇【開化】御宇於丹波國割丹波郡與余社郡、被置竹野姫之屯倉、于時此命奉仕、

               故亦名曰、竹野別后爲郡名矣、此命娶大諸見足尼女諸見己姫、生日本得魂命、次生大倭姫命(一云、次生

     依網吾彦男垂見宿禰)矣                                                              (出所)「勘注系図」
 

  そうだとすれば、熊野郡(現・久美浜町)こそ川上麻須=彦由麻須命=建諸隅命の領地であり、先に、「熊野郡の式内社の祭神」の項で寸論した「川上麻須」論は、そのまま、「建諸隅命」論に書き換えられるのです。

 

   もっとも、「和名類従抄」によると、川上谷川流域には川上郷と海部郷(現・海士)が記されていますので、川上氏は川上郷に、海部直祖の建田背命一族は海部郷に居を構えた節がありますので、二人が同一人だとは断定できません。
 だが、血縁の有無は別として、大氏族の支族同士である可能性は高いのです。

 

<2> 「竹野郡」論
   第2に、開化朝に、丹波國の丹波郡と余社郡とを割いて、竹野姫の屯倉を置き、建諸隅命がそれ管理したので、その亦名を「竹野別」と云い、後に、この地域は「竹野郡」と呼ばれるようになった、と云う上記引用の「勘注系図」(引用文1-3)の記事です。
 

   開化朝に丹波郡から分割した地域を、竹野姫に因んで「竹野郡」と名付け、竹野姫の屯倉とし、それ故に、建諸隅命は竹野別と呼ばれたのであって、飽くまで竹野姫が先にあって、その名前を採って後から竹野郡と呼ばれたのであって、「竹野郡」が元々の呼び名ではなかったと云うことです。

  熊野郡の首長・建諸隅命(勘注系図:彦由麻須命)は、その女ムスメ・竹野姫を開化天皇妃に差し出し、竹野姫の生んだ第一皇子は日子由牟須美命(紀:彦湯産隅命)と名付けられます。

 竹野姫の輿入れ貢献を認めた開化天皇は、新たに「竹野郡」を作り、屯倉を設けて竹野姫の余生を保障したのでしょう。父・建諸隅命がそれを管理し、亦名を「竹野別」と名乗ったのです。

 

 この開化朝に、初めて、建諸隅命は熊野郡から竹野郡へその影響力を発揮するようになった、と読むべきでしょう。

<3> 大丹波県主・由碁理
  「日本書紀」(開化天皇段)には「天皇は丹波竹野媛を妃とされた、彦湯産隅命を生まれた」と記すのみです。「先代旧事本紀」(天皇本紀・開化天皇段)も「日本書紀」と同じです。

 「古事記」(開化天皇段)には「この天皇、丹波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶りて生ませる御子・比古由牟須美命。・・その子、大筒木垂根王。次に、讃岐垂根王。この二王の女、五柱坐しき。」と記します。

  「勘注系図」に「建諸隅命は、建日潟命とも云い、亦名を彦由麻須命と云う。また、建日方命とも云い、丹波縣主の由碁理命であり 母は葛木高田姫である。・・此命は大諸見足尼女・諸見己姫を娶り、日本得魂命が生まれ、・・」とあります。
  追記2024.5.18:「尾張系図」(宮内庁書陵部)を見ますと、上記と同一の記述を見ます。


 「丹波縣主の由碁理命」とあるのは「古事記」と 「勘注系図」とは一致し、由碁理にも「由」を見出し、彦由麻須命・比古由牟須美命(紀・彦湯産隅命)と「由」を共有しています。
 ここには良くある「親子でその名に一字を共有する習わし」すら推定させられます。

  <大丹波県主>

 「大丹波県主」の意味は中々難解です。
  丹波国は、律令制以前、但馬、丹後、丹波を含み、加佐郡を東端とする地域と思われます。そこが丹波国造の領域だとすると、大領域です。

 諸般の情勢判断から、「丹波大縣主」とは丹波国内に三郡程度をカバーする立場だと見ます。
  その三郡とは、熊野郡・丹波郡の二郡に加えて、竹野郡、或は、竹野郡は開化朝に丹波郡から分割されたものとすると、竹野郡に代わって但馬国の城崎郡が妥当かも知れません。

<但馬海部直>

 城崎郡には絹巻神社・海神社の二社が鎮座し、その祭神として天火明命・建田背命・海部直、海部直の祖・建田背命を祀るとする説があるのです。
    絹巻神社(豊岡市気比字絹巻2585番地1)但馬五社の一
           祭神:天火明命 配祀神:海部直命・天衣織女命
          ・絹巻神社縁起:御祭神 上座・建田背命、中座・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、下座・玉櫛姫命

       ・国司文書 但馬神社系譜伝:田結郷 海神社 城崎郡絹巻山鎮座 
               祭神 上座 海童神 小田井県に坐す海童神を遷宮しまつる 
                    中座 住吉神 神倉山に坐す住吉神を遷宮しまつる 
                                  下座 海部直(亦名・大海部彦命)・海部姫命(亦名・大海部姫命)   一に曰く 櫛日方命・玉櫛姫命 
                     由緒:応神天皇三年四月、大山守命が山海の政を執られた時、大山守命は多遅麻黄沼前県主武身主命

                                    の子・海部直命に多遅麻の海政を執らし、その姓を海部直と称することを許した。
                         ・その時、海部直命は、自分の始祖天火明命を黄沼前県に祀り清明宮と称した。
                     ・仁徳天皇十年八月、海部直命は城崎郡司を兼ねる事となり、黄沼県を海部村
(小島)に置き、

            多遅麻の海人を領し、清明宮を海部村に属する絹巻山に移し絹巻神社と称した。
               ・履中天皇の御代、海部直部の子・西刀宿禰が城崎郡司となり、宿祢に命じ瀬戸の水門の俊渫を

            行った。 爾来、円山川沿岸は洪水禍をまぬがれたと伝わる。     

       海神社(豊岡市小島字海ノ宮965)
       祭神:海神・大綿津見命。   神祇志料:海部直の祖・建田背命(天火明命六世孫)を祀るとある。 

     由緒:海の神社なので、
    小田井県主神社(豊岡市小田井町15-6 )
       祭神:国作大己貴命、   国司文書・但馬神社系譜伝:

         上座・国作大己貴命、中座・天照国照彦天火明命、下座・海童神


<5> 建田背命・建諸隅命の国府所在地

 その地(丹波國熊野郡「川上庄海部里」、現・京丹後市久美浜町海士)は、建田背命の国府が置かれた地でもある、と「扶桑略記」(堀河朝(在位:1087~1107年)の僧・皇円の私撰史)は云う、と「熊野郡誌」に記されています。

  「丹後旧事記」も略同じ内容です。
  熊野郡誌:海士の地は、往古、神服連・海部直の居住地にして、館跡を六宮廻ロクロノマワリと云ふ。

        海部直は、丹後國造・但馬國造の祖にして、「扶桑略記」にも丹波國熊野郡川上庄海部里を國府と爲す

                  とあり、されば、海部直祖たる建田背命、及び、その御子・武諸隅命・和田津見命を斎き祀れるも深き

                      由緒の存ずる所。

    丹後旧事記:神服連海辺亙。日本古事記・日本旧事記曰く、神服連海辺の亙は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也

                      孝霊(大日本根子彦太瓊尊)天皇の御代、此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字あり。

                      これは細川少将忠興順国志にあり。王代の人は住地を自分の名とする事例は多い。「川上庄」は凡当国

                      国府の始なるべし。
 

 従って、建田背命の元の領地、或は、その国府の所在地は川上庄海部里=熊野郡海部郷だと思われます。

 他方、建田背命の子・建諸隅命の国府はそのまま熊野郡海部郷の地にあったのでしょうか。
  「丹後旧事記」は「大県主油碁理は竹野里を国府となし館造し人也」と記します。

   だが、この竹野神社及びその近傍には建諸隅命を祀る神社もなければ、建諸隅命伝承もないので、これが建諸隅命の竹野郡とのつながりを支持できない一大ネガティブファクターとして厳然として在ります。

  調べてみると、丹哥府志に次の記述があります。
     丹哥府志:神服連・海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子、笛連王、母を節媛とい

                    ふ、孝元天皇に仕へ奉り、丹波与謝郡比治の里・笛原に国府を造る、比治は、今の丹波郡比治山の麓、

                    五箇の庄なり。
 

  建田背命が山城に転出するまでは、海部直の根拠地・国府は熊野郡海部郷(川上郷海士里)にあり、その後、笛連王が五箇庄に国府を構えた由、今は笛原寺にその館跡あり、と云います。
 
 要約するとこうです。
    1 初め、建田勢命は熊野郡(久美浜町)の「川上庄海部里」に府を置いた後、山代・水主の地に移動します。
    2 次に、建田勢命の次弟・建宇那比命の子・笛連王が現・京丹後市峰山町五箇に府を置いたとされます。

              ・だが、直系の建諸隅命やその子・倭得玉彦命を差し置いて、笛連王が丹波国造・海部直を継いだ、

                 とは考えられず、また、そのような明記もありません。

      その「府」と称するものは国造又は県主よりも従位のものだったと思われます。
    3 建田勢命の子・建諸隅命「旦波大縣主由碁理は竹野里を国府とした」という伝承(丹後旧事記)は、由碁理の女・

        竹野媛の竹野神社創始伝承と共に伝わります。
        しかし、建諸隅命の府、或は、祭祀社は竹野郡には、再々度申しますが、見当たらないのです。

        「丹後旧事記」は竹野里を主張しますが、疑問符が付きます。

 図表7               丹波国・国府所在地の移動
──────────────────────────────────────────
    <人名>           <丹波國・国府所在地)>   <資料出所>  (・・以後は原資料からの引用資料)
 1  建田勢命(6世孫)   熊野郡川上庄海部里        扶桑略記・・丹後旧事記・丹哥府志・熊野郡誌
 2  建諸隅命(7世孫)   竹野里(丹後町竹野)        丹後旧事記
 3  笛連王 (7世孫)   五箇庄(網野町五箇)        丹哥府志
──────────────────────────────────────────
□中間まとめ
 こうして、話は建豊葉豆羅和気からすっかり離れて終い、建田背命・建諸隅命・川上麻須を中心とする動きを追う形となったのです。

1 話の序ハジメは、川上麻須と彦由麻須命(建諸隅命)との同一人物説、及び、「由」論として、大丹波

    県主・由碁理(建諸隅命)=彦由麻須命(父)、比古由牟須美命(孫)に「共通する由」論です。
2 話の中心は、

      第一に、熊野郡(久美浜町)から始る建田背命・建諸隅命・川上麻須の活動です。
    第二に、海部直の大丹波の海岸から10km圏での展開の姿を神社祭神が教えてくれます。
            但馬・城崎郡・海神社(豊岡市小島字海ノ宮)  祭神:建田背命(海部直の祖、神祇志料)
                        ・絹巻神社(豊岡市気比字絹巻)   祭神:天火明命   配祀神:海部直命・天衣織女命
              丹後・熊野郡・矢田神社(久美浜町海士)         祭神:建田背命   配祀神:和田津見命・武諸隅命
                                ・国府:建田勢命の府・・熊野郡川上庄海部里                                       
                            ・矢田八幡神社(久美浜町)   祭神:武諸隅命、配祀:孝元天皇 内色姫命、応神天皇

                               神功皇后
                            ・竹野郡・斎宮神社(丹後町宮)          祭神:竹野媛、彦坐王、建豊葉豆羅和気、
                                          ・国府:建諸隅命の府・・竹野里(丹後町竹野)?
                            ・丹波郡・矢田神社(峰山町矢田小谷山) 祭神:伊加賀色許命
                            (伊迦賀色許男命、伊迦賀色許売命、いずれを指すか不明)
                            ・与謝郡・矢田部神社(与謝野町石川矢田) 祭神:伊香色雄命
                            ・加佐郡・高田神社(舞鶴市上安)     祭神:建田背命          

    第三に、それは、開化朝の竹野郡の分立潭につながります。それ以前に、熊野郡は在ったよう

      ですが、大丹波郡は、開化朝に、竹野郡・与謝郡・丹波郡に分けられた、と見ます。
      第四に、首長の異動に伴い、国府が移動したらしき様子も推定出来ます。

  第五に、大和朝廷の創始期の天皇たちと尾張氏・物部氏との通婚、及びその皇子たちの動向が

      伝わります。これが、当今の竹野媛にまつわる最大の関心なのでした。

 

 注 図表5については説明するスペースをなくなりました。ここは別の機会をご期待下さい。

       続く。