「物部論」の内容は「但馬故事記」の伝える「但馬の天物部たち」の話に移り、それがそのまま「丹波古史」の始まりとなります。
天火明命集団の大丹波(但馬・丹波・丹後・若狭)への降臨とその後の活動は、この物部論の次に、史料群*を参考にしてまとめていくことには変わりがありません。だが、 その降臨の全体像を語る前に、「物部論3」として「但馬での天物部たち」の活動を見ておこうと云うわけです。
*「但馬故事記」・「丹後風土記(加佐郡)残欠」・「籠神社伝承」・「海部氏系図(附:海部氏勘注系図)」ほか
これは「事例6:二田物部神社*」では天物部の情報が不足しているので、それを補い、「天物部の相互通婚、地域開発、祖神崇拝の様子」をより明らかにしたい、と考えてのことです。
注 「大丹波(但馬・丹波・丹後・若狭)への天火明命集団の降臨」は第2編乃至第3編で取上げます。
* 物部論2 物部氏の神祇祭祀2 物部の祖神崇拝(続き)2019年05月31日
「但馬故事記」(全八巻)を眺めると、天火明命の指揮の下に、天物部が但馬全地域を開発したと云うわけではなさそうです。但馬八郡のうち三郡(出石・七美・二方)は別系統の開発です。すなわち、
・出石郡については、国作大己貴命が開発したとの伝承があり、天物部は関与していません。
・また、七美郡と二方郡は、素戔嗚尊神が大歳神・蒼稲魂神に開拓を命じた、とされています。
そこで、この七美郡と二方郡の二郡については「(第5編)天知迦流瑞姫命ゆかりの神々」と云う別な「史話」で展開します。その展開には今暫くのご猶予をお願いします。
参考 第1編 宗像女神ゆかりの神々 (+ 天孫降臨前史・天孫降臨・物部論)
第2編 豊受姫命ゆかりの神々 (+ 天熊人命・稚産霊命、石部神社論)
第3編 天道姫命ゆかりの神々 (+ 天香山命・天村雲命集団の北上)
第4編 白山姫命ゆかりの神々 (+ 美伊姫命の北陸行、白山信仰)
第5編 天知迦流瑞姫命ゆかりの神々 (+ カグツチの後裔・大山咋命・辟邪論)
◇但馬の天物部たち・・天火明命の丹波降臨に随伴の天物部命たち
そこで「物部論3 但馬の天物部たち」を次の目次に従い、以下に展開します。
本報 1 丹波降臨に随伴した天物部命たち
2 天火明命の指令下で行われた但馬の初期開発の全体像
・ 事例研究:佐久津彦命(両槻天物部命)とその裔の但馬(佐々原・屋岡)開拓
次報 3 天物部諸部族の通婚
4 天物部の祖神崇拝の実態
天火明命の丹波降臨に随伴した天物部命たちは、五重臣(坂戸・二田・垂樋・嶋戸・両槻)を中心に、但馬開拓に従事したようです。
この内、二田天物部氏の場合、丹波降臨の後、その子・垂樋天物部命が但馬開発に励みます。
そして、真名井を司る故に、真名井天物部命と呼ばれ、真名井大前神として、垂樋宮に坐す。
親の二田天物部氏が、天火明命の子・天香山命が率いる集団の越国征行に従ったものと推定され、このため、その二田天物部の名前で祀られた「祖神祭祀の跡」とも云うべき神社は、但馬には見出せません。
その代り、越後国三嶋郡(現・柏崎市西山町二田)にそれを見出すのです。
これは、先に、事例6:二田物部神社(式内社・越後二宮)でご紹介した通りです。
* 物部論2 物部氏の神祇祭祀2 物部の祖神崇拝(続き) 2019年05月31日
残る天物部四重臣の足跡情報は「但馬故事記」に伝わり、その祖神祭祀の神社を但島の地に探る事により大凡掴めるのです。
更に、天物部の五重臣の遺姓に裔孫の名残を読み取ることも出来ました。
天物部命の子孫は城崎郡にその遺姓が残しているのです。すなわち、
1坂戸天物部命 :城崎郡・佐々浦氏の遠祖
2両槻天物部命 :城崎郡・桃嶋氏の遠祖
3二田天物部命 :城崎郡・揖戸氏の遠祖
4嶋戸天物部命 :城崎郡・帆前氏の遠祖
5垂井(樋)天物部命 :城崎郡・都自氏の遠祖
坂戸・垂樋・嶋戸・相槻の四重臣の子孫は、相互に通婚を重ねながら、但馬での実務的・中核的な地位を築いていったようです。
後にご紹介しますが、天火明命は、国作大己貴命の命を受け、但馬地方の農業開発を行います。 その際、天物部がその開発実務に活躍するのです。
1天火明命の丹波降臨に随伴の天物部命たち
天物部命たちは天火明命の丹波降臨に随伴し、その指揮の下に但馬開拓に成果を上げたとの事績伝承は、祖神祭祀の伝承と共に、「但馬故事記」が現代にまで伝えています。
次の図表1は天物部が天火明命の但馬降臨にに随従してきた時の陣容です。
「但馬故事記」の気多郡・城崎郡・朝来郡・養父郡・美含郡の各郡記毎にその随従者名は微妙に異なりますが、ほぼこのようなものだったのでしょう。
「朝来郡故事記」の冒頭に次の様にあります。
引用:天火明命は、丹波国加佐志楽国において、この国を国作大己貴命を戴き、天道姫命・坂戸天物部命・二田天物部
命・両槻天物部命・真名井天物部命・嶋戸天物部命・天磐船命・天揖取部命・天熊人命・蒼稲魂命を率いて、こ
の地にきた。
他の郡記も同じ形式で天火明命集団の但馬渡来を記述していますが、記されている随従神人が多かったり、少なかったりします。それは図表1の○印が示しています。
そこで、天火明命の丹波降臨に随従した天物部について、「朝来郡故事記」の記述順に、その動向・系譜を調べ記します。内容はその他の「郡記」からも集載しています。
(1)坂戸天物部命:
坂戸天物部命については、驚くべき記述を見出します。「城崎故事記」に次の様にあります。
「坂戸天物部命は、稜威雄走神(別名:天之尾羽張神)の御子で、豊御食トヨミケを司る。それ故に香餌天物部命と云い、香餌宮に坐す。香餌大前神なり。」(城崎故事記)
◇仲哀天皇2年、御食を五十狭沙別大神に奉る。それでこの地を気比浦と云う。後に香飯大前神13世の孫、香飯毘古命は
五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎祀ったと云う。(城崎故事記)
・式内・気比神社(豊岡市気比字宮代286)
社伝:和銅二年(709)の創祀。敦賀の氣比神宮と同様に、伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を
主祭神とし、神功皇后を配祀する神社で、式内社・氣比神社に比定されている古社。
・一説には、神功皇后が敦賀から穴門へ向う途中、若狭、加佐、與佐、竹野の海を経て、この地か
ら円山川を遡り、粟鹿大神、夜夫大神、伊豆志大神、小田井縣大神を詣でた後、一時、この地で
兵食を備へたという。
・ある夜、越前筍飯の宮に坐す五十狹沙別大神が神功皇后に託宣して曰く、「船を以って海を渡ら
ば須く住吉大神を御船に祀るべし」神功皇后は住吉三神を船に祀り、御食を五十狹沙別大神に奉
り、この地を気比浦と称するようになった。
境内社:社殿の右前に稲荷社が祀られている。
銅鐸:当社から北へ少しの場所に、銅鐸出土地の史跡がある。
稜威雄走神(別名:天之尾羽張神)と云えば、カグツチ神話で登場する神剣です。「古事記」は建御雷神(武甕槌命)は天之尾羽張神(伊都之尾羽張=稜威雄走神)の子だとしていますから、坂戸天物部命は武甕槌命と兄弟(少なくとも血縁のある神人)なのです。
注 「稜威雄走神」(ウイキペディアより要約):
伊弉諾命がカグツチ(迦具土神)を斬り殺す時に用いた十拳剣の名前です。「古事記」では「天之尾羽張神」 (別名:
伊都之尾羽張)、「日本書紀」では「稜威雄走神」と同一神とされる。
「国譲り神話」で活躍する建御雷神(武甕槌命)は、天之尾羽張神(伊都之尾羽張)の子だとされる。(古事記)
この出自の傑出している故に、でしょうか、「但馬故事記」に登場する坂戸天物部命は何時も「天物部」記述の筆頭に登場します。
坂戸天物部命は、城崎郡・佐々浦氏の遠祖とされ、その遺姓・佐々浦姓及び楽々浦姓を辿ると、周辺地の島根県江津市・浜田市に各20人(以後、何れも概数)の佐々浦姓あり、静岡県三島市には特異的に楽々浦姓10人を見出します。
注 「静岡県三島市の楽々浦姓」は但馬の三嶋神社と繋がるのでしょうか。今は、明らかに出来ないまま先に進みます。
なお、姓名分布はネット上の複数の「姓名分布ランキング」検索によりました。
また、「新撰姓氏録1084 右京 雜姓」に「坂戶物部 神饒速日命天降之時從者,坂戶天物部之後也。」とあり、京都にもその足跡があります。
但馬での地名・楽々浦(城崎郡)は円山川河口近く右岸にあり、そこには「三嶋神社」が鎮座し、祭神は、坂戸天物部命の裔・佐々宇良毘古命、配祀神:佐々宇良比売命を祀っています。
注 楽々浦=佐々宇良のようです。
由良川(丹後、舞鶴)に因んで名付けられたと思われるのが「坂戸由良度姫」です。、
坂戸天物部系と覚しき由良度姫はニギハヤヒ四世孫・大矢口宿祢命の妃として「天孫本紀」に登場します。この大矢口宿祢命の父は出石心大臣命と云い、これも但馬(出石)に因む名前で、大丹波ゆかりを推定させます。
この女人「坂戸由良度姫」が生んだ欝色謎命は孝元天皇皇后となり、三皇子(大彦命・開化天皇・倭迹迹姫命)を生みます。
この欝色謎命の弟・大綜杵大臣の女むすめ・伊香色謎命は孝元天皇皇妃となり、彦太忍信命を生みますが、孝元天皇崩去後には、開化天皇皇后となり、崇神天皇を生みます。
開化天皇は、父・孝元天皇、母・欝色謎命の子です。孝元天皇は欝色謎命を皇后としたばかりか、欝色謎命の姪・伊香色謎命をも皇妃としたようです。そして、よほど魅力的な女性だったのでしょう。孝元天皇が亡くなると、今度は、開化天皇がこの伊香色謎命を皇后とするのです。そして、崇神天皇を生みます。
一寸戸惑うような系譜ですが、これが記紀が伝え、先代旧事本紀も伝える、この時代の天皇家の系譜なのです。
今は、坂戸天物部の血が、ニギハヤヒ物部の血と共に、この開化・崇神の両天皇に流れている点を指摘するに止めます。だが、いずれ機会を見て、孝元・開化・崇神の三代が秘めている(かも知れない)天皇家の歴史を吟味する時がくるでしょう。どうも、この三代の系譜には微かな予感と云うか、仄かな疑義があるのです。
(2)二田天物部命:
次は「城崎郡故事記」が記す「二田天物部の系譜」の新情報です。
「二田天物部命は、天鳥姫命の子で、御船の楫をとるので楫戸天物部命と呼ばれ、楫戸大前神として、楫戸宮に坐す。垂樋天物部命は、二田天物部命の子で、真名井を司る故に、真名井天物部命と呼ばれ、真名井大前神として、垂樋宮に坐す。」(城崎郡故事記)
垂樋天物部命が二田天物部命の子だと云うのは新情報です。北九州でも、柏崎市でもこれは知られていませんでした。丹波には特段の「二田」痕跡を見出せなかったのですが、垂樋天物部命が二田天物部命の子ならば、確かに活動の跡を遺しています。後述します。
二田天物部命は、城崎郡・揖戸氏の遠祖ともされていますが、現時点で「揖戸姓」は見つけられません。
二田天物部氏は、「新撰姓氏録」1085右京未定雑姓には「二田物部:神饒速日天降之時従者。二田天物部之後也」とあり、京都にその足跡を見出します。
先行した「事例6 二田天物部」で述べましたように、二田天物部氏は、丹波から移動して新潟県柏崎市に拠点を持ったらしく、柏崎市とその周辺(古代の三嶋郡)には二田物部神社以外にも、田尻・久米・小竹の各物部神社があり、これら物部族は大丹波(但馬・丹波・丹後・若狭)には大きな足跡を残さないまま、天香山命集団の北陸行に随行したと推測されます。
式内・二田物部神社(越後三嶋郡・柏崎市西山町二田入の沢) 祭神:二田天物部命、
合祀:若宮神社の祭神は物部稚桜命(二田天物部命の十二世孫)
(3)垂井(樋)天物部命・真名井天物部命:
垂樋天物部命は、二田天物部命の子で、真名井を司る故に、真名井天物部命と呼ばれ、真名井大前神として、垂樋宮に坐す。と「城崎郡故事記」にあります。
垂樋天物部命は、天火明命の指示を受け、黄沼前に真名井を掘り、田を開きますと、その秋、垂穂の長い穂が一帯に広がったので、その地を豊岡原と云い、真名井を名づけて御田井と云いましたが、後に小田井に改めた、と云います。(城崎故事記)
豊岡原・御田井(小田井県)の吾田(豊岡市小田井町)はこれにより開かれます。
また、大己貴命が蒼御魂命に「天熊人命と共に心を合わせ、力を合わせ、国作りの事業を助けなさい。」と教えられます。そこで、蒼御魂命と天熊人命の二神は、天火明命に比地の原を開くように勧めます。すると、垂樋天物部が比地(後の朝来郡)に行き、真名井を掘り、御田を開き、水を引きます。すぐに垂穂が秋の野一帯に充ち、それで、この地を「比地の真名井原」と呼んだそうです。
このように、垂樋天物部命は、黄沼前(後の気多郡)にも、比地の原にも、真名井を掘ります。
それ故に、「真名井の天物部命」と名付けられたのでしょう。
天火明命は、先に稲年饒穂命を小田井県主(後の黄沼前県、その後、城崎郡)に任命します。
稲年饒穂命イキシニギホは、天火明命が熊若姫命に生ませた子ですが、両槻天物部命の娘・映愛姫命を妻とし、長饒穂命を生みます。この命は、武饒穂命とも云い、美伊県主となり、大己貴命の娘・美伊比咩命(母は稲葉八上姫命)を妻にし、長志麻命を生み、狭津(佐津)の美伊宮に鎮まります。
(美伊県は、のち美含郡)
天火明命は、次に、比地県主(後の朝来郡)に伊佐御魂命(伊佐布魂命の子)を任命します。
この後、垂井(樋)天物部命は、その女・美津井姫命を両槻天物部の佐伎津彦命に嫁がせ、阿流知命を生みます。これは、垂井(樋)天物部命に男継嗣がないため、両槻天物部の佐久津彦命の流れに入った、と読むべきなのかもしれません。
少なくとも、その後の垂井(樋)天物部命の男継嗣は記されていません。
伎津彦命は、垂樋天物部命の娘・美井津比売命を妻にし、阿流知命を生んだ後、佐伎津彦命と阿流知命は花岡宮に鎮まり坐す。この地の開発祖神である。(城崎郡記)
注 別に、佐伎津彦は「真名井の天物部命」の娘・佐伎津姫命を娶った、ともあります。
だが、二人の子は同名のなのです。これは、美津井姫命と佐伎津姫命は同一人なのかも知れません。
尚、垂樋天物部命は、城崎郡・都自氏の遠祖とされますが、垂樋天物部命を祖とする「都自姓」は現時点で見つからず、今後の調べに期待します。
(4)嶋戸天物部命:
嶋戸天物部命は、天葉槌男命の子で、御帆前に坐す故に、帆前天物部命とも云う。
帆前大前神として、帆前宮に坐す。
天葉槌男命は天羽槌雄神(天羽雷命、倭文神とも)と同神で、神産巣日神四世孫に天背男神がおり、その子天日鷲命の子が天葉槌男命だと云います。
チェックし直すと、どうでしょう。天孫降臨の32随従神の内に天背男神(山背久我直らの祖)がいるのです。
嶋戸天物部命は、天孫降臨随従神・天背男神の孫に当たる神人なのでした。遡れば、むすひ神・神産巣日神は遠祖です。
両槻天物部命は、その嶋戸天物部命の子で、御苑を司どる故に、御苑天物部命とも云う。
御苑大前神は高屋宮に坐す。と、これは「第四巻・城崎郡故事記」が記す情報です。
嶋戸天物部命は城崎郡・帆前氏の遠祖とされています。帆前姓は、豊岡市に30人、神戸市北区に10人・西脇市に10人が報告(何れも概数)されていますが、詳細は不明です。
更に、「城崎郡故事記」は次の如く「帆前斎主命」を記して、この神人が「帆前氏の祖」だと推定させます。
「神武天皇3年秋9月、小田井県主・稲年饒穂命が黄沼前の丘に国作大己貴命・天火明命を祀った時、御食を大前に仕え
奉ったのは「帆前斎主命」だった」(要旨)
現代でも、豊岡市に行けば、「帆前氏」のご活躍は知ることが出来るでしょう。
ネット上に、次の情報を知りますが、深追いはしません。
・「名字由来ネット」によれば、豊岡市には約50人の帆前氏あり。
・ネット上には、帆前鉄工所(豊岡市市場62-1)、料理人・帆前敦司氏(酒彩 奏、豊岡市中央町12-13)
図表3 天葉槌男命の子・嶋戸天物部命とその子・両槻天物部命
────────────────────────────────────────────
系譜: 神皇産霊尊→→→天背男神→天日鷲命→天葉槌男命→嶋戸天物部命→両槻天物部命
(神産巣日神) (帆前天物部命) (御苑天物部命)
────────────────────────────────────────────
天葉槌男命(但馬古事記の表記)=天羽槌雄神か
天羽槌雄神:「古語拾遺」に登場する。天羽雷命や、倭文神、倭文神とも呼ばれる。
・天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(倭文布、倭文)を織ったので、機織りの祖神とされ、
倭文氏の遠祖でもある。織物神、機織神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社など
で祀られている。
系譜:神産巣日神の5世孫の天日鷲命の子で、県犬養氏の祖神とされる。
建葉槌命(武葉槌命):天羽槌雄神の別名だとされ、同一視される。「日本書紀」に登場し、経津主神・武甕槌命が服
従させられなかった星神・香香背男を征服した神とされる。
────────────────────────────────────────────
天日鷲命:神産巣日神4世孫の天背男神の子で、御子神に大麻比古命、天白羽鳥命(長白羽神)、天羽雷雄命(天羽槌雄神)
あり。
天背男神=「天神本紀」の天孫降臨随従の32神の1神に、天背男命:山背久我直らの祖、とあり。
別名:天津甕星・加加背男命・可可背男命・火火背男命・香香世男神・天香具背男命・北斗星神・
三十三夜星神・星神
・天津甕星は天香香背男の別名。天に在る悪神で、折々怪光を表わして高天原の諸神を惑わす。
経津主神が武甕槌命と天神の命を受けて葦原中国平定の際諸々の従わない神々を誅し、最後に残った のが星神・天香香背男だけとなった。 そこで建葉鎚命を遣わせて復させた。
────────────────────────────────────────────
「この時、天火明命は清明宮にあり」と伝わる清明宮は小田井県神社の鎮座地(黄沼前の丘)だと云われています。「帆前斎主命」(嶋戸天物部=帆前氏の祖)は城崎郡(黄沼前の丘)近くに展開していたのです。
かなり後世の事になりますが、「天武天皇白鳳12年夏5月、美含郡椋梯部連小柄が勅を奉じ、兵馬器械を具し、武事を講習す。且つ兵庫を久刀丘に設け以て兵器を蔵し、嶋戸天物部之裔・原造義踏を召して兵庫典鑰と為す。原造義踏は兵主神を久刀丘に祀り兵庫の守護神と為せり。」とあり、ここにも嶋戸天物部氏の裔孫・原造義踏なる人物が登場しており、但馬気多郡にもその足跡を確認できるのです。 注 久刀寸兵主神社(豊岡市日高町久斗久留比491)祭神:素戔嗚尊・大己貴命 式内社但馬国気多郡
また、南丹市八木町美里は亀岡盆地の北端の丘陵地ですが、そこに鎮座する「荒井神社」は、式内社丹波国船井郡・嶋物部神社の論社とされています。
注 北九州では嶋戸神社(遠賀町松の本6)があり、一帯は島門地名です。
谷川健一氏は「島門物部の奉斎する神が大倉主であった」と云います。
これが嶋戸物部氏縁ゆかりの社かどうかは、にわかに判断できないものの、「縁ゆかり」の可能性を感じさせるので、ここに記録しておきます。
─────────────────────────────────────────────
・小田井縣神社(豊岡市小田井町) 創建:崇神天皇11年3月14日
祭神:国作大己貴命、 別説:上座:国作大己貴命、中座:天照国照彦天火明命、下座:海童神、三座
由緒:「但馬故事記」(第四巻・城崎郡故事記)、及び、「但馬神社系譜伝記」(第四巻・城崎郡神社系譜伝)に次の如
くあり。
・天火明命は、これより西して、谿間に入り、清明宮に駐る。豊岡原に降り、御田を開く。又、垂井天物部命
を使いて、真名井を黄沼前に掘り、御田に潅ぎ、瑞稲を作る。故、其の地を豊岡原と云い、真名井を御田井
と云う。のち、小田井と改まる。小田井の縣と称するは是なり。
・(上座) 神武天皇3年秋8月、天火明命の子、瞻杵磯(稲年)饒穂命を谿間小田井県主と為す。瞻杵磯丹杵穂命
は、父命の思いを奉り、国作大己貴命を豊岡原に斎き祀り、小田井県神社と称えまつり、帆前大前神
の子・帆前斎主命を使し、御食の大前に仕える。
・(中座) また、天照国照櫛玉饒速日天火明命を、洲上原に斎き祀り清明宮と申しまつる。今小田井神社内の杉
宮と云う。瞻杵磯丹杵穂命は後に山跡国に帰る。
・(下座) 神功皇后摂政3年 征韓の功により社殿を造営し、幣帛を納め、祭祀を奉行す。黄沼前県主、武身主
命は幣帛使となり、武身主命が征韓において斎くところの大海童神(底津海童神・中津-・表津-の三神)
を下座に配祀す。
・(酒垂神社) 天武天皇の白凰3年夏6月、天下大旱、雨を小田井県宮に祈り、武器を神庫に納め、はじめて矛立
神事・水戸上神事を行う。また神酒所を斎き祀り、神酒を醸し、御食津神を斎き祀り、御食を作り、
これを奉る。御贄村(今の三江)にある酒垂神(酒垂神社)・御贄神これなり。
城崎郡司・物部韓国連久々比これを奉行す。
◇小田縣神社末社の「柳ノ宮神社の豊岡柳祭り」(8月1・2日)は豊岡市市街の最大の祭りで、豊岡市名産は
「柳行李」。
・荒井神社(南丹市八木町美里荒井1) 式内社「丹波国船井郡 嶋物部神社」の論社
────────────────────────────────────────────
(3)両槻ふたつき天物部命
両槻天物部命は、嶋戸天物部命の御子にして御苑を司どる。それで御苑天物部命と云う。高屋宮に坐す。御苑大前神である。それで両槻天物部命と云う。
佐久津彦命は両槻天物部命の御子である。佐久宮に坐し、嶋戸天物部命の娘・佐々宇良毘売命を妻にし、佐伎津彦命・佐々宇良毘古命を生む。(佐々宇良は楽々浦であろう)
佐伎津彦命は、花岡宮に坐し、佐々宇良毘古命・佐々宇良毘売命は三島宮に坐す。
両槻天物部命は、城崎郡・桃嶋氏の遠祖とされ、「新撰姓氏録」に、1113大和國雜姓に「相槻物部 神饒速日命天降之時從者,相槻物部之後也。」とあり、奈良にも足跡を見ます。
降臨地・城崎には、桃嶋姓、亦は、百嶋(茂々嶋)姓は見当たりませんが、式内・「桃嶋神社」が鎮座しており、桃嶋宿祢が亡くなると、両槻天物部命の裔・波多宿祢が遣わされ、桃嶋宿祢を百嶋丘(茂々島・桃島)に祀った、と伝わります。この桃嶋宿祢は当桃嶋神社付近の地に住み、土地開拓に従事された由です。
祭神を味饒田命とする式内・「久麻神社」(豊岡市福田)には、上記した両槻天物部命の裔・波多宿祢が配祀されています。従って、両槻天物部命は桃嶋神社・久麻神社に縁(ゆかり)がある、と見てよいと云えます。
また、それよりも古く、両槻天物部命の子・佐久津彦命は佐々前郷(気多郡)の開発に貢献し、その初代県主に任命され、嶋戸天物部命の女・佐々宇良比売命を娶り、その一子・佐々浦比古命は嶋戸天物部家を嗣ぎ、別の一子・佐久田彦命が両槻天物部家を継ぎ、佐々前県主を踏襲します。第三子・佐伎津彦命は垂樋天物部命の女・美津井姫命を娶り、阿流知彦命を生み、屋岡県の開発に貢献し、屋岡県主家を興します。
◇ 事例研究:佐久津彦命(両槻天物部命)とその裔の但馬(佐々原)&屋岡(養父郡八鹿)開拓
「気多郡故事記」に次の様にあります。
天照国照彦(櫛玉饒速日)天火明命は、国造大己貴命 の命によって、両槻天物部命の子・佐久津彦命に佐々原を開かせた。これ以前に、天照国照彦天火明命は、国造大己貴命の命により、先ず、田庭(丹波)に渡来しそこから、但馬の小田井に入り、小田井を開き、次に佐々原を開かせている。
「両槻天物部命」はニギハヤヒに副い従った天物部25部の「相槻」とされていた天物部だと思われます。 注 ニギハヤヒは天火明命と同神で、これ以降、天火明命で呼称を統一します。
(1) 両槻天物部命の子・佐久津彦命とその裔の但馬開拓
但馬では、「気多郡故事記」によれば、両槻天物部命の子・佐久津彦命に白羽の矢が当てられて、佐久津彦命は、篠生原(佐々原)に井戸を掘り水田を作った。後に、その地を佐田稲生原と名づけた。今、佐田伊原と称するのが「気多郡佐々前邑」である。
開拓に成功すると、佐久津彦命は「佐々前県主」に任じられ、その裔孫はその任を継いでいきます。
その様子を「気多郡故事記」と「城崎郡故事記」とに記されていますが、ここでは「城崎郡故事記」から引用します。すなわち、図表4です。
図表4 両槻天物部命・佐久津彦命の活躍・・「但馬故事記」(城崎郡故事記)
────────────────────────────────────────────
天火明命は、これより西に向かい、谿間に来た。清明宮に駐まり、豊岡原に降り、御田を開き、垂樋天 物部命に真名井を掘らせ、御田に灌水する。するとその秋、垂穂の長い穂が一帯に広がった。それでその地を豊岡原と云い、真名井を名づけて御田井と云う。のち小田井に改める。天火明命は、また南に向かい、 佐々前原に至り、磐船宮に止まる。
佐久津彦命を、篠生原に就かせ、御田を開き、御井を掘り、水を引く。後、その地を真田の稲飯原と云う。今、佐田
伊原と云う。 注 現在の豊岡市日高町佐田・道場稲葉川南岸が気多郡佐々前村である。
佐久津彦命は佐久宮に坐し、天磐船命は磐船宮に坐す。 岩舩神社(豊岡市日高町道場10-2)
佐久津彦命は、天火明命妃・天道姫命の侍婢、嶋戸天物部命の娘、佐々守良姫命を妻にし、佐伎津彦命を生む。
天火明命は、佐伎津彦命に命じて、浅間原を開かせる。佐伎津彦命は小田井を湛たえ、これを御 田に灌そぐ。それで
稲栄大生原(今の伊佐・大江)と云う。佐伎津彦命は、垂樋天物部命の娘・美井津比売命を妻にし、阿流知命を生む。
佐伎津彦命と阿流知命は花岡宮に鎮まり坐す。この地の開発祖神である。
────────────────────────────────────────────
天火明命は、また、天熊人命を夜夫ヤブに遣わし、蚕桑の地を探させる。天熊人命は夜父の谿間に就き、桑を植え、
蚕を屋岡に養う。それで谿間の屋岡原と云う。谿間の名はこれに始まる。
天火明命はこの時、浅間の西奇霊宮(式内・浅間神社)に坐し、天磐船命の子、船山命を供にまつる。
────────────────────────────────────────────
(2) 佐伎津彦命の屋岡(養父郡八鹿)の開拓
「養父郡故事記」によれば、佐久津彦命の子・佐伎津彦命は佐々前県の東の屋岡(養父郡八鹿)の開拓を天火明命に命じられ、成功すると、その地の屋岡県主(後の養父郡八鹿)に任じられ、その地で開拓祖神と呼ばれます。
従って、天物部の一部族・両槻天物部命は、二田物部が越国三嶋郡で一族を率いて定住したのと同じように、後に気多郡・養父郡と呼ばれる二地域を開拓し、そこに定住を果たしたものと思われます。
それは、両槻天物部命の佐久津彦命から続く、三代にわたる開拓の成果でした。
・ 佐久津彦命とその長男・佐岐津彦命、次男・佐久田彦命ガ佐々前県の開拓に貢献します。
佐々前県は、稲葉川(円山川支流)の上流の、日高町佐田~伊府辺りになります。
・ 次いで、佐岐津彦命は屋岡県の開拓にも成功し、子・阿流知命に屋岡県主を継がせます。
屋岡県は、稲葉川が分岐した後、円山川を更に1~2km南下した、八鹿町に相当します。
図表5 佐久津彦命の子・佐伎都彦命の活躍・・「但馬故事記」(養父郡故事記)
────────────────────────────────────────────
神武天皇8年夏6月、佐久津彦命の子・佐伎都彦命を初代屋岡県主とす。
屋岡県はのち夜夫郡、今の養父市、屋岡は今の八鹿。
綏靖天皇15年夏6月、佐伎津彦命の子・阿流知命を屋岡県主とす。
懿徳天皇20年夏四月、阿流知命の子・大照彦命を屋岡県主とす。大照彦命は、佐伎津彦命・阿流知命を花岡山に祀る。
────────────────────────────────────────────