目次  前報  1天火明命の丹波降臨
                        1)彦火明命は、初め田庭の真名井原に降りる
                        2)豊受姫命は火明命に五穀蚕桑を教え、火明命は射狭那子嶽に赴く。
                        3)大巳貴命は、火明命に志楽国統治を許し、火明命はこれを喜ぶ
                        4)西進:火明命は西進し豊岡原に降りる
                        5)南進:火明命は南進し佐々前原に至る。 真田の稲飯原=(今)佐田伊原、
                        6)天熊人命は谿間の屋岡原で蚕桑
                   本報    7)伊佐布魂命は、比地の真名井原を開く
                                  (1) 比地の真名井原
                                    (2) 県主・伊佐布魂命
                                    (3) 但馬古史の三大事件
                                    (4) 県主就任の時期

                              8)竹野県・美伊県の開発
                  (1)竹野県・美伊県の開発
                         (2)「吾田」はアガタと読む
                         (3)美伊県主系譜の示唆
                         (4)第8代美伊県主・武額明命の素性
                         (5)血縁結婚のレベル
                (6)「海部直・丹波国造・但馬国造」の祖
                (7) 六人部ムトベ連は丹波国天田郡に拠点を置く
                      9)天火明命は大業を終えて、河内に降臨す


7)伊佐布魂命は「比地の真名井原」(朝来郡)を開く
  天火明命は朝来市にも到来します。そこは円山川の上流地であるだけに、豊岡市小田井町・日高町から養父市、養父市から朝来市へと入り込み、その時期は但馬渡来からは後のちになり、遅れたようです。

(1)比地の真名井原
  比地は後の朝来郡です。円山川の最上流池とも云える地域です。

 引用:「天火明命は、丹波国加佐志楽国において、この国を国作大己貴命を頂き、天道姫命・坂戸天物部

     命・二田天物部命・両槻天物部命・真名井天物部命・嶋戸天物部命・天磐船命・天揖取部命・天熊人

     命・蒼稲魂命を率いて、この地(朝来郡)にやってきた。真名井を掘り、田を開いて、その水を引くと、稲

     穂が垂れる麗しき秋の稲田の風景になった。それでこの地を比地の真名井原という。」(朝来郡故事記)

(2)県主・伊佐布魂命
 「朝来郡故事記」は上の如く述べた後、突然、次の様に県主を紹介します。

 「神武天皇8年秋7月、伊佐布魂命の子・伊佐御魂命を比地県主とする。伊佐御魂命は牛知オジ御魂命の娘・照栲姫を妻にし、麻布御魂命を生んだ。」(朝来郡故事記)

  そこで、ここに登場する伊佐布魂命をめぐる系譜を追ってみます。

  先ず、伊佐布魂命は、亦名:天活玉命、天伊佐布留魂命として、ニギハヤヒの天孫降臨に随伴した「むすひ25神」の一神で、倭文連等の祖として知られています。(天孫本紀)

 「新撰姓氏録」でも、「摂津国・神別天神条に、委文連は角凝魂命の男・伊佐布魂命の後也」とあり、倭文連と同内容が書かれています。

 「斎部宿祢本系帳」の示す系譜は、「神皇産霊尊→角凝魂命→伊佐布魂命→天底立命→天背男命→天日鷲翔矢命」となっています。

  ここで気付かされるのは、天背男命も天孫降臨の随従神の一神であったことです。 「物部論3 但馬の天物部たち」(2019年06月12日)では次の系譜を記しました。

 系譜:神皇産霊尊→角凝魂命→伊佐布魂命→天底立命→天背男神→天日鷲命→→天葉槌男命
                 →嶋戸天物部命(帆前天物部命)→両槻天物部命(御苑天物部命)→佐久津彦命
              
  何と、世代のズレが矛盾を含むものの、伊佐布魂命も天背男命も、嶋戸天物部や両槻天物部たちの祖神であり、血統的には佐久津彦命にも繋がる人(神)々なのです。

  両槻天物部の佐久津彦命は佐々前原を開拓し、佐々前県主(日高町)の地位を、その子孫・佐伎津彦命・阿留知彦命は屋岡県主(養父市)の地位を得たのでした。

 そうだとすると、円山川を更に南下した地域で、比地県主(朝来市)の立場を「伊佐御魂命」に与えられたとしても、「但馬故事記」はその経緯を黙して語らないのですが、何か納得させられるのです。 

    注 系譜読みの上で、世代のズレがあるのはここではそのまま容認しての話ですが、・・。

  「朝来郡故事記」のその後の記事を追跡すると「比地県主の系譜」は図表1の如くにまとめることが出来ます。
  今は特段のコメントは致しませんが、「陸耳御笠の乱」(崇神天皇10年8月)は画期的な事件でした。「陸耳御笠の乱」については、後に、但馬各郡全般と共に総合レヴューします。

 

(3)但馬古史の三大事件
  但馬古史の三大事件と云えば、「天火明命の大丹波降臨」・「天日槍の渡来と出石定住」・「陸耳御笠の乱」でしょう。不思議なことに、これらの事件を通して、「祖神祭祀」は連綿と続いていたようです。

  「天日槍の渡来と出石定住」は丹波古史に大波紋を投じます。これは、「但馬故事記」では、孝安朝のこととしています。この「天日槍の渡来」については当ブログでも既に取上げていますが、その「但馬古史」へのインパクトについては課題が遺されていますので、別稿で取上げます。
                     参考     弥生神代考6 天孫降臨考 第2部  9 渡来・帰化の人々(新羅)2018年10月31日

  「陸耳御笠の乱」(崇神天皇10年8月)を境に、但馬の統治体制は大幅に変わります。
 図表1で見るように、陸耳御笠の乱の収束と共に「比地県主」の名前は「朝来県主」へと変わり、県主の家系もここで変った場合が出てきます。
 そこで、「陸耳御笠の乱」とその後の統治体制の変化についても稿を改めます。

  このブログ「女神物語ー弥生神代の考察」は、標題の如く、「弥生神代の考察」が狙いなのですが、「但馬古史」に至って、どうも、その後史にまで引きずり込まれ気味です。

(4)県主就任の時期
  「但馬古事記」は、「県主就任時期」を指定するために「天皇在位の何年目の事」とする記載方法を採っています。この頃は暦法が不完全な時代ですから、これをそのまま受け止めます。

 その上で、ここでの注目点は、伊佐御魂命が比地県主に任じられたのが「神武天皇 8年秋 7月」だ、と「朝来郡故事記」の編者が見極めて記していることです。天火明命期から10年以上のちの事と見ているのです。

  そこで天火明命の但馬開拓以降の諸々の県主の任命時期を、天火明命の但馬開拓初期に限って、「但馬(各郡)故事記」よりまとめますと、次の如くなります。


 この内、天火明命による直接的な任命は、小田井県主・稲年饒穂命と佐々前県主・佐久津彦命の二件のみです。残りの県主の任命時期は神武天皇期の初期に比定されています。

 神武期に入ると、天火明命(ニギハヤヒ)の河内降臨を経て、子・宇摩志麻遅命が活躍し始める時期です。天火明命は、既に、薨去されています。「天孫本紀」に次の様にあります。

 引用:「饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のもの

     としなさい」そして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また、神衣・帯・手貫の三つのも

     のを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。(天孫本紀)

 これからすると、天火明命が大業を終え河内降臨に向かう段階では、小田井県主・稲年饒穂命と佐々前県主・佐久津彦命の二県は、一応、開拓を終え、他の県は開拓途上だった、と読めます。

  この図表2をどう見るか。考察すべき色々な問題をがあります。お読みの皆さん、色々、吟味して下さい。
 当ブログは、今は、このままで次に移ります。近い将来、総合的に取上げる時が来るでしょう。

8)竹野県・美伊県の開発

(1) 竹野県・美伊県の開発
  話は、、この後、円山川の西6kmと12kmの処で日本海に流れ込む竹野川・佐津川の河口にある小平野に移ります。竹野県・美伊県の天火明命の巡行と開拓話が「但馬故事記」に次の様に語られています。

 引用:「天火明命は、武饒穂命・天揖取部命・坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・垂樋天物部命

     らを伴い、天の磐船に乗り、美伊県に至る。その時、狭津川(佐津川)より黄色の泥水が流れ出て、船

     を黄色にした。それでこの川を黃船川という。御船は碇イカリ山に泊まり、川の瀬戸を切り開き、瀬崎             を築いた。その水嶋山のうしろに漂う。それで水ヶ浦という。

        天火明命は黄船宮に鎮まり坐す。武饒穂命は、大己貴命の娘・白山比咩命(亦名は美伊比咩命、又は木俣

     命)を妻にし、武志麻命を生む。狭津の美伊谷と云う。
        また、竹野吾田を開く。これを竹野県という。また狭津吾田を開く。これを御井吾田と云う。美伊県と称

    するのはこれによる。

        古老が伝えて云うには、城崎郡の、坂戸物部命(佐々浦氏遠祖)・両槻天物部命(桃島氏遠祖)・二田天物部

    命(楫戸氏遠祖)・嶋戸天物部命(帆前氏遠祖)・垂井天物部命(都自氏遠祖)を率い、天磐船に乗り、谿間の海

    岸を廻る時、狭津川に黄色の泥水が流れ出て、御船を黄色にする。それでこの川を黃船川(佐津川)

    云う。」(養父郡故事記)

(2) 「吾田」はアガタと読む
 ここで興味深いのは、「吾田」の読みです。これまで、当ブログでは アタと呼んできましたが、「但馬故事記」は「竹野吾田を開く。これを竹野県と云う」或は「狭津吾田を開く。これを御井吾田と云う。美伊県と称するのはこれによる。」として「吾田」は「アガタ」(県)と読むとします。

  すると、話は飛びますが、ニニギが妃に迎えた女人(大山津見神の娘)「豊吾田津姫」は、「豊県主の姫」と読め、実は、豊県主の姫だったことが判ります。

 「神吾田鹿葦津姫」を読めば、神県(吾田)の鹿葦津姫となり、「大山津見神県」の「鹿葦津姫」と理解が変わります。                              注 「日本書紀」(本文・一書第2)で、神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫とあり。

(3)美伊県主系譜の示唆
  美伊県主は、天火明命(妃・熊若姫命)の孫・武饒穂命を初代として、累代その男系が継ぎます。

  引用:第六巻・美含郡故事記
 神武天皇3年秋8月、小田井県主、胆杵磯饒穂命の子、武饒穂命を美伊県主とする。
       武饒穂命は大国主命の娘、美伊比咩命を妻にし、武志摩命を生む。武饒穂命に従って越の国に

       帰る。郷名は美含郷という。美含は水汲みの意味である。井の水は浅く汲むべし。御井神社が鎮

       座する所。
      ・御井神は、大己貴命が稲葉八上姫に通い生まれた所。木俣神と申し祀り、加賀国白山に鎮座す

       る。故に、また、白山比咩神と称えまつる。

  第7代美伊県主・宇比智命には子・美伊毘古命がいましたが、この武饒穂命裔の美伊毘古命が美伊県主を継ぐ事はありませんでした  。

 美伊毘古命は、第8代美伊県主に就いた武額明命の命を受けて、美伊県の開拓祖神で、初代県主の武饒穂命とその妃・美伊比売命を黄沼川(佐津川の古名)の上に祀った、と云います。
     ・美伊神社(美方郡香美町香住区三川87-1、佐津駅南12kmの三川山887m中腹に鎮座)式内社但馬國美含郡 
         祭神:美伊毘売命、 配祀神:美伊毘彦命
      玄松子説:天火明命 武額明命 美伊毘古命 建饒穂命 美伊毘賣命                         「 遷座す。
         由緒:雄略天皇17年、贄土師連吾筍命の命により、師の氏人等が埴土を求めて本見塚(土生谷)への移住と共に

         社伝:崇神天皇28年4月、美伊縣主・武額明命が美伊谷山にその祖神を祀ったと云う。
             ・光仁天皇の宝亀元年、現在地・三川山清庭峰へ遷座したという。 


 それは崇神天皇28年夏4月だったと「美含郡故事記」は記します。祖神を祀る立場を与えられたことは、上古、甚だ名誉なことだったと思われますので、県主の地位は得ませんでしたが、美伊毘古命の立場は尊重されていたようです。
  図表3は美伊県主の系譜を示します。

 


(4) 第8代美伊県主・武額明命の素性
  第8代に至って、天火明命の別系の武額明命が着任します。「但馬故事記」は、この武額明命を天忍男命<丹比宿祢遠祖>の子、若倭部連の祖と記します。

 「天孫本紀」(先代旧事本紀)では、武額明命は「建額赤命」と記され、同人です。
 「天孫本紀」によれば、建額赤命は、ニギハヤヒ四世孫で、妃は葛城尾治置姫、一男・建箇草命を生む、とあります。その裔孫にも言及があり、多治比連・津守連・若倭部連・葛木厨直の祖とするので、「但馬故事記」と「天孫本紀」とでこの記述は一致します。

 ここに見るのは、原物部の本流(後の尾張氏)が但馬に定着していく姿です。

  建額赤命の同母兄妹は中央朝廷内で華やかな立場にあったようです。
 「天孫本紀」によれば、兄・瀛津世襲命は、尾張連らの祖と謳われ、孝昭朝に大連として朝廷で活躍します。妹・世襲足姫命は、孝昭天皇の皇后となり、二皇子(天足彦国押人命・孝安天皇<日本足彦国押人天皇>)を生み、育てた女人です。

(5)血縁結婚のレベル
  第9代美伊県主の武波麻命(武額明命の子)が迎えた妃・佐伊良姫命は天砺目命の女むすめです。
 第10代の大佐古命が迎えた妃・狭依姫命は武砺目命の女むすめです。
  天砺目命は、「天孫本紀」で云う天戸目命に他ならず、武砺目命はその子で、「天孫本紀」の建斗米命と同一人です。

 図表4には、スペースの都合で、佐伊良姫命も狭依姫命も記載していませんが、武額明命と天砺目命は従兄弟ですから、武波麻命と佐伊良姫命とは又従兄弟(はとこ)の間柄です。大佐古命と狭依姫命とは又従兄弟の子同志という事になります。

 上古、この程度の血縁距離間の結婚は頻繁だったようです。いずれ、上古の婚姻関係をレヴューしますが、今は、このファミリーヒストリーの観察だけに止めておきましょう。

 

(6)「海部直・丹波国造・但馬国造」の祖
  建斗米命は、神服連・海部直・丹波国造・但馬国造らの祖とされていますから、その末裔が丹波・但馬に大きく勢力を伸ばしたことは明らかです。

  面白いことに、建斗米命の子・ 武田背命(建田背命)も、孫・建諸隅命も、神服連・海部直・丹波国造・但馬国造らの祖とされています。

  「丹後国熊野郡誌」には「海士の地は、往古、神服連・海部直を居住地にして、館跡を六宮廻(ろくのまわり)と云う。海部直は、丹後國造・但馬國造の祖にして、<扶桑略記>にも、丹波國熊野郡川上庄海部里爲二國府一とあり、されば、海部直の祖たる建田背命及其御子・武諸隅命、和田津見命を斎き祀れるも、深き由緒の存ずる所」(矢田神社)とあります。
    矢田神社(京丹後市久美浜町海士)式内社 丹後國 熊野郡

    第8代には海部直命と倭得玉彦命とが登場します。この頃、原物部は発展的に分かれ、尾張氏と物部氏の流れが固まっていくように見受けられます。これも別項でじっくり見ていきたいところです。

 
(7) 六人部ムトベ連は丹波国天田郡に拠点を置く
 「尾張氏の系譜」(天孫本紀)には、妙斗米命は、六人部連らの祖とされています。

  「新撰姓氏録」でも、右京(神別・天孫)武礪目命(火明命五世孫)の後(末裔) に六人部、摂津国(神別・天孫)に建刀米命(火明命五世孫)の後(末裔) に六人部連、山城国にも六人部あり、です。
  ・同族:尾張連・伊福部・石作(石作連)・水主直・三富部・伊与部・摂津・津守宿祢(尾張宿祢同祖)・蝮部・刑部首等を挙げています。

  武礪目命は建斗米命・建刀米命と同音ですので、同一人でしょう。尾張氏系譜では建斗米命と妙斗米命との二人を挙げ、妙斗米命を六人部連の祖としていますが、古伝承ですから、大まかに「良し」とします。

  六部郷は、「倭名類従抄」丹波国天田郡十郷の一つで、六人部氏の居住地だったと推定されます。郷名として六部が見えるのは当地だけだそうです。
  ・天田郡六部郷:福知山市の土師川流域、六人部谷の一帯(長田・多保市・岩間・大内・田野・宮・岩崎・生野・三俣・堀越・正後寺・

           板室・池田・上野・萩原)と考えられている。この地域は江戸期は、六人部下三箇と呼んだ。土師川上流域(三和町

           域)を六人部上四箇と呼び、上四箇の地域も古代の六部郷に含まれていたと思われる。    (出所)丹後の地名
  ・福知山市多保市付近は平安期から地名・六人部が遺っており、「六部」の遺称地は1955年4月1日に福知山市に合併される迄、

  上六人部村、中六人部村、下六人部村として存続していた。                              (出所)古墳と神社
 ・現代地図に見る六人部:福知山市立六人部中学校・福知山市立下六人部小学校・福知山中六人部(郵便)局・中六人部保育園

 

  土師川流域は、河内降臨に向かう天火明命集団が川舟に乗り、南下通過した可能性がある地域で、「六人部谷」とも云われていたようです。
 

  後世、天田郡六部郷に、天火明命の末裔の「六人部連」が展開していたことは興味を惹きます。天火明命の河内降臨以前に、既に、この土師川流域の重要性が判っており、この地に天火明命の勢力が及んでいた可能性があり、但馬から河内への降臨経路の一候補に土師川流域ルートが指摘出来る事を後述します。


  図表5に見るように、物部系譜(天孫本紀)によれば、孝昭朝から孝安朝にかけて、物部氏も尾張氏も中央朝廷で大いに活躍しています。

 

9)天火明命は大業を終えて、河内に降臨す

 天火明命は但馬開発の大業を終えると、直ちに「河内降臨」へと移ります。それを「養父郡故事記」・「気多郡故事記」は次の様に伝えます。

引用:「天火明命の神としての大業は終わり、徳は大いにあり。美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡

    り、田庭国を経て、河内に入り、哮峰イカルガミネに止まり、大和白庭山に至る。跡見酋長・跡見長髄彦の

    妹、御炊屋姫命を妻にし、宇麻志麻遅命を生む。」 (養父郡&気多郡故事記)

(1) 「田庭国を経て河内に入る」に謎あり
  「気多郡故事記」が「天火明命は、・・田庭国を経て河内に入る」とする記述は重要であり、「謎」を含んでいます。

 この「田庭国を経て」の記述は、第3回目の天孫降臨(河内)がどのような経路で行われたか、を但馬国人が承知していた可能性を示唆するにも関わらず、これだけの記述では経路不明です。

  円山川を遡上しても、辿り着けるのは「生野」です。生野銀山は807(大同2)年に銀が出たと伝えられる有名な銀山ですが、上古、そこから瀬戸内海に抜ける道は容易ではありません。

 他方、田庭国(丹波)の由良川を遡上すると、由良盆地(福知山市)に到ります。
 そこから分流の土師川から竹田川を経て「水分れ街道」を西進すると、氷上町石生に入ります。福知山線・石生駅から更に23km西進すると、瀬戸内海に流れ出る加古川上流に至るのです。
  土師川流域は、後に六人部連(天火明命5世孫)の勢力圏だと判明するのですが、河内降臨の経路として、その時、既に、安全が確保されていたのではないでしょうか。

 水分かれ街道を約10km歩くだけで、由良川支流から加古川上流に到る事が出来るのです。
  田庭(丹波)から瀬戸内海に抜ける絶好のルートがここにあります。
 但し、加古川から河内までは海路ですので、第2案の琵琶湖経由の場合よりは海の船旅は大変でしょう。
 

 もう一つの道は、小浜市から北川を遡上、寒風峠・水坂峠を越えて琵琶湖に抜ける道(現303号線)です。若狭町小浜市から、上中町の中心を通り、303号線沿いに北川を遡上し、約15kmで高島市今津町の山麓に出ます。そこから4kmで今津湊(琵琶湖岸)に着きます。

  これも田庭(丹波)からの河内(磐船神社を目安とする)入りする場合、好適なルートと云えます。

  但し、この経路で大和国に入ろうとするならば、何も交野から生駒山系越えを試みる必要はなく、木津川を遡上すれば良い筈です。その点で、河内降臨は磐船神社を目指すと仮定すると、この経路は想定し難いのです。

 河内降臨の2ルートの夫々が問題を抱えるにしても、「第1案:由良川・水分れ街道ルート」も「第2案:北川・水坂峠・琵琶湖ルート」も捨てがたく魅力的です。
 80才を超えた者でも1015kmは半日56時間で歩ける距離だと云えます。

  どちらも船行と歩行との併用が必要です。海船でなく、川舟で行ける魅力は「北川303号線ルート」が勝ります。

 もう一つ考慮すべきは「旅の安全性」です。途中経路における「敵」との遭遇に備える心がけが必要です。伝承をレヴューした限りでは、河内降臨の途中で天火明命集団が既存勢力と衝突した様子は見受けられませんが、・・。

(2) 宇摩志麻治命は天火明命の死去後に誕生
  天火明命は、この河内降臨の時、既に高齢です。推定ですが、7580才だったでしょう。
 それは子を生む男性能力の限界でしょう。しかし、幸いにして、登美の御炊屋姫命は懐妊します。しかし、「天孫本紀」・「皇孫本紀」によれば、子・宇摩志麻治命が生まれる前に、饒速日尊(天火明命)は既に死去しているのです。前にご紹介しました。

  また、この河内降臨に際して、天火明命妃・天道姫命は、高齢の故に、天火明命に同行しなかった可能性が高いです。これは「天道姫命の生涯」(数報後)の部で触れたいと思います。