天火明命が海船「天磐船」製作を依頼した相手は、住吉海人族の同志的な仲間・船木族だったでのではないでしょうか。この「船木族」は、後世、神功皇后からの賜姓なので、天火明命の時は原・船木族と呼ぶべきかも知れません。ここでは、天火明命の河内降臨の海船「天磐樟船」の性格を考察します。

◇ 船木族が造った天磐樟船を推測する

  ニギハヤヒ(天火明命)は、「鹿児水門」(加古湊)から原・船木族の造船し献上してくれた「天磐船」(準構造船)に乗り、河内国に上陸したと思われます。
  どうして「天磐船」が準構造船だと断定的に云えるのか。これを、順次、ご説明しましょう。

(1) 船司ー造船技術力と森林管理
 先ず、「船木等本紀」から、船木族の造船技術力を読み取ることができます。

 訳1:昔、日神を出し奉る宇麻呂・鼠諸・弓手等の遠祖・大田田神の児・神田田命も、日神を出し奉   

    りて、この杣山(そまやま)をその所領とす。
    氣長足姬の神功皇后の時、熊襲国を誅伏し、併せて、新羅國に征する時、大田田命と神田田

    命は、二人の所領の山岑の樹木を伐り、三艘の船を造りたり。
    一番下の太い幹から造った「本造舩」には神功皇后と大神臣ら八腹を乗せ、次の中腹の「赤

    造舩」には日御子等が乘り、次の「末造舩」には御子等と大田田命・神田田命が共に乗り、   

    渡征したのです。
  (原文) 右,昔奉出日神宇麻呂、鼠緒、弓手等遠祖大田田命兒神田田命奉出日神,即所領此杣山也。而氣長足姬神功

      皇后時,誅伏熊襲國。并新羅國征時,大田田命、神田田命,伐取己所領山岑樹,而造船三艘。本造舩者,乘

      皇后并大神臣八腹。次中腹赤造舩者,乘日御子等。次末造舩,御子等并大田田命、神田田命,共乘渡征。

                                        (船木等本紀)

   ここには、船木一族が、神功皇后に協力して造船し、献上した様子が記されています。
 先ず、一本の太い木を伐り、それから三艘の船が造れたことを記し、古代の船造りの様を伝えます。「八腹を乗せる」とありますが、ここには漕ぎ手の水夫を除いています。漕ぎ手として十六人の水夫、一人の船長(舵取り)が想定されます。すると、この船は二十五人乗りです。

 訳2:右の杣山地は、元来、船木連の宇麻呂・鼠緒・弓手等の遠祖・大田田命の兒・神田田命等の

    九萬八千餘町の所領でした。神功皇后の御代、この土地を住吉神に寄進した時から、住吉大

    神社の造営料を領掌し、年久しかったところです。ここに、宇麻呂らは新羅国遠征時に良い

    船を造り献上しますと、船木、鳥取の二姓を賜わったと云います。
    (原文) 右杣山地等,元船木連宇麻呂、鼠緒、弓手等遠祖大田田命兒神田田命等,所領九萬八千餘町也。而氣長足姬

      神功皇后御宇世,所奉寄於大明神已了。自爾以降,大神社造宮料領掌年尚矣。爰宇麻呂等貢獻皇后造船。

      新羅國征時,依好造船定賜,船木、鳥取二姓已了。(船木本紀)

   これは、既に前報でご紹介した船木族が所領を住吉大社に寄進した話です。

 それにより、船木連・鳥取連の氏姓を賜わり、森林管理権を授けられたのです。

 「船木等本記」で船木族が神功皇后のために三艘の船を造り献上した話は、そのまま、天火明命のために、先住の原・船木族が造船献上しただろう、と推測させます。

(2) 船木の調達
 この時、相当太い高木を伐り出して造船したようです。

 その数字をそのまま受け止めれば、当時は造船用の巨木を探して、一本の高い木から三艘の船を造っていたことが判ります。
 その「船木」用の高木の森林管理のため、深山の谷筋に住吉神社が設置されていたのです。

  別情報を探すと、「十周、120丈」と云う表現が出てきます。

 引用:菅霹靂(安芸国沼田郡船木郷)の由緒を刻んだ石碑
       霹靂(かんとけ)の木は周囲10周、高さ120丈もある大木で、高天原より神が降臨される神木として崇められ、

     雷は雷鳴と共に雨をもたらし、耕作の豊穣と結びつけ農業の神として信仰があった。雷神のたたりを畏れた

             村人が神々を勧請し、社号を船材敏(ふなきと)神社とし、船木郷の産土神として祀られ

           たと云う。              (出所)  「かむとけの木から(1)」 神社の世紀ー神社空間のブログ
        注 管霹靂神社(広島県三原市本郷町船木中之谷)                          
                祭神:火之迦具土神、天之水分神、久久能智神、河辺臣、豊宇気毘売神、天照大神、

                                                                                                                         天手力男命、須佐之男命
              社伝:725(信亀二)年、創建


  「十周、120丈」は、周=1.6m、丈=1.8mとして、「16m、216m」です。

 現代の楠の巨木トップテンは推定樹齢12003000年で、幹周1724mを計測しています。杉の巨木トップテンは幹周16mと見ます。従って、古代にも「十周」は十分あり得た、と思われます。杉でも能代スギ樹58m(幹周51.5cm)が現代の最高だと云います。

 

*杉の大杉:高知県長岡郡大豊町杉の八坂神社境内に生育している。推定樹齢は3000年以上。

                根元で「北大スギ」と「南大スギ」の2本の株に分かれており、

             ・南大スギ:根周りが約20m、樹高約60m。

             ・北大スギ:根周りが約16.5m、樹高約57m、

 

 だが、高さ「120丈」には疑問符が付きます。現代では、これだけの巨木は見当たりません。

   米国レッドウッド国立公園のセコイアの高木ですら115mです。

 セコイアは直径45m(=幹周12~15m)で樹高は112115mと見れば良いでしょう。

 

   日本は高木がない故か、「巨木の定義」(林野庁)は幹周についてだけで、高さには触れないので、公式統計では高さは判らないのが普通です。一応、個別情報から樹高を見ても、50mが精々でしょう。造船用の実用樹高は更に小さくなる筈です。

  それでも、古代に実用樹高4050m、幹周16mの楠材・杉材が船木として利用可能だったとしましょう。
  
 次は、このように入手した船木を用いて、どのような船を造ったか、に移ります。

(3) 「天磐船」は準構造船だった

  シロウト故に難儀して、色々と手を尽くして調べ、「弥生の船」を推定しなければなるまい、と覚悟していたのですが、弥生船に関する素晴らしい資料を見つけ、その苦行を大幅に短縮できました。

  「平成26年度 ひろしまの遺跡を語るー弥生時代の船」と云う講演資料集がネット上にあります。そこでは「弥生船」の考古学的な集積を示し、23世紀(弥生後期)の「古代船」の水準は、少なくとも弥生後期の先端技術は、「準構造船の建造レベル」に至っている事を示しています。

   この講演を開催し、素晴らしいまとめの資料集をネット上に残して下さった方々に敬意を表して、その主要部分を次に抜粋引用します。

  引用(抜粋):御領遺跡の土器に描かれた弥生時代の船を考える
                                       (公財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室  伊藤実
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1 船の絵の特徴とその評価
  ○ほぽ確実に解釈できる特徴:
    ・土器の年代は,弥生時代後期後半(2~3世紀)
    ・土器は日常使われる壷で、墓にお供えするとかの特別な形の土器ではない。
    ・絵の大きさは,縦3cm,横11 cmほど。
     準構造船:船体は船首と船尾が反り上がったゴンドラ形の船。船首が左,船尾が右。              竪板:旗竿 船首に竪板(波よけ板)、船尾に旗竿と旗が描かれている。 
       屋形:開いたV形で表現した屋根を持つ屋形(船室)が描かれている。
  ○上記の特徴から考えられる考古学的評価
    ・弥生時代の土器に描かれた船で,全体がわかる例は少ない。
    ・屋形の表現がある弥生時代の船は初例。
  ○解釈が苦しい,あるいは解釈が分かれる・特徴
    ・船板(舷側板)は縦線で表現されたものか?
    ・船尾の船外に描かれた右下がりの3本の描線は舵を兼ねた擢か? 
    ・船尾の旗のなびく方向(右→左)と竿のしなり(左→右)が異なる。
2 だれが何のために描いた?(略)
3 弥生時代の準構造船
  日本の縄文時代の遺跡から出土する丸木舟(単材刳り船)は、巨木を半分に割り、内部を刳り 抜いたもので、世界的に共通する最も原始的な船の作り方で作られています。
  大きなものでは、長さ7m、幅は0.7mほどのものが知られています。
 
  大陸から新しい技術や人たちが日本列島に渡ってきた弥生時代には、新しい船の作り方も伝わり、それまでの丸木舟に船板(舷側板)や船首材(波よけ板・竪板)などを取り付け大型化した準構造船(複材刳り船)が作られるようになります。
 
  こうした弥生時代以降の大型船(準構造船)は、廃船されると大型部材は他の建築材などとして転用されるため、出土例は多くありませんが、主に弥生時代中期以降の準構造船の部材が、北部九州から東海地方から見つかっています。
 
4弥生人の船
  江戸時代の千石船にいたる和船と総称される日本の木造船の出発点は、丸木舟に板材を継ぎ合わせた弥生時代の準構造船にはじまります。
  ○ 造船に必要な道具:

        製材用の鋸や鉄釘のない弥生古墳時代の準構造船は、鉄斧やヤリガンナなどで板材を平ら  

        にして、ホゾ穴を開けて桜の皮などで縫い合わせて、大きな船にしています。
  ○ 船底材:丸木舟が使われるため、水漏れの心配は有りませんが、幅が限られる(約1 m)ため、

        大きな船にするのは難しかったようです。
 

   こうした弥生時代に始まる準構造船は、本格的な製材用縦挽き鋸が登場する中世ごろまで、 大陸に渡る遣唐使船などにも使われた技術でした。
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                       (出所) 平成26年度ひろしまの遺跡を語る(2015.1.24弥生時代の船・大航海時代のさきがけ・ 報告Ⅱ

 なお、準構造船は、弥生時代に登場し、青谷上寺遺跡(鳥取・鳥取)、赤野井浜遺跡(滋賀・守山)、潤地頭給遺跡(福岡・糸島)、角江遺跡(静岡・浜松)及び久宝寺遺跡(大阪・八尾)などで部材が出土している由です。

  弥生後期の海船造船技術は想像以上に進んでいたようです。そうであれば、ニギハヤヒ(天火明命)の河内降臨の天磐船は準構造船と見る事が許されます。
 

  かくて、天火明命集団は、原・船木族にその造船を依頼し、鹿児水門(加古川河口の湊)でそれを受け取り、河内に向かったことが明らかです。

◇ 参考資料を添付します。
 

1)御領遺跡で出土の準構造船の土器線刻画:
   (1) 御領遺跡:広島県福山市神辺町の下御領から上御領にかけての東西約1.6㎞、南北約1.4㎞の

                      範囲に広がる縄文時代から中世にかけての遺跡。
   (2) 土器線刻画:福山市の御領遺跡で出土した弥生時代後期(23世紀)の土器片に、屋根のある船

                      室を備えた船が線刻されていた事が分かり、2014年12月17日、広島県教育事業団

                      埋蔵文化財調査室が発表しました。
   (3) この「準構造船の線刻画」付き土器は2世紀後半から3世紀前半にかけての弥生時代後期後半

        のもので、伊予地方東部(愛媛県今治市周辺)から運ばれた可能性が高い、と推定されています。


2)弥生時代の船の絵:

 弥生時代の船は、土器(壺・甕・甕棺)や木板、銅鐸、中には琴にも、描かれており、専門家はそれらを分析しているようです。次は引用です。

 

 その中で、御領遺跡出土の土器の線刻画は色々な人がネット上に紹介しているのですが、図表4に代表的でわかりやすい図を借用しました。

 

 

 

図表4      御領遺跡出土の土器に描かれた船

(出所)http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web4/goryou.html

 

 この「土器線刻画」を描いたのは古代伊豫人だと云います。

   この人は、新たに出現した準構造船を目の前にして、「その大きさと技術水準の高さ」に強く印象づけられ、その感動を、早速、土器に線刻したに違いありません。

   描いたのは2~3世紀の人です。当時の船をよく観察していると思います。

   当ブログ推定では、2世紀後半から3世紀前半の時期は天孫降臨期(渡来人が日本の沿岸各地に到着した時期)であり、天火明命の丹波降臨も、その中に含まれる時期です。

   河内降臨の時期はこれよりやや新しい時期と見られます。

2)袴狭はかざ遺跡(豊岡市)出土の木板に線刻画に船団移動の姿
  袴狭はかざ遺跡(豊岡市)では、2014年11月に出土の木板に線刻画が残されていました。
  大船には首長や幹部が乗り、漕ぎ手が別にいると思われます。小舟には従者、兼、漕ぎ手ばかりが乗船したでしょう。大船を護るかのように取り囲み、船団を組み、古代船が進みます。
 

 これを、天日矛の渡来図と見る人もいますが、天火明命の但馬国内巡行*の図と見ても良く、更に、河内降臨の姿と見ると、想像力は一層に逞しくなりそうです。        *但馬古事記:

 

    図表      ハカザ遺跡出土の木の板の大小15隻の古代船団図


 

     (出所) ブログ・短足おじさんの一言「古代の海の道から現在を考える」2014-11-24 17:52

            参考1出石袴狭遺跡出土・板刻画   http://okinawa.ave2.jp/okinawa/y-index.html(沖縄写真通信)
          2古代船団但馬に現る!兵庫県埋蔵文化財情報38号 ひょうごの遺跡(平成12年9月30日)