(1) 新羅史に見る国家興隆の原因

<1>国力充実による周辺国の併合

  天孫降臨期(2世紀)を意識して、1~3世紀の新羅略史を中心に注目すると、国家興隆の要因が浮かび上がります。

 新羅史の内、可能性として「天孫降臨」に影響したかも知れない事件は、斯蘆国(新羅)による辰韓諸国の統一の動きでしょう。これについては、前報「渡来・帰化の人々(弁辰・伽耶)」の図表1・図表2でご案内したように、亡国の運命を辿った弱少諸国からの亡民はあり得ただろう、と思われます。
<斯蘆(新羅)国略史>
  1二世紀前半、先ず、第5代婆娑尼師今(80~112)は、二城の新築城に加え、王都の守り・月城も築き、それを足場に、

       近隣の辰韓諸国を併合します。
      ・その中でも、その併合の際に滅亡した「伊西国(いそしこく、蔚山)」は「伊蘇国(=伊都国)」と発音が

       同じで、そこには怡土県の祖・五十跡手が云った「意呂山(蔚山)」があることから、古代日本の伊都国

         と繋がる可能性が高いことを前報で指摘したところです。

          ・続く、第6代祇摩尼師今(112~134)になると、百済と同盟し、伽耶攻略が始まります。
 2二世紀後半は靺鞨が侵入し、その防御が課題となるし、154~170年、靺鞨・高句麗に備えた斯蘆・百済同盟は破れ、

       百済と交戦状態に入り、攻防が続きます。
 3三世紀前半は、百済・靺鞨・倭人の侵攻あるも、新羅は次第に強大化し、優位に立ちます。
        ・第10代奈解泥師今(196~230)は、太子・昔于老と伊伐飡・王子の昔利音が反撃します。
        ・安羅伽耶の戦い後、斯蘆は伽耶に援兵を出して浦上八国連合軍を撃破して以来、安羅伽耶は王子を新羅に

                     人質に出して、従位になります。
        ・第11代助賁尼師今(230~247)の時、益々、国力は充実したのでしょう。倭人や高句麗と戦い、しかも、

       領土は慶尚南道から慶尚北道に拡大します。骨伐国の国王が降伏し、この国を併合した時、斯蘆は、元の

       骨伐国王らには邸宅と田地を下賜して、安全を保証しました。
      231年7月、甘文国(慶尚北道金泉市)を討伐し新羅領内に郡に組入れた。
      236年2月、骨伐国(慶尚北道永川市)の国王が民を連れて投降、郡として組入れた。
            ・元の骨伐国王らには邸宅と田地を下賜して安全を保証した。 


<2> 「服属した周辺国の王達を貴族階級への取込み」策

 初めは激しい討伐策だったかも知れません。だが、236年の骨伐国王の投降に際して採った「服属した周辺国の王達を貴族階級への取込み」策を、斯蘆(新羅)はこの後も採り続けます。
 それにより、無駄な流民の発生を防止し、併合した相手国の王族・貴族を国の体制に組み込むことが出来る様になったのです。この政策は、300年後の532年、金官伽耶が投降した法興王の時、最も顕著な様相を呈し、やがて、大いなる効果を生みます。脱線ですが、少々、触れてみます。

        ・532年、金官国王・金仇亥(仇衡王)は王妃と三王子(奴宗・武德・武力)を連れ降伏しますと、新羅の法興は、  

                       旧金官国を食邑としてそのまま安堵し、仇衡王一族を新羅の準王族として優遇し、具体的には、金官国

                       の首露王以来の貴種血統を重んじ、新羅王家は金官国王家と通婚を重ねます。

               仇衡王の末子・金武力は新羅に仕えて角干(1等官)の位にまで上り、更に、金武力の孫・金庾信(595~

        673)は、新羅のピンチを再三にわたり救い、その隆盛をもたらす原動力となります。
       ・647年正月、善徳女王自らが任命の上大等・毗曇らが女王廃位を求めて内乱を起こした時、金庾信らが女王を支

                      援して乱の収拾に当たり、毗曇ら20余名を誅殺しています。女王死後、直ちに金庾信らは真徳女王を立

                      てています。 
     ・663~668年、金庾信は将軍としては三国(高句麗・百済)統一に大功を挙げ、、文武王はそれまでの最高位

       「大角干」を上回る「太大角干」の官位を贈り、更に後世、「興武大王」の称号を贈られています。

 

  論功行賞の大切なことは云うまでもありません。血の繫がりはそれを助けるでしょう。

   だが、更に重要なの「志」と「信念」に裏打ちされた、金庾信の「人間力」でしょう。
   と述べた後で、その「金庾信」を生み出し、活躍の場を与えた「国のカタチ」に、人々の目は向かう筈です。

 


 

<3> 統治制度の案出と改革

 「国のカタチ」ー斯蘆(新羅)の統治制度の案出と改革は注目すべきでしょう。築城や兵力増も重要ですが、斯蘆(新羅)の場合、人を動かす組織・精神高揚力、生活安定への姿勢が見とれるのです。
   142年、靺鞨征伐を企画するも、臣下の進言により中止。 
   144年2月、農政重視、水利修繕、農地開拓を勧める布令、民間での金銀珠玉使用を禁止

   147年7月には智勇兼備の優れた人物の推挙を群臣に命じた。
   185年、軍主制度を設けた。召文国(慶尚北道義城郡)を討伐。百済との交戦が激化。
   373年、百済の禿山城(京畿道安城市)の城主が領民300を率いて投降してきた時、百済は国書を送り

       返還を求めてきたが、奈勿尼師今は「民草は、行きたい処へ行き、嫌になれば去ります。自

       分達の望む処に住むものです。大王(百済王)は自らの民草の思いを配慮せず、私(新羅)を責

       めるのは如何なものでしょうか」と答えると、百済は何も云ってこなくなったと云う。 

 「花郎制度」は真興王37年(576年)制定の国力の基盤を貴族の青年群に求めた点で注目されます。

   それは次の四点を狙いとする制度だとも云われています。

             1歌舞遊娯の社交クラブ、

             2国家有事の際の青年貴族戦士団、

             3青年貴族の国家的社会的教育機関、

             4貴族子弟の官吏養成機関、

 また、文武王の時代には革新的な制度改革が行われます。

 文武王は、百済・高句麗両国の遺民を取り込み、新羅の身分制度再編に努めたのです。

 旧来の新羅の身分制度は首都金城中心の「京位」と地方豪族序列化の「外位」と二本立てでしたが、674年、外位を廃止し、京位に一本化したのです。
  1 673年、百済からの帰属者を新羅官制に取込み、百済の官制序列に従って新羅の官制序列に組入れ、

         両国間の官制を連続的に継承させます。
    2   680年、高句麗廃王・宝蔵王の庶子・安勝に高句麗王の呼称を許し、次いで報徳王として処遇し、更に、

                      文武王の妹・を安勝に降嫁させ、新羅・高句麗の王家の結合を図ります。同盟国・唐はこれを非難し

                      ますが、旧の三国が一体化に努めた、と云えます。

   今の時代に通じないかも知れませんが、上古の時代に斯蘆(新羅)の行った国力充実策は適切だったと思われます。

(2)新羅王子・天日槍の日本への渡来

   斯蘆(新羅)から日本への渡来・帰化の話となれば、それは天日槍でしょう。
 垂仁天皇紀2年春3月に、新羅王子・天日槍が神宝七点を携えて来日したとあり、「新羅国の王権は弟・知古に授けて日本に参りました」(垂仁紀)と云います。
  天日槍は出石の女人・麻多烏を娶り田島諸助を生み、諸助→但馬日楢杵→清彦→田道間守と系譜はつながる、と「日本書紀」は記します。

  「古事記」は更に詳しく記述しますが、「日本書紀」とは系譜がやや相違があります。
 ここは、系譜上の相違を問題とするのではなく、「時代」に関心があるので、どちらでも良いのですが、ここは古事記を基に神功皇后の系譜を作り、天日矛時代と神功皇后時代を比較します。

   神功皇后は天日槍(天日矛)から数えて7代後の人と云うことが判ります。

 天日槍(=天日桙命)伝承は、「日本書紀(天日槍)」「古事記(天之日矛)」、「新撰姓氏録(天日桙命)」、「古語拾遺(海檜槍)」、「但馬故事記」などに記述があります。

 

 特に、その時代を推定するには、「日本書紀(垂仁天皇3年3月条、垂仁天皇88年7月条、垂仁天皇90年春 2月条)」、及び、「但馬故事記」が参考になります。

 「日本書紀」は、天日槍5世孫・田道間守(記:多遅麻毛理)は三宅連の始祖だとし、次のような話を伝えます。
 ・垂仁天皇90年春2月、田道間守は常世国へ行き「非時トキジク(橘)の香果」を求めてくるように命じられ、
   10年後に漸く持ち帰ると、垂仁天皇はその6ヶ月前に薨じられていた、と云う。

 

 

◇  天日槍の渡来時期
 この天日槍の渡来時期についての先人の説を探しますと、次の通りです。
 
 (1) 相見説: 先生は「(天日槍の渡来は)七代孝霊の頃、西暦だと280年前後ということだろう。

          これなら私も納得ができる。」と書いておられます。・・「倭国の謎」(192~194頁)
 (2) 「但馬故事記」:天日槍の渡来時期を孝安天皇の御代だと記します。

        孝安朝は、(孝安ー孝霊ー孝元ー開化ーと続いた後の)崇神天皇の5代(50~60年)前と見られます

                    ので、3世紀半ばと見なければなりません。
           注 崇神天皇の宝年AD318年を基準にして、318ー(50~60)=268~258・・→3世紀半ば
   (3) ブログ「たっちゃんの古代史とか」:優れた年代推定がありましたので、借用します。

                その結論(抄)の表現は換えてありますが、中身は同一で、次の通りです。
      引用主旨:垂仁朝は、新羅国の「訖解尼師今」の在位期間(310~356年)と重なり、その先代新羅王 「基臨尼師                             今」(298~310)の時代とも重なっています。少なくとも、垂仁天皇は3世紀末~4世紀前半の在位で

                         した。垂仁朝、天日槍が「新羅国を弟・知古に授けて、自分は渡来してきた」と告げ、これは新羅の

                         王位継承を云っています。
 
  この時代推定ならば、崇神天皇の宝年(318年)とも略対応しており、この渡来時期の情報としては、垂仁天皇紀3年3月条では、新羅王子の天日槍が渡来したと記し、これが320年だと思われます。4世紀前半です。

   こうして、3世紀半ば(但馬故事記)、3世紀後半(相見英咲)、4世紀前半(たっちゃん)を得た後、本ブログは「3世紀半ば説(但馬故事記)」を採用します。

  その理由は、但馬故事記の信頼性の高さにあります。

  この「但馬故事記」を偽書とする明治人もいますが、私はむしろその内容を評価するからです。

  後に行う「丹波古史」の考察時にも重要な史料なのです。

  天日槍の渡来は、当ブログが想定した「天孫降臨の時期」(2世紀)をやや下っていますが、参考(上垣外・安本)3世紀説とは重なっています。

 3世紀半ば(268~258)説を採ると、その頃、新羅は第10代奈解泥師今(196~230)から第14代儒禮泥師今(284~298)にまで続く時代です。
 

 図表3はウイキペディアが記す各王の婚姻状況を接続した系譜ですが、この作表の限りでは、この時代の王位継承上に王族間の軋轢を見い出せません。
 

 天日槍は「新羅国の王権は弟・知古に授けて日本に参りました」(垂仁紀)とありますが、3世紀にも4世紀にも弟に王位を譲ったケースが見られません。弟・知古に近い名も見当たりません。

 

 ここで、新羅の王位継承上の注目3点をリストして置きます。
    1優者は婿入りさせて王位に就ける
          第1例:第4代・脱解王は、倭国東北千里の多婆那国生れとされ、第2代王の女・阿孝夫人江を娶り、第2代王

        の子・儒理(朴氏)の後を継いで即位し、その裔(昔氏)は、朴氏系統が途絶えると、国人の推挙で、伐休  

        (184~196)が第9代王に即位しています。
      第2例:第13代・味鄒尼師今は、金閼智の7代裔で、先代の沾解尼師今が子が無く死去した時、国人に推挙され                        て即位し、金氏王統の初代となった人です。金閼智は、倭人瓠公(瓢公)と脱解王に見出された優者でし

                      た。その誕生神話が伝わります。
    2群臣・国人の国王推挙の仕組み
          王に子がなければ、或いは、先王の子が幼ければ、群臣や国人が国王を推挙する習わしがあったようです。
        第1例:第5代婆娑の子・祗摩に男子なく、叔父・逸聖が継ぎますが、その子第8代阿達羅は第6代祗摩の女を妃

         とするも子なく、この(朴氏)血統は途絶えています。

                     後継の第9代伐休(184~196)は脫解王の孫で、184年3月、先代の阿達羅尼師今が死去した時に嗣子が

                     なく、国人に推挙されて即位した、と伝わります。
          第2例:(以後同一ケースを図表3に●で示す)
    3近親婚許容の通婚慣習
         「叔父・姪婚、叔母・甥婚」及び「従兄弟・従姉妹婚」は、王統系図に多出しますので、許されていた社会だった

          様です。だが、「嫂婚制」、「姉妹(連帯)婚」については具体的な記述例は上古の斯蘆(新羅)国王統系譜にはな

          く、「三國史記」編纂の時点で既に朝鮮社会は儒教・中国式倫理観が行き渡り、そのような事例があっても記述

          を避け、古代の実態が歪められているのかも知れません。
     ・尚、「聖骨ソンゴル・真骨チンゴル」の骨品制度は7世紀以降の仕組みで、それまでの慣習を制度化したものか

    も知れないが、上古1~2世紀には該当しないと思われます。
       ・これらは、日本を含めた「上古の東アジのア婚姻制度・習慣の比較」上の予備情報とします。


  こうして、新羅王統における継承問題点を探すものの、天日槍の渡来に結びつけられる斯蘆(新羅)国の情報は得られませんでした。

<3> 新羅から渡来・帰化の人々

  「新撰姓氏録」では、新羅国王子・天日桙命の後すえとして、右京・摂津国に三宅連が、左京には橘守が、大和国には糸井連がそれぞれ登記されています。

 このほかにも新羅からの渡来記録はあるのですが、それは百済・高句麗に比べて多くはないし、渡来後の日本国内での地位も百済渡来の人々ほど高くはないのがむしろ特徴です。
    参考:新羅国王子・天日桙命の後:橘守(三宅連同祖、左京)、三宅連(右京、摂津国)、糸井造(大和国)、
         新羅皇子・金庭興の後(不見):宇努連(未定雑姓、河内国)
         新羅国主・角折王の後(不見):近義首(未定雑姓、和泉国)
               新羅国人の渡来:豊原(壹呂比麻呂の後、右京)、海原造(進広肆・金加毛禮の後、右京)、
                     真城史(金氏尊の後、山城国)、伏丸(燕努利尺干の後、河内国)、
                     日根造(憶斯富使主の後、和泉国)、小槁造(多弖使主の後、不見、未定雑姓河内国)、
                                   坏作造(曽里支富主人の後、不見、未定雑姓河内国)、
                                       大賀良(郎子王の後、不見、未定雑姓河内国)、
                                       賀良姓(郎子王の後、不見、未定雑姓河内国)


 新羅は、663年に百済を滅ぼし、668年に高句麗を滅ぼしたので、これら朝鮮二国からの渡来・帰化を促したと思われますが、新羅自身は統一新羅時代(668年-900年)を迎えたので、王族や市民は流民として日本へ渡来・帰化の要は少なかっただろう、と思われます。
 新羅地域からの渡来は、新羅が国家体制が未熟・弱小だった辰(秦)韓時代が中心だと考えます。
 これは新撰姓氏録の伝える渡来先別氏族数に読み取れるのです。

   百済からの日本への渡来は、660~663年の百済滅亡時を中心に104姓氏が記録されていますが、対して、新羅からは17姓氏の渡来しか記録されていません。

 結論:新羅からの渡来・帰化を見ようとして、古代新羅の国情・王統譜を見ることになりました。

           これはいずれ役立つ時が来るでしょう。それを期待して、これで、新羅編を終えます。

 補記1:秦氏の出自をめぐる論争

<1>  上田「秦氏は新羅系の帰化人」説

  上田正昭先生は、その著「渡来の古代史」(上田正昭著,角川選書2013)の中で「秦氏は新羅系の帰化人だ」と云い、次のように書いています。
  ・「中国の秦王朝とハタの秦とを関連づけ、その祖先を中国に求めて権威化する誇示意識によるものである」(47~ 

   48頁)、と「新撰姓氏録」の記述を否定して、新羅系の帰化人だと云うのです。
  ・弓月君を秦氏祖と位置づける「新撰姓氏録」や「日本書紀」の「応神朝渡来の経緯」も認め、渡来時期は5世紀前後

       と見ています。(49~50頁)、
  ・阿知使臣の渡来は、百済本紀の「第6世・近肖古王23年条:良馬2匹を送る」と古事記・応神天皇条に秦造の祖と並

       び、「漢直の祖」参渡り来つ、阿知史祖の阿知吉師は雌雄二馬を献上した、とある。

       日本書紀応神天皇20年、倭直・・も引用し、阿知使臣=東漢氏の祖とする。
 ・王仁は「西漢氏」として河内に居住し、「文首らの祖」(記)、「書首らの祖」(紀)とする。


  上田正昭先生は、慶尚北道に地名「波旦」が確認されたので、ハタはここに起源があり、秦氏のオリジンは新羅だとし、「鮎貝説」に賛同しているのです。
 

   高麗の金富軾編の「三国史記」(地理志)に波旦県(慶尚北道)が見え、鮎貝房之助は秦氏の「ハタ」の起源をこの新羅の古地名・波旦に求めたのです。

   1988年、慶尚北道で甲辰年(524)の新羅古碑が出土し、その碑文に古地名「波旦」が銘記されていたから、として、上田先生はこの鮎貝説は確定的だと見ておられます。(48頁)

<2>「秦氏が始皇帝末裔説は牽強付会」だとする説

  「韓族と古代日本王室」安東濬著(近代文芸社)1975年の説は上田説より更に強力な説です。

  そこでは、短文ながら次の如くあり、秦氏は秦の始皇帝末裔説を間接的ながら否定します。
   (弓月君が120県の民を率いて渡来したとするが)秦始皇帝の姓は「秦」にはあらず「嬴(えい)」なので、

  秦氏が始皇帝の末裔だとするのは牽強付会である。(51頁)       注 始皇帝:姓は嬴、氏は趙、諱は政

<3>「秦韓は秦人の国」説
  
 ところが、次の辰韓伝三書と新羅伝一書は、新羅は古く辰韓(秦韓)と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃れてきた「秦人の国」だと云います。
    1後漢書・辰韓伝:辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲し

            たのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、

            互いを徒と呼び、「秦語」に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。 
    2三国志・魏書・辰韓伝:辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔

             の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。
    3晋書・辰韓伝:辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって来た秦の逃亡者で、馬韓が東界の地を割譲した

          ので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は「秦人」に類似しているため、あるい                            はこれを秦韓とも言う。
    4北史・新羅伝:新羅の先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。

                          辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を

                          割譲し、ここに「秦人」を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。 

 これらの見解に基づけば、秦氏は新羅から渡来したかも知れないが、その新羅の大本は辰(秦)韓であり、秦人が住んでいた地域だ、と云うことで、秦始皇帝起源はあり得ることになります。

 また、その人々が「波旦」に住んでいたので、日本へ渡来の時、秦シンの出身だが、朝鮮では「波旦」に住んでいたから、ハタを名乗った、と考えることも出来ます。

 

  それ故、江戸期の鮎貝房之助の著書に論拠を求める「上田説」は論理的にやや弱いと思われ、当ブログは秦氏は秦始皇帝の末裔説を踏襲します。

補記2:韓王・信(中国の秦末から前漢初期の武将)の末裔

 先に、古代中国からの渡来・帰化のまとめの時に含めるべき人ですが、「新撰姓氏録」では「百済」からの渡来の部に含められているため、見落としていたのが「韓王・信」です。

 「新撰姓氏録」は、広海連(右京)を諸蕃・百済の項に入れているのですが、広海連は、元々は百済人ではなく、「韓王・信の末裔・須敬」を祖先として登記しています。

 韓王・信は、中国の秦末から前漢初期にかけての武将・政治家で、楚漢戦争期の韓王です。姓は姫で、氏が韓、諱が信だと云い、身長6尺5寸(約195cm)の長身の人でした。

  楚漢戦争初期、信は張良の推薦で劉邦から「成信侯」に封じられて、太尉に任命され、上将軍・韓信に降伏した鄭昌に代わって「韓王」に封じられ、以後、劉邦の配下で連戦します。 

 劉邦が前漢皇帝となると、韓王・信は、匈奴への備えのため、太原郡を「韓」と改名、そこに遷されます。
 だが、侵攻してきた匈奴・冒頓単于と韓王・信が休戦交渉を行おうとすると、それを前漢皇帝・劉邦に裏切りと見なされてしまいます。「信」は止むなく匈奴に投降し、匈奴の将軍として、逆に、漢軍と度々交戦する身となります。

   そして、紀元前196年に陳武との戦いに敗れて斬られた、と伝わる人です。 

 その様な人の末裔が日本に渡来して、やがて、広海連(右京)と名乗り、登記されているのです。  

「天孫降臨」とはかけ離れていますが、感慨深い上古史の一話ですので、補記しました。